15.青色とアミューズメント
ガラス越しに見える空にはペンキをこぼしたような青色が広がっている。
待ちに待った夏休みのスタートは、眼が眩むほどの快晴だった。
浅い瞬きと共に私は栞を文庫に挟み込んだ。光を吸い込んだ白に、鮮やかな赤が映える。窓際の席を選んだのは失敗だったな、なんてことを考えながら文庫を閉じる。
フィクションから少し抜け出せていない、そんなぽやぽやとした感覚のまま、私は二つ目のドーナツを口に運んだ。
夏休み初日にも関わらず、知生からの呼び出しによって今私は駅前のドーナツ屋にいる。
無駄に朝早くに目が覚めて、普段は見ることのない情報番組を流し見し、進まない時計の針にうんざりしながら家を出たのが二時間前。そうして時間より大幅に早く集合場所に着いてしまった次第である。
日差しを吸い込んで柔らかく揺れるアイスティーを眺め、イヤホンから流れる小粋なインストに身を揺らし軽食を摘む。私はなんと優雅なんだろうか。
ぼうっとした瞳が、駅に向かう人々に向いた。
スーツを着たサラリーマン、営業とかに行くのかな。暑い中お疲れ様。
自転車に乗る初老の女性、こけるなよお婆ちゃん。気をつけるんだよ。
バットケースを背負った制服の団体、青春しろよ。水分補給はしっかりな。
通り過ぎる他人たちにお節介なテレパシーを送りながら、ストローからじわじわとアイスティーを摂取する。
退屈を紛らわせるためイヤホンのコードをクルクルと回していると肩を叩かれた。軽く視線を向ける。ちんちくりんな体躯が目に入り、私はゆっくりと耳からイヤホンを外した。
「おはようございます」
「おはよう」
「本当にお早いですよ。なんでもういるんですか? 待ち合わせ時間を間違えたんですか?」
訝しい顔を浮かべ、知生が私の隣に腰掛けた。柑橘系の涼しげな匂いがふわりと浮かぶ。
今日の知生は肩出しのトップスにフワリとしたロングスカートを身につけていた。ウィッグは付けていないようだが、勉強会の時の私服とは違い、随分と力が入っているように見える。眼福この上ない。
心の浮きを悟られぬよう、私は大きく伸びをする。
「早くに目が覚めちゃってね。暇だったから来ちゃった」
「ドーナツ食べてるし。相変わらずの食いしん坊ですね」
「うるさいなぁ。小腹が空いたんだから仕方ないでしょ」
「そんなことより! 記念すべき夏休み一発目のちいリストですよ!」
知生は溢れんばかりの笑みをこちらに向け、ポーチからノートを取り出した。きっちりとした字体が白いページに浮かんでいる。
「ちいリスト79、女子高校生っぽいことをして楽しもう……。随分とアバウトだね」
「聞くところによると、私が女子高校生でいられるのは、あと二年と半分ほどしかないらしいじゃないですか」
彼女は借り物のような言葉をこちらに向けた。
「なんで伝聞なの? でもそうだね。じゃあ私は残り一年半だ。早いなぁ時間が経つのは」
「せっかく女子高校生という肩書きがあるのに、それに即したことをしないまま高校生活を終えるのはどうかと思うんです」
「……珍しく一理あるね」
私はもう高校生活の半分近くを浪費したことになるのか。急に現実を目の前に提示されたような気分だ。だからどうというわけではないが。
感慨深さに耽る間もなく、知生から言葉が飛んでくる。
「ということで行きましょう! ほら、早く!」
「ちょっ、待ちなさいよ」
彼女はすくりと立ち上がり、出口に向かって歩き始めた。私は急いで持ち物を鞄に仕舞い込み、トレイを返却口へと戻し知生の後を追った。
知生の足が向かったのは、駅近くの商業施設だった。
夏休み初日ということもあってか、普段の平日では見られない多さの人が行き交っている。
ずかずかと自動ドアを潜った彼女は、ようやく足を止め堂々と腕を組んだ。
