30.知生とエンドロール
知生兄が示した高台にある公園は、遊具もなく二人掛けの木製のベンチがいくつか置かれているだけだった。
公園というよりは景色の良い広場くらいにしか見えない。
パッと見渡しただけでも知生どころか人影すら見えないことがすぐにわかった。もう帰ってしまったのだろうか。
いよいよ身体に力が入らなくなり、私はベンチに腰かける。
くそっ、また手詰まりじゃないか。あんなすぐに知生兄を手放すべきではなかった。サンドウィッチも食べ損ねたし、空腹も体力も限界だ。
おそらく残された手段はこの近くをとにかく探すことだけなのだが、磁力が発生したかの如く身体が動かない。
のんびりと黄昏ている時間なんて、私には残されていない。それがわかっていても身体は動いてくれやしない。
私は日の落ちかけた空をただただ眺め続けた。
わざわざ学校をサボってこんなところまで来て、私は一体何をやっているんだ。
「そう上手くはいかないか」
重く苦い溜息が漏れる。そんな自嘲の息をかき消すように、じゃりと砂を踏み潰す音が聞こえた。私は急いで音のほうを振り返った。
がらんとした公園の景色に、少女の姿が浮かぶ。私の姿を凝視した彼女は、ぽつりと言葉を零した。
「な、なんでここに……」
「やっと見つけた」
私の口から安堵の息が漏れる。長かった。本当に長かった。
学園祭からだからそこまで期間は空いていないけれど、ここまでの道中のことが一気にあふれ出して、幼少期から会っていなかった親友に出会ったような歓喜が私の心を満たした。
私の後ろには知生が立っていた。見慣れないワンピースにカーディガンを羽織って。
彼女は大きく目を見開いたあと、ゆっくり息を吐いた。
「先輩……どうして……?」
「お兄さんに会って教えてもらったの。男前だね」
「そうじゃなくて、なんで来ちゃったんですか?」
「なんでって……。聞かないといけないことがあるからだよ」
「そう、ですよね。ふふっ。先輩を侮っていたようです。流石にここまで来られて逃げるのは粋じゃ無いですね。観念しましょう。隣、座ってもいいですか?」
頷きを返すと知生は私の隣に腰かけた。洋菓子のように甘い匂いが心をくすぐる。幾度となく体験したことなのに、思わず顔が綻んだ。
しかし今はこの浮つきの時間すらも惜しい。早々に決着を付けなければならないのだ。私は伝えたい思いを胸いっぱいに思い浮かべる。
「連れ戻されたっていうのは本当? 転校もするって聞いたけど」
「ここまで来ておいてそれを聞くなんて酷いです」
「ご、ごめん。でもなんで?」
「夏祭りの日に話したでしょう? 自由は高校三年間だけだって。私の卒業後の進路はもう全部決まってるんです。それが早まっただけですよ」
当たり前のことを唱えるように、知生は淡々と言葉を吐いた。
「私は元々超がつくほど箱入り娘なんです。監視が面倒で親元を離れていたんですが、好き勝手やりすぎましたね。バレちゃいました」
こうなる可能性を危惧していたのか、確かに問題行動だけは起こさないようにしていた気がする。だからこそ今回のことは私としては納得がいかないのだ。
テストでも一位を取って、イベントには積極的に参加して、素行も悪いわけじゃない。対外的に見れば優等生じゃないか。
「悪いことなんてしてないじゃん」
「両親が私に求めているのは、大衆の敷いたレールに乗った真っ当な人格です。毎日キャラと髪型を変える不思議ちゃんなんかじゃありません」
「だからって急に連れ戻すなんてひどいよ」
「ふふっ。連れ戻された私に言ってどうするんですか?」
その通り過ぎる正論を返されてしまった。これに関しては知生に訴えかけてどうなるものでもない。
いや違うそこじゃない。連れ戻されたにしても、事前に一言あっても良かったんじゃないかということを言いたいんだ私は。
「何も言わずにいなくなったのはどうして?」
「言ってどうなるわけでもありませんし。私の自由はここでおしまいですから、波風立てず静かに思い出から消えたかったんです」
知生は遠くの景色を見つめながらそう言った。あれだけ私に影響を与えたくせに、静かに思い出から消えようだなんて無茶なことを言ってくれる。
言われていたって騒いでいただろうし、言われなくたって騒いでいるし。私は大きく息を吸って、知生の全身を瞳で捉える。
「私はまだまだ知生としたいことがたくさんあるよ。知生には後悔がないの?」
