19.日常を裂く稲妻
「敵襲―!敵しゅッ」
五月蠅いほどに響き渡っていた警鐘が、嘘のように途絶える。
思わず外に飛び出した福が見たのは、櫓の上から首に矢を受けた1人の男が、体をぐったりと傾けてそのまま落ちていく様だった。思わず目を逸らすが、重い体が地面に叩きつけられる音が鼓膜を揺らして血の気が引いた。恐る恐る瞼を開くと、村の入り口近くの屋根から真っ赤な炎が上がっている。
敵襲、と先ほどの男は確かに言っていた。近隣に他の村があるわけではない。誰かに恨みを買うほどに、この村が誰かと深い親交があるわけでもない。敵襲、と言われても現実味が湧かないのは仕方のないことなのかもしれない。
「何事じゃ!!」
杖をつきながらよろよろと部屋から歩いてくるお婆を慌てて福が支えようとするが、お婆は力強く彼女を己の後ろに押しやった。
「寿様!襲撃を受けています!20人以上の見知らぬ者たちが突然火矢を放って…もう5人は殺されています…!」
「なんじゃと…一体どこの…」
1人の女が、寝間着が着崩れることなど気にも留めずに走り寄ってきて、お婆に震えながら叫ぶ。見たこともない程に焦燥するお婆の顔は、冷や汗でじっとりと濡れていた。
「武器庫を開けろ!動ける者は男も女も武器を取れ!」
「お婆!私も」
「駄目じゃ!お前は本殿奥に隠れるんじゃ!頼むぞ狛!」
私も行く、という前に遮られお婆に本殿側に突き飛ばされる。そのまま杖を乱暴について屋外へと歩いていくお婆を見送りながら、福がついた尻もちの痛みをじんわりと感じていた。
襲撃、火矢、5人…
「死んだ…」
平和な村の平和な日常に、突如落雷の様に割り込んでくる恐怖。遠かった外の喧騒が近づいてきて、現実味が足先から震えとともに全身を駆け巡り、頭頂部に到達する。立ち上がれない。腰が抜けてしまった福を無理やりにその背に乗せて、狛が本殿へと走り出した。
「狛、…待って…お婆が…」
ガタガタと震える体を止めることもできないまま、狛に縋って見せるものの、狛は決して足を止めようとはしなかった。
あと少しで本殿の扉に到達する、という時。短い渡り廊下が突然爆炎に包まれた。目の前の炎に、慌てて足を止める狛の背から弾みで福が転がり落ちてしまう。その火は本殿に燃え移り、ちりちりと広がり始めた。
「お偉いさんは大抵、こういう奥のでっかいところに隠れるよなぁ?」
下品な笑い声が響く。視線を上げれば、炎を背中に2人のやせ細った男が廊下に足を踏み入れていた。
「まったく、随分贅沢な村だな…なんだこの造りは」
「あいつの言う通り、食い物に困ることはなさそうだぁ」
長身の男が呆れたように柱をこつこつ叩きながら屋根を見上げていると、傍にいた猫背の男が下品に笑う。先ほどの爆炎はこの2人が起こしたことで間違いは無さそうだ。明らかな敵意に、狛がグルグルと低く唸ると、2人はやっと少女と狗の存在に気がついた。
「おやぁ?なんだ、随分と綺麗なおべべを着たべっぴんさんだぁ」
「ここにいるってことは、お前の言うお偉いさんか?」
猫背の男がにたりと笑う。それは村の男たちのねっとりとした視線に酷似していて、背中を冷たい何かが走り抜けた。
「いいねぇ…生娘かなぁ…いいねぇ」
「おい、そいつは人質にするんだろうが」
猫背の男は、まるで蛇の様にじっとりと近づいてきて、立ち上がれない福の着物の裾を掴もうと腕を伸ばす。ひっと息を呑む福を面白そうに眺める男のその腕に、それまで唸っていた狛が容赦なく嚙みついた。
「ぎゃぁ!」
「…馬鹿が」
噛みつかれた男が汚い叫び声をあげると、長身の男が呆れたような言葉と同時に流れるような動作で矢を射った。それは真っ直ぐ狛の大腿部を射抜いて、キャンっと子犬のような声が響く。思わず腕を離した狛の、真っ白い毛並みが赤く染まっていく。