「まずはショッピングです。うーん。これぞまさしく女子高校生ですね」
彼女には目の前を行き交うファミリー達が見えていないのだろうか。というか、これは本当に夏休みじゃないと出来ないことなのだろうか。
私は浮かんだ疑問を溜息に折り込み、知生の肩に手を置いた。
「そうでもないでしょ。小学生も中学生もいっぱいだよ。特権感はないよ」
「御託は結構。こういうのは先輩の方が得意でしょ。ほら、案内してくださいよ」
勝手に連れてきて案内しろとはなんと横柄なことか。しかし、目的地が空調の効いた室内だったというのは非常にありがたい。私はわざとらしく首を傾けた。
「御託って……。まあいいわ。それじゃあとりあえず適当にぶらぶら見て回る?」
知生はふんふんと息を吐きながら首を振った。
「貴重な初日、無駄にしている時間はありません。狙いを絞っていきましょう」
「あっそう。服でも買いに行く?」
「いりません。夏物はもう買い揃えましたし」
「はやっ。じゃあ小物とか」
「愛でる趣味はないですね」
「えっ。じゃあ雑貨?」
「生活に必要な物はある程度ストックしてあるので」
「あなた何しに来たの?」
「青春をしにきたんですよ!」
お話にならない。ダラダラとなんとなく時間を使うことも女子高校生の醍醐味なのだ。というか今のが全却下されたらいよいよここに来た意味が無くなってしまう。
でも確かに、くだらない事を話しながら何となく時間を過ごすとか、この子は苦手そうだな。
もう一度炎天下に連れ出されるのも勘弁願いたいし、ここは私が一肌脱いでやることにしよう。
「ああもうわかったわ! しのごの言わずについてくる!」
私は知生の手を引き、ショッピングモールを歩き始めた。
「コマキサ先輩はいつもこんなところで服を買ってるんですね」
「普通でしょ。ってまあちゃんとしたとこで買い始めたのは最近なんだけど。知生はどこで買ってるの?」
「私は適当に買ってますよ」
「微妙に返事になってないんだけど……」
私は知生を引きずりながら、とりあえず目に入った服屋に足を踏み入れた。女子高校生っぽいかと言われれば甚だ疑問ではあるが、ちょうど服も欲しかったことだし、せっかくの機会を利用してやろうと思ったわけだ。
店内には夏らしい生地の薄い服が多く並んでいる。ふんふんと彩りを物色していると、じっと服を眺めていた知生からお呼びがかかった。
「先輩。これ着てみてください」
「えっ、何急に。いやいや、これはちょっと――」
「いいからいいから」
知生は押し付けるようにハンガーを二つ私に手渡し、試着室の方へと押しやった。
促されるまま試着室に入った私の手には、普段絶対に選ばない色合いの服が握られていた。しかも露出も多いし、背が高い私には似合わなさそうだし。
自分に似合う服と似合わない服の把握ぐらいはしている。だからこそ、知生が渡してきた服は身につけるのに勇気が必要な物だった。
しかしまあ、試着室であれば似合っていないという針のような視線を避ける必要もない。着るだけならいいか。私は意を決して袖を通し、カーテンを開けた。露出された肩をカーテンがゆるりと撫でる。
試着室前で待機していた知生が、パチリと目を見開いた。
「ど、どうかな?」
「いいじゃないですか。そういうのも似合うと思ったんですよね」
クルクルと身を揺らす私を見て、知生は満足そうに頷いた。よかった。似合ってないですね、なんて言葉を向けられていたら、この直方体から出られなくなるところだった。
改めて鏡で自身の全身を眺める。知生の言葉あってのことかもしれないが、思ったより良く出来ている。うん。割とイケてる。
「普段着ないタイプだから敬遠してたけれど、案外悪くないね」
「でしょー! 服なんて着たい物着れば良いんですよ」
