《短編》私はあなたの癒し道具ではありません
少々長めの短編ですが、最後までお付き合い頂ければと思います。
「はぁ、疲れた。リリー俺を労ってくれ」
私の婚約者であり騎士見習いであるカージャスが、不機嫌な顔を前面に出しながら玄関扉を開け帰ってきた。
泥のついた服のままソファにどかんと座ると、盛大なため息を吐く。
私は彼のためにお茶を淹れテーブルに置くと、急いで夕食の仕上げに取り掛かった。
カージャス・ハリストウッドと私リリーアン・タイリスは男爵家の出身。貴族といえば貴族だけれど、どちらも領地なしの家柄なので生活はそれほど豊かではない。
私の両親は王都から馬車で数日のところにある伯爵領で、執事と侍女長として働いていて、カージャスのお父様は同じ伯爵家の護衛騎士隊長だ。
そんなわけで、同じ年の私達は幼い時から一緒に遊ぶことが多く、王都にある貴族学園に入学すると当然のように婚約をした。
もちろん私の意思も聞かれたけれど、引っ込み思案の私がカージャス以外の男性と親しくするなんて考えられなくて、二つ返事で「はい」と答えた。
学生時代はお互い寮暮らし。卒業すると私はお城の侍女見習い、カージャスは騎士見習いとなった。
見習い期間は二人とも一年。一年経ったら結婚しようと約束し、今は王都に部屋を借りて二人で暮らしている。もちろん、寝室は別。
一緒に暮らすにあたり、お父様がそれだけは守るようにとカージャスに約束させていた。
私はできあがった料理をテーブルに並べ、カージャスは当たり前のようにそれを食べる。
二人で暮らすと決めたときは、家事を分担するという約束だったのに、それが守られたのは一ヶ月もなかった。
肉体的にきつい騎士訓練をこなすカージャスは日々ぐったりとした身体で帰ってきて、ソファに座って動かない。私だってずっと立ちっぱなしで働いて疲れていたのだけれど、仕方ないのでカージャスが担当する家事もこなすうちにそれが当たり前になってしまった。
食べ終わった食器を流し台へと運び、水瓶の水を柄杓で掬い洗い桶に溜める。
この水だって、裏の井戸から私が汲んできたものだ。一緒に暮らすときは、力仕事は俺が全部すると言っていたのに。
「カージャス、食べ終えたお皿を持ってきて」
「はぁ? 俺は訓練で疲れているんだぞ! 労えといつも言っているだろう! 気分が悪い! もう寝る」
さっきまで不機嫌駄々洩れだったその表情をさらに険しくし、机をバンッと叩くと席を立って自室へ行ってしまう。
そのついでにとばかりに近くにあった本棚を蹴るものだから、本がバラバラと数冊落ちた。もちろん、カージャスは拾うことなく、私への当てつけのように扉を激しく閉めた。
「はぁ。また、怒らせちゃった」
私はそれらを拾いながら、いつものように深いため息を吐く。
「俺は疲れているんだ」「騎士訓練は厳しい」「お前は所詮侍女見習いだろう」そう言って「俺を労え」と言うようになったのはいつからだろう。
大変なのは理解できるから家のことは全部引き受けているのに、それだけではカージャスは不満のようで。いつごろか疲れも不機嫌も隠すことなく、それを私にぶつけるようになった。
この国では珍しい黒髪をぐしゃぐしゃと搔きながら立ち去る後姿を思い出し、暗い気持ちが私の中に溜まっていく。
綺麗なグリーンアイの瞳に整った顔のカージャスは、一見、人当たり良く見えるけれど実は気難しい。
気に入らないことがあれば口を利かない、私を無視する。それに耐えられなくなった私が謝り機嫌を直してもらう……そんなことを繰り返しているうちに、私はいつしかカージャスの顔色を窺いながら過ごすのが当たり前になっていた。
「労え、と言うのは彼が不機嫌にならないようご機嫌伺いをして、かしずくことなの?」
洗い桶に私の愚痴がポタリと落ちた。
それをかき消すかのように食器を洗い始めたのだけれど、胸の中に沸いた疑問はどんどん大きくなるばかり。
いつもは、私の気の利かなさがカージャスを不機嫌にさせているんだと反省し、できるだけカージャスを「労い」ながら過ごしてきたのだけれど。
「本当にこれでいいのかな……?」
胸に落とされた波紋は、その日以降私の中で大きくなり続けた。
そして、あと二ヶ月で見習い期間が終わるという夏。
夕食の食器を片付け終わった私は、おずおずとその名前を呼んだ。
「……あの。カージャス」
「なんだ」
遠慮がちに声をかける私に返ってきたのは、相変わらず不機嫌な声。俯き目は眠たそうに半分閉じている。
でも、ここで怯んではいけないと、私はぎゅっと手を握りしめた。
「私、侍女見習いをしているでしょう。それで本採用に向けて配属先を決めるテストがあるのだけれど、教育係の侍女がね……私に宰相様付きの侍女試験を受けてみないかって言ってくれたの」
侍女試験は配属先によってその難易度が違う。
王族や上官専属の侍女になるための試験はその中で最も難関とされているだけでなく、そもそも教育係の推薦状がなければ受験することさえできない。
つまり、私は認められたのだ。
「凄いじゃないか! それで、どうするんだ?」
頭を上げたカージャスの顔が明るいことに、私はほっと肩の力を抜いた。
久しぶりに見た笑顔に私の口調も勢いが増す。
「そうなの! だから頑張ってみようと思うのだけれど……。そうなると勉強する時間が増えるから家事が今まで通りできないかも知れないの」
「……でも、一ヶ月ぐらいの話だろう?」
「ええ」
「それなら問題ない。一ヶ月ぐらい部屋を掃除しなくても死にはしないし、食事は出来あいの物を買えばいいだろう。少し高くつくけれど、一ヶ月なんだから気にすることはない」
そう言って、カージャスは「俺は理解がある男だから気にするな」と笑った。
二ヶ月後に本採用となるのは騎士見習いも同じ。
ただ、騎士に試験はなく日頃の訓練の様子や技能を鑑みて配属先が決まるらしい。
実践や剣の腕が何よりも大事な騎士らしい制度だ、と以前カージャスが胸を張りながら言っていた。
カージャスから許可をもらった私は、それからの一ヶ月、勉強に打ち込んだ。
寝る間も惜しんでひたすら机に向かい続けた結果、部屋の中は荒れ放題、埃が床に溜まってしまったけれど、約束どおりカージャスは何も言わなかった。
料理だって、出来あい物が多くなったけれど、文句をいいながらも残さず食べた。
相変わらず疲れて帰ってきたらソファに直行しているようで、日増しに増えるソファの泥染みは気になったけれど、今はそれどころではないと頭を振り私は試験勉強に励んだ。
そうして試験を終え日。私はくたくたに、でも充足感に満ちながら帰宅した。
「ただいま」
「お帰り、試験はどうだった?」
「自分で言うのもなんだけれど、できたわ。多分受かると思う」
家に帰ってほっとしたせいか、急に襲ってきた睡魔に欠伸を漏らしながら答えると、カージャスは「それは凄い、頑張っていたものな!」と喜んでくれた。
その顔に胸があったかくなる。
私の努力を傍で見ていてくれたカージャスは、私をやっぱり大事に思って……。
「じゃ、部屋を片付けてくれ。それから食事にしよう。久しぶりにリリーの手料理が食べたい」
「えっ!?」
