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エンゲージリスト  作者: 豆内もず
5章 沙夜子と知生

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29.迷走とルックフォー

 週が明け二、三日経っても、知生は空き教室に現れなかった。

 教室を覗きに行って響ちゃんに聞いたところ、どうやら知生は学校自体を休んでいるようだった。

 まだ体調が戻らないのかと不安になり、お見舞いにでも行ってやろうかと思ったが、連絡すらつかない状況である。

 放課後、儀式のように足を運んだ空き教室でぼんやりと空を眺めながら、私は大きく溜息を吐いた。


 大きな行事が終わって数日しか経っていないこともあって、未だに地に足がつかない不思議な感覚が学校全体を覆っている。

 知生がいない空き教室は、その感覚を助長させた。涼しい秋風が吹き込む窓辺も、いつもより寂寥に映った。

「こまちゃん、やっぱりここにいたんだ」

 そんな寂しさを埋めるかの如く、佳乃ちゃんが姿を現した。いつも通りの笑顔をこちらに向ける彼女は、まったりとした足取りで私の目の前に腰かけた。

 普段であれば知生の指定席である机に肘を置き、彼女は窓の外を眺める。

 やっぱりとは言うが、ここ最近の放課後で私がここ以外にいることのほうが珍しい。

「またサボりに来たの?」

「またとは失礼な。私がサボりに来たことがあったかね。でもまぁ、今日はサボりでいいか」

 佳乃ちゃんはくすりと笑みを浮かべた後、視線をホワイトボートに移した。半端に書き込まれたボードには、まだ学園祭の余韻が僅かに残っている。

 そういえば響ちゃんにわからなくても、副担任の彼女なら知生の状態がわかるかもかもしれない。良いところにやって来てくれた。

「ねえ佳乃ちゃん。知生大丈夫かな?」

「んー?」

「最近休んでるでしょ。連絡も通じなくて心配で……」

 沈んだ私の声で佳乃ちゃんの視線がこちらに移る。元より下がり気味な彼女の目の端が、いつも以上に落ちているように見えるのは気のせいだろうか。

「なるほど。そういうことか」

 彼女は珍しく意味深な言葉と大きな溜息を吐いて、視線を再び窓の外へと移した。今の話の流れで何が納得できたのか、私には全く分からなかった。

「そういうことって……どういうこと?」

「なんでもないよ。知生ちゃんなら大丈夫だよ」

 彼女は顔色を変えることなくそう答えた。

「そっか。あの子一人暮らしだから、私が行ったところで何ができるわけでもないけど、差し入れだけでもしに行こうかと――」

「こまちゃん」

 佳乃ちゃんは会話の途中ですっと立ち上がり、出口のほうへと歩き始めた。

「えっ。なに?」

「職員会議があるから、戻るね」

「もう行くの? 来たばっかりなのに」

「知生ちゃんが休んでいるのは体調不良じゃないよ。それだけは安心してくれていい」

 最後に言葉を残し、彼女は教室を後にする。職員会議の直前に、なぜわざわざここに来たのだろうか。あと、あの珍しい様子はなんだったんだろうか。

 そんな疑問に加えて、体調不良でもなく学校を休んでいるという知生。彼女の性格的にそんなことあり得るのだろうか。


 数多の疑問が蠢く中次の日を迎えた私は、朝一番にみちるの元へと向かった。

 正直あんなことがあった手前こちらから声をかけるのは気が引けるが、校内ゴシップを抱え込んでいる彼女であれば何かしら情報を握っているのではないかと考えたわけだ。

 我ながら中々の冴え渡りだ。少し緊張感を浮かべ、私は自席で呆然と黒板を眺める彼女に声をかけた。

「みちる」

 彼女はゆっくりと首を傾けこちらを向いた。

「おやおやぁ。まさかさやちんから声をかけてくれるだなんて思わなかったなぁ」

「そうも言ってられない状況なんだよ」

 私は知生が学校に来ていないことと、前日の佳乃ちゃんとの会話を彼女に伝えた。ふむふむと以前と同じ仕草で話を聞き終えた彼女は、頷きごとに笑みを重ねた。

「なるほどぉ。ふふふ。これはまだまだ楽しめそうだねぇ」

「何か知ってるの?」

「全部を知ってるって訳じゃないけどぉ。今までかけた迷惑のお詫びってことで、情報をあげちゃおっかなぁ」

 両手を頭の後ろに置き、彼女は大きく椅子に体重をかけた。まさかこんな近くにヒントが転がっているとは。大きく頷く私に、彼女は人差し指を向ける。 

「さやちんのところの親は厳しい方かい?」

 そんな秤で見たことがないからわからないが、両親は私のやりたいことをやりたいようにやらせてくれていたし、おそらく相場から見ても緩いほうではないだろうか。

「そうは思ったことがないよ」

「そっかぁ。私の調べによるとね、後輩ちゃんの家ってかなり厳しい上流のお家柄なんだよぉ。家元を離れていることは知ってるよねぇ?離れた場所で自由気ままに過ごす彼女の姿は、果たして両親にはどう映るんだろう。おそらく厳格な両親に」

