第三章 霞ヶ丘小女子児童自殺騒動4
チャプター8 宮内正志
宮内正志は愕然としている。預金通帳の数字を、今しがた書き込まれたばかりの数字を、震える手で、それでもしっかりとなぞり。その手はかさかさとしている。爪は黒ずみ、ところどころ昼間の土が入り込んでいる。いつものこと。掻き出す気は起きない。
二十七万円。
おかしい。百万円はあったはずなのに。どうして。いや。聞くまでもなく分かる。目はしっかりとそれを捉えている。つい一週間ばかり前に八十万円が引き落としされている。
「ん。んんっ」
後ろに並んでいるスーツ姿の男がこれ見よがしに空咳してきた。正志は銀行のATMに軽く蹴りを入れ、後ろを振り向いた。さっと視線は俯き逸らされるが、正志は仕返しのつもりで肩からぶつかった。スーツがよろけたが知ったことではない。
自動ドアを潜り抜け、駐車していた車に乗り込んだ。背中をどっと預け、ダッシュボードに通帳を投げ出した。フロントガラスに薄っすらと反射している通帳が目に入る。不快だったが、もう一度手に取る気にはなれない。
ポケットには今日貰ったばかりの給料が入っている。
正志を雇う土建会社は未だ現金手渡しだ。何も書いてない茶封筒に入れ、「ほい。これ。今月分」と渡してくる。いつものこと。そういう会社だ。それを正志は通帳に入れる。これもいつものこと。結婚してから始まったいつものこと。
金があればギャンブルに走ってしまう正志を見るに見かねて妻が提案してきたことだった。始めは正志も渋ったが、これから掛かる費用を考えると、漠然とだが、その方が良いんじゃないかと思いもした。結果として先月でついに百万円という、正志の中では大台に乗り、これまで漠然としてあった将来に対する不安も少しは薄れていくのを感じていた。
――それなのに。
久々に現場が早くに終了し、こうして昼間から銀行に来られている。早くに銀行に行かないと使ってしまいそうだったからだ。妻に直接渡してもいいが、正志の中でこの銀行に振り込むというサイクルが定着していた。やらねばやらないで不安になる。
ポケットの中には茶封筒は入ったまま。
煙草に火を付けた。紫煙を燻らせ、ぼんやりと最近の妻の様子に想いを馳せる。
妻がおかしくなったのは最近のことだ。それが正確に何時かは思い出せないが、ここ一ヶ月くらいであることは確かである。
正志は、『結婚して女は変わる』というやつだと思っていた。
夕方頃、週に二度、外食すると言い出て行くことが増えた。妻は、自分の私物――鞄だとか服だとか雑誌だとかアクセサリーだとか――を、だんだんと処分していっている。金に替え他の物を買っているでもない。貯金しているでもない。むしろ逆。
あれだけ好きだったテレビを見なくなった。
いや、見てはいるのだ。ただ、バラエティやドラマを一切見なくなり、その代わり、世界遺産や、最近始まった情熱大陸など、今まで妻が興味を示さなかった番組を好んで見るようになった。
アレはアレで面白い。最初こそ億劫だが、見てしまえば最後まで見る。自然の雄大さや何かに熱心に取り組む者を見て何も感じないほど正志も人間辞めてない。
あとはそう――妙に凝った料理を作るようになった。お菓子などもそう。妻の料理が上手くなる。正志には得しかない。何かに熱心になるのは良いことだ。それは分かる。子供の頃は料理人になりたかったとかなんとか。言っていたような。いないような。
「たしか」
じいさんだ。同じ現場に入ってる園田のじいさん。皆からじいさんと呼ばれている。ベテランってわけじゃない。立場があるわけでもない。どこから引っ張ってきたんだか知らないが。正志より立場は大分下の、ちょっと前に入った人の良いじいさんである。
そのじいさんが昼間、こんなことを言っていた。
「最近ばあさんがおかしくてなあ。物とか処分するんだわ。俺んまでな。この前なんて溜め込んでた俺の酒全部失くなっとるから、どうしちまったんだって聞いたら全部処分したとさ」
「なんだ。じいさんより先にばあさんがボケちまったのか。大変だなあ。これから」
などと言い、現場の皆でげらげら笑った。
じいさんはしょげかえっていたが。
ふと、思い立つ。
「訊いてみるか」
ダッシュボードに乗っかっている通帳を手で払い除けた。
次いで車のエンジンを掛ける。車体が勢いよく前に飛び出し、すぐ手前を通り過ぎようとしていた老人がびくりと体を強張らせた。無視して道路に出る。
――じいさんは今日なら……。
「パチ屋にいるはずだ」
