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20.それは優しい純白の信頼

「へ、へへ…行商人から貰った毒薬だ…鬼にも効くって話だぜ」


 猫背の男が小走りで伊呂波(いろは)から距離を取る。気づけば長身の男も立ち上がり、懐から刀を取り出していた。

 傷口から驚く速さで痛みが広がっていく…これはのんびりしているわけにはいかなそうだ。残りの手足が動くうちに、せめてこの2人だけでも片付けてやろうと構えるが、大きな白い(いぬ)がグルグルと低く唸っているのが耳に届いて振り返った。


 (こま)が、伊呂波を睨んでいる。


「大丈夫だ…この2人程度…」


 安心させるように答えるが、狛は睨むことを止めない。この2人をどうにかしたところで、福の危険は変わらない。外にはまだ何人もの敵が暴れまわっているのだから。

 だから、と狛は言う。獣の言葉で伊呂波に訴え続ける。矢を受けて、もう彼女を乗せて走れない、と懇願する。低い唸り声は、次第に甘えるような高い声に変わっていた。


「……わかった」


 幸い、自分の両足と片腕はまだ動く。その役割を担うなら、自分なのだろう。


「すぐ戻る。…死ぬなよ」


 ウォン!と大きく吠えて、狛が伊呂波の前に立った。彼の名を呼ぶ福の声に一度だけ振り返って、もう一度雄々しく吠えてから、2人の野盗に向かって走り出した。


「狛!?」


 驚いて彼を追いかけようとする福を、右腕で攫いあげて肩に担ぐ。昼に同じように担ぎ上げたというのに、随分と状況が違うものだと頭の片隅で考えていた。


「待って伊呂波!狛が!狛、怪我してるの!」

「わかってる」


「ねえ、伊呂波!…じゃあ!」

「駄目だ」


 今戻れば、彼の覚悟を踏みにじることになる。片時も離れずに守り続けた福を、頼むと言われたのだから。いつだって穏やかで優しい白い狗が、そう睨むのだから。


 外に出れば惨状が眼前に広がった。そこら中の家に火が燃え移り、人が至る所でぐったりと倒れている。木材が燃える匂いと、血の匂い。悲鳴、怒号、歪んだ笑い声。視覚が、嗅覚が、聴覚が、非日常を叩きつけてくる。


「伊呂波…」

「捕まってろ」


 何もかもが信じられなくて、目の前の『いつもの』彼に震えながら縋りつく。左腕がほとんど動かせなくなってしまった伊呂波が、飛び掛かってくる男たちを蹴り払いながら、あっという間に村を飛び出した。



 耳を掠めるのは、風と葉擦れの音。狛に跨っていた時のそれよりずっと早く、ずっと静かだ。

 物心ついた頃から一緒だった。気づいたら傍にいた。兄弟のような、親友のような、かけがえのない存在だった。同じ花を見て笑って、おやつの奪い合いで喧嘩して、夜の闇が怖くて仲直りした。彼の背に乗れるようになったら世界はこんなにも広いのかと知った気にもなっていた。狛だけなら難なく通り抜けられる生垣の隙間に突っ込んで、枝で傷だらけになったこともあった。

 涙がこみ上げる度に、思い出が噴き出してくる。これではまるで、今生の別れではないか。そんなはずはない、あってはならない。…ならないのに。

 相手は、飢えて追い詰められた人間2人。日常をひっくり返したような惨劇、怪我をして血を滲ませていた狛。嫌な想像が、取り揃えられた酷な現状で組み立てられていく。


「狛…狛ぁ…」


 いつも傍にある、呼べば振り返ってくれる優しいまなざしが、今はもうないのだ。


 見慣れた道のりを駆けあがる伊呂波が、いつもの数倍の速さで到着した(ねぐら)に福を下した。


「火を焚いてなるべく奥で待ってろ」

「伊呂波…っどこに行くの…」


 いつも、期待に満ちた気持ちで訪れる場所。絶対にダメだと繰り返された夜のそこは、何年ぶりに見るだろう。どんな時も暖かさに満ちていた塒が、何故か今はとても寒々しく感じる。