「いや、これあなたが勧めたやつだからね」
「そうでしたっけ?」
とぼける知生を無視して、私はカーテンを閉める。なんであの子はこんなにも適当なんだ。
でもまあ、確かに普段着ないタイプの服の割に着心地はすこぶる良い。新たな発見をさせてもらった。記念としてこれは買って帰ろう。
着替え終わった服を畳み試着室を出ると、さらに服を物色する知生の姿が目に入った。
来た時にはぶつくさ言っていた彼女は、意外にもちゃんと買い物に付き合ってくれてる。ただただそれだけの事なのに、何か特別なことのようで嬉しかった。
どうせなら知生にも何か着せてやりたいと思った私は、品定めをしながら彼女に近づいた。
「知生も私のおすすめ着てみてよ」
「私は買いませんって」
知生は露骨に嫌そうな顔を浮かべた。彼女の手には、変わらず大きいサイズの服が握られている。まだ私に着せるつもりだったのか。そうはいかない。
「合わせるだけなら良いでしょ。私が見てみたいだけだから」
「はあ? なおさら嫌なんですけど」
「ほらこういうのも女子高校生っぽいし! 今日の目標は何? ちいリストだよ!」
適当な理由を付けてゴリ押してみる。
「……そう言われてしまえば、仕方ないですね」
案外すんなりと頷いた知生にぴったりの服を探す。
着せ替え人形で遊んでいるような高揚感のもと選んだ服を知生に手渡し、私の時と同じように試着室に押してやった。
少し待つと、着替え終わった知生がカーテンを開けた。フリル多めのガーリーな服装に身を包んだ知生が堂々と私の前に姿を現した。
うん、見込み通り可愛い。最高。今ならみんながネットに写真を晒している気分がわかる気がする。
私は急いで携帯電話を取り出しカメラのボタンを押した。かしゃりという音が店内放送をかき消した。
「かわぁ……写真撮って良い?」
「日本語が不自由ですね。そういうのは撮る前に聞くんですよ」
「はぁ……。これだけ可愛ければSNSで大バズりだよ。ありがとう」
「載せたら携帯ごと鼻頭を叩き割りますからね」
「こっわ」
唐突の犯行予告だけを吐き出し、知生は勢いよくカーテンを閉めた。
その後、結局私だけが服を購入し、新たな紙袋を提げて店を出た。なんだかんだ言って普通に買い物に付き合わせてしまった。
まさかこの子と普通にショッピングを出来る日が来るとは思わなかった。いい服がないから作りましょうぐらいのことを平気で言ってきそうなのに。いや、今後言われるかもしれないな。
今日ばかりは、私の持てる知識全てでこの子に女子高校生っぽい事をさせてやろう。そう心に決めた私は、隣を歩く知生に言葉を向けた。
「よしっ。次は流行りに便乗しにいきましょう!」
「なにするんですか次は」
「やっぱり映えだよね、映え。映えるものを食べに行こう」
「さっきドーナツ食べてたじゃないですか」
「デザートは別腹なの。ほら行くよ」
定番のセリフに眉を顰める知生の手を引き、私はショッピングモールを闊歩した。
「ここだよここ! 時間帯によって結構空いてるからオススメなの。まぁアキに教えてもらったんだけどね……」
「クレープですか。というか、盛り下がるなら名前を添えないでください」
続いて私達はモールの端にあるクレープ屋に足を運んだ。店の前には行列と呼べないほど僅かな列が出来上がっていた。列の最後尾に並び、メニューを眺める。
流れでうっかりと名前を出したが、同級生といざこざがあったということ以上のことを彼女には話していないし、アキの名前を出すのは今回が初めてだ。
アキが有名なのか、この子が意外と情報通なのかは定かではないが、話が通ったのであれば良し。それより今はクレープだ。
「何味にしよっかなー。知生は? 決まった?」
「私は先輩みたいに強靭な胃袋じゃないんで飲み物だけで良いです」
