18.謀られた鬼
伊呂波が福と別れて目的の場所にたどり着いた頃には、そこは何事もなかったように静寂を取り戻していた。異変があるとするなら、この辺りを住処にする獣を1匹も見かけないことと、少しだけ鼻腔を掠める血の匂い。
弱肉強食の獣の世界では草食動物が狩られるのは日常茶飯事で、よほど一方的な減少傾向さえ見せなければ鬼である伊呂波がそこに介入をすることはない。いつもなら気にも留めない些末なことなのだが。
そこに残る踏み荒らされた草に眉根を寄せる。
「人間が入ったか」
数人とは言えないかなりの数の足跡が、西から東へと続いている。西のふもとに村はなかったはずだ。だとすれば数里、下手をすれば数重里先からはるばるやってきたことになる。
「この調子では、もう山頂は超えているな」
この山に鬼が住んでいることは、行商人が知っているはずだ。彼はこの山を通過する際は必ず供え物を山頂に置き、西と東を往復していく。わざわざ供え物をするのは「無事に通らせてくれ」という意味だと伊呂波は受け取っているし、それは鬼への畏怖の念を表しているのだと理解していた。
『行商人にはだいぶ嘯いてるの。山で狩りしちゃだめだよーって。…だって伊呂波、怒るでしょ、絶対』
などと笑っていたいつかの福を思い出す。その後からだ、行商人が供え物を置くようになったのは。そんなことを言わずとも、余程の事をしなければ人に手を出すつもりはないのにと呆れたものだった。
…話を戻すが、それならば、西のどこかの村には伝えているはずなのだ、この山に辿り着き兼ねない人間に、この山で粗相をすれば鬼の犠牲になるのだと。
その証拠に、ここで狩った動物を焼くはずの焚火の匂いがしない。獣が食うたのだとすれば近くで食しているはずだが、その匂いもない。
鬼の住む山で狩りをせねばならないほどに飢えている人間が、獲物を捌く間もなく見つからぬように隠れている。もしくは遠くへ移動し、そこで捌こうとしている。慌てたような草の踏み荒らし方を見れば、おおよそ後者であろうと予測ができた。
山頂に近いこの場所からなら、とっくに頂を越えていてもおかしくはない。
「さて、どうするか」
飢えている人間が山の獣を1、2頭狩ったところで、どうということではないと伊呂波は思う。元々人間を好いてはいないが、無闇に害したいわけでもない。腹を空かせているのなら仕方ないとも思う。
しかし、根無し草の人間であれば話は変わってしまう。住処を追われでもしたのであれば、山に住み着きかねない。鬼が住む山なのでそこまでではなくとも、その後必要以上に山に入って狩りを繰り返すのも想像に難くはなかった。
「やはり監視はしなくてはならんか…」
やれやれ、と伊呂波がため息をつく。できることなら人間とは関わりたくはない。しかしこの現状ではそれが最善なのだろう。
(あいつはちゃんと山を下りただろうか)
まさかこの人間達と鉢合わせてはいないだろうか。否、鉢合わせていたら常に傍にいる狛が黙ってはいないだろう。彼女を守りながらも遠吠えの一つでも上げて、こちらに知らせを寄こすことは容易にして見せるはずだ。
不意に、不安そうにこちらを見上げていた別れ際の福の顔を思い出す。これまでにない妙な気配に気を取られて、まともに顔を見ることは出来なかったが、戸惑いを混ぜた柘榴石がこちらを見上げていたのは確かだ。
ここ最近は、何かとわがままを繰り返して、少しでも長く山に留まろうとする福。村で何かあるのは察することは出来ても、決してその真相を話そうとはしないのだから、こちらも譲歩などできようはずもない。果たして、譲歩できたかもわからないのだが。
そういえば今日はそのわがままを聞いてやる暇もなかったな、と思い出す。いつもなら鬱陶しい問答がなかっただけ幸いだと思うはずなのに、何故今はこんなにも焦燥感にも似た解せぬ気持になるのだろうか。
