第五章 MOTHER 3
「よおって、お前」
家の手前まで来、陸と遭遇した。俯いて歩いてきていてもシルエットで分かった。近づいてしまったことを心の中で大きく舌打ちする。俯いて歩くと危ないよ――言おうと思った。余計なおせっかいが仇。それも立て続け。こんな失敗ばかり。こんな自分が嫌。
陸の視線はまじまじと夏希――正確に言えば夏希の涙を伝った頬――に、注がれていた。暗く、視界なんて利かないはずであるが、この距離ならば流石に関係ないであろう。誤魔化せないだろうと自覚しつつも、夏希は誤魔化すことにする。
「あー! 残念だったなーって」
「へ?」
気分はこざっぱりとしている。泣いたからか。頭に浮かんだ言い訳は自分でも納得のいくものに感じた。夏希が自転車の為、一段低い位置にいる陸は、唐突に声を張り上げ出した夏希を訝しげに見上げている。
「何が?」
「拓真くんがあんなことになっちゃって」
「……ええ?」
そういえば――と、この前のことを思い出す。陸は味方してくれていた。自分を信じてくれていたのだ。そのことに、小さな罪悪感が芽生えた。でも、いいや。面倒くさくなった。
「拓真くんにチョコあげたでしょ? でも、拓真くんがあんなことになっちゃってさ。あたし実は知らなかったから。それでちょっと泣いちゃって」
「はあー? あれはでも小石川がやったってあいつらが」
小石川? 何故ここで美乃里ちゃんが出てくるのであろう。
「じゃね!」
これ以上陸と話していると嘘がバレそうだ。夏希はぐっとペダルに力を込めた。何か言う間もなく自宅の塀の内側へと入った。塀越しでも背中に視線を向けられている気がする。鼓動が少しだけ早くなっている。心臓がきゅうっと誰かに握られているような。そんな気持ち。苦しい。苦しい。誰かが叫んでいる。あたしだ。叫んでいるのも握っているのもあたし。錯覚だ。自転車を留め、玄関の扉を潜る。
「ただいまーって……あれ? お母さん?」
今度こそお母さんがいない。
「ぶぇっ」
意識が朦朧としだし、湯船の中で尻が滑った。一昨日張ったままで追い焚きしたお湯が口と耳と鼻に入り夏希はむせた。シャワーを浴びる。これでやっと身体の汚れが綺麗に洗い流せたような気がする。次はお母さん――、と考えたところで、このお湯にお母さんも入れるのはあまりにもあんまりかなと思う。けれど、今洗ったら一昨日のお湯で入浴した夏希が馬鹿みたいだ。いいや。考えるのが面倒臭くなって栓を抜く。お母さんは夏希の作った料理を美味しそうに食べてくれていた。嬉しくなった。久しぶりだ。多少お風呂の時間が長くても構わないだろう。ゆっくりと流れるお湯を裸で待った。寒いからシャワーを浴びて待った。全部抜けたところで湯船をごしごしとスポンジで擦る。いつもより適当になっているが構わないだろう――と思ったが、やっぱりちゃんとやることにした。壁面にある給湯器のスイッチが目に留まった。『2:00』で点滅している。この時計は十分遅れている。直そう直そうと思い忘れていた。今やっちゃおう。
お母さんは近所のコンビニにいた。
外灯の下、広い駐車場の縁石に腰掛け、缶のお酒を飲んでぼうっと座っていた。足元には缶が二つ、それから何かの串が転がっていた。
「何やってるの。お母さん」
「翔太さんがいなくて」
翔太さんとは夏希のお父さんだ。出張中。何のお仕事をしているか、夏希は知らない。以前お父さんに聞いた時は喋るお仕事だと言っていた。
「行こ。こんなところいちゃお店の人に迷惑だよ」
お母さんの手を夏希は掴んだ。手は温かい。さっきまでは冷たかったのに。買い物であまり長く時間を空けたから寂しくなったのかもしれない。嬉しいと哀しいと面倒くさいが同時にやってくる。その気持ちを処理することなく、夏希はお母さんの手を引っ張った。
イヤイヤするように、根が張ったように動かない。当然、子供の夏希にはどうすることもできない。駐車場に入ってきた乗用車のライトに当てられ夏希は顔を顰めた。なんだか酷く恥ずかしかった。
ここまで三時間掛かっていた。お父さんに何度も電話を掛けた。電話は繋がらなかった。諦め、自転車で町を駆け巡った。こんな時間に自転車で、お巡りさんに見つかるか何か危ないことが起こりやしないかと捜している間中、妙に緊張していた。だから「お母さん」とは呼ばなかったし呼べなかった。目で探した。あっちこっちあっちこっち行って家まで戻って誰もいなくってがっかりしてまたふらふらふらふらして目に入ったコンビニの駐車場にお母さんはいた。そのコンビニの前を、夏希は三回通り過ぎていた。
「あ。夏希ちゃんがいる」
手を引っ張りながら「うーうー!」唸っていたら気がついた。
「行こっか」
せいいっぱい笑った。