「えーっ! 並ぶ前に言ってよー!」
「聞かれてませんからね。ほら、あのタピオカミルクティーとかそれっぽいのにします」
知生はちらりとメニューを流し見ただけですんなりオーダーを決めてしまったようだ。
「あなた、私だけを太らせて、後々食べるつもりじゃないでしょうね」
「ここに来ようって言ったの先輩でしょ……」
「そうだったね……」
テンションに任せて知生のような返答をしてしまった。愕然としたまま注文を済ませ、クレープと飲み物を受け取った私は、空いていた二人がけの席に腰掛けた。
大きい私の手にはクレープ、小さい知生の手にはタピオカミルクティー。この構図はどう足掻いても私が食いしん坊に映ってしまうじゃないか。今更か。私はクレープを頬張った。
「うーん美味しい。やっぱり苺と生クリームだよね。甘くて美味しい」
「よく胃もたれしませんね……。しかも映えとか言ってたくせに撮る前に食べてるし……」
両手で飲み物を抱える知生は正論を吐き出しながら呆れた顔を浮かべた。
「ゴタゴタ言わないの。別腹って言ったでしょ。はい、一口あげる」
「じゃあ一口だけ」
知生は差し出されたクレープにゆっくりと口を近づける。鋭く光るかわいらしい八重歯が生地を千切った。
「どう? 美味しいでしょ?」
「美味しいです。生クリームはちょっと重いかなと思ったんですけど、苺の酸味が絶妙にマッチしていますね」
「完璧な食レポ……。私が馬鹿みたいに見えるじゃない」
その通りでしょと言わんばかりの笑みを浮かべた知生は、おしとやかに咀嚼をした後、ストローを口に運んだ。小魚のように吸い込まれていくタピオカが、小さな口の方へと向かう。
よく見ると乾燥とは無縁であろう艶やかな唇の端に、先ほどのクリームが付着していた。
おっちょこちょいだなぁ。こんな一面もあるのか。そんなことをほのぼの考えながら、私は彼女の唇の端を親指でなぞった。
知生は身体を跳ねさせストローから口を離した。
「な、なんですか」
「クリーム付いてたよ。ちっちゃい子どもみたい」
揶揄うような笑みを浮かべ、私は親指を自身の口へと運んだ。そんな私を見て、知生は口を半開きにさせわなわなと身を震わせている。クリームが付いていたくらいでそんなに照れなくてもいいのに。
「知生のも一口ちょうだい」
許可が出る前に知生の手元から伸びるストローへと口を向ける。太めのストローからゾロゾロとモチモチがやってくる。うーん。これも美味しい。
「ミルクティーのほのかな甘みと、タピオカのぴちぴち感が非常にナイスです」
タピオカを咀嚼しながら、私の口は零点の食レポを吐き出した。
立てた親指が最高にかっこ悪い。恐る恐る知生の顔を見ると、彼女は先ほど以上に身を震わせていた。何故かほんのりと顔も赤い。
何か言ってくれ。じゃないと私の寒いコメントが消え去ってくれないじゃないか。
「ちょ、ちょっと! 黙らないでよ! 私がすべったみたいになっちゃうじゃん!」
おそらく実際そうなのだろうけれど、私としてはもうこう言い逃れるしか無いのだ。私は知生同様身を震わせて、逃げるようにクレープを頬張った。
「先輩って、そういうところありますよね」
少ししてようやく言葉を発した知生は、若干の躊躇のあとストローに口をつけた。
「そういうところってなによ」
「気にしてないならいいです」
「なんなのよー。気になるし」
「なんでもないですってば。この天然め」
知生はストローを口に含んだまま、ぷいとそっぽを向いてそう返した。私のどこが天然なんだ。どちらかと言うと空気読めるウーマンでしょ。まあなんか知らないけど可愛いからいいか。
知生が立ち上がるのを見て、私も残りのクレープを口に放り込んだ。
「そういえば先輩って意外と文学少女ですよね」
忙しく動いていた知生の足は、本屋の前でスピードを落とした。