「どういうこと?」

 知生が学校を休んでいることと、彼女の両親が厳格だということにどんな因果関係があるのだろうか。首を傾ける私に、みちるはへらりと言葉を吐き出した。

「遠回しは良くなかったか。簡単に言うと連れ戻されたんだよ。転校も視野に入ってるだろうねぇ」

「嘘でしょ……?」

 軽々しく流れる音に、私はすぐさま言葉を返していた。信じられないというよりは、信じたくないが勝った言葉だった。

 連れ戻される? 転校? そんな馬鹿な。そう思いながらも最後に見た彼女の顔が頭に浮かぶ。

「この情報結構防御が厳重でねぇ。嘘かどうかなんて私にはわからないけどぉ。私のところに入ってきた情報はそんな感じ。さやちんが知らなかったのはびっくりだけどぉ」

「みちるはどこで知ったの?」

「職員会議を盗み聞きしたよぉ」

 どこまでも貪欲なゴシップ収集に驚いてしまうが、情報源がそこであれば信憑性は高いはずだ。

「ありがとう。またなにか情報があったら教えてね」

「気が向いたらねぇ」

 適当に私をあしらった彼女は、静かに微笑んで携帯を眺め始めた。


 学園祭の夜、知生はやけに素直だった。みちるの情報が事実ならば、その素直さに嫌な意味合いが足されてしまう。

 まさか、こうなることがわかっていて、私に何も言わずにいなくなろうとしていたんじゃないだろうな。

 とりあえず、佳乃ちゃんに詳しく話を聞いてみよう。間違いかもしれないし。というか、昨日のあの様子はこれを知っていたからじゃないのか?

 ざわついた心のまま放課後を迎えた私は、空き教室で佳乃ちゃんを待つことにした。


 ほとんど待つこともなく、昨日同様佳乃ちゃんが姿を現した。軽く挨拶を交わした後、私は彼女の前に立ち塞がる。

「佳乃ちゃん、知生が連れ戻されたって本当?」

 私の顔つきが普段より強張っていたからだろうか。彼女は珍しく真面目な顔つきでじっとこちらを見つめた。

「それは予想? 誰かに聞いたの? ――ってそんなことは些細なことだよね」

 彼女は私の横を抜け椅子に腰かけた。

「私にも守秘義務があるから詳しくは話せないけれど、その通りとだけは伝えておくよ」

 決定打が放たれる。だったらなぜ昨日それを教えてくれなかったんだ。

 不満をグッとこらえ、私は彼女の前に歩み寄る。目じりの下がった瞳が、私を見定めるように動いた。

「知生の居場所を教えてほしい」

「知ってどうするの? 会いに行くの? 連れ戻すの? 何を話すの?」

「それは……」

「ちいちゃんがこまちゃんに何も告げなかった理由はわからないし、連絡がつかない理由もわからない。けれど、その事実だけは確実にあるんだよ。それに彼女が意地悪でそんな事をするなんて思えない。だから居場所なんて知る必要はないと思うよ」

 佳乃ちゃんは切り捨てるようにそう言った。教師という立場があり私に教えられないのはわかるが、もうちょっと柔らかい言い方をして欲しい。

 普段とのギャップを押し返すように、私は重心を前に置いた。

「お願い教えて佳乃ちゃん! 私あの子にまだ全然お返しできてない! 話だけでも――」

 座った彼女の人差し指が伸びる。勢いよく身を寄せていた私の勢いは、それだけで殺されてしまった。

「いつか聞いてきたことがあったよね。大人になるってどんな感じかって。宣言通り数ヶ月待たせちゃったけど、ようやく言葉をあげられそうだよ」

 確かにそんなことを聞いたこともあったか。だだこの場には、その時のような穏やかな空気は感じられなかった。彼女は私を見上げたまま、淡々と言葉を続けた。

「大人になるってことは、いろんなことを割り切って過ごすってこと。そして、諦めないといけない事をしっかりと諦めること。大人になる時が来たんじゃないかな」

 大人になれ、それはつまり。

「諦めろって……言いたいの?」

「こまちゃん、よく考えてよ。知生ちゃんは君にそんな事をしてくれって言ってた? それで喜ぶ子だった? いろいろ考えて君には言わなかったんだよきっと。彼女の意図に水を差すことになるかもしれないよ?」

