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17.われた鏡が映す残酷

 自室の(ふすま)が開く音にびくりと肩を弾ませる。振り返った先にいるのがお婆だけであることを認めてやっと、ふうと息をついた。


「そう怯えるな」


 お婆の目はもうほとんど見えないが、その分耳がよく聞こえるようだ。福の小さな衣擦れの音に苦笑いを零した。


「無理に進めるつもりはない。…ないが、時間はそう与えてやれん」


 お婆がこちらを向いて襖の近くに座った。蚊帳(かや)の中でいつものように(こま)に寄り掛かっていた福は、うつむいた先にある自分の膝をじっと見つめるしかできない。


「村の男から1人選べたか?」

「お婆…私やっぱり」


 無理だと続けようとする福の言葉を、お婆は首を振りながら遮った。このやりとりももう何度目だろう。


「駄目じゃ、言うたろう…時間はそう与えてやれん。お前ももう子を成す年頃じゃ…巫女の血は絶やすわけにはいかんのだ」


 母が生んだ子は福ひとり。巫女の血を繋げられるのも福ひとり。わかってはいる。わかってはいるのだ、頭では。それも立派な努めなのだろう、お婆もそうしたのだろう。

 それでも。恋愛の先に子を成す村人たちと違い、無作為に一人選べと言われて選べるわけがない。子を成すためだけに誰かを選び、子作りをせねばならないなど福にとっては残酷な現実でしかない。


 それでなくとも、最近の村人たちの目線が恐ろしいのだ。男たちはじっと見つめて来たかと思ったら途端に逸らし、にやにやと笑っていたりもする。

 それらの女房達は、こちらが何をしたわけでもないのに睨みつけてくる始末。己の夫が巫女の種に選ばれることを懸念しているのだろうか。


「相手の事は気にするでない。巫女の種に選ばれるのは(ほまれ)なことぞ」


 巫女の種、それすなわち福の子の父親に当たる者を言う。それに選ばれれば、半ば強制的に巫女と(しとね)を共にすることになる。子作りのできる体であれば既婚未婚関係なく巫女が自ら選びだし、子ができるまで繰り返される。巫女が望めば相手は1人とは限らないが、必ず誰の子であるかわかるように間を置き、子ができたらその男の家には数年暮らすには困らない食料が約束される。若い生娘を相手にできることで大体の男が喜び、潤いある生活が約束されることで大体の女が押し黙らざるを得ない体制が、巫女のこの村における掟だというのだ。


「お前が選べんというのなら、わしが選ぶこともできるぞ」


 その言葉に、再び福の息が詰まった。食いしばった歯がぎりぎりと音を立てて、もう耐えられないとばかりに振り返った。


「そうやって、私もお母さまと同じようにするの!?」


 言い終わった頃には、瞳一杯にため込んでいた涙が零れ落ちた。それは恐怖と悲しみを織り交ぜて、薄い上蓆(うわむしろ)を小さく染めた。


「…何のことじゃ」

「…気が触れたお母さまを座敷牢に入れたのはお婆でしょう?」


 震える声が、この先を続けることを(たしな)めているようだ。けれど、もう止まらない。止められない。止めるわけにはいかない。このまま子を成せと言うのなら、そこにある恐怖をぶつけなければ気はすまない。


「座敷牢にいたお母さまが…どうやって私を身籠ったのか…私が知らないと思ってるの」


 福の言葉にお婆の閉じた瞼がピクリと揺れた。次第に眉間の皺が深く長くなっていく。誰がお前に、と言いたいのだろうが、そんなことを論点にさせるつもりはない。


「座敷牢には私でさえも通うことを許されなかったわ。他の者は滅多に入れなかったし、事実扉には頑丈な鍵がついていたでしょう。…じゃあ、どうしてお母さまは私を産めたの…」


 誰より高潔で、誰より特別であると謳う巫女の血を絶やすことを、お婆が許すはずがない。だがそんな有能な巫女でも、その身はただの人間…一人で身籠るわけではない。ならば答えは簡単だ。誰かがあの座敷牢に入り、種をつけたのだ。