「ないです」
「本当に?」
「ないですってば」
「ほんとにほんと?」
「しつこいですね」
「だって……」
「だってもなにも、ここが私の終着点なんですよ」
前髪を弄り諦めたように言葉を吐いた知生を見て、こんな未踏の地まではるばるやって来た自身の想いの根幹に辿り着いてしまった。
私はもっと彼女に足掻いて欲しかったのだ。まだまだやり残したことがあって、悔しくて悔しくてたまらないと喚き散らしてくれていれば、この別れに向き合えていたと思う。
黙っていなくなったこともそうだし、今のこの様子もそうだし、自分がいなくなることをなんてことない事象だと思っている彼女に納得がいっていなかったんだ。
抵抗のように私は言葉を吐く。
「もうどうにもならないの?」
「どうにもなりません。こんなところまで来てくれた人に言うのは酷かもしれませんが、何も変わりませんよ。もう聞きたいことはありませんか?」
ここまではっきりと言われてしまうと、もう何も言えなくなってしまう。刻々と時間が進む。
私は遠い空を眺め、もう一度自分の心を透かしてみた。
どうにもならないなら、せめて彼女が何を考えていたかを知りたい。どんな気持ちで私と一緒に過ごして、どんなことを思ったのかを。
それを聞くことが出来れば、きっと私は無理にでも納得できるだろう。
そういえば、知生兄が興味深いことを言っていた気がする。これを話の種にしてみよう。
「ねえ、昔から私のファンだったって本当?」
先ほどまで冷静だった彼女の顔がわずかに揺れる。
「……どこから仕入れたんですか?」
「さっきお兄さんが」
「あのお馬鹿。余計なことを」
徐々に知生の冷静さが崩れていく。軽い気持ちで放ってみたが、意外とここが彼女のウィークポイントだったのかもしれない。
彼女の動揺のおかげで、私は今までの時系列のぐらつきに気が付いた。そもそも、知生兄から話を聞いた瞬間にこれに気が付くべきだった。
「もしかして、最初に会う前から、私のことを知ってたの? だから剣道のことも隠してたんじゃ――」
「あーあ。台無しです。せっかく格好つけてお別れできると思ってたのに」
私の言葉を遮り、知生は立ち上がった。
アキやみちるの時のように、私にはまだ知っておかないといけないことがあるような予感がした。
「知生。何か隠してる? もしそうなら本当のことを聞かせてほしい。最後ならなおさらね」
私の言葉に彼女は弱く息を吐き出した。
「少し歩きませんか? 昔話がしたいです」
「うん。聞きたい」
私は立ち上がり、歩き始めた彼女の後を追った。
薄暗くなってきた住宅街を知生はまどろむこともなく歩き続けた。こつこつと鳴る足音の背後から徐々に夜が近づいてきている。
数分黙ったまま足を進めた知生は、予兆もなくふわりと言葉を投げた。
「相手の考えていることがわかるって言ったら、笑いますか?」
「笑わないけど、びっくりはするよ」
急にそんな質問が飛んできたことにはびっくりしたけれど。余計な言葉を封じ込め、私は足音から彼女の言葉に意識を移した。
「私は昔から相手が自分に求めていることを察するのが得意な子どもでした。親の求めるまま勉学に励み、望まれた通りの結果を出し、周りが欲している私を演じる。世の中には筋書きと台本があって、私はそれに沿って生きているとさえ思っていました」
知生から飛んできたのは、今の彼女からは想像できない過去の話だった。私が彼女に抱いているイメージは、言葉とは正反対なのに。
「中学生になる頃には、自分らしく生きるなんてことを諦めてたんです。先輩の言葉を借りるならば、本当にからっぽだったんです。相手の思う恵比知生が、私の全て。マセた子どもですよね」
「ふふっ。想像できない」
「でしょうね」
嘲るように語られる彼女の言葉を、私はゆっくりと咀嚼していく。
「そんな私にも転機が訪れます。祖父の勧めで半ば無理矢理続けていた剣道の試合会場で、私は一人の女の子に目を奪われました。その人は一呼吸一呼吸が全力で、目の前の相手を圧倒していて……。区切られた空間の中を自由に羽ばたく姿が、とにかく格好良かったんです。他者を秤にしか思っていなかった私に、綺麗だと思わせるほどに。一目惚れですね。あの美しい振る舞いに比べて、からっぽな私のなんと恥ずかしいことか。そう思ったんです」
ナレーションのように淀みなく、彼女は言葉を並べ続ける。夜の足音とともに、何かが私に近づいてきている気がした。