「意外とは……?」
「言葉通りですよ」
歩みを止めた私達の目の前には様々な文庫が陳列されていた。
この商業施設の本屋は、地域でも最大規模のものだ。並ぶ文庫に心を踊らされながら、表紙を物色していく。
失礼な知生の言葉に溜息を返しつつ、私は適当な表紙を指差した。
「だってさ、物語っていいと思わない? 自分以外の人生を歩んでいるみたいで」
「まあ、わからなくもないです」
「でしょ? ほら、本の中だと何にでもなれるじゃない。私ってあんまりやりたいこともないからさ。冴えない現実の憂さ晴らし、みたいな」
両手を合わせてそう言った私に、知生は大きな笑みを返した。私はそんなにおかしな事を言っただろうか。
「本の中だけじゃなくって、現実でだって何にでもなれますよ。心持ち次第で」
知生はさらに笑みを深めたあと、大きく息を吐いた。何気ない動きのはずなのに、何故だかそれが私には魔法のように見えた。
つむじと入れ替わるように、まん丸な瞳が私を捉えた。そのまま彼女はゆっくりと私の腕に巻きついてくる。
「沙夜子お姉様。次はどこへ連れて行ってくださるの?」
「えっ」
「わたくし、お姉様とこうやって一緒に外出できる日を、病床でずっと待ち望んでおりましたの」
「は、はあ」
「愛するお姉様との僅かな一時が叶えば、わたくし、死さえも恐れることはありませんわ」
「え、ええ……」
スイッチが切り替わったような知生の突然の豹変に唖然としてしまう。
なにが起こったのだ。この本屋は変な時空に繋がっていたのだろうか。
呆気にとられ言葉を失っていると、右腕に擦りつく小動物が、ちょいちょいと私の鞄を指差した。
私の鞄の中には、化粧ポーチと携帯と財布。後は暇つぶしの文庫本くらいしか入っていない。ここまで内包物をなぞって、ようやく思考が文庫本へと留まった。そうか、本か。
「あ、わかった! 花江ちゃんだ!」
「ピンポーン。さすがお姉様ぁ」
「怖いよ急に……」
知生は片足を上げ、両腕で大きな丸を作った。
花江ちゃんとは、私が今朝読んでいた本の登場人物だ。姉の事が大好きな妹ちゃん。そんな彼女に知生は成り切っているのだろう。
なぜ急に演技が始まったのかもわからないし、そもそもいつの間に私が読んでいる本をチェックしていたんだ。
ようやく状況の整理が出来始めたタイミングで、知生はすっと私から距離をとった。仮面が剥がれたように、いつもの知生が帰ってくる。
「ほらね、現実でだって、強く思えば何にでもなれるんですよ。いつでも心は自由です」
「それが言いたかったのね」
「はい。空っぽだとかなんとか言いながら、先輩はいつも窮屈そうですから」
さらりと心を撫でられた気がした。視界に映る背表紙達が、急に様々な色をこちらに向けてくる。
窮屈。なるほど。私が日々抱えていた重さにぴったりの言葉だ。今の何気ない会話で、私はそんな心象を吐露していたのか。
この子は本当に私の心をくすぐるのが上手い。普段は全くと言って良いほど共感力がないくせに、なんだかんだ私の事をよく見ている。いつもいつもそれがこそばゆい。
でも大きな見込み違いだ。いつも窮屈なわけじゃない。だって最近はあなたのおかげで少し息がしやすいんだから。
こんな言葉どうせ彼女は受け取ってくれないし、何より素直に伝えてやるのは悔しい。
私は言葉の代わりに、跳ねるように知生の腕をとった。
「窮屈か……ふふっそうかも。じゃあ今日くらいは、自由な時間に付き合ってもらうね」
腕を取られ身を引いた知生は、私の顔を見た後、ふっと呆れたように息を吐き足を進め始めた。
一通り遊び終わったところで時計を見ると、短針が五を少し過ぎたところを指し示していた。
お昼ご飯を食べたり、買い物をしたり、映画を見たり、私たちは娯楽が目に入るたびそれに飛び込み続けた。
