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16.平穏に滲む願い

 蛍を見せてやることは難しいが、ある程度の遊び相手なら付き合ってやるだけの度量を持ち合わせているのが伊呂波(いろは)である。

 度量、というのは少し解釈が違うかもしれない。あれがしたい、これがしたいと思いつく限り並べられて「だから夜もここに居させろ」と駄々をこねられるくらいなら、可能な範囲で遊びに付き合い、さっさと疲れさせてから狛の背に放り投げるのが比較的楽で効率がいいことに気づいたのだ。これも長年の付き合いの成れの果てと言われればそれまでなのだが。


「わぁ…冷たい!村の方の川はもうだいぶん温くなっちゃってるのね」


 そういうわけで、今日は「川遊びがしたい」という福のご希望にお応えするべく、(ねぐら)の真下の川を少し上流に辿った滝口に来ている。

 特別勢いがあるというわけではない細い滝ではあるが、周りに生息する木々が大きく取り囲むようにしているために、夏には葉が生い茂り周辺の殆どが木陰になっていて過ごしやすい。福がいないときでも、伊呂波が稀に休憩場所としている場所である。


 滝の下の湖に足を入れながら嬉しそうにはしゃぐ福は、着物の裾を帯に挟んでいて、露になった素足を無邪気に動かしている。

 お婆が見れば卒倒ものなのだが、生憎ここにいるのは鬼と(いぬ)のみだ。気にする者もないので、もちろん注意する者もいない。敢えて注意するのであれば…


「おい、素足は構わんが滑んなよ」


 という、母親のような鬼の一言くらいである。はいはいと軽く躱して、太ももほどの浅瀬を進んでいく福の後ろで(こま)がふんふんと水面に鼻を近づけた。犬によっては泳げないものもいるはずなので、伊呂波が注意深く観察する。長年一緒にいる福が気にしていないので大丈夫だろうが…とじっと眺めていると、狛が徐に後退し始めた。


(泳げなかったか?)


 ゆっくりと後退する狗を目で追って、まあ濡れたら後が面倒だしな等と思案したその瞬間。さっと身を低くして、白い大きな尻尾を左右にぶんぶんと振った。

 バシャーンという景気の良い水音が響いた頃には、傍にいた伊呂波は全身がその波でずぶ濡れになっている。低くした身をあっという間に前に突き出して、狛が勢いそのまま湖に飛び込んだのだ。


「狛!相変わらず上手ね!」


 犬かきでスイスイ進む狛を拍手で見送る福。それを見守る水も滴る良い(おとこ)


「あははは!伊呂波どうしたの、びしょ濡れ!」


 赤い鬼を指さして遠慮なく笑い飛ばせるのは後にも先にも福だけなのではないだろうか。やめておけばいいのにしばらくそのまま笑い続けるので、伊呂波の片目の下瞼がぴくついていた。


「いい度胸だ…」


 散々に笑い飛ばして息も絶え絶えになった頃、ただでさえつり上がった目を細くした伊呂波が何の抵抗もなく湖に足を入れる。片方の口端だけが不自然に上がっているので、(あ、これは笑いすぎたな)と気づくのだが、時すでに遅し。

 本当に同じ水の中を歩いてる?と不思議に思うほどに、地上と同じ速度で近づいて来るので、水中で足を取られてしまう福はあっという間にその大きな手につかまるのだった。


「ごめんなさい、ごめんなさい、もう笑いません!」

「うるせえ!てめえはいっぺん痛い目を見ろ!」


 10年を超える付き合いの中で、彼女の自由奔放な行動から積もり積もった恨みつらみ。今ここで晴らさせてもらおう、と福の体を足から担ぎ上げた。

 伊呂波の身の丈は6尺を優に超える。いつも福が見ている景色が一変して、見たこともない高さから水面を見下ろしていた。それも逆さに。

 驚いた福はぎゅっと両手で伊呂波の背中側の服を掴み、両足を乱暴に動かして抵抗する。


「こんな高さから落とされたら死んじゃう!」

「死ぬか阿保」


 その言葉にほっとするのも束の間、「せいぜい骨折る程度だ」と冗談めかす伊呂波の言葉を真に受けて、再び両足をバタつかせる。彼女の濡れていた脚から水滴が飛び散るが、最早気にするまでもない。