「そこからその人のことが気になって色々調べました。雑誌とか、インタビューとか、試合もほぼ全部観に行ったと思います。あんな風になるにはどうすれば良いのか、調べれば調べるほど、どこまでも自由に羽ばたこうとするその姿勢と、美しい剣道姿に魅了されてしまいました。競技者としてだけじゃなくて人間として憧れてしまったんです。せめて限りある自由の中くらいは、あの人みたいになりたいって、そう思って行動するようになりました」
知生は足を止めこちらを向いた。見えなかった足音の正体がほぼ確信に変わる。
期待を孕んだ熱い瞳がしっかりと私を見上げた。そうか。そういうことだったのか。
彼女は充分に空気を吸い込み、薄明かりにそれを置いた。
「そんな私が、憧れのその人がいる高校に行きたいと願うことは、結構自然な流れだとは思いませんか? ねえ、沙夜子先輩」
かしゃんとパーツがハマった音がした。いやもちろん比喩表現ではあるが、間違いなく出来事の全てが一枚の絵になってしまった。
気が付かなかった。というか私が悟らないようにされていたんだろう。
知生は最初から私のことを知って近づいてきていたんだ。素知らぬ顔をして、わからないフリをして、不思議な女の子という仮面をかぶって。
メトロノーム片手に私を追いかけてきたあの時のことでさえ、偶然とは思えなくなった。
「でも、そんな素振り一切見せなかったじゃん」
「だって、私が入学した頃にはもう先輩は『あんな感じ』になっていたじゃないですか。過去を掘り返すことなんてできるわけないです」
あんな感じとは、きっと空虚に身を窶していたあの感じのことだろう。確かにその通りだ。
目の前に霞み切った憧れが現れたら、易々と過去を触ることなんて出来ない。今更ながら申し訳ないことをしてしまった。
「さぞ幻滅させたことでしょうね」
「ふふっ。そんなわけないじゃないですか」
予想に反し、知生は当たり前のことのように笑った。
「もちろん例の決勝も見に行っていましたから。あの時のあなたは本当にボロボロでした。勝ちだけに執着するあの姿、鬼神、とでも言いましょうか。自由とはほど遠い。あなたを支配しているものが変わっていることに、私は前々から気がついていましたよ。そしてあなたが剣道を辞めたことも知った上で、それでもなお、あなたがいる高校を選んだんです」
「なんでわざわざ……」
「知らないんですか? どれだけイメージと違っても、焼きついた憧れはそう簡単には消えないんですよ? 無意識にでも、あなたは私の価値観を変えたんですから。深めのタトゥーみたいなもんです」
「納得しにくい例えをありがとう」
「ふふっ」
彼女は愉快そうに息を漏らした後、遠くの空を眺めた。日がすっかりと落ちた街並みは、気が付かぬ間に見覚えのある景色になっていた。
数時間前の記憶が正しければ、もう駅が近い。それでも彼女の足は進む。
「入学前から決めてたんです。あなたが私を籠から出してくれた時のように、私もあなたを籠から出してあげようって。自らを研鑽していく熱を、全てを楽しむ心を、もう一度思い出させてあげようって。これもそのために作りました」
知生はポケットから一冊の手帳を取り出した。
この半年ほどで飽きるほど見た、表紙に『ちいリスト』と書かれた手帳。
私は哀愁を含んだ目でそれを見つめた。
「ちいリストにそんな意味があったの?」
「これは色んなことに興味を持ってもらうための口実です。私の為だって言えば、きっと先輩はついてきてくれると思ったんですよ」
彼女はくすくす笑いながら手帳をしまった。そして満面の笑みを浮かべる。
「からっぽになってしまったあなたに情熱を思い出させるため。青春は剣道だけじゃないってことを伝えるため。私の人生に指針をくれた事への恩を返すため。……そしてなにより、一緒に青春を味わうため。これがちいリストの全てです」
私の頭には夏祭りの日のことが思い返されていた。
ちいリストは後悔を残さないためのものだという彼女の言葉が浮かぶ。
何が後悔しない為だ。嘘ばっかり。ほとんど私のためじゃないか。
私を立ち直らせるため、彼女は色々な事に興味を持ち、その都度私を引き摺り回してくれたのだ。あのリストとキャラクターを口実に。
「なんで言ってくれなかったの……?」
思わず足が止まりそうになる。走馬灯のように過去の彼女の振る舞いが流れていく。