素っ頓狂な声を出した私にカージャスは気づくことなく、「あれが食べたい」「あれが美味しい」と私の得意料理を口にしだした。
どれも特別な日に用意するもので、とても手間がかかる料理だ。
「……私のことは労ってくれないの?」
つい、そんな言葉を口をついて出た。と、途端にカージャスの表情が変わる。
笑顔がスッと消え眦が上がると、バンと机を叩き立ち上がった。
「お前、何調子に乗ってるんだ。この一か月、お前の好きなようにさせてやっていただろう。俺がどれだけ我慢して暮らしてきたと思っているんだ。さっき、すごく頑張ったと褒めてやったのにそんなこと言うなんて信じられない。お前はいつもそうだ、自分が、自分がと自分ばっかりが大変だとでも思っているのか? 俺は部屋が汚れても出来あいの食事が並んでも文句は言わなかったのに!! もういい、気分が悪い。外で食べてくる!」
そう言って、カージャスは机を蹴とばし家を出ていった。
バン! とドアが閉まる大きな音だけが、いつまでも私の耳に残った。
**
それから一ヶ月後。
侍女見習いが集められた部屋で、私は教育係から合格通知をもらった。
「おめでとう、リリーアン。あなたならできると思っていたわ」
「そんな、私なんて。いろいろ親切に教えてくださったおかげです。ありがとうございます」
頭を下げる私に、教育係は嬉しそうに頷き「これからも不安なことがあったら相談してね」と声をかけてくれた。
そのまま部屋の隅にいけば、先に合格通知をもらった学園時代からの友人パレスが赤茶色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。
「リリーアン、おめでとう!」
「パレスもおめでとう。王太子殿下のご子息テオフィリン様の侍女になるなんて凄いわ」
「まさか合格するなんて自分でもびっくりしているの。テオフィリン様付になれば王太子妃殿下にお会いすることもあるし!」
王太子妃殿下はハレストヤ王国の宝石と言われるほどの美人で、しかも才女なうえにお優しい。この国の令嬢の憧れの的だ。
ちなみに私がお仕えする宰相様は王太子妃殿下の父親で、渋さが滲むイケオジとご婦人方から人気。
血筋って凄いな。
「でもあまり王太子妃殿下に入れ込むと、婚約者が妬くわよ」
「そうなの。相手は女性なのに、彼、私のことが大好きだから誰にでも嫉妬するの。ふふ、困ったものだわ」
と言いつつ幸せな顔。はいはい、ご馳走様と私が笑っていると部屋の扉が開いて、文官見習いの服に身を包んだ男性が入ってきた。
「リリーアン、宰相様付きの侍女になったんだって。おめでとう」
「ルージェック! ありがとう」
入ってきたのはこちらも学園時代からの友人であるルージェック。
サラサラのライトブラウンの髪に、切れ長の濃紺の瞳。すっとした鼻筋に白磁のような肌、さらには文官なのに長身で引き締まった体躯をしている彼は、その見た目からとにかく目立つ。
今もルージェックが部屋に入ってきた途端に、あちこちで黄色い歓声が上がる。
「貴方はどうだったの?」
「宰相様付きの文官に受かったよ。これからは今まで以上によろしく頼む」
「凄いわ! 文官では最難関と言われているエリートになったのね」
「そうなのかもしれないけれど、俺はリリーアンと一緒に働けることのほうが嬉しいよ」
誰にでも気遣いのできるルージェックらしい言葉。友人と一緒の職場は私も心強い。
「私も友達が近くにいるのは嬉しいわ。テオフィリン様は宰相様のお孫様だからパレスとも顔を会わせることがありそうね」
「うーん。俺はいい加減この腐れ縁をなんとかしたいんだけれどね。オリバーさんの当たりも強いし」
ルージェックがほとほと迷惑だと眉を下げる。
パレスとルージェックは幼馴染で、パレスの婚約者のオリバー様は学年がひとつ上。茶色い短髪に榛色の瞳をした精悍な顔立ちの騎士だ。
私達が通う普通科の校舎とは離れた場所にある騎士科に通っていたのに、頻繁にパレスに会いに来ていた。そしてその度に、ルージェックを牽制するのだ。
パレスの幼馴染で親しくしているのがどうにも気に入らないらしいけれど、ようはパレスを溺愛してのこと。
そう思えば、微笑ましくもある、かも。
何度もパレスに「ただの幼馴染でそれ以上の感情はないとオリバー様に伝えれば」と助言したのだけれど、「話が複雑化していてそうもいかないの」とため息を吐くばかり。
何がどう複雑化しているのか、まったくの謎だ。
ちなみにパレスが子爵家、ルージェックはビーンハルト伯爵家の次男、オリバー様はベース伯爵家の長男で、今は全員がお城で働いている。
「ルージェックってオリバー様に嫌われているわよね」
「本当、いい加減にして欲しい。俺、パレスに女性としての魅力をこれっぽっちも感じないんだけれど」
「それ、オリバー様が聞いたら、俺のパレスに失礼なこと言うなって怒りそう。ねぇパレス、そう思わない?」
「ふふ、そうね。彼ならありえるわ」
「いやいや、笑いごとじゃないから。だったら俺はどうしたらいいんだ!」
頭を抱えるルージェックに、私とパレスは顔を見合わせ声を出して笑う。
ルージェックは高値の花のような容姿なのに、話せば気さくで男友達も多い。
それなのに婚約者も恋人もいないから不思議だ。
合格通知をもらった人が部屋を出て行くと、パレスもオリバー様にテオフィリン様の侍女になったことを伝えると言って、騎士練習場へと走っていった。
それを見送った私は、お腹が空いたと言うルージェックに頷き、ランチをするため食堂へ向かうことに。
お昼時を過ぎていたせいか食堂はすいていて、窓際の席に座ることができた。
私はワンプレートランチ、ルージェックは同じものにサンドイッチを追加したトレイをテーブルに置く。
祝杯は健全にオレンジジュース。グラスを目の高さに持ち上げお互いの合格を祝う。
「で、リリーアンはこれからどうするの? ……カージャスと結婚するのか?」
食事が終わった頃合いを見計らってルージェックが聞いてきた。
パレスとルージェックは私がカージャスと暮らしているのを知っているし、見習い期間が終わったら結婚するとも伝えていた。
私は困ったように眉を下げ、手にしていたスプーンを置く。
どうしたらいいかずっと考えて、でも答えがいまだに出ない。
結婚するのが自然な成り行きなのは分かっているけれど、最近の私はそれでいいのかとずっと悩んでいる。
「……何かあったのか?」
心配そうに眉根を寄せるルージェック。
その顔に「実はね」と、つい出かかった言葉をぐっと飲み込んだのは、日頃カージャスに「二人の間で起こったことを他人にべらべら話すな」と言われているから。
どう答えようかと俯き固まってしまった私の手に、ルージェックの手が重なった。
びっくりして顔を上げると、ひどく真剣な濃紺の瞳と視線がぶつかる。
「俺でよければ聞くよ。時には第三者の意見が必要なこともあると思う」
その言葉に、コトンと私の心が動いた。
今までカージャスとのことを誰かに相談したことはなかった。
私の胸に芽生えた違和感が解決せずに煮詰まる一方なのはそのせいかもしれない。
カージャスを怒らせてしまう私が悪いとずっと思っていたけれど、本当にそうなのか、客観的な意見を聞いてみたいと思った。
