20.月夜とドッグイヤー
朝日の爽快さとは真逆の押入れから、目的の荷物を取り出し埃を払う。
半年ほどしか経っていないのに、匂いがひどく懐かしい。封を開け引っ張り出すと、使い込んだ竹刀が顔を見せる。三尺八寸の懐かしい重みが、ずしりと右手にのしかかった。
もう見ることもないと思っていたが、再会というのは思いもよらぬ突発さで訪れるものらしい。
「久しぶり。元気にしてた?」
かつての相棒は、臍を曲げる事もなく凛とした姿を保っていた。
目を背けるために押入れの奥に放り込んでいたのに、今は不思議と嫌悪感がない。私は優しく柄を撫で、もう一度ケースの中に竹刀を戻した。
知生の宣戦布告から一夜明け、変わらぬ朝がやってきた。私はいつもより少し早く身支度を済ませ、荷物に竹刀を加えて玄関へと向かう。
「あら、もう行くの? 今日は早いのね」
家事を終え炊事場から現れた母が、私の姿を見て大きく口を開けた。
「さ、さっこ? それ……」
母は竹刀と私を交互に指差した後、お化けでも見たような顔を浮かべテーブルで新聞を読む父の元へと向かって行った。
「お、お父さん! さっこが! さっこが!」
「どうした。主語だけじゃわからんよ」
大慌てで寄り付く母に対し、父は落ち着いた様子で私を見る。彼は少しの間の後、こぼれ落ちそうなほど目開いた。驚き顔が二つ、私のほうに向けられる。
「今日は……荷物が多いんだな」
冷製を装っているように見えるが、父の視線も母同様、竹刀と私を行ったり来たりしている。
そんなに驚く事ないじゃん、と不満を吐きたくなったが、よくよく考えれば両親の反応が正解だろう。剣道から逃避していた娘が、何事もない顔で再び竹刀を担いでいるのだから。
朝の団欒に衝撃を与えてしまった私は、少し目を逸らして鼻をかいた。
「ちょっと後輩に剣道を教えることになって。多分帰りが遅くなると思うから、ご飯先に食べといて良いよ」
「そ、そっか。大丈夫? 無理してない?」
「うん、もう大丈夫だよ。んじゃ行ってきます」
恐る恐る見送る母を背に家を出る。快晴の下、私は意気揚々と学校へと向かった。
いつもより時間が浅い事もあって、少しだけ空気が澄んでいるような気がした。私は生温い風に伸びた髪を揺らし、電車で人目を惹く感覚にも哀愁を覚えつつ、こそこそと空き教室を目指す。
「あっ。やっと来た」
教室に入ると、昨日と同様にポニーテールを携えジャージを身に着けた知生が、挨拶替わりに竹刀の先をこちらに向けた。
まんま昨日と同じ感想だ。教室で何やってるんだこの子は。恐ろしさに私は足を止める。
「おはよう。教室で物騒なもの振り回しちゃダメだよ」
「ちゃんと周りは見てますよ」
切っ先がぶれる事なく私に向けられている。気を抜けば勢いそのままに脳天をかち割られてしまいそうだ。
私はジリジリと動きながら荷物を置き、パシリと知生の竹刀を握った。
「ちょっと見せて。ベランダに放っておいた竹刀なんて使い物にならないんじゃない?」
あっと声を漏らす知生から竹刀を受け取る。知生の家に行った時、ベランダに放り出されていた竹刀。護身用に祖父が置いていったと彼女は言っていたが、触れたところそれなりに使い込まれた形跡があった。
それどころか、最近手入れされた様子まである。私は目を丸くしながら竹刀を撫でた。
「あれ、意外と手入れが」
「試合をするんだから手入れぐらいするでしょ」
「ま、まあそうだね……」
当たり前のように語られてしまい、竹刀を奪われる。中結いも弦も、初めて竹刀を持ったような子が整備したにしては綺麗すぎる気がしたが、そんな疑問も再び向けられた切っ先で吹き飛んだ。
「さあ先輩! 稽古お願いします!」
「いちいち向けないでよ」
