中編
元亀4年(1571年)、俺は相模を追放された。
甲斐の武田を追放されてから五年、今度は相模の北条を追放されてしまった。
この追放劇は一言で言えば後見人の消失、つまり北条氏康の死によるものであった。
五年前に俺を追放した武田信玄は上杉謙信が上洛した隙をついて越後に攻め込んでいた。
一時期は快進撃を続けて城をいくつか落としたらしい。
これに激怒したのが足利義昭だ。将軍の面子を潰されたのだから。
上洛して将軍に就任した足利義昭はすぐに武田追討を各地の大名に命じた。
武田と同盟を結んでいた北条と今川はのらりくらりと命令をスルーしていたが、東美濃の利権を巡り武田と揉めていた今川は元亀元年(1568年)に同盟を破棄して武田に攻め込んだ。
北条は佐竹との戦が続いていたので動けないと武田包囲網には加わっていない。
だが、元亀4年(1571年)に北条氏康が病死したことで風向きが変わった。
新たに当主となった北条氏政は武田との同盟を破棄して上杉と同盟を結びなおした。甲駿相三国同盟は完全に崩壊することになる。
この時に俺は北条氏政により相模から追放されたのだ。
外様なのに改革しまくって名声を轟かせたのが原因だと思う。
俺は越後へ同盟の証として派遣された。人質なのか援軍なのか良く分からない立場で子飼いの軍勢を同行して越後へと入った。
そこで待っていたのは――――上杉謙信であった。
「貴殿の武勇伝は聞いている。よく来た」
話を聞いてみると俺の越後追放は謙信の希望に沿ったもののようだ。
上杉謙信は俺が欲しい。北条氏政は俺を厄介払いしたい。両者の思惑が一致したのである。
上杉謙信と俺はなぜか気が合った。
謙信はある種の天才で俺の未来の軍略を肌感覚で理解したようだ。
扱いづらいであろう俺を重用して武田討伐軍の大将にまで据えた。上杉も国衆がうるさいが軍略に関しては謙信に口出せる者はいない。俺も謙信の期待に応えて信濃へ攻め込んで武田を追い詰めた。
潮目が変わると脆いもので上杉・今川・北条に攻められた武田は崩壊の一途をたどる。
俺は隠居していた真田幸綱を調略すると真田一族を引き入れて一気に信濃を攻略した。
元亀3年(1572年)、武田信玄討ち死。平安時代から続く甲斐武田家は滅亡した。
甲斐・信濃・下野・上野は上杉・今川・北条で分割されることになる。
ところが武田が滅ぶと今度は今川と北条で争いが始まることになる。
甲駿相三国同盟が崩壊したことで駿河・伊豆の支配権を巡って今川と北条が対立したのだ。
氏政は駿河を欲しがっていた。それで駿河攻略のために俺を呼び戻そうと画策していたようだ。
だが、相模の家臣団の反対に合い断念したようである。
氏政は俺がそれに乗ると本気で思っていたのだろうか。そもそも俺が息子の氏真と戦うはずはないではないか。
今川と北条のどちらに味方するかと言えば今川以外にはありえない。
ボンクラだと思っていた氏真は今では上洛して管領となり畿内を支配している。
親として誇らしい限りだ。
畿内の政治のことは氏真に任せても問題はないだろう。
俺は後顧の憂いを排除しようと決めた。
今川は幕府の重鎮である。
それと敵対するのは幕府の敵だ。
そして上杉謙信は幕府の忠臣であり義の人だ。
謙信は俺との友諠もあり北条を滅ぼすことに手を貸してくれることになった。
小田原城で五年間過ごした。多少の感傷はある。だが、北条氏康への恩はあるが氏政に対して思うことはない。
息子である今川氏真の覇道のために北条には消えてもらおう。
俺は謙信と共に東国の大名をまとめて北条包囲網を作ることにした。
小田原城は燃えている。
俺は小田原城に五年住んでいたのだ。内政チートや軍制改革をしている間に穴も見つけている。
北条氏政は討ち死にした。そして北条氏直は降伏した。
元亀7年(1574年)こうして関東の雄、後北条家は滅んだ。
