17.夜光とビターメモリー
私が初めて竹刀を握ったのは、確か七年ほど前だったと思う。
思い返してみても、剣道を始めたことに大した理由なんてない。
たまたま通りかかった道場で、竹刀を振るう近所の兄ちゃんが格好よかったというだけ。実に子どもらしい単純明快な動機だった。
そこから両親に頼み込んで剣道教室に通い始め、私はどっぷりと剣道の魅力に嵌まり込んだ。
ぴりぴりと張り詰めた相手と私だけの世界。相手の腹を探りながら足を運び、打突部位に向け渾身の一撃を叩き込む。
自身の声と竹刀がはじける音の後に、両手に心地よい痺れが伝わる。よりよい心地よさを味わいたくて、型に磨きをかけていく。
自分の太刀筋が鋭くなっていく感覚がたまらなく好きで、私は日々欠かさず刃を振り続けた。
幸運にもそれなりの才があったようで、私は着実に力をつけていった。
努力の天才だね、なんて事を言われたこともあったが、幼き私を突き動かしていたのは単なる強さへの探究心だった。
強くなることは楽しいことで、よって勝つための努力は苦でも何でもなくて、むしろ逆にそれをしない人間のことが理解出来なかったのだ。
わざわざ口に出して反感を買うようなことはしなかったが、これが私の当たり前だった。
そんな尖りは私に更なる強さをもたらし、中学校を卒業する頃には世代最高の逸材の一人に数えられるまでになっていた。
もちろん推薦の話も来ていたが、家を離れることに乗り気じゃなかったし、通学に時間がかかるのも嫌だったので、安直に家からの近さで高校を選んだ。
どこでやっても剣道が楽しいことに変わりはない、なんて感性を持っていた私は、知生の高校選びに変だとは言えない奴だったのかも知れない。
高校生になった私の前にも大きな壁が立ちはだかることはなく、早々にエースと呼ばれ持て囃されることになる。
ここまでの私は、我ながらかなりイケていたと思う。私の剣道人生は、まごうことなく順風満帆の極みだった。
しかし同時に、徐々に努力というものに楽しさを感じなくもなっていた。
周りからの期待だとか、託された想いだとか、やる気のない他の部員だとか、そういった不純なものが徐々に積み重なり、竹刀を振る手はどんどん鈍っていった。今も鮮明に思い出せる、鉛のような感情。それでも私は期待に応え続けた。
息苦しさに踠きながら、転機となる高校一年目の冬がやってくる。
三年生が引退し、新たなチームが始動してからというもの、私が練習の舵を切ることが増えていった。
うちの高校の実力は高く見積もっても中程度で、初戦突破が関の山、というのが定位置だった。
もちろん団体戦は私一人でどうにか出来るものではない。それでも彼女であれば優勝に導けるのではないか、という根拠のない周囲の期待が私を取り巻いていたのだ。
だから私は寝る間も惜しんで地区大会のデータを集め、少しでも勝率を上げるようにチームを回し続けた。
部員の長所が嵌るよう、負けが込まぬよう、最悪でも大将の私で同点にするまで持ち込めばいい。この時の私を突き動かしていたのは、楽しさではなく焦燥だった。
焦燥に駆られたまま、新体制最初の大会が始まる。
ほとんどの試合が代表戦までもつれ込む長丁場になったが、私の研究成果はパチリとハマり、決勝戦まで駒を進めることができた。
ここまででも未踏の快挙だが、欲に際限がないのが人間の性である。どれだけチームを勝利に導こうが、私を取り巻く期待は晴れることはなく、より重く、より深く、私にまとわり続けた。
そして決勝の舞台。徐々に熱を帯びていく声援や、焦りを見せ始める常勝校の面々が、優勝の二文字に現実味を持たせていった。
左右に揺らぐ天秤の下、大将の私へとタスキが渡される。これまで通り、私が勝って、ようやく優勝だ。
声援を背に境界線を超え、ぼんやりと揺らぐ相手選手の顔を見つめ、膝に激痛が走った事までははっきりと覚えている。
そこからの記憶はほとんどなくて、次に私の瞳が映したのは、淡く映る蛍光灯の光だった。