「あ、あのね……」
私は思い切って、今まで抱えていた違和感をルージェックに話すことにした。
自分の感情や考えも纏まらないまま、たどたどしく、行ったり来たりする不器用な話をルージェックは急かすことなく最後まで聞いてくれた。
随分と時間がかかったように思う。
話し終えた私は、ふぅと息を吐き、残っていたオレンジジュースを一気に飲み干す。
今日は仕事がなく合格発表だけだったので、時間に余裕があってよかった。
少し放心状態の私にルージェックは「待っていて」と言い、食器を全部片づけてくれると、紅茶が入ったティーカップを持って戻ってきた。
席に着くと長い指を組みそこに顎を乗せ、ぐっと眉を寄せる。
「うーん。単刀直入に言うと、結婚はもう少し待った方がいいんじゃないか?」
「ルージェックもそう思う?」
「も、ってことはリリーアンもそう考えていたのか」
うん、と私は頷く。
このまま一緒になったら、私は「労え」と言う言葉によって、ずっとカージャスの顔色を窺い、ご機嫌を取って生活していかなくてはいけない。
それにも関わらず、私が大変なときは「労って」もらえない。そのことに凄い不自然さを感じてしまう。
そんな私の考えを言えば、ルージェックは大きく頷いた。
「そう思うのは当然だと思うよ」
「そ、そうなのかな。私に至らないところがあるから、気が利かないから、カージャスを怒らせるのかも知れないし……」
「リリーアン、それは違うよ。確かに疲れている人を労るの大切かもしれないけれど、でも、カージャスが求めているのは何と言うか、こう、ずれているように思う」
「ずれている?」
「うん。労え、という言葉で自分のご機嫌取りを強いるのは明らかにおかしいよ。それでいて、リリーアンが大変なときに何も助けてくれないんだろう。掃除だって、料理だって、一ヶ月ぐらいカージャスがすればいいんだ。それにリリーアンが疲れて帰ってきたのに、料理を作れとかあり得ない。そもそも不機嫌を辺りに巻き散らかすなんて子供じみた行動だ。赤子じゃないんだから自分の感情ぐらい自身でコントロールすべきだろう」
どんどん声が大きくなるルージェックを私は慌てて宥める。ここには騎士が来ることだってあるんだ。
「ごめん。でも、リリーアンが辛そうにしているのを見ると、つい」
「ううん、ありがとう。親身になってくれて嬉しい」
私が手元の紅茶に手を伸ばせば、ルージェックも同じように口にした。
暫く無言でそうしていたあと、ルージェックはちょっと聞きにくそうに、
「でも、リリーアンはカージャスが好きなんだよな」
まるで紅茶に言葉を落とすようにそう言った。
「分からない。一緒に住む前は好きだったけれど、今は……。一緒にいても、常にカージャスの顔色を窺わなくてはいけないのは……少し疲れるわ。それなのにちょっとしたことで不機嫌になって八つ当たりしてくるから、正直居心地が悪いの。だから、最近は食事を終えると自分の部屋に閉じこもるようにしている」
それがさらにカージャスの機嫌を悪くさせるのだけど、と小さく零す私に、ルージェックはうん? と首を傾げた。
「自分の部屋? 二人は一緒に暮らしているんだろう?」
「ええ、そうよ。でも結婚までは、その……そういうのは駄目って父がカージャスに念押しして。だからリビングとは別にお互いの部屋があって、寝起きはそこでしているの」
「……そうだったんだ」
どこかほっとしたように口元を緩めたルージェック。
さらに「ま、そんなことは些末なことだ。どうであれ、俺はリリーアンなら」と言うので、今度は私が首を傾げてしまう。
「ルージェック、どうしたの?」
「いや、うん。なんでもないよ」
そう言う割に嬉しそうに見えるけれど。
ま、いいか、と話を終わらせようとした私に、ルージェックは「だったら」と言葉を続けた。
「いったん結婚は保留にして寮に入ったらどうだい? 見習い期間が終われば城の寮に入れる。俺も文官寮にいるからいつでも相談に乗るよ」
寮。その考えがなかったわけではない。
ただ、結婚する約束だったのに私の我儘で延期にするのは良くないと思っていた。
でも、やっぱりこのまま結婚するのは……正直無理。
「そうね……、うんそうする。ルージェックに相談して、このまま成り行きで結婚するのはやっぱり駄目だと思った。ありがとう、聞いてくれて」
「それを言うなら俺のほうだよ。良かった、手遅れになる前に話してくれて」
「ふふ、ルージェックは本当に友達思いね」
親身に心配してくれたことに感謝しつつ頭を下げれば、ルージェックは意外にも苦笑いで肩を竦めた。
「ま、俺にとって良かった、ってことなんだけれど」
「えっ?」
どういう意味と目をパチパチする私に、ルージェックは意味ありげな笑いを浮かべ「そろそろ帰ろう」と席を立った。
そうね。せっかくだから決心が鈍らないうちに今から寮へ入る手続きをしよう。
きっとカージャスは怒り怒鳴るだろうけれど、それでも私は意見を変えるつもりはない。
**<カージャス>
リリーが家を出ていった。
明日から見習いではなく本当の騎士になれる。そのお祝いを作ってもらおうと喜び家に帰った俺を待っていたのは、硬い表情をしたリリーだった。
「寮に入ることにした。結婚は待って欲しい」と頭を下げるリリーに腹が立ち、気づけばソファを蹴り上げていた。
それなのに。いつもはすぐに俺を怒らせたことを反省し身を小さくするリリーが、静かに俺を見据えていた。
なんだ、その態度。まるで俺が悪いようではないか。
そのあと何を言ったか分からない。どれだけ声を荒げてもリリーは考えを変えず、最後にはボストンバッグひとつを持って出ていった。
お互い見習いを終えたら結婚しようと約束していたのに、それを「一生、カージャスと暮らせるか自信が無くなった」ってなんなんだ!?
リリーと俺は物心がつく前から一緒にいた。
同い年だけれど身体の大きな俺に対し、リリーは小柄で小心者で人見知り。
ふわふわのピンクブロンドの髪を揺らし水色の瞳をおどおどさせて、いつも俺の後ろをくっついてきていた。
「あそこの家で飼っている犬が怖くて向こう側へ行けない」
「雷が怖いから手を繋いで」
「いじめっ子が私をいじめるの」
いつもべそべそと涙を流し、俺の袖を掴んで離さないリリー。だから俺はリリーを守るため騎士になることを決めた。
学園に通っている間はお互い寮暮らし。
騎士科と普通科では校舎が違うから平日は会えなかったけれど、たまには二人で街に繰り出し流行のカフェに行ったこともある。
誕生日にはプレゼントを贈ったし、俺は婚約者としての役割を完璧にこなしていた。
背が高くなっても引っ込み思案は相変わらずで、そんなリリーの口から出てくる友達の名前はいつも二人。
そのうちの一人が男ってことは気にいらなかったけれど、一度見かけたそいつは痩身のいかにも文官という風貌。それに俺は安心した。だってあいつではリリーを守ることはできないから。
卒業したら結婚するつもりだったけれど、お互い見習いの間は自重すべきだと言ったのはリリーの父親。
でも見習いだと寮へ入ることができない。危なっかしいリリーに一人暮らしは無理だと説得し、手を出さない約束で一緒に住む許可をもらった。