 佳乃ちゃんには悪いが、そんなこと百も承知だ。私の行動が知生の筋書きに背くかもしれないなんてこと、さすがにわかっている。

 でもずるいじゃん。あれだけ人を引っ張っておいて、黙っていなくなるなんて。

 それに、相手が佳乃ちゃんだから私は無茶を頼み込んでいるんだ。彼女のほかに情状酌量で情報をくれそうな先生なんていない。ここを逃せば本当に知生との糸が切れてしまうかもしれない。

「だからって、何もしないまま……諦められる訳ないよ」

「過ぎたことはどうにもできない。彼女と出会う前に戻るだけ。ただそれだけなんだよ。潔く前を向いて歩こう。私からは何も教えてあげられない」

 鋭く刺さる彼女の言葉が切れるとともに、乾燥した音が鳴り響いた。五時ちょうどを告げる一日の最後のチャイム。

 夢のような時間の終わりを告げる音。魔法が解ける音。聴き慣れたこの音が、ゲームセットの合図のように私にのしかかった。

 スーツを着た私が私自身を足蹴にしているような気分だ。もう駄目なのか。散々助けてもらって、こんなまぬけな別れ方で良いのか。

 視線が下に落ちる。幾度となく見た床の傷が、意味ありげに私を見つめ返した。


 良いわけないじゃん。諦めろ?無理でしょそんなの。

 何も出来なくたって、会って一言言ってやるくらい何がいけないんだ。

 重々しい音を跳ね除け、私は背筋を伸ばした。

「出会う前に戻るだとか、何も出来ないとか、そんな事はどうだっていいよ。割り切ることが大人だっていうんなら、私はまだまだ子どもで良い」

「こまちゃん……」

 中身なんてわからないけれど、知生の意図を汲んで諦めてやるのがきっと正解だ。頭ではわかっている。でも心が理解を許してくれない。諦めてくれない。

 なんとなく空気を読んで諦めるなんて、それこそ知生なら絶対にしない。

 私はまだまだか弱い女子高校生だ。空気なんて読まず、わがままを喚き散らかしてやる。

「私はただ、やり残した知生としたいことがまだまだあるって伝えたいだけなの!こればかりは佳乃ちゃん相手でも譲れない!教えてよ!」

 長い長いチャイムが鳴り終わる。何かをしみじみと受け止めたように、佳乃ちゃんが言葉を溢す。

「……まだまだ子どもで良い、か。うんうん。良い口説き文句だ。こういうのがあるから教師は辞められないよね」

 私にじっと視線を向けられた彼女は、口角を上げたあとふうと息を吐いた。

「五時ぴったり。今のは終業のチャイムだね。今日のお仕事はおーしまい」

 静寂が訪れる。彼女はまとめた髪を解いて立ち上がり、優しい笑みを浮かべた。先程まで珍しく厳しい瞳を向けていた彼女は、チャイムと共にいつもの調子を取り戻したように見えた。

「よ、佳乃ちゃん?」

「はぁい、佳乃ちゃんだよ」

 佳乃ちゃんは否定もせずひらひらと手を振った。臨戦態勢に入っていた私は、呆気にとられ苦笑いを返す。

「酷いこと言ってごめんね。雇われの身として、一応こうしておかないといけなかったの」

「演技だったの?」

「演技って訳じゃないけど、たくさん釘を刺されまくった結果だね。簡単に情報を吐いたなんてことになったら、私の教師人生は即終了だもん。一応覚悟だけは確認しておきたかったの。本意じゃない事をするのは疲れちゃうね。もう仕事も終わったし、今は先生じゃなくて、ただの山上佳乃。アフターファイブを優雅に楽しむ可愛い二十代だよ」

