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14.雨上がりの水面

 毎日のように山を下りていく後姿を、いつだって呆れた気持ちで眺めていた。

 今日はあそこの川を見ておくように、今日はあの鳥の巣を注意してやってくれ…などと毎度言いつけては、己はふらふらと村へ下りていく。人間観察の何が楽しいのだとため息をついた回数を数えていたら、果たして青い鬼の生きた年数を超えられただろうか。

 一緒に行動しても五月蠅いだけなので構わないが、自分一人に面倒事を押し付けられているような感覚が拭えなくて解せずにいたものだ。まあ、そのうちに全て一人でこなさなくてはならないのだから、当然と言えば当然のことだったのかもしれないが。それならせめてもっと上手く言いくるめてほしいものだった。

 言われたことをすべてやり終えて、今日も特段の異常はなかったなぁと寛いでいた夕刻に、青いのはふらりと帰ってくる。そこでもやはり呆れ顔で迎える少年鬼に、青い鬼はいつしかニヤリとしたり顔をするようになっていた。あれはもしかしたら、満足感からくるものだったのだろうか。


 『伊呂波(いろは)』と福は呼ぶ。

 最初こそ慣れないその呼称にむずがゆさを感じたり、何度も呼ばれてやっと「ああ、己のことか」と返したり。何とも言えない違和感を乗り越えたのはいつ頃だったのだろう。気づけば条件反射で返事をして、当たり前の様に振り向いていた。

 鹿には鹿、猿には猿と呼ぶように、己もただの鬼でしかないと思っていた。強いて言えば青い鬼との区別として、「赤いの」などと呼ばれる程度だった。


『いろはって、よんでもいい?』


 大きな区分の『鬼』の中に、『赤い』己を『伊呂波』として呼ぶことは、何故だか樽の中の大量の豆の中から個を見出された唯一の証のようで、今にして思えばなんと特別なことだろうか。

 胸を張るほど嬉しいわけでもないし、にやけてしまうほど誇らしいわけでもないけれど。

 もしかしたら青い鬼のあのしたり顔は、そういう類のものだったのかもしれない。


『天流という名なのだぞ』


 などと自慢しそうなあの軽薄な青い鬼が、そうしなかったのはきっと。やはりまだこそばゆかったからだろうか。

 軽薄というよりは、物事を重大に受け止めないようにしていたと思う。成るように成る、起こったことは受け止めて、成したことは見届ける。そういう飄々としているところが、羨ましく、時に煩わしかった。


『お前は真面目だなぁ』


 感心した顔でこちらを見ていた時には、お前が不真面目なのだと殴りたくなったものだ。

 殴りたくなったと言えば、よく喧嘩をしていたのは、奴が何か美味い物や美しいものを独り占めしていた時だ。執着の少ない伊呂波も、変哲のない日々に娯楽を求めたい日もある。そんなときに限って奴の隠したものが明るみになるのだから、単純な伊呂波が殴りかかることも少なくはなかった。無論、簡単に避けられるし、口で勝てたためしはなかったが。


「また、独り占めしていたのか」


 ぽつり、と呟く声が雨音に消えて行く。


「お前らしいことだ」


 豆が美味いだの、魚を釣り上げていただのは教えたいことでも、人に名を貰ったことは青い鬼にとって大切なことだったのだろう。こっそりと胸の内に抱えて、隠して。隠しきれずにしたり顔をしていたのだ。あの青いのは。


 恋というものがどういう物かは知らないから、福の母親と青いのがどういう関係だったかはわからない。わからないが、青いのにとって、至極特別であったのは間違いないだろう。


 『知らない』というのは、青いのが死んだ日から煩わしい言葉となってはいるが、これはこのまま知らなくていいような気がした。胸に秘めて逝ったものを、暴くのは野暮というものだ。






