15.それぞれの居場所
岩を囲む湖は、雨が来るたびに少しずつ大きくなっていった。数年経った今では半径4尺ほどに広がり、山の絶壁側はついにその縁にたどり着きチョロチョロと向こう側に零れ落ちている。だというのに水の勢いは弱まることもなく湧き続けるので、いずれは滝でも作り上げようというのかと伊呂波は短いため息が出た。
おそらくはこの深くに膨大な量の地下水が溜まっていたのだろうし、そろそろ溢れるころだろうとは感じていたが、到底ここまでとは思わなかった。
岩の周りに残る地面にたどり着くには一苦労するほどである。毎年節分の日に酒をくれてやっているという感覚だった伊呂波にとって、「これはもう酒はいらぬということでいいのか」と眉根を寄せざるを得ない。
「上の方はやっぱり涼しいねぇ」
相も変わらず山に入ってはのんびりと過ごしている福が、右手で顔を扇ぎながら呟いた。
季節は夏。山の木々の至る所で蝉が鳴くので五月蠅くはあれど、木陰が多く湖がせせらぐ塒付近は村よりは随分と涼しく感じるようだ。湖の傍では無防備に腹を上向きに眠る狛がいる。
「あ、そうだ!今度、蛍見に来たいんだけど」
「…あ?」
唐突な申し出に眉間の皺が深くなる。福が会話で前後関係を無視することは珍しくないが、毎日のように続けば誰でも反射的に顔に出してしまうものではないだろうか。
「蛍なら村でも見れるだろ」
「でも前に山にはもっとたくさん生息してるって自慢してたじゃない」
そんなことを言っただろうか…彼女がこの山に足を運ぶようになってこちら、取り留めのない雑談が無数に繰り返されたのですぐには思い当たらなかった。半分以上は適当に返事をしているものだから、もしかしたらその時の言葉を指しているのかもしれない。
「蛍…蛍ねぇ…まあ、いることはいるが」
村のすぐそばに生息する十数匹程度の蛍とは比べ物にならないほど、山の中には数か所に群生地が存在している。此処より少し深く入った場所で、水質が澄んでいて餌も豊富、水草などの状態も良いとても静かな場所。
そのひと際美しく蛍の数が多い群生地を、伊呂波は先々代の命が尽きた場所だと当たりをつけていた。天流にここだと教わったわけではなかったが、他とは比べ物にならない夜を彩る場所で、初めて見つけた日は思わず見入ってしまったほどだった。
誰かに蛍を見せるならきっとそこが最上なのだろうと思う。伊呂波が、誰かを喜ばせたいと選ぶなら、だが。
「もう夜の山に入るなと言ったばかりだろうが」
「伊呂波に前もって言っといて、一緒にいてもらうのもダメなの!?」
塒の壁に背を預ける福のぎゃんぎゃん喚く姿は、未だ少女の表情を残してはいるものの、背も伸びて、かつての彼女の母親に似て来たように感じた。
福の母親が死んだ日、泣きじゃくりながら山に登ってきていたあれは、そうかもう数年前にもなるのかと伊呂波は思う。
「駄目だ」
実際、伊呂波が傍にいればほとんどの獣は近づいてこないのだろう。鬼として生まれてこちら、獣と争った事こそないが、どんなに獰猛な獣に唸られようとも、ひと睨みで逃げ去ってしまうのだから。
だからと言って、獣たちを適当に扱いたいわけではない。人間を狙ってこられては、間に立たねばならなくなるし、一方的に襲ってくるであろう獣相手に多少なりとも力で対抗せざるを得ないことは想像に難しくない。山の動物たちにはできるだけ平穏に特段の介入をすることなく暮らしてほしいし、問題を増やしたくもない。だとすればやはり、人間を留めるのは鬼の立場として得策ではないのだ。
「夜はお前が思っているよりも危険なんだ。諦めろ」
ぴしゃりと断れば、やはり想像通りの顔をする。不満そうな納得のいかない唇の突き出し方は、どれだけ背が伸びようとも幼いころから変わりはしない。
「じゃあ、塒から出なかったら大丈夫じゃない?あの日もここには誰も近づかなかったでしょ?」
「蛍が見たいんじゃないのか。此処からは一匹も見えんぞ」
片眉を上げて聞き返す伊呂波。至極もっともなことを言っているつもりだが、福は何かと食い下がってくるのでどうしたものかと思案する。蛍が見たい、は口実なのだろうが、本当の目的を明かすつもりはなさそうだ。
「夜は村に帰れ。何度も言わせるな」
「ちぇ…」
拗ねた子供の様に視線を流す。折りたたんだ膝を抱き寄せて、ついにはそこに顔を埋めてしまった。
ここ最近の福は、毎度この調子である。何かと理由をつけては居座ろうとし、断られれば思いつくままに食い下がる。此処からの星空がどうとか、夜の滝がどうとか。何も案が出なくなってやっと拗ねたように諦めるのだが、その奥底に隠しているだろう本音は決して見せようとはしなかった。
伊呂波は本人が言わないことを強要するつもりはなかったが、そろそろしつこいことこの上ないので痺れを切らしそうになっていた。その度に、察したような狛が近寄ってきてその頭を擦り付けてくる。現在も「察してやってくれ」と言わんばかりに甘えてくるので、狛に免じて追及はやめてやろうとため息をつくのだった。
何があるというのだろうか。今まで山を好んでいる雰囲気は出せど、帰りは颯爽としたものだったのに。山を遊び場にして、居場所は村にあるような認識を持っていたように思っていたが、違ったのか、それとも認識が変わってしまったのか。ここに居心地の良さを見出すのは別に構わないが、住みつかれるほどというのは伊呂波はご遠慮願いたかった。
「しょうがないか…村に帰んなきゃ餅が手に入んないし」
ほとんど決まってそんな台詞を吐いてから、福が立ち上がる。さも、伊呂波のためですよと言わんばかりである。恩着せがましく聞こえてしまう伊呂波は毎度頬をぴくつかせるのだが、狛がさっさと福を乗せて逃げるように走り去るので、ついぞ反論できずじまいなのだった。
「まったく、何だと言うんだ」
ふっと息をつく。
「山よりも村の方が住みやすかろうに」
人間というのは、どうにも自分たちの暮らしを豊かにすることに力を注いでいるように思う。それは福の儀式ごとに屋根や木の上から眺めているうちに気づいたことだった。
外敵から身を守れるように巣を作るほとんどの獣たちとは違い、住みかの家の床を上げ、扉をつけて花を飾る。外敵から身を守るという目的もあるのだろうが、どちらかと言えば快適に過ごしたい工夫を繰り返しているように見えた。
衣服を編み、藁を重ねて寝床を作る。暑さ寒さに器用に対処して、命を生き抜くことに長けている。
だからこそ。
「人は人の群れの中にいるべきだ」
猿がそうであるように。鬼が孤独である様に。
夜の山が危険なことは当然として、福が村に居場所を置くこともまた、当然だと思うのだ。理は曲げるべきではない。
「異端は俺とお前で事足りているだろう」
ちらりと岩を見る。湖に囲まれて、その岩肌に水面の反射を受けるそれが、沈黙でもって返事をしているように感じた。例えば今、この場に天流がいたとして、きっと彼は背を向けたままにやりと笑っているに違いないのだ。