正直、そんな約束破っても分からないと思ったけれど、純粋無垢なリリーに嘘を吐かせるのは無理だと我慢した。
騎士見習いとしての日々は訓練で始まり訓練で終わる。そのせいで俺は日々ぼろぼろのクタクタ。
唯一の癒しはリリーの顔を見ることだった。
リリーは俺がいないと一人で生きていくことができない。
俺を頼り、いつでも俺の機嫌を窺い尽くしてくれるリリーとの生活は快適で、俺はそんなリリーのために騎士訓練に精を出した。
正直、リリーにお城の侍女なんて務まらないと思っている。
女だけの職場なんて、噂と足の引っ張り合いで酷くギスギスしたものだと聞いているから、気の弱いリリーがやっていけるはずがない。
見習いで音を上げるか、本採用となっても、もって一年だろう。
だけれど、それでいいと思う。リリーは家にいて俺の帰りを待って俺のために生きればいいんだ。そして俺はそんなリリーを一生かけて守る。
騎士として腕をあげればそれだけ給料も良くなるのだから、リリーといつか生まれるであろう子供を養うことぐらい俺ひとりでもできる。
だからリリーはのんびりと家にいて、俺を癒す家庭を作ることに専念すればいいんだ。
そう思っていたのに、リリーは俺の予想以上に侍女見習いを頑張った。
男所帯の騎士団は休憩中になると、「あの侍女が可愛い」だの「給仕係をデートに誘った」だの、浮かれた話をする奴が多い。
その中にはリリーの名前もあった。
リリーが可愛いと噂されるのは悪い気はしないが、やはり城勤めはやめさせたほうがよさそうだ。
こんな奴らの視線を集めるだなんて、リリーにも隙があるに違いない。
リリーはちょっとぼぉっとしているところがあるからつけ込まれるんだと、不機嫌な気持ちのまま家に帰ったことが何度もあった。
その気分のまま、リリーにもっとしっかりしろと説教をしたことも少なくない。
でも、全てがリリーのためなのだ。
そんなリリーから、宰相様付きの侍女試験を受けると聞いた時は正直驚いたけれど、勉強だけはできたからそこを買われたのだろうと納得もした。
到底、受かるとは思わなかったけれど、反対するのも器が小さいようで許可をしてやった。
勉強する間、家事をできないことを気にするリリーに、一ヶ月ぐらい家の中が無茶苦茶になっても気にしないと言った俺は、できた男だろう。
ただ、その間の部屋の有様は本当に酷かった。
洗濯物は溜まるし、俺が散らかしたごみはいつまでもその場所にある。洗い物が溜まるのは当たり前で、食事だって手抜きだ。
正直ここまで、と思った。でも、文句は言わなかった。出された食事も残さず食べた。
やるだけやって駄目だって分かったらリリーも諦めがつくだろう、と鷹揚に受け止めてやっていたのに。
リリーは試験に受かった。そして家を出て行った。
リリーの父親からは少し離れお互いを見直す時間が必要と言われ、親父からはリリーをもっと大切にしろと叱られた。
はぁ? これ以上なく大切にしているだろう。
リリーを守るために俺は厳しい騎士訓練にだって耐えているんだ。
それなのに。
ぽつんと一人ソファーに座り、夕陽が窓枠を床に映すのを眺める。
台所には、もう何日も前のカップが積み重なり、床にはごみが散乱していた。
リリーが出て行くときに綺麗にしていったこの部屋は、またすっかり荒れ果てた状態に逆戻りだ。
「なんで、こうなったんだよ」
苛立ちをぶつけるように、俺はソファにあるリリーがお気に入りだったクッションを壁に投げつける。
ぱふっと間抜けな音を立て床に落ちたそれを、俺はいつまでたっても拾う気にはなれなかった。
**
寮生活が始まって一ヶ月。
当初は新しい職場に加え、初めての一人暮らしで不安も大きかったけれど……。
「なんて快適なの!!」
仕事から帰ってきた私は、ボフン、とベッドに倒れ込んだ。
誰かの顔色を窺うことなく、ご機嫌取りをしなくていい生活がこんなに楽だなんて。
水を得た魚、とはまさしくこのこと! とばかりに私は充実した毎日を送っていた。
宰相様付きの侍女は仕事も多く時には書類整理をすることもあったけれど、先輩侍女のバーバラさんは優しかった。
なんていうか、人間ができてるというのかしら。
もちろん厳しいことも言われるし、注意もされる。でも、感情的に言葉をぶつけるなんてことはなく、私を一人前の侍女に育てようという気持ちが伝わってくる。
だから、私もそれに応えるように頑張った。
言い方がきつい先輩がいるとか、陰険な意地悪をする人がいるとか愚痴る同期の話を聞くと、本当、配属先に恵まれたと思う。
「足の引っ張り合いなんてしていたら、宰相様の役に立てないもの」と言うバーバラさんは格好いいし、宰相様をはじめ三人いる補佐文官からの信頼も厚く、私もこうなりたいと憧れる日々だ。
とはいえ、カージャスのことを忘れたわけではない。
お父様はすぐに婚約解消せずに、ひとまず一年は保留にしなさいと仰ったけれど、私の中で結論は日々固まるばかり。
親同士が親しいから、十代のうちに婚約者を決めておかないとのちのち良い嫁ぎ先が見つからないかも知れないから、と決められた私とカージャスの婚約。
だから、解消となってもお互いの実家に金銭的な損害はない。
ただ、同じ当主に仕えていて日々顔を合わすから気まずさはあると思うけれど。
それから、これから先、私には良い結婚相手が見つからない可能性が高い。
この年で婚約者のいない男性は僅かだもの。それはカージャスも一緒だけれど、嫡男で騎士、しかも見目の良い彼なら年下の令嬢を妻にすることだって無理な話ではない。
それでも、カージャスと我慢して結婚するぐらいなら一人のほうが良いと思えてきた。
だって、毎日、怒鳴られないか冷や冷やして、不機嫌な態度に身を竦め、声をかけるタイミングを見計らう生活なんて息苦しいもの。たった一ヶ月前までそんな生活をしていた自分が今では信じられない。
そんなこんなで朝からご飯が美味しい。
寮の食堂で出されるご飯を有難くいただいたあとは、お城へと向かう。寮は城内の隅にあるのだけれど、いかんせん城内が広すぎて最短ルートを通っても徒歩十分以上はかかってしまう。
その最短ルートには騎士の訓練場があり、早朝訓練をしていることもしばしば。
だから普段は最短ルートを使わずにあえて倍の時間をかけ遠回りをしているのだけれど、今日はちょっとゆっくり食事をしたせいで時間がない。
仕方なく訓練場に沿うように続く石畳を早足で歩いていると、タイミング悪くカージャスを見つけてしまった。
……ちょっと痩せたかも。
そのことが、私の胸に罪悪感を芽生えさせる。
ちゃんとご飯食べているのかな。洗濯物、溜まっているんじゃないかな。そんな考えが次々と浮かんで、最終的に思うことは「私の我慢が足りなかったのかな」だ。
婚約解消したいとお父様に言ったときは驚かれたし、よく考えたかとも聞かれた。
ずっと悩んでいたし、今の生活は快適だから間違った選択をしていないとは思うけれど、やつれた姿を見るとチクチクと胸が痛んでしまうのは仕方ない。
「おはよう、リリーアン。今日は珍しくこの道を通っているんだな」
声をかけられ振り返れば、片手をあげてルージェックが駆けてきた。
うん? どうしてここにいるの?
