前編
「ここから先に通すわけには行きません」
同盟国へ直接出向いて条約を結んだ帰りに関所にて足止めをくらった。
何事だと問いただすと国許でクーデターが起きたようだ。
そのクーデターの首魁はどうやら息子らしい。
令和の時代から戦国時代に逆行転生して40年。未来の知識を使って必死に生きてきた。
それがこんなことになるとは………。
俺は呆然として今生の人生を振り返っていた。
永正16年(1519年)、駿河にて生まれた。
自我を持ち前世の記憶が蘇ったのは大永3年(1523年)あたりだろうか。
この年に俺は初めて追放されることになる。
名家の三男であった俺は家督争いを避けるために家から追放されて寺にいれられたのだ。
当時の自分は戦国時代に逆行転生したものの寺のモブの坊主になったものだと思い込んでいた。
だが、しばらくすると自分が貴種であることを理解することになる。
俺は「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元に転生していたのだ。
天文5年(1536年)に起きた花倉の乱で俺は今川家の当主となった。
それまで俺はなるだけ動かず史実通りになるようにしていた。
何かなすには今川家の当主にならなくてはダメだからだ。
今川家の当主となった俺は太原雪斎の助けを借りて内政チートを始める。
稲作の方法を変えて収穫量を増やしたり、商品作物を作り貨幣経済を推進したり、楽市楽座を主催して経済を発展させた。
大名というのは国衆のリーダーである。俺は中央集権化をはかり家臣を土地から切り離して銭で雇うように仕組みを変えていった。
甲斐の武田信虎と同盟を結び信虎の娘を正室とすると、武田と敵対していた北条氏綱の怒りを買い戦ともなった。
この辺りは史実通りなので仕方がない。なるだけ被害を出さないように凌いでいった。
この時期は大きく歴史から外れないようにしながら国力を高めることに重視していた。
人材も集めている。仕官しに来た山本勘助を家臣として受け入れて侍大将として小豆坂の戦いに参加させている。
遠江の松下之綱を抜擢することで松下之綱の小物をしていた木下藤吉郎―――後の秀吉を今川の直臣に引き抜くことにも成功した。
藤吉郎は武勇はないが金勘定や人足の手配に長けているために重宝している。
そして天文22年(1553年)、史実より一年早く甲相駿三国同盟を結成した。
ここから歴史改変を加速していくことにする。
息子の今川氏真に家督を譲ると内政改革で発展した経済力を活かして軍備を増強した。
未だ不満の燻る遠江と三河を力で押さえつけると弘治2年(1556年)に尾張に侵攻を開始した。
この時の尾張は織田信秀の子の信長と信勝の勢力で割れていた。
織田信長は美濃の斎藤道三の娘婿で道三の後ろ盾を元に尾張を支配していたが、斎藤道三が長良川の戦いで斎藤義龍に敗れたことで後ろ盾を失ってしまう。
そこで織田家の家督を奪うために織田信勝が挙兵した。稲生の戦いだ。
実はこの戦いに俺は関与していた。織田信勝を支援していたのだ。
武具兵糧と傭兵足軽を信勝に支援したことで信長の勝利で終わるはずの戦は長引いた。
そしてその隙に兵を集めた俺は三万の大軍で尾張に押し寄せたのだ。
信勝は既に調略済であり信長もすぐに降伏した。
尾張は今川家の支配に入り織田は今川家の代官として尾張を治めることになる。
次は美濃の斎藤義龍だ。
美濃を落とせば京まで一直線となる。
「足利が絶えれば吉良、吉良が絶えれば今川」
こういう言葉がある。実は後世の作り話だそうだが今川は足利将軍家の分家の一つなのは事実だ。
由緒正しい家柄で将軍になれるだけの家格はあるのだ。京では足利将軍家は衰退して三好長慶が天下人になっている。三好に出来て今川に出来ぬことはない。
俺は天下人を目指して美濃の攻略を始めた。
というところで冒頭に戻る。
一度駿河に戻り北条武田との同盟関係を強化するために甲斐の武田家へと出向いた。
その帰りだった。俺は関所で足止めを食らっている。
どうやら俺の息子の今川氏真が謀反を起こしたようだ。
国衆の権限を抑圧して中央集権していたツケが来たらしい。座を制限したことが寺社の反感を買っていたのもあるだろう。
内部に敵を作りすぎたせいで息子の氏真が担ぎ出されて国を追放されてしまった。
今川家は名門ではあるが短期間で発展して領土を急拡大させた。それが面白くないと思う連中もいるだろう。それは同盟国の北条や武田も同じだったようだ。息子の氏真が今川の頭領となり現状維持で留まることを武田も北条も歓迎していて、このクーデターを裏で糸を引いていたようだ。
駿河を豊かにして領国を増やしたというのに駿河の民に裏切られるとはなんたる仕打ち。
俺は気落ちして甲斐の躑躅ヶ崎館へと向かった。
俺は甲斐の躑躅ヶ崎館で軟禁生活を送ることになった。
武田晴信からは「ゆるりとして下され」と言われたが、流石にこの状況で呑気に構えていられない。
氏真から送られてきた手紙には「駿河は任せてください」と書かれている。どうしたものか……。
いっそのこと出家して仏門に入るか?