「なんかこれ向けていると、先輩の威圧感に勝てる気がするんですよね」
「普段から威圧してるみたいに言わないでよ。私がいつあなたを威圧したの?」
切っ先を逸らせ、私は溜息を吐いた。こんな普通の教室で出来る事なんて限られている。ましてや初心者に竹刀を振り回されて教室の備品が壊れるのも困る。
握り方とか足さばきとか、一先ずは試合が出来るまでには仕上げないと元も子もないのだ。
「まずは基本的な事からしましょうか。試合にならなくちゃ話にならないし……」
私は言葉を吐いて知生の手元を見る。
なんというか、やけに様になっている。いくら彼女が模倣を得意としているからと言って、ここまで違和感がないというのは逆に違和感だ。
逸らせたはずの剣先も、再びきれいに私の眉間に向けられているし。
「何から教えてくれるんですか? どうせ先輩のことですから、色々とプラン練ってきてくれているんでしょう? 時間がもったいないですしさっさと始めましょう!」
知生の言葉で私は我に返った。内心を覗かれているようで非常に嘆かわしいが、私の頭の中には睡眠時間を削って考えた彼女を育成するプランがみっちりと詰め込まれている。
「はいはい。一旦竹刀を置こうね。足さばきから教えるわ」
「えー地味ぃ」
「文香に勝つんでしょ? 地味でもやるの。はい竹刀を置く! まずは準備運動!」
私の両手のパチンという音で、知生はしぶしぶ竹刀を置いた。気になる点はいくつかあるが、知生の言う通り時間が惜しい。私は掛け声とともに柔軟体操を始めた。
一限が始まるまでの間、私は脳内プラン通り知生に指導を続けた。時計に目をやると、針は朝礼の十分前に迫っていた。
一時間ほど身体を動かしたおかげで、お互い額にじんわりと汗が浮かんでいる。
「んじゃまあ、朝はこれくらいにしておきましょうか」
「ありがとうございました! それじゃあ放課後もよろしくお願いします」
「……野暮だから聞かなかったけれど、知生ってさ——」
「ほら、授業に遅れますよ。早く用意しないと!」
さくさくと荷物を纏める知生に合わせ、私も制服に着替え始める。
何だかはぐらかされた気がするが、ここまで追及を避けるということはこれは本当に野暮なことなんだろう。
他愛もない会話を交わし、私たちは各々の教室へと戻った。
何とか朝礼ぎりぎりに教室に滑り込み、何食わぬ顔で自席へと座った私は、教材を準備する間ぼうっと思考を巡らせる。
どんな競技だって、実質二日の練習で初心者が経験者を打ち破るのは難しいと思う。というか少なくとも剣道で言えばそうだ。
練習しないと有効部位に打突すら当たらないし、そもそも竹刀をしっかりと振り切るのにも技術がいる。
ダメ押しで言えば、文香は決して弱くない。この半年間の成長を差し引いても、素人には負けないだろう。
知生に突出した才能があったり、文香が体調を崩していたりしても、本来短期間で覆る差ではないのだ。
それでも、私の脳にはしっかりとジャイアントキリングのビジョンが浮かんでいる。
というのも、そもそも前提自体が間違っていた。おそらく知生は初心者などではない。
本人がかつて言っていた「やっていない」という言葉だけを信じていたが、先ほどの一時間で確信してしまった。
彼女は経験者で、何なら多分それなりに強い。ブレない切っ先や足さばき、重心の動きを見ただけで、それらが一朝一夕で身につけられたものではないことが明らかだった。
知生はなぜかそれを隠しているし、追及するつもりもないが、私としてはただただ好都合だ。残された時間はわずかだが、私の持てるノウハウを全てあの子にぶち込んでやる。
描いていた指導案は一旦白紙にして、放課後までの時間にじっくりと練り上げよう。
ワクワク感に薄く笑みを浮かべた私に、ゆっくりと始業のチャイムが降り注いだ。