三万円までなら構うまい。
チャプター9 久留米大貴
何か、よからぬことが進行している。
――既にかなりの事態か。ただ、これで終わる気がせんのよな。
階堂組の本拠地ということもあり、霞ヶ丘町は以前からいざこざの絶えなかった土地だ。田舎ということもあり、近隣に他の組があまりないのは幸いだったが、それでも全くないというわけではない。小競り合いめいた事態は時折発生する。
そんな時、大貴はこの町にやって来る。刑事部組織犯罪対策。暴力団担当、久留米。
最近は、表の事業が成功しているお陰かすっかりこの土地とはご無沙汰になっていた。土建会社の方はどうにも管理体制がなっていなく、不法投棄や住人との揉め事など度々あって辟易していた。言ったところでどうにもならないからだ。あと、遠い。
あちらが成功してくれるならそれでいい。
ヤクザ上がりだろうが、ビジネスはビジネスだ。ノウハウが無い分、土建会社より適当に出来ないのかもしれない。ヤクザが必死でやってると知っていると、思わず嗤いがこみ上げてくる。
表の表。
てっきり、このまま完全に家具屋に転身するのかと思っていた。いや、正確には願っていたか。そうなってくれればありがたいと心のどこかで考えていた。
逆戻りか。事が事だ。ただで終わらすつもりはないだろうと予想する。禄でもない事態になりそうな予感しかない。今のところ動いている様子はない、が、大貴たちが把握出来ていないだけかもしれない。組内部の情報伝達は今一体どうなっているのか。
――傷は深いはず。
気持ちは一日二日でそう簡単に切り替えられるものではない。正に、事が事だ。向こうも悩んでいて、どうしようもなくなって、だから大貴をこうして頼ったわけだ。
「ちっ、めんどくせえな」
「そっすね」
大貴の呟きに反応したのは、最近配属された{末永|すえなが}だ。若く、きびきびとしている。マル暴どころか刑事にすら見えない。柔和な瞳とその爽やかな髪型のせいか、一見どこにでもいる普通のビジネスマンだ。付いてくるならまずその見た目をどうにかしろと言ったのだが、聞かず、ずっとこのまま。最近では慣れてきてしまった。度胸は座っている。
「ヤクザに強盗に、あと宗教ですか? カルト教団って言うんですか? ああいうの」
「宗教は、関係ねえと思うがな。大方、内側の奴だろ」
「わかりませんよ。こんな家に侵入するなんて、よっぽどの怖い者無しか、考えなしか」
「だから宗教だってか? つか、侵入があったのはこの家じゃねえよ。幾つかあるうちの家のひとつだとよ」
「分かってますよ。流石にここには侵入できません」
そのキラキラとした笑顔を見、嫌気がこみ上げてきた。このまま引き返したい衝動に駆らるがそういうわけにもいかない。
現在、この霞ヶ丘町で、二件の盗難事件が立て続けに起きている。
一方は、あの『崎坂』の家だ。あの私立のお坊ちゃまお嬢ちゃま校の校長の家である。地元では名家として名を馳せている。
崎坂はとにかく顔が広い。町長、県長、政治家、地元企業の役職持ちなどなど……常に人の行き来がやまない家だ。
そこに、先日空き巣が入った。
よりによって盗まれたの物の中には猟銃があった。散弾銃だという。
そちらにはそちらで人が行っている。
対して自分たちはこちらだった。二名だけ――無論、今のところはである。
「とにかく話を聞かにゃあな。まさかヤクザから直々にご指名が掛かるとは」
「警察って指名制だったんですねー」
「んなわけあるかい」
軽口を叩く末永に軽く返して大貴は表札の下にあるチャイムを鳴らした。すぐに「はい」という男の声が聞こえてきた。
「久留米です」
「ありがとうございます。今、行きます」
スピーカーがぶつっと音を立てて切れた。
ここに来る前、受けた電話の内容を思い出す。
聞いているだけで胸が苦しくなるような話だった。
「事が事だ。向こうさんも慎重になってんだろう。敵だろうが何だろうが見知った奴じゃないと話すらする気はないんだとよ。気持ちは理解る。やり切れねえよ」
神妙に頷く末永を横に、大貴は開く門を見やった。
濃紺のスーツの男が立っていた。男は言う。
「久留米さん。わざわざ遠いところからご足労ありがとうございます。どうぞ、こちらへ」
階堂組、三代目当主――{二階堂嶺二|にかいどうれいじ}が直々に迎えに来た。両脇を見知った黒服ボディガードが固めている。
――痛々しい。
今はまだ、この男は大人しい。
暴走する前に犯人を突き止め、そして捕まえねば。