彼女に出会ったことで何気なく色々なものを取り戻したと思っていた。でもその背景で彼女は私の手を引っ張り続けてくれていたのだ。
私を鼓舞し終わった後、事実を言わず思い出から消えようとしていたのだろう。だから何も言わずに姿を消した。
ふと顔を上げると、目の前まで駅が迫っていた。時計の針も容赦なく私に現実を突きつけてくる。
知生は私の言葉に返事をする事なく、新たに口火を切った。
「今話したことが私の隠し事の全てです。本当は墓場まで持っていこうと思っていたんですけどね。さあ、そろそろ最終電車でしょう? 本当に本当のお別れですよ」
「納得なんて、出来ないよ」
「先輩……」
おそらく今の話を聞かなければ、ここまで大きな感情の波に飲まれることは無かっただろう。
私は立ち止まり知生の方を向く。
「ずるいよ。今になって本当のことを言うなんて。諦められなくなっちゃうじゃん!」
「ふふっ。私がずるくなかったことがありましたか? それに、今の先輩ならもう私がいなくても大丈夫です」
いなくても大丈夫とか、そういうことではないのだ。
「私、あなたに何も返せてない。私のために色んなことをしてくれたのに、何もしてあげられなかった。悔しい」
「元々は恩返しのつもりですから、言いっこなしですよ。それに、特等席であなたの青春を見せてもらいましたしね。キャラを作ってたとはいえ、境遇を純粋に楽しんでいたのも事実です。これ以上何ももらえませんよ。バチが当たります」
「でも……」
「そういえば、剣道の試合でのご褒美をまだ使っていませんでしたね。後生です。どうか私の事は忘れてもらえませんか? じゃないとお互い前に進めませんから」
ご褒美。なんでも一つ言うことを聞くと私は言った。そんな口約束をこの瞬間に履行してやる気なんて全く起きなかったが、見たことがないほど悲痛な知生の顔が、猛った私の心を折った。
もうきっとどうにもならないんだろう。私が赤子のようにごねようと、結末は変わらないんだろう。
彼女ほど気持ちを読むことに長けていない私でもわかる。
「……わかった」
だから私は大人しく大人になることを決めた。これ以上知生にこんな顔をさせる事を、私は本心から望んでいない。
無言のまま切符を買い改札を潜る。知生との間に一線が引かれる。
賢い知生は私の気持ちを全てわかっている。わかっている上で叶えられないから、あんな困った顔を浮かべたんだろう。
私は振り返り斜め下を向き、最後の質問を投げかけた。
「私との高校生活は楽しかった? 幸せだった?」
知生が私に二度ほど投げかけた質問。全てを知った今なら、彼女がこの質問に込めた意図が痛いほどわかる。だから最後に聞いておきたかった。
知生は目を見開いたあと、すとんと頭を落とした。
「馬鹿なこと聞かないでください」
震える声の後、ゆっくりと頭が上がる。仮面が剥がれ落ちたように弾ける笑顔は、涙で溢れていた。
「当然じゃないですか。こんな幸福、人生やり直したって味わえないかもしれません。すごくすごく楽しかったです。星みたいにキラキラしていて、夢みたいに楽しい日々でしたよ。私のわがままをいっぱい聞いてくれて、籠の鳥に夢を見せてくれて、本当にありがとうございました。沙夜子先輩、大好きでした!」
知生は穏やかな笑みを浮かべた後、大きく頭を下げた。その動きで、ポケットからするりと写真がこぼれ落ちる。とんと胸が弾んだ。
ここが私と彼女の物語の終着点。本当に本当のおしまい。
私は彼女を忘れ自分の生活に戻り、彼女は彼女の人生を歩み始める。今のこの状況でさえ、たくさんの奇跡が織り合わさって出来ているに違いない。
少しの切なさはあるが、きっとそれが佳乃ちゃんが言っていた大人になるという事で、みちるが言っていた終わりの美しさ。
だから今から私がすることは間違っていると思う。美的センスもない、変なところで諦めの悪い、子どもな私の足掻きに過ぎない。
でも仕方がないのだ。彼女のポケットからこぼれ落ちたいつぞやのプリクラを見て、折れた心に再び火が灯ってしまったのだから。
間違っていようが、綺麗じゃなかろうが、もう私は止まれない。
「駄目だ。やっぱり諦められない」
諦めよう。諦められるか。
知生のためだよ、納得して帰ろう。誰が決めたんだ、私は納得してやらない。
無茶言っちゃいけないよ。無茶を言わないで無理を通せるか!