「ちょっと面白そうな噂を聞いたんだけどぉ」
放課後になり浮ついた足取りで空き教室に向かう直前、みちるから声をかけられる。
「噂?」
「ふーみんと喧嘩したんだって?」
ふーみんというみちる特有の文香の呼び方も、今となっては懐かしく思える。
「さすが。耳が早いね。まあ喧嘩ってほどでもないんだけど」
私は足を止め、みちるの方を向いた。面白いものを見つけたような瞳が、じっとりと私を見つめる。彼女も帰り支度を済ませ、鞄を担いでいた。
「あはっ。何だか人形に心が宿り始めたね」
「なによそれ」
「夏前くらいからさやちんの目の色が変わったって話だよぉ」
ふんふんと鼻歌を奏でるように、彼女は私の背中を叩いた。
「そ、そう? 私ずっとこんな感じじゃない?」
「春先は何かに向かうってこと避けてたもん。変化ってのは自分では気づかないもんかね。いや、元に戻ってきたとも言えるのか。愉快愉快」
くすくすと笑みを深めながら、彼女は私を追い越して出口へと向かっていった。
「今のさやちん見てると、青春に終わりはないんだなぁって思わされるね。頑張ってねぇ」
最後にぽつりと言葉だけを残し、彼女の姿は見えなくなった。
なんだったんだろう。でもなんだかものすごくむずむずする。照れくさいというかなんというか。もちろん知生に出会って自分自身が変わった自覚はあるが、わざわざ言葉にされると、こそこそやっていた趣味が公になってしまったような複雑な気分になる。
それよりも、ゴシップ通に決闘のことがばれているのだ。いずれは大きな噂話になることだろう。なおさら知生を負けさせるわけにはいかない。彼女には喧嘩を売って返り討ちだなんて汚名は似合わない。
私は決意を強く固め、知生の元へと向かった。
空き教室で知生と合流した後、私は彼女を連れてとある場所へと向かった。
「ほほう。こんなところに道場があるんですね」
「昔通ってた道場だよ」
私達が訪れたのは、私が小学校の頃通っていた道場だった。あの教室で縮こまった練習をするより、それなりの空間を用意した方がいいと思った私は、微かな伝手を思い出しここを訪れることにしたのだ。
訪れるのも数年ぶりだが、あの頃とちっとも変わっていない。
「でもなんかぼろぼろじゃないですか……? 人の気配を感じません」
「そりゃそうだよ。数年前に看板を下ろしているもの」
「えっ」
意外そうな顔を浮かべる知生に笑顔を返し、私は道場横の民家へと向かった。
インターフォンを押してしばらく待つと、腰が曲がった女性が民家から姿を現した。女性は不思議そうに私達を見つめ、大きく首を傾けた。
「あら、どちら様かしら」
「月子さん久しぶり。沙夜子だよ」
「まあ!」
私の言葉を聞いた彼女は、薄い目を大きく見開いた。
「まあまあ、さっちゃんだったのね。大人っぽくなったわねぇ。気がつかなかったわ」
彼女は私の方へとゆっくりと近づき、穏やかな笑みをこちらに向けた。私が大きくなったのもあるが、彼女の背丈も昔より低いと思う。かつてとは大きく目線が違う。それでも、この笑みはひどく懐かしい。
「何年ぶりかしら。活躍は聞いてるわよ」
「いやいやそんな……。ところで先生は?」
「うーん。囲碁でも打ちに行ってるんじゃないかしら」
彼女はやれやれと溜息を吐いた。師範がいないのは、余計な追求を避けられてむしろ好都合だ。
「そっか。ごめんねいきなり来て」
「いいのよぉ。嬉しいわぁ。どうしたの?」
「実は、道場を借りたくて……」
「道場を?」
私の言葉に、彼女は目を丸くした。それもそのはず、おそらくあの道場は長年使われていない。師範が腰を悪くして以降、剣道教室を畳んでしまったのだ。新しく教室を開いたという話も聞いていない。歳も歳だし。