「そういうのは後にしろ。腹減ってんだよ俺はよぉ…女より飯が先だろうが」
「いてぇえ!くそ、この野郎ぉ!」
猫背の男が狛を蹴り上げようと近づくので、反射的に福がかばおうと狛に覆いかぶさる。が、狛はそのまま福を後ろに押して遠吠えを響かせた。
どこまでも響いて行きそうな、太く大きな遠吠えだった。思わず男たちの動きが止まる。
「おい、仲間でも呼ぶんじゃねえだろうなぁ!?」
「ああ、くそ、さっさとその女を…」
男たちがはっと意識を福に戻す。長身の男が邪魔な狛を片付けてしまおうと再び矢を構えた時。
「遅くなった」
風が吹き抜けて、弓も矢も真っ二つに折れる。「ぎゅる」という声なのか何なのかわからない音が響いてやっと、赤い髪の男が猫背の男の顔を鷲掴みにしていることに気づいた。
「伊呂波…!」
長身の男が小さく見えるほど、角が天井すれすれの巨大な赤い鬼。やせ細った彼らなど捻り潰してしまいそうな筋骨隆々な体が、怒りからかやや膨れて赤みがかっている。
「お、…鬼?鬼がなんでここにいるんだ!」
長身の男が、先ほどまでの余裕をどこかに忘れたように、真っ青になって震えている。伊呂波の黄玉の瞳が彼を射抜く。
「鬼は山の守番だろう!…この村には立ち入らないと聞いたのに…!」
「ほう?…誰に聞いた」
伊呂波は軽く、人間の顔を掴んでいる手に力を入れた。猫背の男がぎりぎりと軋む頭蓋骨の音をかき消すような悲鳴を上げる。お前の頭も簡単につぶせるのだと言いたげににらめば、途端に腰を抜かしてしりもちをつく長身の男が、ガタガタと震える顎を何とか動かして答えた。
「ぎ、行商人だ!行商人が…あ、あんたのことや山の抜け方を教えてくれたんだ!」
やっぱりな、と伊呂波は合点がいった。あの鬱蒼と茂る山の抜け方は、まったくの素人では到底できないだろう。何度も往復し、知り尽くし、彼らに吹き込んだのだとしたら、とんだ策略家だ。
「この村を狙う目的は何だ?」
「く…食い物だ!俺たちの村は飢饉でだめになっちまって…作物の豊かな村があるって聞いて…それで…」
「殺すことはないはずだ…たかだか数十人、頭下げて村に住まわせてもらえばいいんじゃないのか」
動物たちの群れでもままあることだ。群れ同士の縄張り争いでいざこざを起こしていても、食糧危機に瀕せば群れを結合して協力し合う。同じ動物である人間が、できないとでもいうのだろうか。
「それは…」
もごもごと口ごもる長身の男を、伊呂波はじっとりと見下ろし続けた。おおよそ、「食料を占領したい」などという手前勝手な理由だろうと予想がつく。
そういえば、人間の好かないところはこういうところだったな、と伊呂波は思い出した。己だけ気持ちがよければいい、それだけなら獣にもよくある行動だが、それを恥と認識し、だというのに実行し、問いただされれば後ろめたくて隠したがる。複雑で、陰鬱で、なんと醜いことだろう。ここ数年関わる人間がほとんど福1人であったために忘れかけていた。
「この村を去れ。でなければ殺す」
「…で、できない」
がくがくと震えている割に、伊呂波の言葉をきっぱりと拒否する男。その双眸から涙がこぼれて、激しくなる呼吸は乾いた音を立て始めた。
「もう何日も水以外口にしていない…女房も子も死んだ…もう、ここでだめなら…」
追い詰められ、飢餓に陥った限界の人間の目は、血走って黄色く濁っていた。鬼を前にしても、死の恐怖はそれを凌駕するのかもしれない。
不意に、人間を掴んでいる腕に痛みが走る。猫背の男が隠し持っていた短刀が、伊呂波の左腕に突き刺さっていた。
「伊呂波!!」
福の悲鳴が響く。油断したななどと悠長に考えている間に、びりびりとした痛みが左腕を覆い、人の頭を握っていられなくなってしまった。痛み、というよりこれが痺れというものなのかもしれない。




