1.古月山の鬼
──鬼はそと、福はうち
──鬼はそと、福はうち
それは鬼を遠ざけるための呪いなのか
それとも福を寄せたいための祝詞なのか
鬼が邪気か
福は幸いか
人は個性を重んじるくせに
一様に同じ言葉を繰り返す
幾年経とうとも──
見渡す限り野が広がり、川が澄み濃い空が覆う。汚れを知らない大気とともに 数えきれない野生の動物と、わずかばかりの人間が住んでいる土地に、雄大な山が聳え立っている。
その山の名は古月山。人ならざる者…鬼が住んでいる山であった。
山の麓から東に少し離れた川沿いには、小さな村がぽつんとたたずんでいる。いつもはのどかで静かな村の入り口にある鳥居から、左右を道なりに御幣を掲げた白装束の人間がぞろりと並び、その後ろでジャラン、ジャランと五月蠅いほどに錫杖を響かせる。すべての目に恐怖が滲んでいるのは、他でもない今しがた鳥居の下に現れた、燃えるような赤い髪の青年の為に他ならない。
風に揺られれば、まさに燃え盛る炎の様に見える短髪はツンツンと空を向いているが、襟足からだけは長くさらりと伸びており、適当に1本に括られている。
彼の金色の瞳がぎろりと忌々しそうに本殿を睨んだ。額から二本、肩と肘からそれぞれ大きな角が突出している。両目の下に皮膚が裂けたような赤い模様が走っており、鋭い牙が舌打ちの際にちらりと顔を出した。それはまさに人ならざる者。この場にいるものは全員、彼を「古月山の鬼」と呼んだ。
古月山の鬼は、暇なく鳴り響く錫杖に、大きく尖った耳を抑えたくなった。ただただうるさいだけのそれを、人間は鬼に障ると喜ぶのだからどうかしている。
ゆっくりと村の中へと進んでいけばその先に、小さな社に続く長い階段が見えるのだが、いつも薄い簾が垂れていて中に何があるのかはわからない。しかし今日は風が強く、簾が悪戯をするようにふわりと浮いた。その向こうの大きな柘榴石の双眸と視線が合った気がしたが、簾はすぐに閉じてしまってわからなくなった。
否、わからなくていい、興味などない。必要なものはその階段の手前に、大きな樽に詰められて祀られている。榊や酒が気持ちばかり添えられて、清めたとでも言いたげに紙垂が風に揺れていた。
樽の中には、ほとんど満杯に黄白色の豆が詰まっている。一つ掴み上げてみれば、それは十分に水気が抜けた美しい大豆であった。フン、と鼻を鳴らして、古月山の鬼は軽々とその樽を肩に担ぎ、来た道を戻って鳥居をくぐり、振り返ることもなく村を後にする。
少しずつ錫杖の音は小さくなって、いつしか聞こえなくなった。
静寂を取り戻した緑は、なんと耳にやさしいことだろう。
人間は好きになれない。アレらは木を削り、水を汚す。そこにありたいと咲いた花を千切り、集めて己の良しとする場を飾る気持ちが、鬼には全くわからない。なんとも勝手な生き物だ、できれば関りを持ちたくはない。だがその人間の村にわざわざ訪れて、年に1度豆を寄こせと叫んだのは幼き頃の自分であり、そしてまたそれを何かの一つ覚えのように繰り返しているのは今日の己である。
思考を捨てるように頭を振り、大きな樽を担いだ鬼は手慣れたように山を登り始める。小さな小川を飛び越えて、花をつけ始めたフブキバナをかき分けて、しばらく上った先の山あいを一望できる、木々の切れ間にある膝ほどの高さの岩の前にドン、と樽を置いた。
「ほら、今年も取ってきてやったぞ。」
呆れたように岩を見下ろして、腰にぶら下げていた酒瓶の栓を引き抜く。そのまま中身を岩にかけてから、自分用にと残したそれを今度は自分の口に豪快に傾けた。
「豆が好きなどと…戯けた奴だ」
どかりと岩に腰を下ろして、大豆を無遠慮に一掴みしてみる。口に放り込んで咀嚼すれば、香ばしい香りが鼻をかすめて、すぐに口の中の酒が乾いた豆に吸われてしまった。不満そうに眉間に深い皺を作って、酒で流しこむ。
「………物好きな」
岩の下に眠る者に呆れた感情を伝えるかのように、音を立てて酒瓶を置いた。
ガサリ、と草が鳴る。風が吹いて鳴る葉音は耳に慣れているが、これは聞きなれない誰かの足音だ。