「やっぱり急だったよね……」
「いやいや、大丈夫よ。諸々手入れは荒いからボロはあるでしょうけれど、他でもないさっちゃんのお願いだもの。鍵を取ってくるわね」
彼女が家屋に引っ込んでいった隙に、知生が私の袖を引いた。
「誰ですかあのおばあちゃんは?」
「私がこの道場に通っていた頃、お世話になっていた月子さんだよ。この道場の師範の奥さん」
「へえ」
当時ここの剣道教室には私以外に女の子がおらず、月子さんは私を孫のように可愛がってくれていた。私も祖母に対する様に彼女に甘え切っていたし。
道場自体が取り壊されていたらどうしようかと思ったが、なんとか練習場所で困らずに済みそうだ。
少しの間の後、再び月子さんが姿を現し、私達を道場へと導いてくれた。
久々に日の目を浴びたであろう道場は、予想に反して綺麗にその姿を保っていた。
「あれ? もしかしてまた教室始めたの?」
ぽつりと漏れた私の疑問に、月子さんは笑みを返した。
「綺麗なのが気になる? あの人もやる事がなくて退屈なんでしょうね。腰が悪いくせに掃除だけは欠かさずやっているのよ」
「ああ、なるほど」
一礼して足を踏み入れる。ひんやりとした床が気持ちいい。あの頃と同じ匂いがした。落ちた日が差し込み、床に反射してキラキラとしている。私のルーツとも言える空間。ここで振り下ろされた一刀を見て、私は剣道を始めたんだ。
急激な懐かしさに思わず涙腺が緩みそうだったが、私はグッと息を飲んで差し込む光を眺めた。
「ここにあるものは好きに使っちゃって良いからね。私は夕飯の支度があるから戻るけれど、何かあったらまた呼んでちょうだいね」
「ありがとう月子さん」
私は月子さんに向けて大きく頭を下げる。それに合わせて知生も頭を下げた。月子さんは微笑んだ後、家屋の方へと戻っていった。
「看板を下ろしたにしては、中は綺麗ですね」
スタスタと道場を歩きながら、知生が辺りを見渡す。懐かしい道場の景観に知生が混ざっていることが、私の時間軸をぐるぐると狂わせてくる。
「そうだね。私がいた頃とちっとも変わってない」
「ここの師範がコマキサ先輩の師匠なんですか?」
知生の言葉で先生の顔を思い出してしまった。いつもさらりとかわす様な言動で、飄々と指導をしていたおじいさん。それがここの師範であり、私が最初に剣道を習った先生だ。
「師匠って大仰な。まあそうね。ここの偏屈ジジイが私に剣道を教えてくれてたよ。腰を悪くして私が中学に入る前に閉めちゃったんだけどね」
知生が大きく息を吹き出した。
なんともエレガントさに欠ける返答をしてしまったが、知生が笑っているからいいか。
「酷い言い方。確かにやってない道場を何年も綺麗にし続けるなんて変わり者かもしれませんけど」
「ほんと変わり者だよ。心が大事だ、心が大事だって、毎回そればっかり。今思えばすごいわかりにくい教え方をされていた気がするわ」
「いないのをいいことにめちゃくちゃ言いますね」
知生はけらけらと笑いながら、道場の隅に荷物を置いた。
「わざわざ道場に来たことですし、軽くお手合わせ願いましょうか」
彼女は大きく伸びをして、慣れた様子でストレッチを始めた。
唐突にお手合わせだなんて。朝は大人しく足捌きと握り方を聞いていたくせに、えらく急な提案だ。
「いやいや、流石に初心者とは……」
「ここに連れてきたってことは、私が初心者じゃないってことに気付いてるんですよね。まどろっこしいのはやめにしましょう」
渋る様に荷物を置いた私を見て、知生はにやりと笑みを向けた。なんだ、気付いていることも織り込み済みなのか。
というか、先にまどろっこしい隠し事をしてきたのは知生の方じゃん。私はただ思いっきり竹刀が振れる場所に来たかっただけだ。
