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第六章 少女の王国 5

 チャプター5 冴木硝子


 冴木硝子は本日学校に来てから計五度目となるトイレから出、教室へと急いだ。既にチャイムは鳴っている。キーンで廊下を曲がり一年生教室前へと至り、コーンで四年四組教室扉へと手を掛け、そしてカーンで教室を見渡し、出そうになった溜息をぐっと堪える。以降のチャイムは耳に入らなかった。

 緊張からまた尿意が身体を襲う。そうだ。連れ戻す口実で一旦トイレに向かおう。

「愛さんは? 良夫くんは? レンくんは?」

 空席は四つ。内三つを順に指差した。

「さあ」「保健室じゃね」「俺見たよ。あっちの廊下行くとこ」「なんでいつもいなくなるの?」「サボってんだろ」「いいなあ」「あたしたちもやろっか」「ね」

 好き好きに喚き出す新四年生たちに告げる。

「三分で戻ってきます。静かにしているように。教科書とノートを出しておいて。それから前川さん。このプリントをみんなに配っておいて」

 ぴたりと言葉が止む。前川沙千と呼ばれる少女が前に出てきてプリントの束を受け取った。それを尻目に教室を後にする。すぐに角を曲がり、トイレに駆け込もうとしたところで硝子は前からやって来た存在で尿意が引っ込み、それと代わるように吐き気と頭痛が同時に襲ってきた。もしかしたら、自分は教師に向いていないのかもしれない。

 その少女は、す――と会釈して硝子を素通りしようとした。慌てて肩に手を掛けた。少女が振り返り、不思議そうに硝子を見上げた。そうだった。この子はまだ自分が担任だと知らないのか。このまま教室に行かせていいのか。全く、一体どうしてまだ経験浅い自分がこの学校に。この学年に。このクラスに。この子の担任に。いいや少女に罪はない。でも。う。お腹が。様々な葛藤が硝子を襲う。それが表情に出たのだろう。手を掛けられた少女は怯えるように、

「あの」

 と、言い身を引いた。その弾みでランドセルががしゃと音を立てた。見ると、黄色い小さなおもちゃのような物がぶら下がっていた。「ああ」と硝子は思う。この子は持たされるだろうな。必要だろう。私が親だったら絶対持たす。最も、もう一度学校に行かせるかどうかで悩みそうだが。硝子は掛けていた手を引っ込めた。

「ごめんなさい。びっくりしたから」

「えっと」

「私、四年四組の担任の冴木硝子です。あなたの新しい担任ですね。はじめまして」

「今まで休んでいてごめんなさい」

 少女はぺこりと会釈した。

 親からはしばらく学校をお休みするとの連絡があった。新学期始まってすぐのことだ。電話してきたのは少女の父親で、担任が変わったのを知り連絡したらしい。担任配属前、ある程度学校側から事情を聞いていた硝子は素直に話を承諾した。どうしていいか分からなかったのも勿論あるが、その方がいいとも思えたのだ。つい一ヶ月と少し前の出来事だ。時間の掛かる問題だろうから。それなのに。

 今日登校してくるなんて一言も聞いてない。

「もう、大丈夫なの?」

 硝子は何と言ったらいいか悩んだ末、結局無難な言葉を口にした。

「はい」

 下川夏希はゆっくりと微笑んだ。

 少女の浮かべた笑顔が以前と違っているのか。硝子は知らない。だって以前の夏希を知らないから。けれど、きっと一緒ではないだろうと思う。

 それきり何も言わずに前を向き歩き出した夏希の後を付いて行くか迷った。夏希は新たな教室はどこだろうと視線を彷徨わせている。悩んだ末、問題の三人は後にし、硝子は教室へと引き返すことにした。

 尿意も吐き気も頭痛も腹痛も全て止んでいた。

 きっと、この子の受けた痛みの方が余程痛いだろう。

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