13.今は亡き君の名
特段暗い夜の焚火はまぶしくて、思わず目を細めてしまう。木のはじける音が遠い雨音と相まって眠気を誘っている。
洞窟の入り口に目をやれば、寝転がった狛の腹を伊呂波が荒々しく手ぬぐいで拭いていた。
「おら、動くな。風邪ひきてぇのか」
くすぐったがる狛は、まるで遊んでもらっているかのようだ。おおざっぱに水滴を拭きあげられて、最後にはその身を存分に振ってから焚火に寄ってくる。それを呆れたように見送りながら、手元の手拭いを絞っている姿はまるで鬼とは思えない。
今彼が握っているその手ぬぐいも、福が頭にかぶっている手ぬぐいも、伊呂波がこの塒に溜め込んでいた物だ。風で村から飛んできたものを先代の鬼がもったいないからと保管していたのがほとんどらしく、その習慣が未だに抜けないとぼやいていた。しかし夏の小川遊びや、今日のような雨の日に大いに役立っていたので、福も助かっていたりする。
「ん」
伊呂波が差し出してくる湯飲みをのぞき込めば、ほのかに緑茶の香りが鼻腔をくすぐった。いつの日かに持ってきていた茶葉と茶器で、不器用ながらに入れてくれたらしい。
「ありがと」
春になったと言えど、雨に打たれれば体も冷えるようだ。湯気の立つ茶をすすりながら、じんと胃に広がる熱が心地よかった。随分苦かったけれど。
「さっきの話だけどよ」
言いづらそうに切り出す伊呂波を盗み見る。言葉を選ぶように逡巡するそぶりは、あまりに彼らしくないが、よほどいつもと様子の違う福には笑えたものではなかった。
「…知ってる」
彼が何を言いたいのか、手に取るようにわかる。そこで会話を終えて洞窟内に移動したのだから、そもそも簡単に予想はつくのだが。それでも彼が選ぶだろう言葉すら想像できて、浅い付き合いの長さを想う。
「私は鬼の子供じゃないよ」
きっと彼は言いたい。「鬼に子を成す力はない」。いつかの会話の中で、伊呂波から直に聞いた言葉だ。その時にはもう、やはりとしか思わなかったけれど。
福自身、青い髪ではないし、角もない。人間離れした力も、風を切る速さも持ち得ない。
なにより。
『姫巫女の事、あの青い鬼との子だって言ってたらしいわよ』
『そんなはずはないでしょう、だってあの鬼が死んだ随分後の妊娠よ』
山に入って姿をくらまし始めた日々、こそこそと人目を盗んで身を隠していた廊下で、誰かが声を潜めて話していたのを聞いたのは本当に偶然だった。
山に行くのが楽しくて、新鮮で、嬉しくて。そういえば母の事を忘れている日も多かったなどと、その時はまるで他人事のように考えていた。
その先はどうでも良かった。そんなことより早く古月山に向かいたかった。音を立てないことに集中して、さっさと立ち去ったので、父親は村の中にいる誰か、とまでは聞いたと思う。名前を言っていたかも覚えていないけれど。
「お母さまは何を勘違いしたんだろう。…恋仲だった、ってことなのかな」
「恋仲…ねぇ」
焚火より少し入り口寄りに座り込んで、伊呂波が絞った手拭いを首にかける。乱暴に拭いたらしい赤い髪が、ぺたりと疲れたように項垂れている。その向こう側にかすかに見えるあの岩が、打ち付ける雨を静かに弾いていた。
(会ってみたかった)
会ってみたかった、青い鬼に。その死が母を狂わせるほど、それだけ魅了するものがあったのだろうか。彼から見た母はどんな女だったのだろう。気が触れる前の母を、その目線で語ってほしかった。
今更なのだけれど。
死んでしまった今、今更なのだけれど。
『お前の母親が、…死んだよ』
お婆の言葉を一度で理解ができなくて、反射的に聞き返した。一言一句、同じ言葉を繰り返す祖母の瞳は伏せられたままで、いま放った言葉は果たして本当に、彼女の娘に関しての事柄なのだろうかとわからなくなるほど。泣きじゃくる福を見つめるその表情は、いつも通りに見えた。
山に通う毎日の中で、思い出す日がなかったわけではない。ふと、母は元気だろうかと気が向く日もあったのだけれど、会いに行くのはどうしてもできなくて、振り切るように山に走った。どうせ、今日もぼんやりと窓を見上げているに違いない。あの日と同じ今日を、きっと生きてくれていると信じて、考えないようにした。
そんな日々の間に、母は少しずつ弱って行っていたらしい。肉付きの良かった体は痩せこけて、最後の方は食事も喉を通らなくなり。いつの日からか笑うより泣く事が多かったと祖母は言う。
(私のあの言葉のせいだろうか)
牢の中にはまともな寝具もなかった気がする。夏はまだしも冬の寒さは過酷なものだっただろう。そんな環境が体に良いはずもなく、確実に長い命ではなかったのだけれど、それでもあの日の己の残酷な言葉に胸が張り裂けそうになる。
(ごめんなさい)
届かなかった言葉を喉の奥で繰り返す。幼かったとは言え、いつでも会いに行けたのに。何度でも謝ることができたのに。こっちを見てと叫べたのに。
怖かった。ただひたすらに怖かったのだ。
『私の子供を知らない?』
あの、私のずっと向こうにいる誰かを想う瞳。お前ではないと暴力的に伝えてくる優しい声。ブツリ、と脳の奥でちぎれるような音。もう一度あの感覚を味わってしまったら、きっと、私もおかしくなってしまう。
『…喉に詰めるなよ』
だから逃げたのだ。優しい伊呂波の声に絆されて、迷惑そうな彼の顔を無視して。何もわからない狛に跨って。母にも、お婆にも、村人たちにも与えられなかった愛情を、古月山に見出した。
(ごめんなさい)
酷いことを言ってごめんなさい。会いに行かなくてごめんなさい。
忘れたふりをしてごめんなさい。
(大好きだったよ)
赤茶色の瞳、黒い髪、優しい声、いつでも浮かべていた暖かい笑み。己の名の色があまり好きではなかったこと、一緒に食べようと餡子を差し出すと少し嬉しそうだったこと、空が好きだったこと。その程度しか、知らないけれど。
「…空」
ふと、まだ小さな抜け穴をくぐっていたあの日々の中で、母に聞いた言葉を思い出す。
「伊呂波、青い鬼の人の名前…知ってる?」
「名前?ねぇだろ、名前なんざ人間がつける程度の…」
自分で入れた茶をすすって渋い顔をしている伊呂波は、訝し気に返してくる。考えたこともなかっただろう青い鬼の名前に些かの間を開けて、まさか、と続けた。
「お母さまがつけたって言ってた」
抜けるような空の髪色。最初は単純に『空はどう?』と聞いたら、微妙な顔を返された。だからこう付け足したのよ、と笑っていたっけ。
「天流…天空から流れる川のような青だったから、天流」
「…天流」
呟くように繰り返して、目を見開く。そのまま岩の方へ視線をやって、伊呂波はしばし動かなかった。




