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10.福の初仕事

 古月山の滝の上には長い長い川が続いていて、上流へと辿れば数本の細い川に枝分かれをしている。

 昨夜から滝の流れに違和感を感じて見に来てみれば、大木が倒れて1本の小川を見事に堰き止めてしまっていた。もともと夏の台風で傷が入っていたので長くはなかっただろうが、今年は例年に比べて長く気温が低い日が続き、ここ数日は降雪量も多かったために雪の重さに耐えきれずに折れてしまったのだろう。むしろ今日までよくもったものか。


「…見事な木だったんだがな」


 伊呂波は慰めるように木肌を撫でてから、一気に倒木を持ち上げる。葉音と水音を混ぜながら立ち上がった木は、十尺近い長さの幹を揺らしながらぽたぽたと水滴を垂らした。


「さて、どうするか」


 このままここに放置してもいいのだが、(かび)や害虫が発生して生態系が乱れでもしたら困る。大抵いつもは日当たりのいい場所を選んで適当に乾かしてから薪にするところなのだが、ここ数日は福も訪れて来ないために薪の在庫も減ることなく充足しているので必要はなさそうだ。

 とりあえず日当たりのいい場所で乾かすことにして、伊呂波は(ねぐら)にしている場所に戻ることにした。


 あれから二十日ほど経っただろうか、福も(こま)も顔を出さなくなった。村の行事によって忙しくなるからと言っていたが、この数年ほぼ毎日顔を出していた者が忽然といなくなるというのは妙な気分になるものだなと思う。


『寂しくない?』


 あの日、揶揄(からか)うように笑いながら見上げて来た福の顔を思い出す。冗談ではない。ただでさえ忙しい毎日の中で、適当に相手してやっていた煩わしい人間と(いぬ)が来なくなっただけで、どうして寂しさなど感じようか。一人、山の中で黙々とやるべきことをやる日々の方がよっぽど自由で、楽なものだ。


「………」


 何故か青いのが村人を眺めに山を下りていく後姿を思い出す。至極楽しそうで、『お前にはまだ早い』などと笑いながら、山の雑事を押し付けて行ったものだ。

 ジロリと岩に視線を投げれば、変わらぬ姿のまま少々苔を生やしたそれがこちらを見上げてきている。


「お前と一緒にするな」


 ふん、と鼻を鳴らして、いつかの日に福が持ち込んだ斧を肩に担いで、やはり先ほどの倒木は薪にしておこうと歩き出すのだった。






 その日は抜けるような空の下、春の訪れを知らせるように時折強い風が吹く日だった。

 村の中の住居の入り口すべてに木で作られた細工が下げられ、吹いた風にカラカラと音を立てて揺れている。

 社までの道のりは石ころ一つないように掃われ清められていて、その脇を白装束の男たちがずらりと社に向いて並んでいた。

 社の階段の下では老婆を始めとした女たちが同じようにして並んでいて、その真ん中を幾重にも重ねられた白装束を羽織った小さな女性が立っている。濃い化粧を施された福である。

 長く重い裾をゆっくりと持ち上げて一段、また一段と登っていく後ろを、首元に紅白の綱飾りを結った他より圧倒的に大きな狗が同じ速度でついて来た。

 鬼が訪れる日のような錫杖(しゃくじょう)の音はなく、唯一動く福の髪飾りについた鈴の音が揺れる度に大きく透き通って響くのだった。

 時間をかけてたどり着いた社をくぐり、裾を巻き込まぬようゆっくりと振り返って中央に坐せば、村人が一斉に頭を垂れる。

 突如、ひと際強い風が鳥居をくぐり社へと走り抜けて、福の切りそろえられた前髪を掻き上げて消えて行く。思わず伏せた瞼を上げれば、ちょうど差し込んでいた朝日を柘榴石(ざくろいし)が反射した。


「出でませ、出でませ、(いただき)の方」


 村中に響くように老婆がゆっくりと低い声を上げ、その後を村人が同じ言葉を繰り返す。


「其に寄られませ、(あか)の乙女なれば 其の力捧げたり

 祓え給い、清め給え (かむ)ながら守り給い、(さきわ)え給え」


 唱え終えても頭を上げることなく動かない村人たちを、柘榴石が高い場所から一瞥した。


「我がわらはどもがためならば」


 たった一言が響き渡り、しんと静まり返った村の中に風と鈴の音だけが木霊する。一通り風が吹き抜けた頃合いに、男衆の後ろから一列ずつ静かに広がって下がっていくと、最後にはお婆だけが残り、杖を探り探りしつつその場を辞した。

 人がいなくなったのを見届けて、福は座った時と同じようにゆっくりとした動作で立ち上がる。転ばぬように裾を大きく動かしながら、慎重に階段に足をかけて、一段一段を踏みしめながら下り始めた。