「文官の寮は向こうじゃなかったの?」
私はお城の南側を指差す。今いるのは東側だから、こんなところに用事はないはず。それなのに。
「ちょっと野暮用がね」
といいながら額の汗を拭うルージェック。その背後にはオリバー様の姿が見える。
とはいえ、騎士寮と訓練場を繋ぐ小道をこちらに向かって歩いてきているのだからなんら不思議はないけれど。
謎なのはなぜその方角からルージェックが現れたかだ。
「おはようございます、オリバー様。今から訓練ですが?」
「リリーアンか。ああ、入隊二年目以上は自由参加だが、ちょっと新人の手合わせをしてやろうと思ってな」
オリバー様は筋肉がたっぷりついた腕をぐるっと回す。
私だって背は高いほうだけれど、オリバー様は百九十センチの上背に筋骨隆々の体躯をしているから、目の前に立たれると圧迫感がすごい。
小柄なパレスだったら片手で持ち上げられるんじゃないかしら。
カージャスもルージェックも百八十センチはあるけれど、この人を前にすると小さく見えてしまう。
そんなオリバー様は今日も忌々しそうにルージェックを見る。
この二人、本当に仲が悪いわ。
「オリバーさん、俺達はお城に行くのでここで失礼します」
剣呑な視線に爽やかな微笑みを返し、ルージェックは歩き始める。だから、私も軽く頭を下げて後を追った。
「そうだ、リリーアン。初任給が出るけれど何か買うのかい?」
追いついた私にルージェックが聞いてくる。
そう! 初任給! 今日は初めてのお給料日だ。
「ええ、お父様に万年筆、お母様には以前から欲しがっていた帽子を贈ろうと思っているわ。ルージェックは?」
「父はまだ決めていないが、母にはストールを贈るつもりだ。だけれど、女性物には全く疎いから、リリーアン、悪いけれど買い物に付き合ってくれないか?」
「もちろん。一緒に行きましょう」
二つ返事で答えれば、助かるよ、と満面の笑みが返ってきた。
眩しい。思わず目を細めてしまうほどの笑顔だ。
この容姿が災いしてか、ルージェックの女友達は私とパレスだけ。
皆、未だに婚約者のいないルージェックに取り入ろうと必死で……そう必死過ぎて逆にルージェックに引かれてしまっている。なんなら避けられている。
明日どこで待ち合わせをするか決めながら宰相様の部屋に着くと、ルージェックはすぐに昨日の続きの書類作成にとりかかった。
私はバーバラさんと一緒に届いた手紙の整理をすることに。
これが終われば宰相様から頼まれた書類を他の部署に取りに行かなきゃ、とあれこれ考えていたせいだろうか。
先輩文官に揶揄われ赤くなっているルージェックに、まったく気が付かなかった。
翌日。
どこからか、私とルージェックが買い物に行くと聞きつけたパレスが、寮の私の部屋に突撃してきた。
「どうしたの?」と聞く私を小さなドレッサーに座らせると櫛で髪を梳かし始める。なになに? と思っているうちに三つ編みを幾つも編み込んだ可愛い髪型に整えてくれた。
すごい! この腕があるなら王族のヘアメイク担当になれるんじゃない?
「やっとルージェックが動き出したと聞いたから、つい力が入っちゃったわ」
腰に手を当て、ふぅと額の汗を拭うパレスの顔は一仕事終えたかのように満足気だ。
「やっと?」
「はいはい、リリーアンは気にしないで。私の練習台になったとでも思っていればいいから」
「練習台って、テオフィリン様は男の子よ」
「王太子妃殿下譲りのサラサラの髪。できることなら結って差し上げたいわ。いえ、それならいっそ本当にヘアメイク担当を目指し王太子妃殿下の髪を……」
呟きながら妄想の世界に入ってしまったパレス。
こっちへ引き戻せば、はっとして「時間がない」と今度は慌てだした。
急いでクローゼットを開け、お洒落な服がないじゃないと文句を言いながら選んでくれたワンピースは淡い水色。私が一番好きな服だ。
それを着て、鞄と靴はパレスの物を借り、私は待合場所へと向かった。
準備に予想より時間がかかったせいか少し遅刻してしまったのに、ルージェックは怒ることなく私の姿を見ると目を丸くした。
「ごめんなさい。支度に手間取ってしまって」
「……」
「ルージェック?」
「あっ、大丈夫。俺も今来たところだから。それから……すごく綺麗だ」
こほんと咳払いして微笑んだその顔はいつものルージェックなのだけれど、心なしか耳が赤い、気がする。私もこんなふうに褒められたのは久しぶりでなんだか、照れくさく、嬉しい。
「じゃ、行こうか」
「ええ」
そう言って歩き出すルージェックの隣に並ぶ。
お城からまっすぐに伸びるこの道はハレストヤ王国のメインストリートでもある。
少し歩くと立派な門構えの店が軒を連ね、このうちのいくつかは王室御用達だ。
もちろん私には高すぎる敷居なのでその前は通り過ぎ、二つ目の角を曲がればさっきよりは小さな、でもお洒落な店構えがずらりと並ぶ道に出る。
「ルージェックもこの辺りのお店でいいの?」
伯爵家次男で宰相付きの文官――つまりはエリートコースに乗っているルージェックだったら、メインストリート沿いのお店のほうが良かったかも、そう思い聞いたのだけれど。
「あれ、リリーアン知らないの? この通りには新進気鋭のデザイナーの店が多くて、一年ぐらい前から若者の間で注目されているんだよ。じゃ、まずはリリーアンのお父様の万年筆から探すか」
ルージェックはスタスタと歩きだしここがお薦めなんだ、と一軒の店の前で足を止めた。
この辺りに詳しいところをみると、よく来ているのかもしれない。
私は、休日は溜まった家事をこなすのに精いっぱいだったから、ふらりと街へ出掛けるのは随分久しぶり。
ルージェックが開けてくれた扉から中に入ると、沢山の文房具か並んでいた。
万年筆も色やデザインが豊富。それでいて、私の懐事情にちょうど良い。
目移りしながら選んでいると、ルージェックもお父様のプレゼントを万年筆に決めたようで、店員にあれこれ聞き始めた。
一時間程かけて私は紺色の、ルージェックは臙脂色の万年筆を買いラッピングしてもらう。
そのあとは、ストールなどの小物を扱うお店へ。
私はつばの広い帽子を選び、ルージェックは私が薦めた綺麗な花柄のストールにした。
最後に、妹さんに髪飾りを買いたいというルージェックについて行ったアクセサリー屋さんで、私はこの日一番に目をキラキラさせた。
「か、可愛い! こんな可愛いお店があるなんて」
「これは……品数が多いな。リリーアン、すまないが任せてもいいだろうか」
「もちろん。歳は私達の五歳下、十五歳よね」
それならと、可愛らしい花をモチーフにしたイヤリングを選ぶと、ルージェックはあっさり「ではそれで」と決めた。
もう少し吟味したらと言えば、妹だし……と苦笑いでこめかみを掻く。
「好きな人へのプレゼントなら丸一日かけて悩むんだろうけどな」
「えっ、ルージェック、好きな人がいたの?」
恐ろしい程モテるのに婚約者どころか恋人も作らないから、てっきり恋愛ごとに興味がないのだと思っていた。意外だと驚いていると。
「いるよ。無理だと諦めていたんだけれど、最近風向きが変わってね」
「そうなの。ルージェックが無理と思うなんて、ものすごく高嶺の花なのね。でも、ルージェックならきっと大丈夫よ」
高嶺の花同士、並んだらお似合いなんだろうな、とぐっと拳を握って応援すれば、複雑な笑みが返ってきた。
「私、何かおかしなことを言ったかしら」
「いや、ここからどうすべきかと考えていただけだ。とりあえずこれを買ってくるから待ってくれるか?」
ルージェックは私が選んだイヤリングを持ったまま店の奥へと向かった。
私はというと。
「この数ヶ月、いろんなことを乗り越えたのだもの。自分へのご褒美を買ってもいいわよね」
私が着飾るといつも眉根を寄せるカージャスは、もう隣にいない。
それなら可愛らしいアクセサリーを身に着けてみたいと思った。
最近、自分でもいろいろ変わったなと感じている。
子供の頃は人見知りで怖がりでいつもカージャスの背中に隠れていたけれど、学園や職場でいろいろ経験するうちに私は随分強くなった。
特に仕事ではどうしたいか、どうすれば良いかを自分の頭で考え、周りに伝える必要がある。
そうやっているうちに、いつの間にか引っ込み思案は鳴りを潜め、思っていることを口にできるようになった。我ながら成長したと思う。
だから、そんな私にご褒美を買ってもいいはず。
「それらが気になるのかい?」
いつの間にかお会計を終えたルージェックが、私の隣で同じショーケースを覗きながら聞いてきた。
「ええ。でもたくさんあって選べないの」
ショーケースの中にはネックレスが十本ほど並んでいる。
石はアクアマリンや水晶、ラピスラズリ。どれも小ぶりだから職場につけていけるデザインだ。