「おら、暴れんな!」

「じゃあ下ろしてよ!やさしく、思いやり深く、割れ物を扱うみたいに!」


「おっと」


 あまりに煩いので腕の力を一瞬抜いてみれば、ずるっと福の体が後ろにずり落ちた。その瞬間、女とは思えない低い叫び声が湖の一体に響き渡った。世の中のカエルの叫び声を集めて間延びさせたような、醜い声だなぁと伊呂波は暢気に考える。


「降ろして、降ろして!」


 伊呂波の服を掴んでいた手が、気づけば彼を叩く拳に変わっている。まだまだ余裕があるようだ。

 視界の端では狛が気持ちよさそうにスイスイと泳いでいる。


「次は餅を忘れずに持ってくるか?」

「わ…わかった、ちゃんと持ってくるから!」


「この後、ちゃんと狛を拭いてやるか?」

「はい!いつも拭くの任せてごめんなさい!」


「もう夜に山に入らないと誓うか?」

「………それは、ちょっと」


 わかんないけど、と続きそうなところでもう一度力を抜いてみる。世の中のカエルの叫び声の集合体はまだ聞けるようだった。


 そのまましばらく騒ぎ続けるので、そろそろ降ろしてやろうかと考えたその時。滝の上、まだ深く入ったそのずっと向こう側で、獣たちの騒ぎ声が耳に届いた。尋常ではない様子を感じて、思わず狛の方向へ福を放り投げる。


「ちょっと伊呂波!」


 慌てて湖から顔を出して抗議する福をよそに、伊呂波は獣たちの声のする方に顔を向けたまま気配を探っていた。その眼光が今まで見たこともないほどの鋭さで、福は思わず言葉を飲み込んだ。


「…なんだ?」


 思わず伊呂波が呟く。

 人を超越する聴力を持ってしても、ここからでは事態を把握することはできない。何かが起きている…だがどうにも気配が掴みづらい。


「水から上がって狛を拭け…今日はここまでだ」


 いつもならこの後「夜まで居座るおねだり」が始まるのだが、そんな雰囲気ではないことはさすがの福も理解できた。小さく了承の言葉を返すと、伊呂波はあっという間に姿を消して、次の瞬間には滝の上に立っている。そのままあたりを見渡して、今度こそ姿は見えなくなってしまった。


 ゆっくりと湖から抜け出して、狛を呼ぶ。体を震わせて飛沫を飛ばしている間に近くに用意されていた手ぬぐいの山から適当に1枚抜き出して、濡れて細くなってしまった彼の体を撫でた。毛の長い狛を拭くのは大変で、満足いく頃には涼んだはずの体が汗ばんでいた。手ぬぐいも繰り返し絞ったせいで手が痛む。

 いつもは当たり前の様に、伊呂波がやってくれていたことだった。


「…何かあったのかな」


 これまで、福が訪れている間に伊呂波が同じように山の異変を感じて消えてしまうことは実は何度かあった。そう時間も置かずに「猪が産気づいてた」だとか、「狼の縄張り争いが」だとかで毒気を抜かれたように帰って来たのだが。


(あんな目、初めて見た)


 先ほどの鋭い眼光を思い出す。黄玉の中央にある瞳孔がいつもの何倍にも大きくなって、遠くを捉えるように見開かれていた。必然的に下から見上げるようになって余計に、彼の背丈の大きさを再認識する。動物が警戒心を顕わにするときに毛を逆立てるように、赤い髪が心なしか燃える炎のような揺らめきを模していたように思う。


(鬼なんだなぁ)


 明らかに人とは違う、それを超越した存在。山のようだと称される背丈、目にも止まらぬ速さ、片腕で軽々と人の体を持ち上げる力。福にとってはそれは、彼を恐れる理由にはならないのだけれど。


「伊呂波が…」


 言いかけて、慌てて口を噤んだ。絶対に叶わない、願いにも似た想い。言ってしまえば叶わなくなるような、思うだけで罪深いような。そんな想い。

 狛が視界にその愛らしい顔をねじ込んできて初めて、自分の体を拭く手が止まっていることに気づいた。


「なんでもないよ」


 そう笑って、髪をわしわしと手拭いでかき混ぜる。濡れそぼった袖が重くて、涙が出そうだった。




 その日、天日の下で福の着物と狛の毛が乾くまで待っていても、伊呂波は帰ってこなかった。


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