あっさりとしたカミングアウトに毒気が抜かれた私は、溜息を吐きながら竹刀を取り出す。
「わかったわ。でもどうするの? 防具は持ってきてないよ」
「このままでいいですよ。軽い稽古ですから。本気で打ちやしませんよ」
「えっ。恐ろしいこと言ってない?」
「さあどうでしょうね」
さらりと言葉を吐いた知生は、竹刀を取り出して道場の中央へと進んでいく。まさか防具なしで試合をやろうとしているのか。
「危ないってば。痛いよ? 竹刀」
「そのくらい知ってますよ。軽くって言ってるじゃないですか。さくっと動きを見てもらった方が何が足りないかわかりやすいでしょう?」
確かにその通りではあるが、私の方にも心の準備がある。
というか私はあの決勝以来、初めてまともに竹刀を握るのだ。どうせなら葛藤とかそういうのもやっておきたいし、もっとセンシティブになってくれてもいいじゃないか。
諸々考えた後、知生相手にそんな感性が無意味だということを思い出した。
私は大きく溜息を返し、止む無く知生の前へと向かった。
本格的な稽古をするなら、防具も持ってきたのになんてことを思ったが、ひょっとしたら知生も同じことを考えているのかもしれない。
軽いストレッチを済ませた後、三メートルほどの間隔を開け竹刀を持った二人が相対した。私はゆっくりとしゃがみ込み、大きく息を吐いた。
「久々すぎて緊張するわ」
「再三ですけど、軽くですからね。痛みを感じたらすぐに出るとこ出ますからね」
「こっちの台詞なんだけど……」
竹刀と竹刀を向け合う。自然と試合開始前の状況が作られる。知生の動きに不自然な箇所は一つもなく、それだけで十分に経験を積んだ人間であることを理解させられた。
もう隠す気など毛ほどもないらしい。そのせいで、公式戦のようなじっとりとした緊張感がある。
ふうと一息吐くと、二人の間を漂う空気がぱきりと張り詰めた。目の前には竹刀を握って鋭い目を向ける知生。状況だけで見ると試合開始を待っているのに、防具もつけず、ジャージに素足というトンチキな格好。そしてそれを覆う様に伸びる私の竹刀。
ああ懐かしい。こんな光景見たことないはずなのに、取り囲む空気全てが懐かしく思える。
「じゃあ行きますよ。始めっ!」
唐突の開始宣言の後、知生ゆらりと立ち上がり足を後ろに動かした。私との間合いを測るように、じりじりと剣先が揺れる。それに合わせて鳴る心音が、身体に熱を運んでくる。
半年ぶりの距離感が、ゆっくりと私をあの頃の私に引き戻した。頭から爪先まで、全ての細胞に神経を尖らせる。ゆらゆらと炎のように心が揺れる。
知生の呼吸も、足の動きも、なんなら筋繊維の一本一本まで見える気がした。まあ気のせいだけれど、そのくらい今日の私は冴えている。
ほんの数秒前は防具なしの状況に怯えていたのに、何故だか湧き上がってきた無敵感が私の口を動かした。
「私からは打たないから、好きに打ちなよ。多分、全部止められるから」
「なんですかその強キャラみたいな台詞。後悔しても知りませんよ!」
ニヤリと笑みを浮かべた知生は、すっと両腕を上に構えた。そのまま一呼吸置いたかと思うと、彼女の竹刀が私の額に向けて大きく振り下ろされる。
この状況で上段からの面とか、殺す気か。急いで竹刀を動かそうとしたところで、知生の重心が動いたのが見え、私は手を返した。
パァンと竹刀が弾ける音が道場に響いた。手の痺れと共に、私は知生から距離を取り再び正位置で竹刀を構える。
知生が繰り出したのは、面をフェイントにした綺麗な逆胴だった。動体視力が鈍っていなくてよかった。でなければ私の胴は今頃真っ二つだっただろう。
「今のを躱すとか、化物すぎでしょ……」
苦笑いを浮かべる知生は、ふわりと緊張を解いた。それに合わせ、私も竹刀を下ろした。