それから更に三年後の天正元年(1577年)…………。俺は奥州平定に励んでいた。
奥州の覇者である伊達家を味方に付けるため伊達家の当主、伊達政宗に使者を送った。
しかし政宗は拒否して戦争になったが、何とか勝利して従わせることに成功した。
伊達家の従属を切っ掛けに奥州の大名たちは次々と服従することになる。
一方で畿内では政変が起きていた。足利義昭が織田信長に敗れて京を追われたのだ。
織田信長は今川氏真の家臣で京都守護職である。足利将軍家の権威をないがしろにしていた。
氏真は義昭を疎ましいと思っていたようだが、信長が追放したのは予想外だったようだ。だが、こうなっては後には引けないとなり、朝廷に迫り義昭の将軍位を剥奪して自らが征夷大将軍となった。
上杉家は意見が割れたものの最終的には今川幕府を支持した。
天正2年(1578年)、俺は今川幕府の御伽衆として将軍・今川氏真の補佐役となった。
幕府を支える重鎮である。
天正3年(1579年)――――俺は幕府を追放された。
俺が追放されることになった遠因の一つは上杉謙信の急死である。
どうやら脳溢血だったようだ。酒の飲みすぎで高血圧気味のようであった。もっと注意するべきだっただろう。
謙信と俺が蜜月の仲というのは周知の事実だ。幕府で強い発言力を俺が持っていたのは上杉家の軍事力の後押しがあったからと言える。
今川家は大きくなり様々な派閥が出来ていた。20年も今川を離れていた俺が将軍の父というだけで振るえる権力には限りがある。
そんな中であの事件が起きた。
本能寺の変である。
九州征伐をしていた松比奈秀吉が島津征伐の大詰めで今川氏真に援軍を求めた。
全国統一の最後の指揮を将軍親征で終わらせるためだろう。
その親征の準備をしていた織田信長が本能寺に宿泊していた今川氏真を討ったのだ。
将軍を討った信長は京を抑えて氏真の嫡男も殺した。
朝廷も京の混乱を抑えるために信長に京の治安維持を命じる。
今川家中は混乱に陥っており畿内で動かせる軍勢はなかった。上杉謙信が亡くなり家督争いが激化していた上杉家は混乱の最中で武力衝突が起こり、上杉が支配していた北陸・関東・東北は互いに争い合い混迷を極める。
精鋭部隊は九州におりすぐに帰還できる状態ではない。
織田信長は着々と足場を固めて謀反は成功したかに思えた。
そこで信長と相対したのは松平元康である。
三河と尾張を領国としていた今川の重臣は国許で兵を集めると京の織田信長へ決戦を挑んだ。
天下分け目の戦いは京と尾張の中間地点である関ケ原で行われることになる。
両雄の決戦は松平元康の勝利で終わった。
元康は氏真の竹馬の友だった。友の仇を討ったのだ。
氏真と嫡男が本能寺の変で死んだことにより今川幕府は崩壊していくことになる。
その混乱の中で俺は幕府から追放されてしまった。
今川家は跡目争いで揉めていた。俺は将軍・氏真の父であるが一度追放された身で親族扱いではなかった。
その微妙な立場が災いしたのだ。
齢60歳にして再び追放されてしまった。
謀反人の織田信長は死んだが、東日本は上杉の乱により小勢力に分裂し、中部畿内は旧今川幕府勢力が争い、九州・中国・四国では毛利や島津や長曾我部が息を吹き返して独立した。
統一寸前の日本は再び戦国時代へ戻ることになる。
今川を追放された俺は松平元康の世話になることにした。
元康の嫡男の信康の母は俺の義理の娘で姪である。系図的には外祖父であり血縁もそう遠くはない。
今川の血を引いている信康を残りの人生をかけて守り育てようと考えたのだ。
元康の義父でもあるので松平家でそれなりにでかい顔も出来る。元康が竹千代と名乗っていた時に世話をしていたのは俺だ。恩を返してもらわないとな。
そしてそれから15年後………文禄3年(1594年)――――俺は日本から追放されることになる。