後で聞いた話によると、私は何をするでもなく面二本を受け、朦朧としたまま膝の痛みを訴え医務室に運ばれたらしい。
日々の過負荷による衰弱と膝靭帯損傷のダブルパンチが、決勝という最高の晴れ舞台で降り注いだのだ。有無を言わせぬ敗北。私は剣道で初めて周りの期待を裏切った。
ベッドの上の私はそんな事を知る由もなく、周囲の気配に耳を傾ける。
「この子が勝っていれば優勝出来たのに最悪。せっかく面接受けが良くなる話題をゲットしたと思ったのにさ」
ベッドから起き上がれない私に声が向けられる。この声は部員達だろうか。この言葉で、私はようやく自身の敗北を理解した。
そうか、私は負けたのか。滲み出る敗北の痛みが、じくじくと胸の奥を溶かした。
どうやら私の意識が少し晴れたことに気が付かない部員たちは、会話を続ける。
「ねー。言う通りに練習してた私達が馬鹿みたいじゃない」
「強いからって粋がってて、正直鬱陶しかったんですよね」
「わかる。なに張り切っちゃってんのって感じだった。完全に巻き添えじゃん」
「たかが剣道ごときにマジになるとかほんとダサいわ」
薄く開いた瞳を横に動かす。黒いフレームで縁取られた視界には、息を漏らすように嘲り笑う香月先輩の顔が映った。
朦朧としていて噛み砕くのに時間が掛かったが、咀嚼した分ゆっくりと言葉が身体に染み込んでいった。
先輩も、同級生も、私が優勝に導こうと思っていた連中は、挙って私の敵になっていた。私が聞いていないとなれば、口を揃えて悪意を吐き出す烏たち。心身共に私より深い傷を負っていた者などいるはずもないのに。
私はみんなの期待に応えようとしたんだよ。みんなが強い強いって祭り上げたから、私も気合入れて引っ張ってたんだよ。実際ここまでは負けなかったじゃないか。決勝まで来れたのだって、大将で頑張った私のおかげでしょ。ヒーローにしてくれたっていいじゃん。私頑張ったよ。褒めてよ。ここまでの事をなかったことにしないでよ。私が大好きな剣道に酷いこと言わないでよ。
今ならいくらでも出てくる文句も、この時の私には一つも出てこなかった。溢れたのは、ただただ申し訳ないという気持ちだけ。
私は期待を裏切った。私は勝たないといけなかった。倒れるほど頑張っても、それでも勝たなくちゃ意味がない。滲み続ける敗北の色が、どんどんと心を溶かしていく。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。何度も心の中で呟き瞼を下ろした。絞った栓から滴が溢れる。
部員が帰っていき母が迎えにくるまで、私の懺悔は続いた。
次の日から、私は怪我を理由に部活を休み始めた。怪我は本当にしていたからサボりというわけでは無かったが、なによりあの罵声達を聞いて普段通りに振る舞える気がしなかったのだ。
そして竹刀を握らない日々は私に不思議と安息をもたらした。怪我で剣道が出来ないという不安よりも、もう期待に応えなくていいという解放感が勝っていたのだろう。それが何より悲しかった。
楽しさからくる努力が期待からくる義務に姿を変えていたことに、私はようやく気がついた。私を支えていた何かがプツリと途切れる。
そんな私が退部届を提出するまでに、そう長い時間はかからなかった。
こうして私は、青春の死骸を手土産に竹刀を下ろす事を決めたのだ。
長い長い独白を終え、私は目を伏せる。勝手に湧いてくることはあっても、この過去を自分から見つめたのは初めてだった。
私が物事に本気になれなくなったのは、間違いなくこの出来事以降。無意識下で期待というものを恐れていたのだろう。
改めて考えれば、怪我が治った今でも剣道をする気にならなかったのはそのせいだ。
後悔はない。何回やり直したって、きっと私は同じようになってしまうだろうし。だとしたらこの気持ちはなんなんだろう。
風呂釜のようにぐつぐつと沸く感情は、触れるにはまだ熱い。知生の言葉を借りるならば、まさに過ぎたるは及ばざるが如しなのに、割り切るにはまだまだ時間が足りなかったらしい。
