第五章 MOTHER 4
夏希は自分の部屋で裸になって身体中をまさぐられていた。ぱちぱちっと瞬きする。どこかぼんやりと、夏希の胸や股間を弄ったり引っ張ったりしている拓真を見、眠いなあ早く終わらせてくれないかなあ、馬鹿みたいだ、と思った。何故ここに拓真がいるんだろうか、とも。
「夏希ちゃん。具合悪いの?」
「お買い物、行かなきゃ」昨日お買い物したんだっけ。
「お買い物? ぼくも付いてっていい?」面倒くさい。
「大変だから大丈夫」何が大変なんだろう。お買い物って大変なんだよ。
「そう。また来るからね」どこに?
「……バス、大丈夫?」バス?
「心配してくれてありがとう大丈夫」何が大丈夫なんだろう。
ばいばいと手を振ってきたのでばいばいと振り返した。
自分は今何をやっていたんだろう。己の身体を見る。スカートとシャツを脱いでベッドに座っている。脱いだ記憶はない。座った記憶もない。ただひたすらに眠い。シャツを着る。次いでスカートを履く。パンツ……は――ない。どこにいったんだろう。
自分の一挙手一投足がどこか他人事のよう。
寝た。
学校へ行った。雰囲気は昨日と全く変わっていなかった。教室の扉を開いた瞬間のあの雰囲気で夏希は吸った空気をそろそろと吐き出した。心の中で小さく自分に向かって「おはよう」と言った。
一時間目、二時間目、二時間目休憩、と、じっと耐えていると、視界の端教室の隅、拓真の机に集まっている愛、陸、レン、良夫の姿が目に入った。首を少しだけ動かして見ていた。
最近、愛と良夫、時々レンが一緒に話すのを見る。珍しい組み合わせに思っていた。今日はさらに、だ。陸、拓真が加わっている。拓真に関するあれこれの事がある。今日の雰囲気。それはどこか悩ましげに映った。頭を掻く良夫、ぶっきらぼうそうに文句言う愛――これはいつものこと――口元は「否定」の言葉を発している。無論、そう見えるだけだ。陸は――と昨日のことが頭を過ぎった。夏希はまた昨日のきゅっとした感覚を覚えた。が、陸はへらへらしている。その顔で「ほっ」とした。レンは背中しか見えなかったが、そんなへらへら笑う陸に向かって手振り交えているのは分かった。すごく不服そう。一人だけ座る拓真はずっと俯いていたかと思うと、すっと視線を上げた。目が合ったので逸した。
それから三時間目の体育。体育館でマット運動をした。マットに一列で並んだ。でんぐり返り後ろでんぐり返りの順番待ち。向こう側のマットから「やっぱり夏希ちゃんがあげたんだって」「嘘ー!」「でも聞こえてきて……」という声が聞こえてきた。でんぐり返りの直前だった。本人に聞こえないと思って油断して話していたのだろう。でんぐり返りを終え、後ろにまた回った。向こうの列からの視線を感じた。夏希はじっと前の男子の背中を見ていた。
昼休み。
拓真に呼び出された。
夏希の机は教室の真ん中だ。教室のど真ん中で呼び出された。恥ずかしいったらなかった。付いて行くのは本当に嫌だった。恥ずかしいのだけが理由じゃない。学校に来てから、ずっと張り詰めていた緊張の糸が切れ掛けていたのだ。やっと迎えた昼休み。夏希はひと目も憚らず自分の机で一人寝ようと思っていた。とにかく、不機嫌だった。
ここに来て、また緊張しだした。トイレに行きたくなっていた。
変なところに呼び出された。
校舎裏、林の影。こんなところ来たことなかった。
窓の向こう、林の影、見ずとも分かった。いくつもの視線を感じた。期待と期待。好奇心と好奇心。昨日のこと一昨日のこと。拓真に言った言葉。陸に言った言葉。
『嘘はいけない。どんな時でも絶対についちゃいけない。後で自分が苦しむから。』
自分で書いた言葉。
ふと、視線をあげた。
目の前に必死そうな男の子がいた。期待の目。縋った目。或いは不安そうな目。そのどれもが本当だ。言葉で嘘は付けても仕草は嘘を付けない。だってみんな子供だもんね。
夏希を見るその目。助けてあげなくちゃいけないと思った。
気付いたら「いいよ」と言っていた。
何がいいのか、自分でも分からなかった。
そこからの記憶は、千々に散らばるパズルのピースみたいになっている。繋がりそうで繋がらない。
何やら喋った。拓真とは確実に喋った。陸とも話した。内容は覚えていない。自習中、愛がこちらを振り向き何かを言っていた。「本当に君が?」「なんのこと?」レンが遠くから心配そうな目を向けていた。美乃里ちゃんが泣いていた。でもそれは一昨日のことだったんじゃ?「良夫くん」「良夫? よっしーじゃなかったのか?」「大丈夫か? 顔真っ白だぞ?」「大丈夫。あたしは大丈夫」どれもがぼんやりしている。ふらふらと帰った。誰かと一緒に部屋に入った気がする。ふらふらと寝た。泥のように眠った。あれ? お母さんがいない。
「お母さあん」
「なにー? って、なんであなた裸で寝てるの? もお~。ほらー。ばんざーい」
「ばんざーい」
「甘えてぇ。今日何がいいの?」
「チーズ入りハンバーグー」
「ええ~。面倒くさいなあ。じゃあお買い物一緒に付いてきてよお」
「行くー!」
お母さんがいない。靴がない。捜しに行かなくっちゃ。昨日の親子丼の残りと炒飯が減っている。食べてくれたんだあ。もう八時になってる。こんな時間まで眠っていたなんて。もうあそこのスーパーは閉まる時間だ。じゃあ、あっちのスーパーまで行かなくっちゃね。それに、また、あの人に会ったらやだし。あれ? 今日はスーパー行かなくていいんだっけ?
そうだ。お母さんを捜さなくっちゃ。
二日後、夏希に初潮が来る。
一ヶ月後、夏希の妊娠が発覚する。
出張から帰宅した夏希の父による犯人捜しが始まる。程なくし、夏希と同じクラスの菊池拓真という少年が浮かび上がる。双方話し合いの末、裁判沙汰にはしない。決して表にも出さない。二度と娘の前には姿を見せないという条件で話が収まる。
菊池家が引っ越し、霞ヶ丘町から出て行く。菊池拓真の存在は私立霞ヶ丘小学校から永久に失くなる。
それら一連の出来事を、ぼんやりと夏希は聞く。
二ヶ月後、夏希が中絶手術を行う。費用は全て菊池家負担である。
三ヶ月後、夏希は小学校四年生になる
らしい。
お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。お母さんの手が温かい。
お母さんの手が温かい。