長い間、人間がここまで深く入ってくることはなかったと思うが、と振り向けば子牛程度の大きさの白い狗に、5歳ほどであろう人間の子供が跨っていた。
生き物の子特有の大きな瞳と小さな口が、不思議と敵意を喪失させるから煩わしい。
「なんだ、お前は」
不愉快だった。ここは鬼が住む古月山だ。人間は恐れ、麓と山を抜ける山道以外には足を踏み入れることのない場所。ここまで無遠慮に深く立ち入ってきた人間は初めてではないだろうか。
其の人の子は些かも恐れを滲ませる事のない双眸を、まっすぐと鬼へ向けている。鬼は、その柘榴石に既視感を覚えて瞼を持ち上げた。
「お前は…村の」
つい先刻、鳥居をくぐった先の階段の上、社の中から覗いた大きな双眸を思わせる。よく見れば纏っている衣は、村の者の白装束に似ていて。否、あれらより小さくはあれど仰々しく、手間がかけられているように思えた。
─ 姫巫女
たしか村の老婆が数年前に、妙齢の女を恭しくそう呼んでいた気がする。序列などくだらなく理解し難いものだが、なぜか偉いものほど手の込んだものを着込んでいるのだ。人間にそんな慣習があることを、否でも理解している己に短いため息が出た。
「何の用だ」
風が吹き抜けて、少女の髪を結っている紐の先の鈴がチリと鳴いた。村で聞いた錫杖の音よりも静かで澄んでいるそれに、不思議と耳なじみの良さを感じてしまう。
少女はゆっくりと右手を持ち上げて、ふくふくとした短い人差し指を樽へと向けた。
返してほしいとでも言うのだろうか。大豆を一樽村から巻き上げる慣習はここ数年毎年繰り返されているが、その一度足りとて取り返しに来た者はおらず、そうだとしたならと関心さえしかけたが、次の瞬間彼女は思いもかけない言葉を発したのだった。
「いっしょに、たべゆが…おいちい」
思わず面食らってしまい絶句する。大豆の味についてどうこうではなく、一緒に食べるという行為自体に魅力を見出せない。そもそもにおいて、鬼は食事をとる必要がない。敢えて食べるとすれば、嗜好品のそれに近かった。
「必要ない」
大豆を食すことも、共にという案も。
「これは俺が食うためのものではない」
暗に「さっさと去れ」と含めているつもりなのだが、目の前の少女は不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、だれが たべゆの?」
「さあな」
答える必要などない。…いや、答えられないが正しいかもしれない。
それはもうこの世に存在せず、そしてそれの名も知らない。髪の色が一等目立つので、「青いの」と呼んでいただろうか。
「…きなこになゆ!さとうにまぜゆの、おいちいよ」
少女は思案に揺れた鬼の瞳にも気づかず、少々前のめりに鼻息を吐いた。
「…は?」
「きなこ!おいわいのひの おもちにかけたの、おいちかったの」
「……あぁ?」
此の人の子は何を言っているのだ。きなこ、とやらは大豆からできると言いたいのか?いやそれ以前に、これをどう食べるなどという議論がしたいわけではないのだが、どうも人の子というものは言葉は通じれど、小さなうちはまだ相手の機微に敏くはなれないらしい。
「おもち、しらない?」
「いや、知らんが…そうではなく」
「じゃあ、こんどもってくゆね!おいち、おいちのよ!」
少女は何が面白いのか、何かを食べるような真似をしながらきゃっきゃと声を上げて笑って、こちらの返答などお構いなしに「またね!」と山を下りて行った。
嵐が過ぎ去ったかのように、突如いつもの静寂が戻ってくる。
「なんだ、あいつは」
呆気にとられて思わず最後まで見送ってしまった。今まであんな人間を見たことがない。こちらが何をしたわけでもなく、自分の姿を認識した途端に恐怖で顔がゆがみ、ガタガタ震えながら助けを求める。人間とはそういう生き物だと、疑う余地もなかったのに。
「…童だからか?」
考えても仕方がないと頭を振って、大豆の樽の蓋を閉めた。
強く恐ろしい異形の鬼は知らなかった。平穏とも呼べる彼の日常はすでにその日で終えたことを。
決して相容れない人間と鬼の邂逅は、まるで亀裂の走った薄氷の様に、ついては離れ繰り返し。
春の雪解けのように、運命を溶かしていく。