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12.母の言の葉

 母親との一番古い記憶は何だっただろう。お婆の腕に抱かれて、座敷牢の中でうつろに笑う女性を見つめていたのが最初だったように思う。牢の外の高い位置に備え付けられた横細い窓を見上げて、うっすらと笑っていた。


『おかあしゃま』


 舌足らずのその言葉にゆっくり視線を寄こして、我が子だと悟ったあの時は正気を取り戻していたのかもしれない。少しだけ驚いたように目を開いて、笑顔になるまでの時間は永遠のようで。美化した記憶だと言われればそれまでだ。


『髪の色は私に似たのね』


 牢の隙間から手を差し出して、優しく触れる母の声の温かかったこと。母恋しさに泣く幼児が祖母の目を盗んで会いに行くようになるには、あまりに十分な理由だった。

 母はほとんどの時間まともではなかったし、視線が絡む日は少なかったけれど、いつも窓の外の景色見たさに牢に寄り掛かるようにしていたので、牢越しに指先で触れられるだけ十分だった。

 そして意識がまともな時は嬉しそうに父親の話をしていた。青い髪で、明るい性格で、身軽な人だった。笑い声は竹を打って響く音のようで、人は彼を鬼と呼ぶけれど、いつも物事の本質を見極めるような鋭い視線の持ち主だった、と。

 それらを余すことなく理解するにはあまりに幼くて、ほとんどを聞き流すことになってしまったけれど、まだ見ぬ父親への羨望は膨れるばかりだった。


 村のどこを見ても青い髪など見つからず、もうこの村にはいないのだろうかとお婆に一度だけ聞いたことがあった。


『誰がそんなことを吹き込んだ!』


 今にして思えば当然だが、お婆は烈火のごとく怒り、声を荒げて私の頬を叩いた。生まれて三、四年の少女が弾みで倒れこみ、傍にあった花瓶を倒して派手な音が響く。そこでやっと正気を取り戻したお婆は、大泣きしている少女を震える腕で抱きしめて何度も謝罪を繰り返していた。


『鬼が父などあるものか、お前は血統正しき巫女の一族ぞ!』


 打たれたことよりもお婆のその言葉がひたすらに脳にこびりついている。それでは母の言葉は何なのだ。嘘なのか、やはり気が触れてしまっていたのか。わからなくて、頬が熱くて、怖くて泣いた。

 当然、こっそり母親に会いに行っていることも明るみに出てしまって、その日から座敷牢のある家屋の扉前には見張りがつけられてしまう。

 それでも母親とは偉大なもので、意思など碌に交わせなくとも恋しくて、求めてしまうものだった。その存在を渇望して、嫌われたくはないと痛感する。たとえ嘘ばかりであろうとも、常に声を聞いていたかった。

 ほとんど使われることのなかった座敷牢は老朽化も激しく、子供の抜けられる穴が二つも空いていて、どうにか中に入れないかと彷徨っていた福が見つけたのは必然だったのかもしれない。決して見つからないように大樽で隠して、忍び込むのを続けた。


『この村の人たちは真面目だし、農作物にも困らないでしょう』


 その日は、母がいつにも増して正気のようで、まっすぐにこちらの目を見つめていた。だから嬉しくて、言われた言葉は酷くはっきり覚えている。


『それでも、大人たちが言うことも大切だけれど、なによりも。あなたがその目で見たことを信じなさい』


 四歳頃の少女には難しかったのだけれど、母の、まだ赤みの残った瞳が何故だか印象的で。大切にしなくては、と思った。何度も呟いて、繰り返して。今度こそお婆に見つからぬよう、心の中に宝物として仕舞った。

 その日が、まともな母を見た最後の日だった。


 次の日、同じように忍び込んで『おかあしゃま』と呼びかける。それまでなら無反応に空を見上げ続けるか、笑いかけてくれるかのどちらかだったのに。


『あら、可愛らしい。…お名前は?』


 毎日のように通っていた。何度も母を呼び続けた。自分の名前は『福』で、最近生まれた子狗(こいぬ)が懐いてくれる、先日初めて社に上って怖かった、夜はやっぱり怖くてお母さまと同じお布団で眠れたらいいのに。なんて。取り留めのない話を繰り返す日々をすべてなかったことにするように、母は濁った茶色い瞳でこちらを眺めている。