「…馬鹿馬鹿しい」
何を考えているのだと頭を振る。さっさとこの足跡を追って、山に潜む人間たちに忠告の一つでもしてやろう。そうして怯えきる人間に嘲笑を送り、塒へ帰ろう。きっと明日、いつものように福が狛に跨って、こちらに手を振っているのだ。
そうに違いないのだから。
いつもそうするように自分の感情など適当に煙に巻いて、足跡をゆっくりと辿る。鬼の速度でもってすればあっという間に追いつけるのだろうが、人間に会うという事実に気の進まない伊呂波はのんびりと木々を渡りながら追いかけた。
しかしすぐに足跡が忽然と消えた。獲物を狩ったことで鬼が来ることを察したのだろうか、山頂近くを下り始めた場所を最後に、きれいさっぱり消えていたのだ。
「ふむ…」
伊呂波があたりを見回すが、それらしい気配はない。耳をすませば獣たちの足跡や息遣いは聞こえるが、人間のそれは聞こえなかった。
随分と要領がいいように感じる。果たして本当に飢えた人間だろうか?…いや、そこは間違いないだろうと伊呂波は思いなおした。鬼が住む山での狩り自体が、それを強く立証している。踏み荒らされたあの狩場は、空腹から背に腹は代えられないと言わんばかりの、衝動的な行動の様に見えて仕方がなかった。慌てたように立ち去って、別行動していた人間と合流した途端に足跡を消していることからもそれが伺える。
「ならばなんだ…この違和感は」
鬼として生を受けて20年を少し過ぎたばかりではあるが、一度も経験はしたことがない違和感だ。天流からも麓の村以外の人間の話は聞いたことがなかった。もしかしたら1人2人は迷い込んだこともあったのかもしれないが、彼の長い命の中で忘れてしまえるほどに、とるに足らない出来事だったことだろう。
「探すほかないか」
仕方なく、近くから順に探してみることにする。無闇にというわけではなく、獣たちの様子を観察しながら違和感を辿るように飛び回る。親子で行動している猪の数は減ってはいないか、猿が人の気配に金切り声を上げてはいないか、鹿が怪我をしていないか。
そうして、大した異常の見つからないまま飛び回り、人の痕跡を再び見つけられたころにはとっぷりと夜が更けていた。
灯台下暗しとはこのことか。己の塒近くの、岩場が囲うように死角を作っている場所に身を隠していたらしい。
「ぬかったな…」
鬼である自分の気配に、獣が近づかないのが当たり前であったため、無意識に人間にもそれを当てはめてしまっていた。この付近はいないだろうと思い込んで、発見が遅れてしまったのだ。
食料があるにもかかわらず荒らされていないところを見ると、塒の存在には気づいていないようだ。山頂付近からこちらまで蛇行しながらも下りてきて、この死角で日が暮れるのを待ったのだろう。火を焚くこともなく、じっと身を潜めていたらしい。
「さっさと獲物を食えば、もっと早くに気づけたものを」
だからこそ火も焚けなかったのだろうが。周囲を歩いて、うっすらと残る足跡を見つけた。それはここからさらに東へと下りていく。
「狩った獲物も食わず、鬼の目を逃れてどうしようと言うのだ…」
怪訝そうに足跡を追う伊呂波の足が、次第に速くなっていく。その足跡が、まっすぐ福たちのいる村に向かっているからだ。
西から入った人間たちは、最初からまっすぐに東を目指している。思えば、蛇行しているとはいえこの人間たちの進路は、獣道に毛が生えた程度の山道を軸にしているではないか。
行商人が毎度進路にしている、あの道を。
「飢えた人間が…あの村に何の用があるッ」
ついには駆け足になり、風を切る。
遠くから1匹の白い狗の遠吠えが聞こえた。




