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11.豪雨の中の来訪者

「なんだ、あの儀式は」


 翌日、これでもう自由の身だと言わんばかりに、福は意気揚々と山に入ってきていた。それを呆れた面持ちで迎えつつも、追い返すことはしない伊呂波は久方ぶりの黄粉餅に舌鼓を打ちつつ儀式の感想を述べ始めたのだ。


「無駄が多い、意味が分からん、川を汚すな」

「御尤も」


 おおーと関心さえしているような瞳で見つめ返す福と(こま)に、黙れと一瞥する。


「単に安心したいだけの儀式だから、まだ発展途上?ってやつなんだと思うよ」

「ふん、散々穢れだ何だと罵っておきながら、鬼が混ざってることも気づかんとは…」

「あれは面白かったねー!台無し!」


 爆笑!などと揶揄して笑う福という少女は、確か先日不本意ながらも「真面目に儀式に取り組む」と決意していたのではなかっただろうか。最終的に鬼は紛れているは、清めたはずの社で巫女はもぐもぐ木の実食べているはで、気づかれてはないだろうが儀式としては台無しも良いところだった。

 しかし福にとって鬼は穢れた存在ではない上、儀式後の社の中は清められている必要もないであろうし、巫女である自身もお勤めを終えて人間に戻っているということなのだから、何も問題はないと思っている。


「このひと月で随分暖かくなったね。この辺も緑が多くなってきてる」


 最後の餅を岩の上に置いて福があたりを見回すと、最後に来た時よりも随分雑草が増えて、寂しかった木々の枝に新芽が伸び、所々はもう葉の形を成してきていた。


「春はそこかしこで生命が湧き出る季節だ。ひと月も目を離しゃ、様変わりもいいとこだろうな」


 山の中に住み、山の中で生きる伊呂波にとって、日々の変化はなかなか気付き難いものだが、季節の移ろいの中で冬から春への変貌はひと際大きいように思う。彩を落とした冬から、一気に咲き乱れる春。気温も上がり溶けた雪解け水はそれこそ清く、咲かせる花はあまりに美しい。流れゆく先々の生き物の恵みともなろう。


「…だから川を汚すな」

「私に言わないでよ」


 長年繰り返されているらしい村の儀式に、小さな姫巫女が異議を唱えられるはずもない。真面目に努めていればその内に、変えられるものもあるだろうか。お婆の様に口うるさくはなりたくないが。


「あ!最後のお餅はお供えしてるんだから食べちゃ駄目!」

「うるせえ、そいつには毎年腹いっぱいの豆やってんだから、餅はいらねぇんだよ」


 こっそり懐紙から餅を盗んで頬張る伊呂波に呆れてため息が出る。日常が戻ってきたという実感が福の胸を駆け巡って、それは次第に芽吹く春のような笑みに変わるのだった。






 そうして木々が緑に染まり、土から立ち上がるように咲いた花々は風に揺れ。せっかく満開になった桜を、三日続いた雨が流してしまいそうなある夜の事だった。帳も降りて雨で殊更夜目も効かないそんな時刻に、濡れそぼった岩の前に立ち尽くす福を見つけたのは。


 この数年、夜間は山に入るなという伊呂波の言葉を、福が反故にした事は一度もなかった。いくら狛が他の狗より大きく速いという事実があろうとも、山に住み慣れた獣たちが群れになれば敵わない。昼であれば山全体を縄張りとしている自分がどうとでも動けるだろうが、夜は鬼と言えども眠りにつくのだ。山の異変に敏くとも、一手遅れることは往々にして考えられた。


 だからこその忠言であったし、福もまたよく理解しているように思えた。それが今、酷い雨の中を全身ずぶ濡れにして、じっと岩を見つめて立ち竦んでいる。傍でおろおろと心配そうに彼女を見上げる狛が、伊呂波を見つけて申し訳なさそうに上目遣いで見つめてくる。

 耳が痛いほどの雨音が響いているのに、妙な静けさすら感じてしまう。


「何をしてる」


 約束などという立派なものをしていたつもりもない。ただの忠告を無視しただけの事ではあれど、その身に危険が及びかねないことをしたのだから怒るべきなのだろうか。それとも、暖かくなってきたとはいえ女が体を冷やすなと心配すべきなのだろうか。けれどどれだけ思案しても、目の前の放心した福には届かない気がした。