『私の子供を知らない?青い髪で、あなたと同じくらいの年頃なのよ』


 愛おしそうに、存在しない子供を想う。その目が、その声が、その笑顔が。自分の物ではないと知って、喉の奥が締め上げられたように息ができなかった。


『…しらない』


 知らない。そんな子供は存在しない。青い髪の人間など、この村にはいない。そんな父親も、子供も。いない、いない、いない。


 母親なんて、いなかった。


『しんじゃったんだよ。あおいおには』


 何故そんな言葉を口にしたのだろう。ひたすらに一途に、胸の内から湧き出てくる願いを叶えたくて通い続けた日々がただ裏切られたような、無残にも壊されてしまったような。途端に湧き出ることを止めた胸が、あの日祖母に打たれた頬よりもずっと痛くて。止められなかった。


『しんじゃったんだよ!』


 大きく開いた目をこちらに向けて、母は微動だにしなかった。そのうちに瞳が狼狽えるように左右に小刻みに動いたかと思うと、ぐしゃり、と顔を歪めた。


『あああああああああああ!!』


 聞いたこともない、大人の慟哭。子供のそれとは違う、低く呻くような声に思わず耳を塞いだ。扉の外の見張りが異変に気付き、鍵を開けようと音を立てている。

 福は逃げた。あっという間に抜け道を潜り外に出て、大樽で綺麗に塞いでしまう。

 母に忘れられた悲しさか、酷いことを言ってしまった後悔か。わからないまま流れ続ける涙が止まらなくて、逃げ帰った部屋の中でただひたすらに声を殺し続けていた。


 そうして福は、二度と母の前に姿を現さなかった。

 もう一度目の前に立っても忘れられていたら、あの日の言葉を責められたら、また同じように泣き崩れたら、…嫌われていたら。理由ならたくさんあったけれど、一番の理由は多分、もう心が求めていなかったからだと思う。こちらがいくら求めても手に入らないものがあるのだと、幼心に気づいたのかもしれない。

 それでも何故かあの一言だけは大切で、あの日の母はきっとまともであったと願ってしまう。それだけでいい。いいのだと。信じ続けた。


 そのすぐ後の節分の日。お婆が座っているだけなのだからと初めて福を社に据えた。母恋しさに泣かなくなった福を、成長したと見たのかもしれない。

 五月蠅いほどに錫杖(しゃくじょう)が響き、千切れそうなほどに紙垂(しで)を振る。まだ恐怖を覚えるほどの高さを連れ立って上ってくれた、友とも呼べる子狗のおかげでなんとか気を紛らわしながら座っていると、鳥居の下にゆらりと赤い影が現れたことに気づく。


『鬼は穢れじゃ、お前は決して関わるな』


 お婆の忠告が過って、思わず子狗に抱き着いた。子狗と言っても福よりも大きいものだから、長い毛並みに顔が埋まる。

 (すだれ)の隙間から白い毛越しに恐る恐る覗いてみれば、赤い鬼は不満そうな顔で進みつつも、まっすぐ社の階段の下にたどり着いて、慣れたように樽を担いで去っていくではないか。人間嫌いとは聞いていたけれど、不思議と恐怖は感じなかった。何より、大豆の樽を満足そうに暖かく見つめるその黄玉(おうぎょく)に、好奇心が擽られた。


『あなたがその目で見たことを信じなさい』


 仕舞い込んでいた言葉が鼓膜の奥で響いた。唯一と呼べる母からの贈り物に、久方ぶりに心が躍った。

 鬼の通った道に塩を撒く村人を横目に、止める祖母の言葉も聞こえぬように狗に跨った少女が駆け抜ける。

 母を追い求めたあの日の渇望に似ている。いやそれよりももっとわくわくするものだったのかもしれない。


 自由で、煌めいていて、どこか温かい。

 山で過ごす日々の始まりだった。


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