11.興味
そのまましばらく継続していた集中力は、自身の腹鳴と入れ替わりで去っていった。私は急いで音の発生源を押さえる。
恐る恐る顔を上げると、くすくす笑う知生と目が合ってしまった。くそ、聞かれていたか。
「お、お腹空いたね! そろそろお昼ご飯にしましょうか」
逃げるように時計を見る。気がつかぬ間に十四時に近いところまで時刻が進んでいたようだ。
むしろこんな時間まで我慢してくれていた腹の虫くんを褒めてあげたいくらいだったが、知生にそんな理論が通るわけもない。
「ふふっ。すごい音。体内で蛙でも飼っているんですか?」
「生理現象! 仕方ないでしょ!」
「まさに胃の中の蛙ですね。げこげこ」
「気持ちわるっ」
「蛙さんの鳴き声で集中力が途切れました。お昼ご飯にしましょうか」
澄ました顔で立ち上がった知生は、キッチンの方へと歩き始めた。昼食を準備するつもりなのだろうか。
「あ、ちょっとまって! 良いもの持ってきたよ」
私はここぞとばかりにリュックの底を漁り、無理やり取り出した紙袋を机の上に置いた。
何を隠そう、荷の中には二人分の弁当箱が入っているのだ。
「はい、お昼ご飯」
紙袋から弁当箱を取り出す。キャラがデザインされた可愛い方の箱は、知生にくれてやろう。
「えっ、まさか作ってきたんですか?」
机に並んだ弁当箱を見た知生が、驚いた声を上げる。なかなか上々な反応ではないか。汗をかきながら重い荷物を背負ってきたかいがあった。
ふふんと鼻を鳴らし、私は答える。
「自慢じゃないけど、こう見えて私、料理が全く出来ないの」
「おおー! ……えっ?」
「愛する母手作りのお弁当だよ」
まるで自分の手柄のように語る私を見て、知生は大きく溜息を吐いた。
「自分で作ったわけでもないのに、なんでその顔が出来るんですか?」
「サプライズ成功、的な? ほら、食べよう」
うきうきと弁当箱を開ける私を見て、知生は再びキッチンへと足を進めた。まさか、サプライズへの憤りでこの子達を無視するつもりか。
「えっ、食べないの?」
「ありがたくいただきますよ。せっかくなので残り物のスープを温めるだけです。お茶でも飲んで待っててください」
「はーい……」
キッチンから飛んできた声に返事をして、私は弁当箱の蓋を閉じた。待てを命じられた犬のように背筋を伸ばす私の腹の虫が、再びくうと音を立てる。
空腹というのは不思議なもので、一度認識してしまうとどんどん深まってくる。気晴らしに部屋でも物色してやろう。
窓に近づく。地上から九世帯分の高さをかさ増しているだけあって、ガラス越しに遠くの景色を見ることができた。
室内同様きちんと整頓されたベランダでは、エアコンの室外機が薄らと音を立てている。
なんだかがらんとしてるなあ、なんて感想を浮かべていると、視界の端にベランダには似合わない物体が映った。
物干し竿にしては短いそれを、私はよく知っている。
あれは竹刀だ。使い込まれたであろう三尺八寸が、外壁にへたりと背中を預けている。どきりと胸が鳴った。
この衝撃は、彼女に似つかわしくないものを発見してしまったからだけではない。目を背けたはずのものが再び目の前に現れたような、そんな衝撃だ。
私は視線を固定したまま言葉をこぼす。
「ねえ、知生ちゃん」
「なんですか?」
キッチンから知生の声が返ってくる。出来れば触れたくはなかったが、反面どうしても聞いておきたかった。
ぐっと息を飲んで彼女に視線を向ける。
「あなた、剣道やってるの?」
姿勢の良さとか、立ち居振る舞いとか、今思えば最初から思い当たる節はあった気がする。気づいてはいたが、無意識にこの結論を遠ざけていたのかもしれない。
剣道をやっているかいないかなんて、浮き沈みもないトークテーマであり、知生からすれば他愛のない質問に聞こえただろう。
しかし私にとってこれは大きな事件と言っても過言ではない。
そんな気を知らない知生は、温めたスープを運び不思議な顔を浮かべた。
「やってませんけど。なんでですか?」
「えっ、やってないの?」
「はい。だからなんでですかって」