 彼女は悪戯っぽく微笑み大きく背中を伸ばした。いつも通り小さい体躯が、一層無邪気に動く。

「私は甘ぁい甘ぁいハッピーエンドが好きなの。誰かが納得しないまま終わるなんて、ちょっと許せないなぁ」

 佳乃ちゃんはホワイトボードに向かい『弥影』という文字を書き込んだ。昨年何度も見た彼女の丸い字体が、何かを訴えかけるようにこちらを見ていた。

「あれ、なんだっけ、なんか見たことある字な気がする。読めないけど」

「これはね『みかげ』って読むの。海もあって、ちょっと車を走らせると山もあって、なかなかいい場所なんだよ。高級住宅街なんかもあったかなぁ」

「弥影……。というかなんで急にそんな話を?」

「今度のお休みに愛しのダーリンと日帰り旅行でも行こっかなーって思っただけだよ。ここからだと電車で三時間くらいはかかるけど、こまちゃんも暇なら行ってみるといいよ」

 彼女は身を揺らしながら含みのある顔で私を見つめた。脳を回してみたが何を含んでいるかわからず、私は首を傾げる。

「そ、そうなんだ……」

「やだなぁこまちゃん。私を急に惚気だす痛い奴にしないでよ」

「えっ?」

 彼女は小さく咳払いを挟み、書いた文字をとんとんと叩いた。

「ここが知生ちゃんのいる場所だよ」

 わざわざこんなタイミングでこの話を振ってきたのだ。そうに決まってるじゃないか。我ながら反応の鈍さに引いてしまう。

「なるほど。そういうことね」

 頷いた私を見て、彼女は満足そうにペンを置いた。とことこと近づいてくる低い頭が艶やかに揺れる。

「私が持っている情報はこれだけ。立場的に何もできないし、最後の判断はこまちゃんに任せるしかない。ごめんね。でも、今のこまちゃんなら大丈夫。きっと納得できる答えが出せると思う。勝手なお願いだって分かってるけど、どうか知生ちゃんの心を救ってあげてほしい」

 そう言って彼女は私の背中を押した。わざわざ最初にあれだけの事を言っていたのだから、おそらく彼女にも立場という大きな楔が打ち込まれているに違いない。

 それこそ私にこの情報を与えたことによって、教師生命が危ぶまれる可能性もあるのだろう。勤務時間が終わろうがなんだろうが、そこに大きな変化はないはずだ。

 それでも彼女は私に情報をくれたのだ。私の覚悟を試したと言っていたが、これはきっと彼女の覚悟でもあるのだろう。本当に、この位置にいてくれたのが佳乃ちゃんで良かった。