うーん、と暫く悩んだあと手にしたのは、ラピスラズリのネックレス。濃紺の宝石は落ち着いた印象で紺色の侍女服にも合うはず。
「これにするわ」
「ちなみに、どうしてその色を選んだんだい?」
「どうしてって……。小ぶりのアクセサリーをつけるのは許されているけれど、新人だからあまり目立つのは、と思って」
赤や緑はちょっと躊躇ってしまう。それに対し、濃紺のラピスラズリなら、と目線高さまでそれを持ち上げた私は、そこで気が付いた。
「この色、ルージェックの瞳の色と同じね」
「今、気が付いたのか。……つくづく無意識というのは恐ろしいものだな。では、これは俺からプレゼントするよ」
「そんな、自分で買うわ。だってプレゼントしてもらう理由がないもの」
「理由なら充分にあるんだけれど……とりあえず、今日、一緒にプレゼントを選んでくれたお礼だ」
「だったら、素敵なお店を教えてもらった私こそお礼をすべきだわ」
ぶんぶんと首を振ったけれど、ルージェックは自分が買うと譲ってくれなかった。そのうち顔を覗かせた店員さんに「これをプレゼントで」と渡してしまう。
お店を出た私達は、少し歩いたところにある小さな広場で一休みをすることに。
道の片側が大きく膨らみ、噴水を取り囲むようにベンチが置かれたそこには、テイクアウトできる軽食を出す店がいくつか出ていた。
秋で少し寒いのにも関わらず、広場の隅では子供数人が石で道に落書きをしている。
「ルージェック、お腹すかない? ネックレスのお礼に何か買ってくるわ」
「そんなこと気にしないでいいよ。それより、もしお礼がしたいのなら、今あのネックレスを着けてくれないか?」
そんなことがお礼になるとは思えないけれど、ルージェックが私を見る目に期待が込められているように感じ、首を傾げつつも私は包装紙を解いた。
綺麗に包んでもらったのにすぐ解くのは申し訳ないような気もしたけれど、取り出したそれを改めて陽の光の下でみれば、落ち着いた輝きがルージェックの瞳によく似ていた。
「貸して」
私が答えるより先にルージェックがネックレスを手にし、背後に回ってきた。
そのまま私の胸元にネックレスが当てられ、首の後ろで留め金が止められる気配がした。
「はい。できた」
「ありが……」
続く言葉が出なかったのは、ルージェックが背後から顔を覗かせたから。
私が付けたネックレスを見たかったのかもしれないけれど、耳元あたりで感じるぬくもりと息遣いに、心臓が跳ねた。
こんなに顔を近づけるなんて初めてで、少しでも動けば触れてしまうと身じろぎひとつできない。戸惑う私の耳元で、クスッと笑う気配がしたそのときだ。
「お、おい! リリー!! こんなところで何をしているんだ。そいつは誰だ!」
突然の大声にルージェックが顔を上げ、続いて私も声のするほうを見ると、そこには顔を真っ赤にさせたカージャスが立っていた。
こっちに向けて突き出された人差し指をぶるぶると震わせ、怒りで眦を吊り上げるカージャスが着ているのは騎士服。
そういえば、王都内を警邏する隊に所属になったと聞いた気が……。
カージャスは指を突き出したまま大股でこちらに近付いてくる。
慌ててルージェックを庇うように立ち「彼は……」と説明しようとしたのだけれど、私の肩に優しく手が置かれ入れ替わるようにしてルージェックが前に立った。
「リリーアンの同僚のルージェックだ。こんな街中で大声を出しては周りがなにごとかと思う……」
「うるさい! 俺をそうさせているお前が悪いんだ!!」
再び大声で言葉を被せるカージャス。その言い方に、この人は相変わらずだなと思ってしまう。
自分が不機嫌になるのも、怒りで棚を蹴とばすのも、全て「俺を怒らせるお前が悪い」というのが彼の持論。さらに人の意見を聞くことなく大声でねじ伏せる。
一緒に暮らしているときはそういうものなのだと思っていたけれど、離れた今はその考えが間違っていることが分かる。
どんなに腹が立つことがあっても、怒鳴ったり殴ったりするのは最終的には本人の意思なのだから、それを誰かのせいにするのは間違っている。
「リリー、お前もだ!! 俺という婚約者がいながら、他の男と逢引するなんて、どういう了見だ」
「ち、違うわ。初任給が出たからお父様たちへ贈るプレゼントを一緒に選んでいただけよ」
「それなら俺を誘えばよいだろう。どうして婚約者がいながら他の男を頼るんだ」
「……だって、あなたに頼りたくないから」
無意識に言葉が口をついて出てしまった。
あっと、口を押さえるも出た言葉は当然、引っ込まない。
カージャスは顔をきょとんとさせたあと、怒りで肩をぶるぶると震わせ始めた。
「頼りたくないとはどういうことだ!! だいたい勝手に部屋を出ていき結婚を延期するなんてお前は何を考えているんだ。おかげで俺は恥をかいたうえに父に説教されたんだぞ」
怒鳴り声に反射的に身を縮めてしまう。
婚約解消したいという私の思いは、両親からカージャスのご両親に話してもらった。
その際に、私達の暮らしがどういうものだったか、なぜそう決断したかその理由も伝えてくれた。
お母様からの手紙によると、それを聞いたカージャスの両親は「息子が全面的に悪い」と頭を下げてくれたらしい。
そういった経緯でご両親から怒られたようだけれど、私に当たるのはお門違いだ。
ただ、私の一存でこうなったことには少なからず申し訳なさを感じていたので、そこは謝罪すべきと私はカージャスに向かって頭を下げた。
「勝手にいろいろ決めたことは申し訳ないと思っているわ。ごめんなさい。でも……」
「ああ、全面的にお前が悪い! しかも他の男と出歩くなんて不誠実極まりない。いったい何を考えているんだ!」
……だめだ、会話にならない。
普通なら私が非を認めれば、「俺にも悪いところがあった」と言いそうなものなのに、カージャスは私の謝罪の言葉を聞くとそれに被せるように非難をしてきた。
どうして私がそう決断したかなんてこと、聞く気もないようだ。
いつもそう。謝罪を口にすればここぞとばかりに追い詰められ、いつの間にか私が、私だけが全部悪かったように結論づけられてしまう。
一緒に暮らしていたときはそうかもと納得させられていたけれど、今はそれが間違っていると分かる。
だから、いつもならここで俯く私だけれど、今日はじっとカージャスを見つめた。
でも、カージャスはそんな視線に気付くことなくさらに饒舌になっていく。
「一人で何もできず、頼りないリリーを俺がずっと守ってきてやったと分かっているのか? 不器用で要領が悪いところがあっても大目にみてきてやった俺にリリーは感謝すべきだ。それなのに勝手に家を出て行き、他の男と出歩くなんて何を考えている!! これだけの我儘を受け入れてやったんだからいい加減、気が済んだだろう。もう帰るぞ!」
「……帰るって?」
半歩下がり身を竦めながら聞いた私に、カージャスは舌打ちをして眉根を寄せた。
「俺とリリーの家にだよ。リリーはこれから先もずっと俺の隣で、俺だけのために生きればいい。そうすれば俺が守ってやるから……」
「……守ってやるからずっと俺の顔色を見て生きろっていうの?」
私の低い声に、カージャスの動きが止まる。私だって自分の喉からこんな声が出るとは思っていなかった。
「カージャス、あなたがずっと私を守ってくれたことには感謝しているわ」
「だったら」
「でも、私はもう小さな子供ではないの。自分の考えや気持ちを持っている。ひとりで暮らして分かったの、誰かの顔色を窺わずに暮らすのがこんなに心安らぐことなんだって」
心配そうに私を見るルージェックに首を振り、私は一歩前に踏み出した。キッと前を見据える私にルージェックは少し驚いたように目を大きくした。
「あなたの言う通り、街中でこんな騒動を起こしたのは私のせいだわ」
「そ、そうだ。全部リリーが……」
「結婚を延期なんて中途半端なことをしたのが間違いだった。両親になんと言われても、ちゃんと婚約解消すべきだったわ」
お父様に説得され婚約解消に踏み出せなかったのは、どこか私の中に迷いがあったからだと思う。
でも、離れて過ごすうちに、元のように一緒には暮らせないと思った。
ただ、相手に非がある場合の婚約破棄が一方的にできるのに対し、婚約解消はそうはいかない。
未成年なら親同士の話し合いと署名で婚約解消ができるけれど、成人している場合は、本人達の同意と署名が必要。
つまり、私がカージャスを説得しない限り、婚約解消はできない。
あともう一つ方法がなくはないけれど……その手段は私には無理だわ。
「俺は婚約解消はしない」
血走った目でカージャスが宣言する。
そう言うと思った。それは決して愛情からではない。私がいないと不便だからだ。