知生はスープを置き、訝しい顔つきを作った。
そんな顔しないでよ。私としても、思ってもみない返事がきてびっくりしているんだから。
「竹刀が置いてあったから」
「ああ、それですか。護身用って言って、祖父が置いていったんです。オートロックだって言ってるのに。それに私は箸より重たいものは持てないです」
「……私の首根っこ掴んで引き摺り回したくせによく言うわ」
「はて、なんのことやら。というか、そんなに迫真の表情で聞くことですか? ホラーなんですけど」
「ごめんごめん。ちょっと気になっただけだよ」
どうやらいつの間にか顔が硬っていたらしい。降って湧いた感情というのは思ったよりも隠すことが難しい。クールキャラが聞いて呆れる。
というより随分早とちりで焦ってしまっていた。竹刀一つで揺さぶられるなんて、自負があった観察眼もあてにならないな。彼女は剣道に興味がなさそうだ。
私は急いで顔を作り直し、スープが加えられた机の前に腰掛けた。
いただきますという声とともに、私達は昼食を摂り始める。
「おいしっ。コマキサ先輩のお母さんは、料理がお上手なんですね」
「でしょー! お母さんが聞いたら喜ぶわ。食べ終わったら報告用に写真撮りましょ」
「そういうのって、普通食べる前にやるんじゃないんですか?」
「ご飯に失礼だよそれは」
「変な感性ですね」
むしゃむしゃと勢いよく口を動かす。残り物だというスープは、知生が作ったとは思えないほど優しい味だった。
きっと料理もできるんだろうな。本当にこの子のポテンシャルは底が見えない。まさに深淵だ。
普通にしてれば良く出来たすごくいい子という評価しか出てこない。
勉強も家事もできておまけに容姿も整っていて、でも周りに迎合することなく我を貫いている彼女。周りに合わせた挙句、やりたいことも見つからない私とは、本当に大違いだ。
「そんなに気になりますか?」
知生の言葉で、私はふっと我に返った。知生より先に昼食を平らげてしまった私は、自分でも無意識の内にベランダの方を見ていたようだ。
「ううん。大丈夫」
「ふーん」
適当な返事をこぼし、知生は箸を進めた。これ以上私の心に踏み込んでこないのも、彼女が彼女たる所以なのだろう。
でもほんの少し、弁当箱のように、私の荷を軽くして欲しくなってしまった。唐突に湧いてきた感情が、私の口を動かしていく。
「実は私ね、剣道をやってたんだよ」
「ほほう。それで竹刀見て反応したんですね」
「それだけじゃないの」
私が竹刀に対してあれほどのリアクションを示したのには、もちろんそれ相応の理由があるのだ。
それも私が物事に本気になれなくなった根っこの部分に絡んでくるほど大きな理由が。
「色々あって辞めちゃってね。あんまりいい思い出じゃないから、知生ちゃんが剣道やってたらどうしようって、焦っちゃったの」
じんわりと手に汗が浮かんでくる。
歓声や声援、竹が弾ける音。刹那に流れる情報が、心を乱してくる。泳いだ目が知生を捕らえるが、彼女はぴくりとも動かずこちらを見つめていた。
「私、意外と強かったんだよ? 雑誌で特集組まれるくらい有名だったんだから。まあ、昔の話なんだけどね」
逃げるように口にした言葉が、ふわふわと浮かぶ。余計な追及を避けるために発したはずなのに、逆に興味を煽るような言葉になってしまった。ああもう、下手くそ。
しかし、うじうじと耽った私の思案は、知生の一言によってあっさりと封じ込められた。
「知ったこっちゃないです」
「えっ」
「いやだから、知ったこっちゃないですって」
知生はピシャリと吐き捨てて、卵焼きを箸で摘んだ。
「なんで辞めたかとか、聞かないの?」
「聞いてどうするんですかそんなもの」
「それは……」
確かにその通りだが、えーもったいなーいとか、なんで辞めちゃったのーとか、そんな言葉を過去に聞き過ぎたせいで、知生も同じような反応を示すと思い込んでいた。
まごつく私を見て、知生は言葉を加える。
「剣道をやっていた過去があろうが、強かろうが、辞めたことに深い理由があろうが、全部関係ないですもん。今私の目の前にいるのはテストを控えた小牧先輩だけです。過ぎた事実を曲げることなんて出来ませんし」