「ちょ、ちょっと! 危ないでしょ!」
「好きに打ちなよって言ったじゃないですか」
「たしかにテンションが上がって言っちゃったけど……! 本気で打つ? 死ぬかと思ったわ!」
「殺す気では打ってませんよ」
「嘘だね! だってめっちゃ痺れてるもん手。あー怖かった」
「そっちこそ嘘でしょ。そんなにやけた顔で」
知生の言葉で私はようやく自分の表情に気がついた。口角が上がっている。にやけている。確かにそうだ。私の心は言葉とは裏腹に踊っている。私はじんじんと震える両手を見つめた。
綺麗な逆胴、ギリギリの駆け引き、あの身を焦がすような一瞬の緊張を、私はにやけるほど楽しんでいたのだ。
その事実を認識してしまったことで、色々な想いが急激にフラッシュバックしてくる。
「ど、どうしたんですか? 当たってないですよね?」
「え? なにが?」
なにやら心配そうに私に駆け寄ってきた知生が、私の身体を確認するように目を動かした。にやけ面で逆胴を放った少女とは思えない様子に、私はその場でうろたえた。
「どうしたのよ急に」
「どうしたはこっちの台詞ですよ。それ」
知生の指が私の顔に向けられる。促されるまま頬を撫でると、じっとりと暖かい滴が指を伝った。なんだこれは。瞳から溢れるこの感触を涙以外に知らない。私は泣いているのか。
「えっ。あれ? なんで?」
私は訳もわからず両目を覆った。意図と反するように、どんどんと涙が溢れてくる。身体の異常から遅れたように、先程フラッシュバックしてきた想いが胸の内から湧き出てきた。
あんなにクリアだった思考には、ざらざらと砂嵐が吹き荒れてくる。
「まさか、どこか痛めたんですか? 怪我明けだってわかってたのに、私なんてことを……。び、病院! 病院に行きましょう!」
知生の焦ったような顔つきが私を覗いている。こんなことで慌てるなんて、知生らしくない。ただ、このらしくなさを引き出しているのは間違いなく私の振る舞いだ。
「違う、違うよ。どこも痛めてない」
私はたどたどしく言葉を吐いた。身体なんてどこも痛くはない。怪我明けの足も絶好調だ。
ただ気付いてしまった。懐かしさや緊張が合わさり、忘れていた感情を目の前に連れてきていたことに。その事を自身の涙で理解してしまった。痛いのは心だ。
「私はやっぱり剣道が好きだったんだなって、思い出しちゃった」
私は剣道を嫌いになったんじゃない。そんな簡単なことを理解するのに、どうしてこんなに時間がかかってしまったんだろう。
あの環境が嫌になっただけで、私は今でも剣道が大好きじゃないか。剣道から離れることなんてなかった。まとめて目を背ける必要なんてなかった。これはきっとその悔し涙だ。
私はジャージの袖で涙を拭い顔を上げる。知生の相変わらず心配そうな顔が映った。
「ひょっとして先輩は……。部活に戻りたいんですか? 私に遠慮して言えないだけですか? 私、余計なことをしてますか?」
ほら、私の余計な感傷で、可愛い可愛い後輩を不安にさせている。この気付きの結論はそうじゃない。
「ううん。それはないよ。私がいたい場所は、あそこじゃない」
「でも——」
私は大きく息を吸い、言葉を吐き出した。
「今はっきりと分かったよ。こんなに楽しい剣道に負けないくらい楽しいことを、この半年であなたがたくさん教えてくれたんだって。だから私は知生と一緒がいい」
私は大好きな剣道から離れることで、何かに熱を注ぐ力まで捨ててしまっていたらしい。物事に本気になれなかったんじゃない。無意識に本気にならないようにしていたんだ。
好きな事に熱を注ぐ事は、自分自身を傷つける事だと勝手に思い込んで、傷つかない道を選んでいたのだろう。