「…で、なんでこんな夜更けにここまで来た」

「なんでだろ…」


 ほとんど衝動的だったと呟いて、思い出すような顔をする福。その表情には先ほどまでの絶望の色は薄れていて、いつものおどけるような眉の上げ方だった。


「お母さまが…ここにいる気がした、…のかな」


 未だ雨に打たれ続ける岩を遠めに見つめる。母の死後、青いの…天流(あまる)に会いに魂がここにあるかもしれないと、ぼそぼそと呟いていた。そこに誰がいるわけでもないのに

 人間というのは不思議なものだ。死すれば魂となって体を抜け出し、天へ上るということを本気で信じている。稀に執着する地へ縛られる、ということもあるのだとか。

 なんと複雑な生死だろう。鬼である伊呂波にしてみれば、どの命も大地に恵みを受けて大地へと還って行くものだ。天に対してあるとすれば、地を這う者の憧れくらいだろうか。


「…満足したのか」

「してない…けど」


 すり寄ってきた(こま)の首元を撫でて、頭を預ける。ゆっくり閉じた瞼が眠そうに見えた。


「区切りは、つけるよ」


 鬼に比べて成長の遅い人間にしてみれば、齢十だか十二だかの頃合いはできることも少なければ、経験はそれに比例する。同じ背丈だった頃に山中を飛び回って動植物たちの面倒を見続けていた伊呂波に比べて、まだまだ精神的に幼いはずの福が、妙に大人びて見えた。それはどこか、居心地悪くも感じる。


「忘れちゃうのかな…想い出なんてほとんどないのに」


 伏せた瞼が小さく震えて、振り切るように頭を振った。


 いずれ、声も思い出せなくなる。生前に言われた言葉や思い出は残れど、日を浴び続けて脆くなった土塊(つちくれ)のように、ぼろぼろと欠けていくものだ。天流の声はどんなだっただろうか。あっけらかんとした笑い声は、いまだ脳裏に残ってはいるが、もうずいぶん遠く、何重もの絹をかけたようにしか思い出せない。

 それでも、ふとした瞬間に蘇るのは。


「母親がどう生きていたか、忘れなければいい」


 天流は、人を眺めることをやめなかった。それは鬼にしてみればあまりに異端で、滑稽なものだった。けれどどれだけ嘲笑しても、何度叱咤しても、絶対にやめなかった。

 それが、彼の命の歩む方角だったのだ。最初こそ、人を嫌う自分にとっては真反対の生き様で、嫌悪感しかなかったのだけれど。彼亡き今、ふとした瞬間に蘇るのは、飄々と歩くその背中。

 こだわりだったり、好みだったり、生き様だったりでもいい。特別故人を彩る事柄さえ覚えておけば、紐づいた情景が思い浮かぶものだった。


「お前の母親の心の柱は何だった?」

「こころの…」


 聞いては見たものの、答えなんて分かりきっている気がした。それを肯定するように、開いた福の瞳が、洞窟外の濡れて色を変えた岩を見つめる。雨脚が弱まってきたようだ。


「青い空だよ」


 ふっと目を細めて、笑みを浮かべる。柘榴石(ざくろいし)がまた少し濡れた気がしたが、伊呂波は見ないふりをした。


「誰かによく似た青い空が…、あの窓から見える突き抜けるような濃い青空が、お母さまの唯一だった」


 天流という青い鬼は、大したものだと思う。何百年と生きたであろうその命の中で、最後のほんの数年で一人の人間をこうも惹きつけたのだから。それが人によって愛だの恋だの言われるものかはわからないが、毎日共にいた己に気づかせる事もなく逝ったのだから。


「そうか」


 いつしか、寄り添うように眠ってしまった少女と(いぬ)に気持ちばかりの大きな手拭いをかけながら、伊呂波は遠慮なくため息をつく。


(人間を山に留めたくはないんだがな…)


