ニンゲン・フォビア~Kei.ThaWest式精神糜爛人造恐怖譚~
あなたの世界が崩れ去るまで
東京都港区。高層タワーマンションの一室。
時刻は深夜。室内の電灯は全て消えているが、南東角部屋であるこの場所にはベイエリアに林立するビル群や幹線道路から色とりどりの光線が差し込んでいた。それは人が行動するには十分な光量であり、事実、その女は暗がりの中で手早く確実に作業を遂行出来ていた。
マホガニー材の重厚なダイニングテーブル。ペルシャ調のテーブルクロスの上にワインの染み。床には割れたグラスの破片、旅行用の大きなキャリーバッグ、開け放たれたコントラバスのケース。倒された椅子。
壁際にロココ調のソファがあって、男が一人、座らされていた。
両の手首は後ろ手に回されて麻縄でかたく縛られている。両足首も縄によってソファの足に固定、しかして強制的に大股開きにされている。また首にも縄は巻き付いていて、これは背面を通してソファの足へと結われていた。
雁字搦めだ。執拗なまでに。
仕立ての良いスーツ。おそらくはオーダーメイドの高級品であろう。なめらかな光沢をもつ絹のワイシャツにべったりと血のシミが付着していた。
「むぐぅ……」
男はうめき声をあげて身を捩った。しかし動けない。そして口に装着された玉猿轡のせいでまともに発声することができない。
揚げ物料理の際に使うようなステンレス製の長方形のバットを、女はダイニングテーブルの上に置いた。そして小さなショルダーバッグから様々なものを取り出して並べてゆく。
「こうして二人で過ごすのは久し振りね」
パサついて艶を無くした黒髪の隙間、濁った眼が拘束した男を見据える。泥濘の底から響いてくるような深く淀んだ声が、男に投げ掛けられた。
「あなたは本当に酷い人。これまで一体何人の女を、弄んできたの?」
バットの上に、カッターナイフやペティナイフ、キリ、ペンチ、ノミ、ハサミ、小ぶりなハンマー、フォーク、スプーン等が無造作に置かれる。
これから我が身に降りかかるであろう厄災を予測し、男は喉を鳴らした。
「私……あなたにずっと尽くしてきたのに。一緒になってくれるものだと思って」
くっ、と押し殺した笑いを浮かべ、女はペティナイフを持ち上げた。
「ねぇ、わかるでしょう? 私はあなたを愛していた。あなただけを、ね」
そっと男の傍に立つ、幽鬼さながらの痩躯。女の手は老女のようにしわがれ、握りしめたナイフは小刻みに揺れていた。
「んー! んーっ!!」
男が何かを叫んでいる。不明瞭で、意味をなさない。頻りに首を振る。目の前に、ギラリとナイフが翳される。
「二度も堕ろしたのよ、私」
ナイフが汗に濡れる男の頬を撫で上げた。ギリギリ、刃が立たないようなソフトタッチで。男は顔を逸らそうとしたが、首に回された縄のせいで可動域は極めて狭い。刃が、じわりと頬にめり込んだ。皮膚が赤く滲んだ。
「二度よ」
女は言って、一気にナイフを引いた。刹那、頬肉を裂いて鮮血が散った。くぐもった悲鳴が上がった。女は反対の頬も同様に切り裂き、後ろを向いてナイフを窓ガラスに向かい投げ捨てた。ビシッと蜘蛛の巣状のヒビが走る。が、高層階用の頑丈な窓ガラスは粉々に砕けたりはしなかった。
男が地団駄を踏む。何とか逃げ出そうとするが、無理だった。
「うるさい男ね!」
額を、女は殴りつけた。痛みに声を上げた男の頬に人差し指の爪を突き入れ、捩じった。
「黙れ」
指を引き抜き、テーブルクロスに血を塗り付ける。
激痛に男の体が震える。透明な涎がソファを汚している。
「痛かった? でも私の心の痛みはもっと上。絶対許さない。あなたは私を捨てて、他の女に走った。私は遊ばれていただけだった。だからあなたはこんな目に遭っても当然。天罰よ天罰」
男は必死の形相で、全身に力を込める。どこか一か所でも拘束が緩めば。が、徒労に終わった。
「あぁ、かわいそう。……あなたのことじゃないわ。私。かわいそうでしょう? あなたに捨てられてから心にぽっかりと穴が開いたの。どんなお薬でも、絶対に埋まらなかった。だから決心したわ。あなたを殺して、私も死のうって。そうすればきっと、あの世であなたと幸せになれると思うから」
「むぐーっ!」
男の眼前にはスプーン。
「少しずつ、この世界からあなたを“減らして”いくわね。とりあえず片目からね」
スプーンを、男の左目に近づけてゆく女。目玉をくり抜かれると直感した男は瞼を固く閉ざした。冷ややかなスプーンの感触。
「なんで目を閉じてるの? 抉れないじゃない」
コツン、コツン、と二度、瞼を突いてから女はスプーンを捨てた。
「そう、目は嫌なの、わかったわ。ワガママばっかり。思い返してみれば出会った時からずっと、あなたはそうだったわね。この私を振り回して……まるでモノみたいに。気に入らないことがあれば殴って黙らせる。覚えてる? 私、歯も折られたし顎だって割られたのよ。病院には自分でコケましたって嘘をついたけれど。あなたのこと、ずっと庇ってきたの。それが……バカみたい。他の女が出来た途端にゴミみたいに捨てるのね。お前は!」
女はフォークの柄を掴んで、男の脳天に叩きつける。
「っぐ!」
痛みにのけ反る男の顔面を鷲掴みにして、何度も何度も、フォークを振り下ろした。大した深さまでは刺さらない。だがそれは逆に、男を長く甚振れるということに他ならない。
「お前は! お前は悪魔! 死ね! 死ね!」
10回、フォークは振り下ろされた。肉からズブリと抜いたそれを床に捨てて、女は荒い息を吐きだした。
男の髪は、血で酷く濡れていた。そして股間に染みが広がり、やがてソファを濡らしだした。
「ちょっとヤダぁ、漏らしちゃったの? 汚い……」
女はハサミを手にして、侮蔑を込めた眼差しを投げかけた。
「不浄な場所。薄汚い種……」
そっと男の傍に膝をついて、女はズボンを凝視した。
「ここも、もう要らないよね? どうせ死ぬんだもん」
ハサミを、開く。
「んんーっ! んーっ!!」
これまでで最大級の抵抗の声が、男の喉から上がった。
「はぁ、うるさい男ね」
激しく首を振りまくり、男は何とか逃げ出そうとした。
その拍子に、ボールギャグが口からズレた。
「お、お前……」
男が、全身を震わせながら言った。首を傾げる女に向かって。
「お前、一体誰なんだよ!?」
何の面識もない女はその言葉を聞き、唇を曲げて笑った。相貌をぐにゃりと歪めて、嗤った。
絶叫はその直後に響き渡った。
終