 当時、唯一あの座敷牢への出入りを管理していた、錠前のカギを持つ者の采配で。


「お婆が、お母さまの元に送り込んだのね…正気じゃない、抵抗もできないお母さまに子供を産ませるために」



 子を成すように言われ始めたのは、初潮が来た頃からだった。「まだ先にはなるが、心積もりをしておきなさい」とお婆に言われ、子を成すための方法や子が出来やすい期間、この村のしきたりなどを教えられ続けていた。そうして知識がつき始めてやっと、では座敷牢のお母さまは何故、と思うに至った。

 そして福ははっとする。それまでぼんやりと、自分とはほとんど関係のない存在として思考の片隅に追いやっていた『父親』という存在を意識した。それは誰で、どうやって、でも、あの時。ばらばらに割れた鏡のかけらが一つづつ割れ目を繋いでいくような、不思議な感覚だった。

 村人たちの噂話、あの座敷牢の錠前、この頃の村人たちの視線、あの日母の足にあった痣、村の掟、突然食料にあふれた村人の家…。


『この村の人たちは真面目だし、農作物にも困らないでしょう』


 日に日に空を恋しがる母の、言葉。

 所々足りない割れ目の入った鏡が映したのは、なんて残酷な現実だろう。知らなかっただけでは到底宥めすかすことのできない胸中が激しく波打って、目の前の景色が揺れた。胃の中の物がせり上がり、熱い液体を吐き出した。幸い周りに村人のいない、山からの帰り道。心配するように寄り添う狛に体を預けて、空を見上げた。喉が焼けるように痛かった。


 母はわかっていたのだろうか。福を天流の子と信じ込むほどに、意識はもう混濁していたのかもしれない。そうであってほしい。そうでなければ、母にはあまりに酷い現実だ。


 その日から、福はただただ村人たちの視線に怯える生活を送ることになる。男たちの視線にはおぞましさを禁じ得ないし、女たちの視線には侮蔑を含んでいるように感じてならなかった。そして夜になればお婆が誰かを送り込んでくるのではと、狛に縋りついて離れられなかった。


「お前に…そんなことは出来んよ」

「でもお母さまにはしたじゃない!お婆にとっては大切な娘だったんじゃないの…?」


「福、わしは…」


 皺だらけの手がこちらに伸びて、中途半端な高さで膝に落ちた。言い訳など思いつかないのか、いつもは気の強いお婆が項垂れる。


「この血を絶やしてはならんのだ…あの時は、心を鬼にするほかなかった…」

「それなら私にも同じことができるってことじゃない」


「お前は気が触れておらんじゃろう…あの子は…」


 もう正気な時間の方が少なかった。お婆の声が尻すぼみに小さくなって、ついには聞こえなくなった。

 残酷だ。どう言い訳されたとしても、積み上げた現実はこの身に刺さる鋭利な刃物のようだ。そしてその押し付けられる掟のままに、己もその刃物で抉られねばならないのだ。


「もうやだ…助けて、お母さま…」


 酷い言葉を浴びせた最後だったのにと、浅はかな自分を笑えたらいいのに。そんな余裕すらもない。もう手の届かない存在に、願う様に助けてと言葉を紡ぐしかできない。



『母親がどう生きていたか、忘れなければいい』



 不意に過る聞きなれた声。どう生きていたか、何を見ていたか、鎖のようにつながる記憶に、空の手前の母の背中が思い出された。いつでも彼女は、空を見ていた。その色の髪を追い求めていた。窓から見える、古月山を恋しがるようにして。



(伊呂波)


 日々を彩る古月山。そこに住む気の置ける友人の燃えるような髪色が思い起こされる。

 友であるのに、時に母のような、父のような、かけがえのない存在。


『伊呂波が…』


 水浴びのあと、言いかけて千切った言葉が胸にあふれる。



(伊呂波が人間であればよかったのに)



 そうすれば共に山を駆けて、共に水を浴びて、共に村に帰れるのに。共に生きていけるのに。


 あなたを、選ぶのに。



 ───カンッ、カンッ、カンッ




 突然、鼓膜を裂くような鐘の音が鳴り響く。


 村の異常事態を示す、警鐘だった。


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