後編
文禄3年(1594年)――――俺は日本から追放されることになる。
その経緯を語って行こう。
今川幕府が崩壊して今川家から独立した松平元康は天正4年(1580年)に徳川家康と改名した。
上杉の乱では上杉謙信の甥の上杉景勝を支持して同盟を結んでいる。これには上杉家と太いパイプがある俺が骨を折った。
また、武蔵の国で旗揚げしていた北条氏規との同盟を締結した。
小田原城が落城した後で行方知れずとなっていた北条氏政の弟の氏規が、上杉の乱の混乱に乗じて旧北条家臣を集結させて挙兵したのだ。
数年で周囲から無視できない勢力となった北条氏規に対して旧知の仲の俺が徳川との橋渡しをしたのである。
また、今川氏真の死により九州に取り残された旧幕府軍を率いていた松比奈秀吉(旧世界の豊臣秀吉、松平と朝比奈の姓をもらって松比奈を名乗る)は九州で豊後に独立勢力を築いていた。
徳川家康はいち早く秀吉に接触して同盟を結ぶと秀吉の仲介で毛利とも同盟を結んだ。
こうして徳川家は同盟と戦を繰り返して勢力を拡大させて行った。
最大の敵は旧今川幕府の残党だ。幾内を中心とした旧幕府勢力を各個撃破して徳川の領地を増やして行く。
そして本能寺の変より十年ほどで徳川は日本最大の勢力へと成長していくことになるのだ。
徳川家は畿内の旧今川勢力を滅ぼすと京へ拠点を移して朝廷に幕府を開くことを認めさせる。
新しく征夷大将軍に任命されたのは――――俺だ。
天正14年(1590年)、今川義元征夷大将軍就任。
とんだ茶番である。
氏真の死後に空位だった将軍職に俺が着いたのは今川幕府から徳川幕府への禅譲のためだ。
徳川家康は家系図をいじり自らを源氏の子孫としたものの、源氏の嫡流からはほど遠い。
その為に今川幕府の最後の将軍として俺を征夷大将軍にした後で、今川と徳川の血を引く信康を徳川幕府の初代将軍にしようというのだ。
そして大御所として家康が幕府の実権を握る。
正直なところ俺はもう隠居したかった。
だが、周囲の思惑により将軍に祭り上げられてしまう。
家康は幕府再興の大義を元に強権を発動して逆らう者を次々と粛清して各地の大名を支配下に置いた。
天正16年(1592年)、今川義元征夷大将軍を辞任。
徳川信康征夷大将軍に就任。同年改元により文禄とす。
ようやく隠居出来る。そう思ったが家康はそう甘くはなかった。
前将軍で現将軍の縁者という立場の俺は大御所政治を行う資格があった。
俺にその意思があるかは問題ではない。やろうと思えば出来る立場というのが問題なのだ。
実際に大御所政治を行う家康にとって俺は邪魔者以外の何物でもない。
こうして家康は様々な策謀を積み重ねて俺を排除しようとした。
流石に命が惜しい俺は幕府に関わらないように隠居して逃げようとするも国内にいられては困るということで、南蛮貿易の責任者という適当な役職を与えられて国外に追放された。
文禄3年(1594年)のことである。
齢75歳にして国外追放。
追放されてばかりの人生だ。
流石にこれで俺の人生は幕を閉じる。
そう思っていた時期がありました。
徳川幕府の成立により日本では戦がなくなった。
その為に多数の浪人が出始めた。浪人たちは海外に活躍の場を求めることになる。
そこで目指したのが多くの武勇伝を持つ元征夷大将軍の俺だ。
征夷大将軍と言うのはそもそもが夷敵―――外国勢力を討つ役職だ。
そんな俺が国外に出たということで南蛮勢力を討伐する外征部隊という噂が日本国内に広まったらしい。
余生を静かに過ごしたいと思う俺の周囲にたくさんの浪人が集まってくる。
ある程度の貿易利権があるとはいえ大量の浪人を食わせる余裕はない。
仕方がないので浪人達による傭兵部隊を組織した。
東南アジアで戦争がある時に傭兵を貸し出すという商売を始めたのだ。
しばらくすると東南アジアにおいてサムライ傭兵団の強さが知れ渡るようになる。
俺も老体に鞭打ちながら指揮を取っていた。
長年の経験と21世紀の戦術と日本から取り寄せた最新の重火器により傭兵団は敵なしだ。
百年間の戦国時代を生き抜いてきたサムライ達は個々の武勇と気迫もずば抜けていた。
そんなサムライ傭兵団をお得意様としてくれたのがシャム王国のサンペット2世である。
サンペット2世はシャム王国の英雄だ。
ビルマの属国であったシャム王国を独立させると、逆にビルマに攻め込んで勝利した。
その戦にサムライ傭兵団は参加して多くの戦果を挙げている。
サンペット2世はサムライ傭兵団を気に入り家臣として取り込もうとした。
俺は安住の地が欲しくて彼に仕えることにした。
1598年に俺は日本人傭兵の住む町の領主となりシャム王国の貴族の位を与えられた。
80歳になろうかというのに大将軍として数々の戦に駆り出されて忙しい日々を過ごしている。
1600年のビルマとの戦争に置いては首都のペグーを陥落させてビルマを従属させた。
サムライ傭兵団はサムライ騎士団と名を変えて東南アジア、いやアジア全体に名を轟かせることになる。
いつまで経っても隠居できないと愚痴りながら充実した日々を送る中、1604年にシャム王国の国王のサンペット2世が病死してしまう。
英雄王の死に国全体が悲しみ葬儀が行われた。
葬儀の最中、新しく王となったサンペット3世が俺に宣言した。
「ヨシモトよ。お前をシャムから追放する! お前とサムライ騎士団はこの国にとって脅威なのだ!」
何度目になるか数えていない追放宣言だ。
それを聞いた85歳の俺はため息をついた。
「こんな老人に何が出来ると言うんだ。隠居して静かに余生を過ごさせてくれんか」
「ダメだ。日本人の傭兵はこの国で最大の勢力となっている。お前が奴らを連れて国を出ていかなければ収まらん」
サンペット3世の意思は固いようだ。
「仕方ありませんね………」
俺が手を上げるとサンペット3世を守っていた近衛兵が俺に向けていた槍をサンペット3世へと向けた。
「な、なんだお前たちは。私は国王だぞ! 武器を向ける相手が違う!」
動揺するサンペット3世。
「今までの人生で五回………いや、六回かな。それだけ追放されてるといい加減に学習するものだ。この年で七回目の追放は勘弁してもらいたいのでね。手は打っておきました。この国で最大の武力を行使できる私が政治工作出来ないと思ってました?」
「ぐ、ぐぬぬ………」
「安心して下さい。私は終の棲家が欲しいだけです。これで安心して隠居出来ます。私が死んだら国王の座はお返ししますよ」
サンペット3世は近衛兵に連れられて軟禁されることになる。
こうして俺は隠居―――なんか出来るはずはなく、シャム王国の国王となり死ぬまで政治と軍事を司ることになる。
この後はスペインやイギリスと交易を初めることとなり西欧諸国との折衝に追われることになる。
六度追放された転生者である今川義元は七度目の正直とばかりにシャム王国でその生涯を閉じた。
口癖は「隠居させてくれ」だったという。
彼の死後に解散したサムライ騎士団は東南アジア諸国に散らばり土着していくことになる。
徳川幕府は日本人の海外渡航を禁じて日本人傭兵は姿を消した。
東南アジアに日本人傭兵の面影は消えていき一人の王の伝説だけが残った。
今川義元 1519年~1614年 享年95歳。追号:追放王