いやダメだ。俺は前世でも今生でも仏教徒ではないし、宗教というのは政治の道具だと思っている。神という偶像を作り民衆を扇動する。宗教とはそういうものだと割り切っている。ならば出家しても意味がないな。
ならば隠居するか? いやそれも違う気がする。
年齢も38歳で働き盛りだ。それに俺は戦国武将なのだ。このまま朽ち果てるのは惜しい。
それならば武田の客将として暴れてやろうではないか。
駿河で実験して広めた未来の技術で武田を強くしてやる。
もちろん今川と敵対するつもりはない。敵は上杉だ。新たな幕府を作る夢は潰えたが俺は死ぬまで戦国大名だ!
そう考えた俺は武田晴信に幾度となく面会して信頼を得ることに成功する。
治水を整備して果樹栽培の増産に成功。甲斐にブドウ栽培を広めた。
甲斐の気候にあった農政政策を進めていく。
俺を追放した今川をどうこうするつもりはない。息子の氏真には頑張って今川家を支えて欲しい。俺は武田家で自分の力を試したいだけなのだ。
すでに歴史は本流から離れている。三英傑と呼ばれた信長・秀吉・家康は今川の家臣だ。だが、氏真が天下人になれるとは思えない。
俺は武田家で力をつけて何かあった時には今川家の助けになろうと考えた。
そして――――永禄9年(1566年)、俺は甲斐を追放された。
駿河の今川を追放されてから10年、今度は甲斐の武田を追放されてしまった。
これには複雑な情勢の変化がある。
まずは今川の情勢。息子の今川氏真は駿河の経営に専念して尾張に朝比奈親徳を派遣して支配していた。
朝比奈の元で頭角を現したのは織田信長である。信長は前線指揮官として非常に優秀だった。美濃攻めにおいて幾度となく活躍して永禄7年(1564年)には斎藤義興を倒して美濃を攻略してしまった。
今川が美濃を支配下に置いたことで武田との関係が微妙になった。武田は東美濃への影響力を伸ばしていた。そこの権益が今川とぶつかったのである。
武田の方は五度に渡る川中島の戦いの末に上杉と膠着状態になっていた。
海がどうしても欲しい武田信玄であったが、南の今川は同盟相手で盤石であり、北の上杉は軍神上杉謙信の前に攻めあぐねていた。
俺が甲斐の農業や経済の改革をして国力を増強させていたが、上杉との戦に対して影響はなかったようである。
もしかすると山本勘助を今川で雇ったのが影響しているのかもしれない。山本勘助は本来なら武田の家臣だったはずなので。
とにかく武田は上杉と今川に挟まれて身動きできない状態になっていたのだ。
そんな中で京で大事件が起こる。永禄の変だ。
永禄8年(1565年)に将軍・足利義輝が三好の軍勢により殺されたのである。
その時に近江の六角に保護された義輝の弟が足利義昭を名乗り上洛して三好を討つと各地の大名に呼び掛けた。
これにいち早く呼応したのが上杉と今川である。
足利義昭は武田と北条に対して上杉との和睦を命じて上杉謙信の上洛の段取りをつけた。
この時に武田家で意見が割れた。
足利義昭の命を守るべきという武田義信と上杉が上洛する隙に越後を攻めるべきという武田信玄の対立である。
俺は娘婿の武田義信を支持した。この上洛戦は成功すると思われたし、武田義信という青年を気に入っていたからだ。
だが、信玄の海への執着は思いのほか強かった。彼は嫡男である義信を幽閉して切腹に追い込んだのである。
そして義信派の家臣を次々と追放した。
命こそは取られらなかったものの甲斐から追放された俺は娘と共に駿河に帰ろうとした。
ところが。
「義元様は相模で預かることが決まりました。駿河には入れられません」
関所にて追い払われて駿河に帰ることが出来なかった。
どうやら俺は駿河でとことん嫌われているらしい。
武田でもガンガン改革を主導していたので保守派から警戒されているのだろう。
俺は泣く泣く娘と別れて一人相模の北条家へと向かった。
北条氏康は俺を歓迎してくれた。
小田原城に到着すると歓待してくれると俺に相模の農政改革を主導するように頼んできた。
俺には駿河と甲斐で実績がある。氏康からすれば喉から手が出るほど欲しい人材なのだろう。
駿河においては自分が当主だったこともあり強引に改革を進めていたが、今は調整役の上役がいるので細かいことは気にしない。
利権がぶつかり難しい部分は氏康に止められる。何かあったら氏康がケツ拭いてくれるので問題ない。
氏康は俺を信頼して農政改革だけでなく軍制改革も任せてくれた。
今川を強兵にしたのは俺の手腕だしな。
武田では軍備に手出しできなかったが北条なら思う存分やれるぜ!
この頃に氏康の息子である北条氏規が俺の弟子のようになった。
北条氏康は氏規を使って俺の知識と技術を北条家に取り込もうとしているようだ。
俺としても隠居が見え始めた年なので息子のような年齢の氏規を後継者として育てるのはやぶさかでもない。
俺は氏康の信頼に応えるべく全力で取り組むことにした。
そして――――元亀4年(1571年)、俺は相模を追放された。