「さっきの先輩が香月先輩。あれだけのことを言ったくせに、罪悪感の一つも覚えていない顔で喋りかけてきたのは腹立ったなぁ。まあ本人は私が怪我で辞めただけだと思ってるんだろうけどね。ほんと、ムカつく。言い返せなかった自分自身にも」
私は乾いた口に水を流し込み、ふうと息を吐いた。吐き出した事のない心情を空気に触れさせただけで、半年以上に渡るモヤが少しだけ晴れた気がした。
「長々とごめんね。でもなんだか知生には喋りたくなっちゃったんだ。今まで誰にも言えなかったから、吐き出せてスッキリしたよ」
知生の方を向く。彼女は話の間もずっと高い空を眺めていた。
彼女から言葉は返ってこない。共感してくれているのか、呆れているのか、薄い照明のせいで表情がぼやけて感情が読み取れない。夏祭りというめでたい日に、我ながら嫌な空気を広げてしまったものだ。
私がもう一度水を口に運んだと同時に、沈黙していた知生が立ち上がった。スッと息を吸った彼女が私を見下ろす。
「コマキサ先輩の大バカっ!」
世界が揺れた。正確にいうと、距離感を無視した知生の大声が私に向けられたことで、衝撃が身体を震わせた。こんなに静かな公園なのに、じんじんと耳が鳴り続ける。
なんだったっけ。そうだ、大バカ。大バカと言われたんだ私は。数秒のショートから、私はようやく我に返る。
「だ、誰が大バカなのよ」
「だからコマキサ先輩だって言ってんでしょうが!」
そう言い返し、知生はお面の一つを顔に装着した。赤色のヒーローが、虚な目で私を見ている。なんでこのタイミングなんだよ。
まさか過去の傷を話したことで、罵声を吐かれお面を被られるなんて思わなかった。
「一世一代の告白だったんだよ。茶化さないでよ」
「茶化してるわけないでしょ!」
「ええー……」
ぴしりと人差し指を向けられたことで、私は反論ができなくなる。プラスチックを一枚挟んだはずなのに、知生の声は変わらず鋭い。
「なんで誰にも言わなかったんですか?」
「それは……」
「先輩なりの美学があってのことでしょうけど、溜め込む必要なんて無いじゃないですか」
お面越しに深々と溜息を吐いた知生は、大きく腕を組んだあと、こほんとわざとらしく咳をした。
「考えがごちゃごちゃしてて順番を間違えました。まずは過去のことを話してくれてありがとうございます」
「い、いやいやこちらこそ」
「それを話せるほど信頼してもらえているというのは、正直心地いいです。素直に嬉しいです」
「嬉しいときたか……」
急に冷静になられたことで、会話のテンポを崩されてしまった。
こんな事を包み隠さず言ってくるあたり、本当に私と彼女とは大きく性質が異なるんだろう。
ほわほわとした感覚が浮き上がってくるが、それを抑えるように知生は言葉を続けた。
「決勝で負けた後剣道を辞めたって話、実は私知ってました」
「えっ、なんで?」
「噂話ですよ。これだけのエピソードが有象無象の餌にならないわけないでしょ」
「そっか」
「あの学校で知らずに過ごす方が難しいくらいです」
普段素知らぬ顔をしているから、知生は知らないものとばかり思っていたが、言われてみれば彼女の言う通りだ。
剣道部に縁のないアキやクラスメイトが知っているくらいなのだから、下級生にその話が回っていてもおかしくはない。期待の新星が辞めたとなれば、そりゃ噂話にもなるか。
浮世離れした知生が知っていたことは、それでも驚きだけれど。
「私って意外と有名人だったんだね」
「でも、部員からの陰口の話は知りませんでした」
「さっき言った通り、誰にも話してなかったから」
「私はそれが許せないんです!」
再び知生の導火線に火がつく。すっかりと日の落ちた空を背に、熱血漢の赤色戦士が私を見下ろしていた。
無機質なお面からは、やはり感情が読み取れない。だが身体や声の震えが、今まで見たどれとも違う。
きっと知生は怒っている。
「みんながみんな、先輩が一度の敗北や怪我ごときで逃げ出した弱虫だと勘違いしてるんですよ!」
「ごときって……」
知生は大きく首を振った。