軽くなった財布に比べ、足は鉛でもついているかのごとく重い。さすがに遊びすぎたかと笑ってしまうが、不思議と後悔はなかった。
ショッピングモールに付帯している映画館から出た私達は、何往復目かわからない道を歩く。
「ポップコーンってあんなにも味の種類が増えてるんだね」
「また食べ物の話ですか? 見た後ぐらい映画の内容に想いを馳せてくださいよ」
「いいじゃん減るもんじゃないし。あ、お腹は減るかもしれないか。えへっ。次来たときは何味にしようかなー」
「本当に太っちゃっても知りませんからね」
やれやれと息を吐いた知生は、わかりやすく疲労の表情を浮かべた。
「それより疲れました。何往復目ですかこの道。私持久走は苦手なんですよ」
「うーん。確かにそうだね。じゃあ最後にあそこに行きましょう」
私は視界の端に映ったゲームコーナーを指差した。知生がここでの過ごし方を私に任せると言った後、私は密かに今日の最終目標を決めていたのだ。
私の指の先を見て、知生が首を傾げる。
「ゲームですか? へえ、意外です。先輩はゲームとかあんまりしない方かと」
「イメージ通り。ゲームはほぼしないかな」
「えっ」
「やりたいのはゲームじゃなくてあれだよ」
私は早歩きで目的の機械の前へと足を進める。ぱらぱらと人影は見られるが、この際機種など何でもいい。空いている機械に私はもう一度指を向ける。
「じゃーん。プーリークーラー」
「おお……」
「引いてらっしゃる!?」
人目も憚らず声を上げた私に対し、知生は一歩身を引いた。なんだか今日一日解放的に過ごしたせいで、私自身のテンションも空回り気味になっているようだ。
何を隠そう、私の今日の最終目標は、彼女とプリクラを撮ることだ。
剣道に打ち込んでいた頃には縁もゆかりも無かった機械だが、アキたちと遊ぶようになってから何度かついて行ったことがある。
それでも、自発的に撮りたいと思ったのは今日が初めてだった。思い出を形にしたいなんて事を思うなんて、私は意外と重い女なのかもしれない。
少しの間機械を凝視していた知生は、ポツリと言葉を漏らした。
「そういえば私、プリクラ撮ったことないです」
「えっ! そうなの? じゃあ初プリじゃん。やったね!」
「今は携帯でも写真が撮れる時代なのに、わざわざこんな……」
「もう、しのごの言わないの! 女子高校生っぽい事をするんでしょ!」
ぶつぶつと流れる知生の呪詛を魔法の言葉で遮り、私はカーテンをくぐった。パステルカラーの煌びやかな光量が目を刺激してくる。
荷物を置き財布から小銭を取り出し、そそくさとお金を投入すると、可愛い声のアナウンスが流れてきた。
「ほら始まるよ。荷物を置いて」
「えっ、ちょっと、どうすればいいんですか? 私は何をすればいいんですか?ねえ」
「適当だよ適当」
「適当って……」
促されるまま荷物を置いた知生は、わたわたと髪の毛を整え始めた。そんな彼女を横目に見て、私は淡々と画面をタッチしていく。
まさかこんなに慌てた知生を落ち着いた気持ちで見られるなんて。それだけでもアキたちと連んでいた時期が無駄じゃなかったように思えるから不思議だ。
カメラの説明を始めるアナウンスと共に、緑の幕が降りてくる。それにぴくりと身を揺らした知生の手を、私はゆっくりと掴んだ。
指示されたポーズに身体を合わせたところで、ぱしゃりと一枚目のシャッターが下りる。
「はっず。めっちゃ恥ずかしいです」
「あははっ。可愛い可愛い。ほらほら、次のポーズだよ」
画面の女の子たちに合わせたポーズを取り、カウントダウンを待つ。
一枚目はガチガチだった知生にもしっかりとスイッチが入ったようで、恐ろしく女子力を求められるポーズを平気でこなし続け、最後の写真が撮り終わる頃には歴戦の猛者のような貫禄を見せつけていた。