 福を下ろして、左の肩口を手拭いで音が鳴るほどにきつく縛り上げた伊呂波は、くるりと来た道を振り返った。


「狛を迎えに行く…絶対に出歩くなよ」


 そう言った次の瞬間には、彼の姿はそこになかった。遅れて立ち上がったつむじ風が木の葉を巻き上げる。崖の向こうにあふれた湖の水の音が怖いくらいに響いて、ああここはいつもの塒ではないのかもしれないという錯覚が襲った。


「火を…」


 焚いていろと言われたのだった。

 間をおいてそんな掠れた声がぽつりと零れた。いつも焚火を起こす場所には半分だけ燃え尽きた木材が残っていて、そのそばには前回つけるのに準備していたと思われる火打石と枯れ葉がそのまま転がっている。しゃがんだまま徐にそれを持ち上げて、いつもするように打ち付ける。一度、二度と打ち付けても火花の一つも散らず、風に枯れ葉が取り上げられてしまった。

 止まっていた大粒の涙が、打ち付ける度にまた込み上がってきた。震える手が打ちそこなった石を滑り落して、そのまま声をあげて泣いた。福を襲う無力感が、塒の洞窟内を容赦なく反射して響き渡った。





 伊呂波が元の渡り廊下に再びたどり着いたときには、人も狗も忽然と消えていた。所々に飛び散った血を消してしまおうと、炎が飲み込み続けている。どこにいったのだとあたりの気配を探ってみるが、狛の息遣いも足音も聞こえない。


「…ッチ」


 舌打ちをして、今度は外の騒音へと足を向ける。そちらではまだ村人と野盗の争いは続いていて、野盗の倍以上はいたはずの村人の数は、同じだけに減っているようだった。


「鬼だ!鬼が戻ってきたぞ!」


 声を上げるのはおそらく先ほどの猫背の男だっただろうと思う。思うしかできなかったのは、彼の足元でぐったりと横たわる白い狗が引きずられていたからだ。ザワリ、とした感覚がへその下から上ってきて、頬をくすぐるころにはその男の腕を肩から土へと叩き落していた。


「ぎゃあああ!」


 汚い声と血飛沫が上がるが、そんなことは最早どうでもいい。そっと狛の顔を窺い声をかける。右手を首に添えて脈を確認するが、そこにはもう何の波もなかった。冷たい白い毛並み。体中に滲む赤色。濁って何も捉えない瞳が、瞳孔を開いて動かない。


「ひっ」


 顔を上げれば、痛みに喘ぐ猫背の男と、真っ青に震える長身の男。体中に噛み傷を負って、今にも倒れてしまいそうなほどに満身創痍だ。



「…見事だ」



 福を守るのが己の仕事だと、狛は自負していた。天真爛漫で、お転婆で、時々繊細な少女を守り抜くのが使命なのだと、子狗の頃から理解していた。福とともに鬼の塒を訪れるようになった長い年月で、少しずつ彼の言葉も彼の意志も、伊呂波は分かち合う様に聞いていた。

 その中で、彼の優しい性格と頑固さを見抜いてもいた。山の獣にはない、穏やかだけれど芯の強い不思議な狗だった。

 そんな彼が、ここ最近は塒の前で眠っていることが多くなっていた。長毛なせいで気づき辛かったが年々老いを増していて、数年前よりも走る速度は落ちて圧倒的に体力も衰えている。大きな体に成長しても、寿命は他の狗とは変わらない。もうそんなに長くないと彼自身気づいていて当然だった。

 だからこそ、福を逃がすことに予断を許さず。だからこそ、彼は福の盾になることを躊躇しなかった。


「あとは任せろ」


 そっと瞼を閉じてやる。いつもと同じ、優しい寝顔だった。


 この状況で野盗を掃討してやるほど、伊呂波にとってはこの村に何の義理も存在しない。福が住む場所であり、狛の大きな小屋のような認識でしかなかったと思う。強いて言うなら天流(あまる)の仇という古い記憶もあるだろうが、そんなものはもう掠れて消えかかっていたことにぼんやりと驚いた。福と、狛と、そしてあの湖が、淡い光の様に胸の奥に蓋をしている。こういうこともあるのだなぁと、笑えてしまった。


 立ち上がった伊呂波がまだまだ十を超えて残る野盗の首をうっすら微笑みながら一つ残らず地面に転がしたのを、残った村人たちが震えながら見守っていた。


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