 いくら通い慣れた福と言えど、人の匂いは夜の山には危険が多すぎる。鬼の自分が傍にいるので寄ってくることはないとは思うが、山の深くには肉を好む獰猛な獣も存在するのだ。しかし、いくら他の狗より大きな狛であろうと、この夜更けに村に帰るように促すには、あまりに天候が悪かった。


(まあ、幸い夜明けも近い)


 洞窟の外は相変わらず濃い夜の帳が下りている。弱まるかと思われた雨は、すぐに勢いを取り戻して地面を激しく打っているが、それでも夜明けの明るさが東の空から少しずつ近づいてきているのだ。

 じっと外を眺める伊呂波は、ふと岩の周りの違和感に気づいた。


「ああ、…やっとか」


 随分と遅かったな、と伊呂波は笑った。





 日が昇って、福が目を覚ましたころ。洞窟の外に鎮座する例の岩の周りの土を少しだけ残して、囲むように湖が出来上がっていた。昨夜の雨は確かに酷かったが、一晩で何もなかった場所に湖なんて出来るものなのかと息を呑む福を、伊呂波が面白そうに見ていた。


「目玉が転がり落ちるぞ」

「だって…!」


 その光景は確かに見事だった。緑に囲まれた岩の周りで、美しい水がキラキラと晴れた空を反射している。草が昨夜の雨で輝いていて、木漏れ日を眩しさに変えていた。


「青い鬼は空ではなく水から生まれたんだ。水から生まれた鬼は水に死ぬ。先々代は川の畔で光になって消えたらしいが、しばらくしてからそこには蛍が群生するようになったそうだ」


 それを聞いた少年鬼は、天流の死後には何か残るのだろうかと想像していたものだ。しかし彼の死後、それらしき変化は何もなかった。毎日この岩を見に来るのは、墓標だからというよりも、変化の確認の意味が大きかったように思う。


「そういえば、この前なんだか違和感があったけど…これだったんだ」

「そうか?…まあ、この下には水脈があるから、少しずつ変わってたのかもな」


 それが昨夜の大雨で湧き出たのかもしれない。それでも短時間でここまで大きく変容するのは、おそらく鬼の死に関わっているのだろうと思う。異形の鬼の不思議な力は、例え同じ鬼である伊呂波でも把握しきれずにいるのだ。


「しかしまあ、随分とのんびりしたもんだ」


 先々代が死んだ後にどれくらいの日を置いたのかは、そういえば聞いたことはなかった。てっきり数年の単位だと思い込んでいたので随分と遅いなとは思えど、何となく、天流がわざわざ今日を選んだような気がした。


「お前の母親を待っていたのかもな」


 魂となって天へ上るなど信じてもいないし、馬鹿馬鹿しいと思うけれど。それでも伊呂波は、どこか非現実的に思える想像を口にしたくなっていた。福の母親が死んだその日の大雨で、あっという間にその変化を見せつけてくるのだから。


「お母さまを…」


 福は呟いて、その柘榴石に水面の光を反射する。何を想うのか、伊呂波には到底わからないが、少なくとも昨夜、同じように岩を見つめて雨に打たれていたあの時とは、真逆の感情であろうことは表情から読み取れた。


「だとしたら、私にとってもここは…今まで以上に大切な場所だね」


 いつも通りの少女らしい笑顔を浮かべて、福が狛に跨る。福の成長に比例するように大きくなった狛が、軽々と立ち上がって誇らしげに尻尾を振った。


「二度と夜に入ってくんじゃねえぞ」

「はぁい!またね、伊呂波!」


 守る気があるのかわからない返事をしながら、福が木々の隙間に消えて行く。それを見送りながら、伊呂波はゆっくり湖を振り返った。


 柔らかな風が水面を撫でる。春らしい暖かさが走り抜けて、春がもうすぐ花を吹き咲かせるだろう。


「さてと、昨日の雨で見るところが多いな」


 気だるげに呟く伊呂波の顔はどこか嬉しそうで、湖は煌めくことをしばらくやめなかった。


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