知生は茶化す事もなく言葉を吐き続け、最後のおかずを口に運んだ。
なんだ、小牧ってちゃんと言えるじゃん。ただそれだけのことなのに、ふっと肩の力が抜けた気がした。
関係ない。そりゃそうだ。何を一人で暗い気持ちになろうとしていたんだ私は。というか、私は彼女に何を期待していたんだろう。
それすらも定かではないが、今回は知生の無関心に救われた気がした。今私が向き合うべきは、彼女のいう通り過去のなんやらではなく目の前のテストなのだから。
「そりゃそうか。つまんない話してごめんね」
「なんですか急に」
「なんか吹っ切れたわ。ばっちり集中できそう」
「ならいいですけど……。あ、ごちそうさまでした。美味しかったですとお伝えください」
急に息を吹き返した私に困惑の顔を向けながら、彼女は弁当箱の蓋を閉めた。
「そうだ、写真だよ写真! はいお弁当箱持って! 笑顔笑顔!」
「本当に撮るんですね」
「当たり前でしょ。ほらほら」
嫌そうな顔を浮かべる知生の隣に寄り、私はポケットから携帯電話を取り出した。インカメラに切り替わった画面には、私と知生が綺麗に納まった。かしゃりと無機質な音が響く。
「ふふっ。いいものが撮れたわ」
「はいはい。分かりましたからぼちぼち勉強に戻りましょうね」
「……はーい」
休憩もそこそこで勉強に戻るなんて、本当にスパルタだなあ。やれやれ、これは確かに昔の思い出に浸ってる余裕なんてないわ。
わざとらしくそんなことを考えた私は、弁当箱を片付けて再び教材を取り出す。よし、今出来ることを取り敢えず頑張るか。午後は化学から倒してやろう。
何気なく目を向けたベランダの先には、雲ひとつない青々しい空が広がっていた。
こうして淡々と筆で音を奏でながら、土曜日の午後は過ぎていった。多少の心の揺れはあったものの、我ながら恐ろしい捗り具合だった。
外が暗くなっていことにも気が付かないほど、私は集中していたようだ。自分一人では間違いなくここまでの効率は無かっただろう。
少し軽くなった鞄を背負い、数時間ぶりに靴に足を通した私は、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「今日はありがとうね」
「道覚えてますか? やっぱり駅まで送りましょうか?」
「大丈夫だよ」
「明日は自主勉強になりますが」
「そっちも大丈夫だってば」
「自信満々な先輩は信用できませんね」
「すごい偏見だよそれ」
けらけらと笑う彼女の質素な姿も、一旦は見納めと考えると少し惜しい気もする。週明けからはまた華やかな彼女に戻るのだろう。もう一枚くらい写真を撮っておけば良かったかもしれない。
「じゃあまた。月曜日ね」
「絶対にサボらないでくださいね。あとしっかりとお風呂に浸かって、ゆっくり寝るんですよ」
「オカンかよっ」
「……コマキサ先輩を産んだ覚えは無いのですが」
「私もあなたから生まれた覚えはないわ……」
私の渾身の例えツッコミは、知生の真剣な顔つきで封殺されてしまった。こんな不毛なやり取りですら、今は少し楽しいと思える。慣れというのは本当に恐ろしい。
少しの寂寥感を抱きつつ、私は知生に別れを告げマンションを後にした。
日が落ちているとは言え、外はじっとりと暑い。囁くような虫の声も、鼻に抜ける緩い夏の匂いも、時間の経過を感じさせた。
タイムスリップでもしたのかと思ってしまうほど、あっという間に一日が過ぎていった。夜の帳がしみじみと思考を温めていく。
あんなマンションに住むほど裕福な家庭で、親元を離れて自由に生活している知生。ダーツで適当に決めたなんて言葉で簡単に納得してしまったが、本当にそれだけなのだろうか。駅の灯りが強くなる。
知生が私に無関心を示したように、私も彼女のことを深く掘らなかった。知ってどうなる事でもないが、今更興味が湧いて来てしまった。恵比知生という毒は、思いの外深いところにまで染み込んでしまっているらしい。
駅に到着しICカードを通す。電車の通過音で、そんな思考も有耶無耶に散っていった。