 青白い顔を伝った雨が、ぼたぼたと顎先から滴り落ちている。


「とにかく中に入れ…火を焚いてやる」


 そう諭しても、福は動かない。じっと見つめた岩を、このままでは視線だけで砕いてしまいそうなほどだ。無理やりにでも洞窟に放り込むべきだろうかと考え始めたとき、不意に小さな唇が動いた。


「この岩は…青い鬼の人が眠っているの?」


 ──六年だ。彼女がこの山に入るようになって、六年になる。その間一度も、この岩の意味や正体について触れてきたことはない。それは彼女なりの配慮だったと思う。鬼であり、山すべてに神経を巡らせる己が、一等大事にするもの。それがどこにでもありそうなたった一つの岩なのだから、気にしないはずもないのに一度も。尋ねられたことはなかった。


「それがどうした」


 その配慮が、どこか嬉しくもあったと思う。例えばいつか聞かれていたとして、なんと答えていたのだろうか。改めて今聞かれても返答に困るほどに、それとは関係が曖昧で、酷く大切な物だった。

 どうして今になって、それもいつもとはあまりに異質なこの状況で、問うてくるのだろうか。


 福がゆっくりとこちらに顔を向ける。その目にいつも輝いている柘榴石(ざくろいし)は、今日も驚くほどに赤い。月もない夜の闇の中で反射するものもないまま、ぞっとするほど濁っていた。長い時間泣いたのであろう瞼が腫れ上がっている。



「…今日、お母さまが……死んだの」



 ──生きていたのか。


 残酷に聞こえる一言が、正直な感想であろう。そのくらい、当たり前のように、()うにこの世を後にしているものだと思っていた。

 彼女が語る「お母さま」はいつだって過去形で、昨日今日の思い出は語られることはなかった。いつに命を終えたなどは聞いたことはなかったが、自然ともう存在はしないのだろうと思わせるほどに母の話は数える程度だけだった。


「ずっと、会いに行かなかった…」


 怖かったから。そう続けた福は、くしゃりと顔を歪ませて俯いた。心配そうに寄ってきた狛が、そっと頭を福に擦り付ける。狛の頭を一撫でしてから、視線を岩に戻した。


「青い鬼の人が亡くなった日、お母さまは気が触れちゃったんだって。…おかしくなって、ずっと座敷牢に閉じ込められてた」


 その時、伊呂波の脳裏にあの日の光景が蘇る。

 青い鬼の死を笑う老婆と、泣き崩れる女。怒りで老婆だけしか見えていなかったけれど、あの日確かに、青いのを悼んだ女がいた。先日やっとその女が、福の母親であると認識できたのだが。


「時々正気に戻るけど、大体いつもぼんやり空を見上げて、青い鬼の人の話をしてた。…幼い私は嫉妬したりして…お母さまを取られたみたいで」


 福の声が掠れて所々聞こえなくなるが、伊呂波は言葉を挟まなかった。彼女は今、伊呂波に会いに来たのではない。青いのに会いに来たのだと、そう思った。


「ここに来るようになってからは、会いに行かなくなっちゃった。…もう私の方を見ることもなくなって、…怖くて…」


 震えて俯く福が、ぎゅっと瞳を閉じた。そこからこぼれ続けるのが雨なのか涙なのか、伊呂波にはわからなかったし、どうでも良かった。ただ聞くべきだと思った。彼女の独白は、聞いておかなければならない気がした。



「伊呂波」


 呼ばれて、岩に向けていた視線を戻す。福はまだ岩を見つめたままだったけれど、かまわず見つめたまま次の言葉を待った。

 崖下の向こう側で、滝が轟轟と唸っている。ばちばちと五月蠅いほどの雨音は、しばらく弱まりそうにはない。



「お母さまは言ってたんだ」



 それでも聞き逃すまいと耳を(そばだ)てる。顎先から落ちる雫がこそばゆく思った。



「私は、青い髪の鬼の子だって」



 雨雲がゴロゴロと呻いて、遠くの空を光らせた。


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