 再三に「まっすぐ前を見ろ」とお婆に言われているものだから、足元を確認もできない。

 時間をかけてなんとか地面に下り立って、鳥居までのまっすぐな道のりをそのまま進めば、通り過ぎた後から控えていたお婆や女たち、そして男たちが二列になって付いて来る。

 お婆の後ろの女二人は、先に大きな鈴と桃の花の飾りがついた長い棒をまっすぐに掲げていて、何とも仰々しいものだ。

 鳥居をくぐりさらに歩けば、山から流れてくる川が横切っている。この川をたどったところに伊呂波がいるだろうか、神聖な行事の合間にもそんな思考がよぎって笑いそうになるが、お婆曰く今は神を宿している状態だというのだから、人間らしい動きはご法度だ。ぐっとこらえて、河辺ぎりぎりで立ち止まった。

 後ろに行列をこさえていた村人たちは福の後ろで横並びになり、内二人が籠を抱えて前に出た。

 籠の中には薄い人型の紙が入っていて、一枚一枚に筆で村の人々の名前が書かれている。それらは村人たちの穢れを移したもので、そのまま川に流して穢れを祓うのだという。

 二人はしゃがんで数枚ずつを丁寧に川に流していき、それほど大所帯ではないものであっという間に流し終わると再び村人たちの列に吸い込まれる様に消えて行った。


「波のまにまに清められよう」


 福が天を仰いでそう唱えれば、村人たちは安心したように頭を垂れる。

 あとは振り返ってもう一度社を上り、坐したその時には神は人に言葉もなく天に帰るのだという。…またあの階段を上るのか、とげんなりもするが、その後は数刻、社でじっと座っているだけで良いのだから、もうひと踏ん張りである。

 振り返った福はお婆に気取られぬようゆっくり深呼吸をして、社への道を戻り始めた。


 幾重にも重ねられた装束は、驚くほどに重い。お婆曰く子供一人分はあるというのだから驚かされた。そんなものを数え十二の自分に着せようというのがもう気が遠くなりかけたが、とっくに引退していてもおかしくないお婆が前回まで現役でやっていたのだから文句も言えまい。


(本来ならお母さまがやっていたはずだ)


 母としてその代わりをこなしたお婆は、巫女の位に執着していることさえ除けば、責任感の強い人間だということだろう。

 今まさに初めての儀式をやり遂げようとしている孫の姿を、お婆はどんな気持ちで見ているのだろうか。少しは誇らしく思ってくれるだろうか。それともやっと肩の荷が下りたと息をついているだろうか。


(お腹空いた…)


 清めた体は絶食が基本なので、当然朝から水以外は何も口にしていない。事前の説明では、このまま社で数刻座り続けている間、村人たちが儀式の成功を祝う宴を繰り広げるのを見下ろしながら、清められた高い場所で神の宿っていた体を人間に戻す時間を置くというのだ。


(…最初から最後まで全力で人間なんだけど)


 などとは思っても口に出せる雰囲気ではなかった。

 わざわざ空腹の人間の前で飲食するというのも、随分と意地悪だと思う。誰が考えた儀式なのだろうか、と呆れさえしたものだ。おおかた、巫女は普通の人間とは違うのだと見せつけたい、お婆あたりだろうと予想はつくが。


 なんとか階段を登り切った福は、中央に敷かれている気持ち程度の薄い座布団に目を向ける。そこに、本来は絶対にあってはならない乾燥した木の実の入った食器が、下からは絶対に見えないような場所に置かれていた。

 最初こそ、村人の誰かの憐みだろうか、と思った。けれどその食器が、この村から自分がこっそり持ち出して、とある塒に置いてきた物であると気づいたとき、装束の重みも寝不足も、かつてない空腹感も吹き飛んだ気がした。

 キュウ、と狗が甘えたように鳴く。終始大人しく後ろを付いてきていた狛を見れば、彼は社の中から天井を見つめて尻尾を振っていた。


「…伊呂波?」


 答えはない。ないが、確かにそこに気配を感じてしまう。


 村人に気づかれないよう、中央に坐す。そうすればカラン、カランと長い棒の先に括りつけられていた大きな鈴が儀式の終わりを告げた。安堵の息を吐く村人たち。それもそのはず、穢れは流され、また気持ちのいい日々が送れるのだから。さあ、宴だと散り散りになる村人たちを見つめながら、そっと狛を盗み見ると、彼はまだ嬉しそうに尻尾を振りながら天井を眺めていた。

 なるべく身動きをしないよう橙色の木の実に手を伸ばし、咽るふりをしながら口に放り込む。甘酸っぱい香りが鼻を抜けて、ねっとりとした果肉が空腹に震える指先に染みた気がした。


「ありがとう、…伊呂波」


「…おー」


 ひと月程度会わなかっただけなのに懐かしく感じてほっとする。何ともつまらなそうな声は、社を下りるその時まで村人の死角になる屋根の上で寝ころんでいた。


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