今のままでは、料理や洗濯、掃除も自分でしなくてはいけない。八つ当たりをする相手もいなければ、ご機嫌を取ってくれる人もいない。
どう言えば私の気持ちがカージャスに伝わるのだろうと、暗い気持ちで足元に視線を落としため息を吐いたその時。
――私の視線の先に跪く脚が見えた。
えっ、と少し視線を上げればルージェックの濃紺の瞳が私を見上げている。
「リリーアン、カージャスと結婚を解消する方法ならある。俺に任せてくれないか?」
差し出された右手。これはこの国の男性が求婚の時にする姿勢。
はっと息を呑む私の周りで、いつの間にか集まっていた群衆がざわざわと騒ぎ始めた。
「る、ルージェック。これは……」
「形だけでいい。手を取ってくれ」
「で、でも……」
婚約解消するもう一つの方法。
それは、『婚約者の前で意中の相手に求婚し、決闘をして勝つこと』。
戦いの多かった時代の名残として、平和になった今も法律として残っている。
だけれど、カージャスは騎士でルージェックは文官。明らかに不利だ。
どうすべきかとパニックになる私と、それとは反対に堂々と返事を待つルージェック。
そんな私達に向かって白い手袋が飛んできた。
「おい、俺の目の前で求婚とは大した度胸だな。騎士でないとはいえ、その手袋の意味は分かるだろう」
「ああ。もちろん」
静かな笑みを浮かべながらルージェックは立ち上がった。
白い手袋を投げつける――これは決闘を意味する。
「おう、決闘なんて、やるな兄ちゃん達」
「俺が子供の頃に見て以来だ」
「ちょうどいい、昔、西の戦いで武勲を立てた儂が審判をしてやろう」
ヒューヒューとはやし立てる声にヤジが交じる。
婚約を掛けた決闘に、急に勢いを増した周囲の人々は、もはや観客と言っていいかもしれない。
武勲を上げたと言ったおじいさんが、杖を突きながらカージャスとルージェックの間に入ってきた。意気揚々とした姿は、さっきまで背中を丸めていたとは思えないほど。
さらには観客達に指示を出し、子供達が道路に落書きをしていた石で線を引き試合場を作り始めた。
もう一体何が起きているのか、頭がついていけない。
「ルージェック。こんなことにあなたを巻き込めないわ。カージャスは騎士よ。見習い騎士として厳しい訓練にも耐え一人前の騎士と認められた。力だって技術だってある。それに対してあなたは……」
優しいルージェックのこと。私のために婚約を申し込むふりをして、カージャスを煽って手袋を投げさせたんだと思う。
だって、立ち上がるとき、一瞬だったけれど微笑んだあの顔は、「我が意を得たり」って感じだったもの。
「大丈夫だよ、リリーアン。だから、俺が勝ったら今度こそ『正式』に申し込ませてくれ」
「……正式に?」
何を申し込もうというの?
意味が分からず眉根を寄せる私の背後から、大きな声が響き渡った。
「この決闘、俺が審判を引き受ける!!」
今度は誰、と振り返ると人混みを掻き分け大柄な男性が現れた。
どうしてここに彼がいるの。余計に事態が悪化するのではと目の前がくらっとした。
「……オリバー様、どうしてここにいるのですか? それにパレスまで」
オリバー様は私服なので今日は仕事がお休みなのだろうけれど、立派なその体躯は何を着ても騎士にしか見えない。二の腕なんて服がはちきれそうだ。
ふらっとしながら眉間を押さえた私に、パレスが駆け寄ってきた。
「パレス、なぜここにいるの?」
「だって、贈物をするならこの通りがお薦めだとルージェックに教えたのは私だもの。ちょっと二人の様子を見に来たらこの騒ぎなのだから、驚いたわ」
そう言うと、今度はルージェックに向き合い小声で何か話したあと、バシン! と勢いよく背中を叩いた。
「頑張ってね」
「ああ、まさかうんざりだったアレが役に立つときがくるとは思わなかったよ」
どうして応援するの。騎士相手に怪我では済まないかもと心配する私をよそに、ルージェックは意味深なことを口にする。
それに、そんなにルージェックに近づいたらオリバー様がまた妬くわよと心配になる。
でも、オリバー様はさっきのおじいさんと何やら言い合っていて、こちらの様子には気づいていなかった。
あれは……多分どちらが審判をするか揉めているみたい。
もはやどちらでもいいし、むしろ決闘を止めて欲しい。
それなのに間もなく話は終わったようで、満足そうな顔でオリバー様がこちらにやってきた。
休日でも帯剣している騎士は多く、オリバー様は腰の剣を抜くとルージェックに差し出した。
「これを使え。それにしても、どうして今まで想い人がリリーアンだと言わなかったんだ。そうすればあんな面倒な事をせずに済んだのに」
どうやらルージェックの跪く姿勢をみて大きな勘違いをしているらしい。
誤解を解かなくてはと口を開こうとする私をルージェックは制すると、にこりと微笑んだ。
「リリーアンを困らせたくなかったんです。それに面倒な事はオリバーさんがいつも吹っ掛けてきたんでしょう」
「婚約者の周りをうろつく相手は、決闘を申し込まれる前に叩き潰す、それが俺の信条だからな」
「迷惑極まりないですね」
会話の意味は分からないけれど、そんな言い方で誤解がとけるはずがない。
でも、いつも剣呑な二人が仲良くしているのを見ると、とりあえず誤解させたままでもいいかと口を噤むことにした。
そんな私の横で、パレスは他人事のようにくすくすと笑っている。
「パレス、私、当事者なのに置いてけぼり感がすごいのだけれど。それにこのままではルージェックが怪我をしてしまうわ」
「ふふ。それなら大丈夫よ。すべてが良い方向にいっているわ」
とてもではないけれど、そうは思えない。
おろおろするばかりの私に、オリバー様は「俺が審判で爺さんが副審判に決まったから安心しろ」と、もはやどうでもいいことをどや顔で言ってくるし。
「おい! 何をしている」
すっかり忘れられた感のあるカージャスが、石で四角く縁取られた決闘場内から私達へと向かって叫んだ。
オリバー様が「分かった」というように片手をあげ中央へ、ルージェックもそれに続き、おじいさんは枠の外に陣取る。
オリバー様が真ん中で両手を挙げると、観客はぴたりと声を止めた。
「本来の決闘は二本続けて相手を負かした者を勝ちとするのだが、ここは街中、一本先に取った者を勝利とする。剣は鞘に入ったまま使用し、致命傷を与えたと俺、もしくは副審判の爺さんが認定した場合を勝利とする。それ以外に剣を手放した者、線外に出た者は負けとする。俺は体力を削りあった結果の勝敗は嫌いだから、いつも制限時間を三十分としている。今回もそれでいこうと思うが、双方、異論はないな」
頷く二人。オリバー様が一歩退き片手を前に突き出すと、二人は剣を構えた。
初めに動いたのはカージャス。余裕の笑みを浮かべながら剣を振り下ろしたのだけれど、カンッと高い音と共にルージェックはそれを片手で受け止める。
その動きに、遠目からでも分かるほどカージャスが驚いた顔をしていた。
ルージェックはバックステップで一歩下がると、改めて前に足を踏み出す。
次々に斬りかかってくるルージェックの剣に、カージャスは防御一択。
カンカンッとこきみ良い音が続き、私は驚きながらその光景を眺めていた。
だって、ルージェックは文官なのだ。遠縁に騎士がいると聞いたことはあるけれど、お父様は外務官だし。
それなのに、騎士のカージャスに劣っていない。それどころか……と思ったとき、ルージェックの剣が真上からカージャスに向け振り下ろされた。
横に転がりながらなんとか避けたカージャスに、ルージェックは再び剣を振るう。
カージャスは地面に背をつけた態勢でそれを受け止めるも、ルージェックが体重をのせ剣を押し込んでいく。力でもカージャスに劣ってはいない。
それをカージャスも分かったようで、片足をあげるとルージェックの脇腹を思いっきり蹴り上げ隙を作って立ち上がった。
「お前、本当に文官か……?」
「叔父が武闘派でね。子供の頃に一通りのことは叩きこまれた」
チッとカージャスは舌打ちすると、再び剣を構える。
さっきまでの余裕はなく、全身から殺気が出る真剣な様子に私は血の気が下がる。あれは本気だ。
暫くにらみ合ったのち、カージャスが「覚悟しろ!」と叫びながら前に飛び出した。と同時にルージェックも足を踏み出し、ガツンと今まで以上に激しい音が広場にこだました。
次の瞬間、カージャスの手から剣が離れた。
剣は勢いを落とすことなくそのまま観客の、しかも子供の方へと飛んでいく。いくら鞘に収まっているとはいえ、怪我は免れない。
「危ない!」
私の悲鳴と同時にオリバー様が駆けるも間に合わない……と思った次の瞬間。
とんでもないスピードでおじいさんが動き、剣を杖で地面に弾き落とした。
……嘘でしょう?