内から湧き上がる大人沙夜子の正論を続け様に殴り続ける。
「なっ」
プリクラを拾い顔を上げた知生は、ただただ唖然としている。余裕を見せ続けた彼女に、一矢報いた気分だ。
でも私はまだまだ彼女の色んな表情を見続けたいんだ。これからもずっと。
「無理だろうがなんだろうが、そんなこと知ったこっちゃない! 私は知生と高校生活を謳歌したいの!」
「いや、だからそれは……。そこは納得してもらえたと思ったんですが」
「しない事にした。私って最高にわがままだったみたい。なんとかしなさい。出来るでしょ知生なら」
「えー……」
仕事終わりのサラリーマンが私達を横目に見ながら通り過ぎていく。
今の私に人様の目など取るに足らない。
「待ってるから。憧れの先輩からの命令だよ。戻って来ない限り、私はいつまで経っても諦めないからね。全部説得して、ちゃんと戻ってきなさい!」
言ってやった。言い切ってやった。何食わぬ顔で諦めたと思っていた彼女の本心が、私のスタンスを一瞬で書き換えたのだ。
わざわざあんな不細工なプリクラを大事に持っていた事実もそうだし、急な再会なのにすぐにちいリストを取り出したこともそうだし、彼女もきっとどこかで諦めきれない気持ちを抱えている。
私は知生に戻ってきて欲しい。正解なんて馬鹿な私にはわからないが、これを伝えないで何をしにここまで来たんだという話だ。
どうにもならなくてもどうにかする、それが恵比知生。簡単に諦める知生なんて、やっぱり知生らしくない。
ぱくぱくと口を動かしていた知生は、少しの間の後大きく息を吹き出した。
「あははっ。先輩の馬鹿。せっかくの湿っぽい別れが台無しです。いい感じで終われそうだったのに。ほんと、どうでもいい時だけ空気を読むくせに――」
知生は身を返し、夜の方へと歩き始める。どんどんと遠ざかる背中が柔らかく言葉を残した。
「でも、そんなところが大好きですよ。コマキサ先輩」
知生はそのまま薄い闇の中へと消えて行った。それと同時に電車がホームの方へ近づいて来る音が聞こえた。
伝わっただろうか。伝えきれただろうか。ここから先は私にはどうすることもできない領域だ。
結果としてこれが彼女との最後の邂逅になってしまったとしたら、それを受け入れなければならないだろう。
いや、いっそ両親のところに殴り込みにでも行くべきだったか。流石にそれはやりすぎだな。
急いでホームへ向かい、流れてきた電車に乗り込む。知生兄にもお礼をしていないし、一泊くらいしてしまえばよかった。
空いた席に座り息を一つ吐くと、思い出したように睡魔が襲ってきた。
歩き続けたせいで足も痛いし、携帯の充電は残り数パーセントだし、空腹も限界を二度ほど超えたし、もうこれ以上何も考えられない。
抜け殻のように閉じていく私の瞳には薄らと、ほどよく欠けた月が映った。




