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第六章 少女の王国 18

 チャプター18 ドリフ


「触んなよ。気持ちわりぃ」


「あ……は――」

 胸の内をはっきり言ってしまえば、愛は誰がそのセリフを言ってしまってもおかしくないと思っていた。

 許容量を超えてしまっているだろうな、と。

 人によっては。

 いつ溢れてもおかしくなかっただろう。

 感受性豊かでブレーキの利かない子供ということを鑑みれば、この二週間何事も起こらなかったのが奇跡だ。皆、気を使っているのがありありと伝わってきたし、そもそも先生が気を使い過ぎだった。そういうのはすぐ子供に伝わる。どことなく空気がぎこちなくなっていた。

 そういう空気を寄せ付けない(というより事情を全く知らない)、いろはが防波堤になり、夏希をガードしていたのだ。もしかしたら、愛や菊、椿の存在も、夏希をガードするのに一役買っていたのかもしれない。

 それが破られた。

 よりによって彼女の幼馴染、陸に。

 そのタイミングも最悪だった。

 この学校の生徒は、給食の時間になると、その週の当番が給食を配膳する手筈になっている。今週は夏希の班六人が担当だった。給食を給食センターと呼ばれている校舎の奥の奥から、教室にまで運んでくる。教室の前に給食用の配膳台を設置。その上に持ってきた給食を並べ、列になって並ぶクラスメイト一人一人にスープをよそったりサラダを盛ったりする。

 夏希が「はい」と、マスク越しでも分かるいつもの笑顔で器を差し出した瞬間だった。

「触んなよ。気持ちわりぃ」

 その台詞が響いたのは。

 差し出された器はカランカランと床を転がった。すぐ前を並んでいた肇真那が「きたなっ」と呟いた。少し掛かってしまったようだ。彼女は白のスウェットを着ていた。

「あ……は――」

 と、夏希は右手を差し出したまま固まり、表情は愛が遠目で見ていても分かるくらい、マスク越しでも分かるくらい、動揺が広がっていた。理解が追いついていないのか、或いは彼女自身、遂に予感していたことが実際に起こってしまったと思っているのか……。何にしても、彼から――陸から――真逆このタイミングで言われるとは予想もしていなかったろう。

 愛は思い出す。

 バレンタインの事件の時、皆が非難の視線を向ける中、一人夏希の無罪を主張した陸のことを。校舎裏。事件の当事者である拓真を呼び出し、掴み合ってまで夏希をどうにかしようとしていた陸のことを。

 あれは嘘だったのか?

 そんなはずはない。あの時の陸は間違いなく本気だった。

 いつだかの雪山遭難の時。陸を助けたのは愛だ。普段の言動。良夫や愛に対しての物言いや態度。恐らく、あまり感情の制御が利く子じゃないんだろう。

 ここ最近、元気がなかったかどうかなんて愛は知らない。そもそも陸に興味がないからだ。しかし、登校再開した夏希と話していないことは知っている。避けているんだろうなとは感じていた。その夏希も以前のように鬱陶しくも愛や男子に絡むということはしなくなった。

 遠慮――というよりは、そんな気にもなれなかった、なれなくなった、勇気が出なかった、怖かった、そんな発想さえ浮かばなくなってしまった、というところだろうか。

 代わりに、ひたすらいろはに絡むようになったが。それが健常かどうか。今はいい。

「……陸。ご」

 ごめん、と続けようとしたのだろうか。陸は足元に転がった器を盆を持ったまま素早く屈んで拾うと、夏希の手からお玉を奪い自分でスープをよそった。そうして何事もなかったかのように自らの机へと歩いていく。ガタッと椅子の引く音が二つ同時に鳴った。