写真を撮り終えブースを移動したところで、知生がけらけらと笑いながら声を上げた。
「うわぁ。目でかっ! 顔ちっさ!」
「この機種はナチュラルな方だよ」
「あっふ。ダメだ。あはははは。おっかしー! 先輩! 目がめっちゃ迫力ありますね!」
指を差して笑うんじゃない。確かに実物より盛れている私はちょっと面白いけれど。
「ちょっと! そんなに笑うことないでしょ! というかあなたの顔の角度媚びすぎじゃない? 鬼かわなんだけど」
「これが一番上手く写る角度なんですよ。先輩が下手ってのもありますけどね」
「初挑戦らしからぬ生意気な台詞……。えいっ! 落書きしてやる!」
画面に映る媚びた知生の頬に猫髭を足す。悪戯に描き足したはずなのに、悔しいことにとてもマッチしてしまった。
「ほほう。そうやって落書きできるんですね」
「そうそう。あ、スタンプとかフレームとか、色々な備え付けがあるから、それを使うと……ってきもちわるっ! なによそれー!」
懇切丁寧に解説を加えている隙に、私の両頬に第三、第四の目が出来上がっていた。改造手術の張本人は、私のリアクションを無視してふんふんと鼻歌混じりでペンを動かし続けている。
このままでは大妖怪コマキサが誕生してしまう。知生の暴走を阻むべく、私は急いでペンを走らせた。
時間の終了と共に私たちはブースを出る。吐き出された写真には、無駄に大量のオブジェクトを付与された私たちが写っていた。
「うーん……。ハートマークの一つくらい足せばよかった。なんだか地味だね」
「男子中学生の教科書みたいな落書きですね」
「ふふっ。確かに」
髭や眉毛が大幅に足されていたり、目を増やされていたり、矢印で雑に名前を付与していたり、とてもじゃないがお洒落な女子高校生が撮りましたとは言えない出来に仕上がってしまった。
それでも、これが撮れただけで私は非常に満足だった。
「次来た時はもっと可愛く撮ろうね」
「まずはこのぎこちないポーズからどうにかしてください」
「ううー。いや、知生が上手なだけだからね」
うだうだと言葉を吐き出しながら、適当なサイズにプリクラを切り分けていく。ハサミを入れている間に、私は知生が施した落書きを眺めた。
結局目は六個になっているし、意味不明なキャラが描き足されているし、これじゃ百鬼夜行じゃん。
コマキサって単語、響きでは慣れたのに、改めて字面を見ると全然しっくりこない。こんな不平不満を含めて、なおも愉快な気持ちでハサミを通す私の目に、見慣れた字体が映った。
『ちいリスト79、完遂!』
言葉ではぶつくさと言っていた知生が書いたこの文字が、私を誇らしい気持ちにさせる。よかった、ちゃんと楽しんでくれてたんだ。
「な、何をハサミを持ってにやついてるんですか。怖過ぎですよ」
しみじみと感慨に耽っていたところ、右下から言葉が飛んできた。どうやら感情が顔にまで出てしまったらしい。
しかし、こんなに嬉しい気持ちを隠せるわけがない。私は最後までプリクラを切り分けて、半分を知生に手渡した。
「内緒。はい、こっちは知生の分ね。ちゃんと目立つところに貼っておくように!」
「えー……」
「えーじゃないの! ほら、そろそろ帰ろっか」
「そうですね。……というかこんなもの貼ったら趣味が悪いと思われそうです。供養とか要りそうですもん」
知生が付いてくるのを確認し、ゲームセンターのこもった空気を肩で切りながら私は足を進めた。
こんな私でもこの子の為に何かが出来たという喜びなのか、楽しい一日を一緒に過ごしてくれたということへの感謝なのか、ささやかな恩返しの達成感なのか。正確な気持ちはわからないが、おそらく全部だろう。
何往復もしたはずのショッピングモールは、不思議とさっきよりも開けて見えた。