しかし、周りの目を気にせず天真爛漫に動く知生と出会って、私はきっと物事に熱を注ぐ力を取り戻している。好きなことを好きと言える自分を取り戻しつつある。
ようやく具体的に言語化できた。完璧だ。この気持ちに間違いはない。
だからやっぱり今の私の高校生活は、彼女の隣がいい。
「お願い。文香に勝って」
支離滅裂で無茶苦茶で、多分訳がわからないことを言っている。その自覚はある。でもきっと知生なら大丈夫。私の足りない言葉を勝手に補足してくれるはずだから。
知生は下がった眉をキリッと上げ、不敵に微笑んだ。
「……今更何を言ってるんですか。私から喧嘩を売ったんですから、当然勝ちますよ。ほら、構えてください。続きをやりましょう!」
ここでいつも通りの知生の顔つきが見られた。ほら、理解してくれた。可愛い可愛い後輩は、今日も今日とて頼もしい。
彼女たちの決闘が終われば、きっと私はあの過去を完全に払拭できる。そうに違いない。私は笑みを浮かべ、竹刀を構える。
私達は日がしっかりと落ちるまで刀を交え続けた。
稽古が終わり道場を出ると、見覚えのある人影が私たちを出迎えた。白髪混じりのその姿に、私は思わず声を上げる。
「げっ」
「久々に顔を見せたかと思えば、随分なリアクションじゃないか」
「あはは……。ご無沙汰してます」
目の前に現れたのは、私の記憶より少し老いた師範だった。くそっ。会わずに帰るつもりだったのに。
未だ私より背が高い彼は、つかつかと私に近寄り肩を持った。かつてほどの威圧感は無いが、それでも無意識に身が引き締まった。
「辞めたんだってな」
「……知ってるんですね」
「当然。俺は剣道大好きおじいさんだからな」
がはがはと大きな声で笑う彼は、大きく私の肩を揺らした。こういうデリカシーの無いところはちっとも変わっていない。あと肩を持つな。セクハラだからな。
私はパシリと手を払い、頭を下げた。
「勝手に道場をお借りしてすいませんでした」
「構わん。月子さんが良いと言ったんだろう」
「……明日も借りていいですか?」
「ああ。好きに使うと良い」
「ありがとうございます。それじゃ」
私は逃げるように足を動かした。久々で距離感も測りかねているし、何より細かい追及をされるのは厄介だ。
急いで横をすり抜けようとした私の肩を、彼はもう一度がしりと掴んだ。二枚目のイエローカードだぞ。警察に突き出してやろうかしら。
「なんですか?」
「剣の道は一つでは無いぞ」
「はぁ」
じろりと目を向けた私を諭すように、師範はふふんと鼻を鳴らした。私を指導するときによくしていた顔だ。私は昔からこの空気が苦手だった。
「お前は昔から自分の心を大切にすることが苦手だからな。新しい道を探すこともまた剣道。大切なのは心だ」
お決まりのような台詞が彼の口から飛んできた。懐かしい文句だ。私は幾度となくこの言葉をぶつけられ、幾度となく首を傾げていた。今だって例外では無い。
「ありがとうございます。ほら、知生、行こう」
とりあえずの返事を返し、退屈そうに身を揺らしていた知生を呼びつける。彼女は小さく微笑みながら、私の後ろに並んで頭を下げた。
今度は私たちを引き止めることなく、彼はこちらに視線だけを向けた。
「気をつけて帰れよ。あ、近々道場を再開しようと思っているんだ。誰か手の空いた暇そうな指導員を知っていたら教えてくれ。例えば剣道を辞めた女子高校生、とかな」
私は言葉を背に受けながら、足を止めずに進める。振り返らずとも、どうせ師範の顔がにやけていることがわかっているからだ。
相も変わらず面倒くさいおじいさん。彼の言葉に含まれているであろう意味合いを少し理解できたのは、私があの頃より大人になったからだろうか。
月明かりに導かれるように、私たちは帰路を進んだ。