「陸くん!」

「陸てめー謝れよ!」

「んだよ関係ねえだろお前には」

 硝子先生に被せるように怒鳴ったのは二之瀬ランだった。『てすらま』と、半ば皮肉や揶揄を込めて呼ばれている、四組女子の中でも一段と面倒くさいグループ。

「真那ちゃんに掛かっただろ! 謝れよ!」

「あ……。ごめん。着替えなかったら俺運動着持ってきてるから」

「ううん。いいよ。もお」

 どこかズレた会話が教室内に響く。憤懣やるかたないといった様子で乱暴にランが座る。「え? それで終わり?」という声がどこかから聞こえた。それとほんの少しの失笑も。皆の声を代弁しているように愛には聞こえた。

 硝子先生の動きは素早かった。愛が視線を向ければ、もう足元を乾いた雑巾で拭っていた。ここで言い争って誰に拭かせる云々を繰り広げるよりいいと判断したのかもしれない。懸命だろう。

「お前。陸、何であんなこと――」

 教室の中央を横切っていく陸にレンが椅子を引き座ったまま訊いた。咎めているんだと感じたが、愛には瞬間、それが悪手だと思えた。感情の制御が利かない子に、こういうことが起こった直後にその手の質問をすることは絶対に良くない。良い答えなど返ってこないからだ。

「拓真の精子が掛かったメシなんて食えるかよ」

 鼻で嗤いそう言い放った陸の言葉を聞き、近くに座っていた男子から「うげっ」という心底から嫌そうな声が上がった。直後、陸は軽く宙を舞っており、陸の持っていたお盆は陸以上に盛大に宙を舞った。「きゃあ!」「うおっ」そこかしこで悲鳴が上がる。スープやらサラダやら鮭やらご飯用のステンレス器やら全てが同時に宙を舞った。既に着席していた付近のクラスメイトたちに被害が及ぶ。

「うっ」

 べこん! と、お盆が愛の頭上に落下してきた。「ふうっ!」という声が聞こえてきた為、前を睨んでみれば、思わずといった様子で良夫が口元を抑えていた。「す、すまん」と一言。不意打ちだったらしい。愛はもう一度、キッと睨んでから視線をその向こうへやる。

 髪に滴るわかめと海藻の隙間から見やれば、レンが拳を握って立ち上がっていた。その下にいるであろう陸を見下して。良夫で死角になっていて陸の姿は見えない。

「てめっ」

「やめろおい!」

 陸が飛び掛かり、良夫がすぐに立ち上がり抑えた。

「みんなやめなさい! レン君も陸君も座って! 席に戻って!」

 ようやく我に帰ったのか、冴木先生が教室に響き渡る声でそう言った。その声を皮切りにようやくと言っていいのか、教室全体がざわざわとしだす。

「なに? 夏希ちゃん何かあったの? どういうこと?」

 という、いろはの声が耳に届いた。良夫が、荒く息を漏らす陸を宥めている。レンはそんな陸を無視し着席する。面白がる者、噂する者、食材が服や体に掛かりどうしようか相談している者、また、それをした犯人に対し、これみよがしに文句を言う者、その対応に追われる冴木先生。

 愛は教室全体をさっと見渡した後に、最後視線を夏希へと向けた。

 夏希が、涙を零しながら列を並ぶ残りの人間へスープをよそっていた。親切な女子たちが、そんな夏希に同情して声を掛けているのが愛の席からでも分かった。「当番、今からでも代わるよ?」と心配するように言っている。夏希の左手がささっと振られた。「大丈夫だから」遠慮しているようだった。

 さて。

 女子の約三分の一が夏希のよそったスープを丸々全て残した。男子の中にもちらほらと残す者はいた。

 勿論、当番を代わることを申し出ていた者もスープを残した。




「愛。何か知ってる? 夏希のこと。菊も椿も全然ね。話してくれなくってさ」

 その日の帰り間際、いろはが愛の元へ寄ってきた。愛はランドセルの肩紐をぎゅっと掴む。

 ――話しておくべきか……。

 良夫の言うほど悪い人物ではないように思える。少なくとも、ここまでのいろはを見る限りでは。むしろ逆だ。護ってくれている。あの後も彼女は夏希を避けなかったし、何よりスープを全て飲み干していた。

「実は――」

 並んで歩いた。


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