「ごとき以外の言葉が浮かびません。日々重くなる枷に耐えて、好きだった剣道を楽しめなくなって、それでも頑張って頑張って。なのにたった一度期待に応えなかっただけで酷い言葉を浴びせられて……。辞めて当然です。それなのに今なお、周りはあなたを弱者だと誤解し続けているんです。そんなの許せるわけないじゃないですか。なんで言わないんですか! バカっ! コマバカ!」
「知生……」
今は自分のターンだと言わんばかりに、知生から矢継ぎ早に言葉が飛んでくる。
「今の話を聞いて、先輩の行動を否定する人なんて多分いないです。というか、いたら私が拷問してやります。ただ報われないのは、見ていて辛いです」
知生の感情の揺らめきが私にも燃え移っていく。知生はやっぱり怒っている。でもきっとそれは、私だけに向けられたものじゃなくて、私の周りの人間に対してにもだ。
なぜ言わなかったという彼女の疑問には、いくつか答えがある。意識を失ったままのフリをして盗み聞きした罪悪感だとか、わざわざ事を荒立たせたくないという日和だとか。
しかし今ベストアンサーが仕上がった。あの時抱いた感情を、他人には理解してもらえないかもしれないということを私は恐れていたんだ。
だから知生の怒りはむしろ心地よかった。彼女はそれを読み取ってくれたからこそ怒ってくれているんだ。
私が言葉を探している様を見て、知生は大きく息を吸った。
「話してくれたんですから、今更過去のことをとやかく言っても仕方ないですね。熱くなりすぎました。バカって言ってすいませんでした」
「ううん……。バカだよ、私。自分のこと全然わかってなかった。ありがとう」
私は本当にバカだ。私はただただこの感情を誰かに理解して欲しかったのだ。それを遮っていたのは、他でもない怯えた自分自身。美学なんかとは程遠い。
ようやく本当の意味で、自分自身を見つめ直せた気がした。だからこの先どうだなんて結論はまだ出ないけれど、幾重にも重なった雲が晴れただけで、私はすっかり満足してしまった。
なぜかこの意味不明なタイミングで、知生はお面を付け替えた。今度は女児向けの魔法少女が虚な目でこちらを見ている。
彼女自身も自分の中の雑多な感情を整理するために試行錯誤しているのかもしれない。そう思うと、なんだか奇行も可愛らしく見えた。
ゆっくりと立ち上がる私に合わせ、知生は一歩足を後ろにやった。
「剣道選手としてどうかなんてことは私にはわかりません。けど、期待に応えようとして頑張り続けたあなたは、尊敬に値する先輩です。沙夜子先輩はすごい人です。誇らしいです。キラキラです! 自信を持ってください!」
ぱさりと軽い音を立てて、魔法少女の鉄拳が私の左胸を打った。その一撃は、雪が溶けた心に更に熱を注ぐような心地よさだった。これは私がマゾヒストだからではない。きっと。多分。
たいして痛くもなかったが、私はわざと痛がるフリをした。
「いったぁーい」
「私とした事が、会話の順序を全部間違えてしまいました。一番言いたい事が言えてません」
「殴ったのに放置っ!? ひどい」
「よく今まで一人で頑張りましたね。お疲れ様でした。よしよしです」
私のリアクションを全て素通りし、知生が私の頭に手を伸ばす。今度は言葉が私の胸を打った。
ああなんだ。私はただこうして欲しかったんだ。おつかれ、頑張ったね、次こそは優勝しようね。そんな言葉をかけてもらえていれば、きっと私はこうはならなかった。
両親も、佳乃ちゃんも、ひょっとしたらどこかの誰かさんだって、私が想いを吐き出すのを待っていてくれたのかもしれない。そう思うと、やっぱり私は知生の言う通りコマバカだ。語呂悪すぎでしょ。バカみたい。
私はふうと息を吐き、静かに微笑んだ。もっとこの心地よさに溺れていたい。
「もっと撫でて」
「えっ」
「なんか嬉しくて。もっと撫でて欲しい」
満点笑顔の魔法少女が、ピタリと動きを止めた。
「珍しく素直でキモいです。あと身長差ありすぎ。もう無理です。腕が吊る」
「あなたはいつも通り素直すぎ」
背伸びをしていた知生がふらふらと私から離れた。よろけた拍子にお面が外れる。