「ありがとう佳乃ちゃん。愛してる」

「いやん。照れちゃうぜ」

 彼女は綺麗なウインクを放ち、そのまま出口へと向かっていく。

「頑張ってね、若者。青春しろよー」

 弾みながら教室を後にした佳乃ちゃんの背中に向け、私は頭を下げた。



 次の日の朝一番。私は学校に向かうフリをして反対方向の電車に乗った。

 学校をサボるなんて人生規模で考えても初めてだという真面目な私は、悪いことをしているという緊張感でキョロキョロ視線を動かしながら電車を乗り継いでいく。

 向けられる視線を気にしながら、信じられないほど長い時間と金銭を消費し、私は弥影という土地に降り立った。

 こちらを見つめ返す初めての景色が、私の足を止める。

 電車に揺られおにぎりを頬張りながらマップをなぞっていたが、弥影は思っていたより広い。佳乃ちゃんの情報だけでは、大まかな場所すらもわからない。

 ただでさえ平日の昼間で学生はほぼ見えないのに、遠方の制服に身を包んでいることで微妙に場違い感がある。

 一歩目を踏み出す前に心が折れそうだ。

 携帯電話を取り出し画像フォルダを漁る。ガーリィな服装に身を包んだ知生が、画面内からこちらを睨んでいた。よし、チャージ完了。

 とりあえず一歩目を踏み出した私は、弥影の地を歩き始めた。



 見知らぬ土地で訳の分からないまま彷徨い続けた私は、足を戻して駅近くの喫茶店に潜り込み頭を落とした。

 歩けば何かわかるだろうなんて考えが愚かだったことに、ようやく気づいてしまう。パンプスから足を解放すると、きしきしと踵が痛んだ。

 住宅一軒一軒の表札を確認し、印刷した地図に×を付けていくという原始的な方法で六時間も粘った私を誰か誉めてくれ。

 もちろん有力な情報など一つも発見できておらず、今のところ私は六時間かけて靴裏をすり減らし続けただけの愚か者だ。

 それだけ力を入れた結果、全体の四割ほどしかマークがついていない事実も、足の痛みをより深くする。


 もうちょっと範囲を絞れていればやりようもあっただろうに、どの媒体で調べてもヒントのヒの字も見えてこない。行き当たりばったりはさすがに無謀だったようだ。

 サンドウィッチとホットコーヒーが運ばれてくる。


 佳乃ちゃんにあれほど啖呵を切ったのにここまで何もできないとは、本当に情けない。

 遠方まで来たせいで、最終電車もべらぼうに早い。弥影に滞在できる時間もそこまで多く残されていない。

 もう駄目なのか。諦めに近い気持ちを浮かべながらホットコーヒーに息を吹きかけると、涙がこぼれそうになった。

「苦い……」

「もしかして、小牧さん?」

 突然かけられた声に私は驚きカップを置いた。

 私の正面の席を陣取ったのは、見覚えのない青年だった。

 もう二度と名前を呼ばれることがないと思っていたくらい孤独に苛まれていた私は、誰ともわからずほっとしてしまう。

「は、はいそうですけど」

「だよね。ここら辺じゃ見ない制服だからまさかとは思ったけど、こんなところで会えるなんて驚いた」

 歳頃は二十代前半といったところだろうか。彼は短髪に白い歯を浮かべ、季節外れの春風が吹いたのかと思わされるほど澄んだ笑顔をこちらに向けた。

 何という好青年。何という男前。遠方の地でナンパをされるなんて、私もまだまだ捨てたもんじゃないのかもしれない。

 馬鹿なことを考えている場合か。私の個人情報が未踏の地で漏れていることにまず驚かねば。

「えっと。どこかでお会いしたことがありましたか?」

「いや、ごめんごめん。妹が君と同じ高校に通っていてね。つい声をかけちゃったよ」

「そ、そうなんですね」

 残念ながらナンパでは無さそうだ。しかし、こんなところでまで声をかけられるなんて、私はいつのまにかそんなに有名人になっていたんだ。いやそっちじゃない。こんなところに私と同じ高校に通う人間がいることに驚くべきだった。

 私はコーヒーを啜り、かすかに視線を彼に向けた。初対面のはずなのに、彼には何かの面影があった。似ている有名人を脳内でソートしても、ぱちりとはまる感じがしない。

「それより、どうしてこんなところに? というか学校は?」

 邪気もなくのほほんとそう尋ねてきた彼の目を見る。面影が僅かに輪郭を帯びてくる。

「人を探していまして……。あの、失礼ですけどお名前は?」

「ああ、自己紹介がまだだったね。僕は恵比直生(えびなおき)。恵比知生の兄だよ」

「ち、知生のお兄さん!」

 私は思わず大声を上げた。店中の視線がこちらに向くが、それどころではなかった。

「そうそう、知生のお兄さん。似てないかもしれないけどね」

 彼は知生に似た笑い方で悪戯っぽく笑った。

 奇跡が起こった。逆転満塁ホームランだ。こんなところに親族が転がっているなんて。よくぞ私に声をかけてくれた。本当にありがとう男前のお兄さん。

 というか、改めて考えるとなぜ名前が割れているんだ。妹と同じ制服だということは、名前と顔を知っている理由にはならない。

「よく顔だけで私が小牧だってわかりましたね」

 おずおずと言葉を向けると、彼はより愉快そうに話を始めた。

「いやぁ妹が昔から君の大ファンでね。毎度毎度話は聞かされていたせいで僕までファンになってしまって。まさか実物を拝めるなんてついてるなぁ」

「昔から、ですか?」

「そうそう。昔って言ってもあいつが中学生の頃からだけどね。知生は迷惑をかけてない?」

「はい。迷惑どころか……」

 世間話を始めようと思ったところで、電車の音が聞こえてきた。ここで私は当初の目的を思い出す。もっと深く話を聞いてみたいが、こんなところで油を売っている猶予は残されていない。

「あの。知生さんが今どこにいるかわかりますか? 実は知生さんを探しにここまできたんです」

「知生? 多分、この公園にいると思うよ」

 彼は私が広げている地図を指差した。公園か。ここからだと歩いて三十分くらいだろう。私はパンプスを履き直し大きく息を吸った。

「会いに行ってきます!」

 勢いよく荷物をまとめ始めた私に、彼は穏やかな目を向けた。

「ははっ。漫画みたいな勢い。ああ、お会計は僕が持つから急いで行っておいで。気を付けてね」

「あ、ありがとうございます! このご恩はいずれ!」

 勢いよく立ち去る私に愉快そうに手を振った彼は、やはり知生に似ていた。

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