誰もが呆気にとられる中、おじいさんが落ちた剣を拾い鞘から抜くと、それを高々と天に掲げた。
「勝者、ルージェック」
うおぅ!! っと声が上がり拍手が鳴り響く。
「良くやった」「いい勝負だった」の声に交じりおじいさんを称える声も。
カージャスは呆然とその場に跪き、ルージェックは苦笑いで観客達に手を振る。
私は……パレスに背中を押され、ちょっとつんのめりながら喧騒の真ん中へと進んだ。
「ルージェック……その。怪我は、ない?」
なんて言えばいいのか分からない私の口から絞り出したそんな言葉に、ルージェックは肩を竦め笑う。
「もちろん。これでリリーアンの婚約は解消できる。これだけ観客がいるしオリバーさんもいるのだから正式に認められるだろう」
「ありがとう。でも、文官のあなたがこんなに強いとは思わなかったわ。叔父様から剣を習ったとはいえ、子供の頃の話でしょう?」
「あぁ、それなら……」
ルージェックはクツクツ笑うとオリバー様に視線を移す。
そのオリバー様といえば、さっきのおじいさんに頭を下げ握手をしていた。
……もしかして、本当にすごい人だったのかも。
「オリバーさんは俺がパレスに気があると勘違いして、ほぼ毎日のように一戦を挑んできていたんだ。ほら、あの人脳筋だから」
そういえば、「決闘を申しこまれる前に叩き潰すのが信条」って話していたわね。
「ほぼ毎日、オリバー様と剣を交えていたの? もしかして、一度、騎士訓練場の近くで会ったことがあるけれど、あれって……」
「うん、一戦交えたあとだよ。騎士寮の裏手にいつも呼び出されていたからね」
どうしてあの場所にルージェックがいたのかと思っていたけれど、まさか一戦交えたあととは。そういえばあとからオリバー様も現れたわね、と納得する部分もある。
「それにしても、オリバー様はあの体躯に加え剣の腕も凄くて、若手騎士の中では群を抜いて強いと聞いているわ。よく今まで無事だったわね」
「三十分の時間制限のおかげだよ。剣技は同格だから時間無制限だったら体力が続かなくて負けていたと思う」
「そうなんだ……って、それでも凄いと思うのだけれど」
パレスの話では、オリバー様は騎士団で行われたトーナメントで五位になったこともあるらしい。一位の騎士団長と二位の副団長は別格らしく、役職なしの騎士で考えれば実質三位の実力になるそうだ。
「でも、オリバー様はルージェックがパレスのことを好きだと思って一戦を挑んでたのでしょう。どうして今までその誤解を解かなかったの?」
「そうはいかなかったんだよ。違うと言えば、なぜそんなにパレスと一緒にいると聞かれるだろう? 俺が一緒にいたいのはパレスじゃない。とはいえ本当のことを言えば、それがオリバーさんの口からカージャスの知るところになる可能性がある。二人は同じ騎士団だし婚約者がいる女性に横恋慕するのは許されないことだからね」
うん? ちょっと途中から話が見えなくなってしまった。
横恋慕、ってパレスのことは誤解だったのでしょう? それにカージャスに知られて困るって……
「ちょっと言っている意味が分からないのだけれど」
「とにかく、俺は小さい時から騎士団長の叔父に鍛えられ、学生時代からはオリバー様と剣を交えていた。だから正直カージャス相手では本気を出すまでも……」
「ま、待って。叔父様って騎士団長なの?」
「うん。あれ、言っていなかったっけ」
聞いていないよ!
そう考えると、ルージェックが強いのも納得できる部分はあるけれど。
でもまさか、本気を出していなかったなんて……とそこまで考えて負けたカージャスはどうしているのかと思い見ると、膝を突き項垂れたまま動けないでいた。
こんな衆人の前で騎士が負けるなんて、とてもではないけれどプライドの高いカージャスが耐えられるはずがない。
私はどうしようかと少し考えたあと、カージャスの元へ向かった。
喧騒が静かになり、観客の視線が一斉に私達に向けられた。
「……お父様に今日のことを報告し、婚約を解消します」
「……て……だ」
「えっ!?」
「どうしてこうなったんだ! 俺はリリーをずっと庇い守ってきただろう! それのどこが不満だって言うんだ! 仕事なんてしなくてもいいと思っていた。でも、リリーがしたいと言えば、それが宰相様付の侍女試験であっても許可をしてやったのに、何が不満だったんだ」
「あなたは仕事で疲れて帰ってきた自分をいたわれと言うのに、私の仕事については『許可してやる』って言うのね」
絶対に泣くまいと声が震えないよう堪えているのに、涙が滲んでしまう。
ここまで言ってもカージャスは私の言葉の意味が分からないようで、眉間の皺を深めるばかり。
結局彼は分からないのだ。
私はもう守ってもらうばかりの小さな女の子ではない。泣いて、背中に庇って保護してもらうだけの存在ではないのだ。
「私はあなたの癒しの道具じゃないの」
それだけ言うと、私はその場を後にした。
後ろから叫ぶカージャスの声が聞こえたけれど、私はもう振り向かなかった。
最後のセリフでタイトル回収です。
最後までお読みいただきありがとうございます!
これでカージャスが引き下がるとは思えないという感想をいただき、長編も作ってみました。
https://ncode.syosetu.com/n2225jf/
こちらも楽しんでいただければと思います。
面白かった、良かったと思っていただけましたら★★★★★やブクマ、いいねをお願いします!
作者のモチベがぐぐっっっと上がります!