くすくすとその様を見ていた私は、灯りに照らされようやく見えた知生の表情に驚かされる。
目が真っ赤。しかも腫れぼったい。
「まさか、泣いてたの?」
「えっ、なっ、泣いてないです!」
「いやいや、無理があるってば」
よく見ると目の周りもしっとりとしている。誰がどう見ても泣き顔をお面で隠していたようにしか見えないだろう。
「私は報われない物語が嫌いなだけ。これはただの悔し涙ですよ」
知生は再びお面を被り、堂々と胸を張った。泥水を吸い脈々と育った醜い感情は、どうやら目の前の少女の共感とお涙を思いの外頂戴出来ていたらしい。
そこまで私のことを本気で考えてくれたのか。居ても立っても居られないほど嬉しい。
この昂りこそ、私の現在だ。この子がいれば、私はまた輝ける。そんな気がした。
「どこまで可愛いのあなたは。あ、お面も照れ隠しか」
色んな感情から解放されたおかげで、なんだか心が軽い。急に祭りの気分が舞い戻ってきたようだった。私はゆっくりと知生のお面を外す。
「うざざざざ。激うざですね!」
「うざくてもいいよ」
「ちょっと! 真顔やめてください!」
「もっと顔見せて」
「顎クイもやめてくださいっ!」
「あれ、これキスぐらいならしてもいいんじゃない? やばぁ。新たな花園開いちゃうわ」
「開いてんのは先輩の瞳孔ですよ!」
知生はくるりと身を返して、私からさらに距離をとった。ふうふうと荒い息が威嚇してくる猫みたいで面白かった。
可愛いなあ。改めて浴衣も似合ってる。唇も柔らかそうで、いつぞやのタピオカみたいだったな。食ってしまいたい。
本格的に思考が危なくなってきたので、自制も込めて私は言葉を吐く。
「冗談だよ」
「落ち込みからの反動ヤバすぎでしょ。危うく一線越えさせられるところでした」
「屋外はちょっとなぁ。雰囲気が」
「室内でももちろんダメですからね」
「ふふっ。あーあ。なんかお腹すいちゃった」
心の次はお腹が軽くなってしまった私は、もう一度ベンチに腰掛けた。隣には熱を奪われた食べ物達が、形を変えず居座り続けている。
「相変わらず食いしん坊なんですから……」
ぶつぶつと小言を吐きながら、知生はちらりと携帯電話に目をやった。暗闇に浮かんだぼんやりとした光を眺めながら、私は残ったたこ焼きを口に運ぶ。
「ああ!」
一噛みしたところで、知生から爆音が響いた。私は危うく漏れそうになる生地を、慌てて胃に流し込んだ。
「っ! ごほっ。な、何よ急に。びっくりした」
「私とした事がすっかり忘れていました。先輩!早くそれ片付けてください!」
知生は飛び出しそうなほどの勢いで食べ物達に指を向けた。
「片付ける? なに? どこかに行くの?」
「花火ですよ花火! これを見なきゃ何しに来たんだって話ですよ!」
そうか、もうそんな時間か。浴衣を着て出店の品を食べているくせに、今日何しに来たかをすっかりと忘れていた。
確かにこの場所からだと花火は見辛い。けれどもう会場付近は人で溢れかえっていて場所取りどころではないだろう。
「流石にもう見られる場所なんて……」
自責の念も込めて俯きがちに言葉を返したが、知生は相対して余裕の表情を浮かべていた。
「ふふふふっ。この日のために、特等席を用意してあるんですよ」
「うそっ。ほんとに? どこそれ?」
「うだうだ言ってる時間はありません! 早く片付けて行きますよ!」
知生の勢いに圧されるまま、私は荷物を一つにまとめた。
からんからんと派手に音を鳴らす彼女の後ろ姿を追って五分ほど。辿り着いたのは、なんと見慣れた我らが母校だった。
「やっぱりここですよね!」
「ま、マジっすか」
「マジっすよ」
「え、まさか忍び込むつもりじゃ……」
「侵入経路はバッチリです。さあついてきてください」
悪びれる様子もなく、知生はどんどんと足を進める。彼女の進む先は、魔法でもかかっているかのようにどこもかしこも施錠がされておらず、私はただただ驚く小判鮫と化した。
こうして私は、知生に連れられるがまま学校に忍び込むこととなった。