10.圏外
電車を降りると、皮膚を炙るような熱量がアスファルトから湧き上がってきた。
鼓膜に引っかかる夏の音にうんざりしながら、私は吹き出してきた額の汗を拭う。
蝉時雨とはよく言ったもので、どこからともなく降り注ぐ蝉の鳴き声が嫌というほど夏を感じさせた。
せっかくの休日なのだから、冷房の下だらだらと過ごしていたかったが、そうもいかないのがテスト前である。
知生との約束を果たすため、見角駅という通り過ぎたことしかない駅で下車した私は、日差しを避けるように改札を抜ける。
パラパラと流れるまばらな人波の隙間から、知生らしき姿が目に入った。集合時間の二十分も前だというのにもう来ているのか。
足を早めて歩くと、教材を詰め込んだリュックがずしりと肩を刺激した。
「おはよう。早いね」
「おはようございます。先輩こそ、早いですよ」
「知らない場所だから一応ね」
「律儀ですねー」
くすくすと笑う知生は、なんだかいつもより質素な身なりに見えた。
制服という鎧を脱いだ彼女は、ティーシャツに短パンというラフな服装に加え、野暮ったいメガネをかけている。
いつもはウィッグで装飾されている髪も、どうやら最低限以上の手は加えられていないようだ。
それでも艶やかなことには変わらないが、飾りのないショートヘアは彼女をより幼く見せた。
「今日は眼鏡なんだね。初めて見たわ。私服も初めてだけど」
「家ではいつもこうですよ」
「ウィッグもつけてないんだね」
「つけるわけないでしょ。オフなんですから」
知生は身なり同様最低限の言葉に合わせ踵を返した。視線の先で熱を吸い込んだアスファルトが、ぼんやりと景色を揺らしている。
「そんなことより暑いです。私はか弱い日陰少女なんです。立ち話はこの辺で、さっさと家に行きましょう。茹ってしまいます」
「ああ、はいはい」
「迷わずついて来られると良いですね」
知生のサンダルがたたんと音を立てて進み始めた。休みの日はキャラまでオフになるのか、なんてことを考えながら、私は質素な後ろ姿を追いかける。
駅から五分ほど見知らぬ道を歩いた後、徐々に知生の足音が小刻みになっていった。
「ようこそ我が城へ! ここです!」
「あなたには城がたくさんあるんだね。びっくりだよ」
汗を拭いやれやれと視線を上げる。知生の足が止まったのは、綺麗なマンションの前だった。
高々と聳えるそれは、周りのマンションに比べて新しく、オートロックを備えた立派な建物だった。高級なホテルだと言われても違和感が無い。
一人暮らしの予定もない、住居にも詳しくない私にでもわかるほどのものとなると、背丈同様家賃もお高いはすだ。
「うそ。めちゃくちゃ良いところに住んでるじゃん」
驚きが張り付いたように声が上擦った。
「前に言いませんでしたっけ? 私って結構裕福なとこの子なんですよ」
「言ってたけど……。まさかここまでとは」
「私は安いところで良いって言ったんですけどね」
自慢する様子もなくさらりと言い放った知生は、スタスタとマンションへと入っていく。
裕福の水準が私の想像より遥かに高い。好奇心よりも未知への緊張で足が止まりそうなほどだ。
私は盗人さながらの足取りで知生の真後ろに張り付くことにした。
静かなエントランスには私たちの足音だけが響いており、さらに緊張感を高めた。
新しい建物の匂い。意味不明な間接照明。こちらをじっと見つめる監視カメラ。全てが私の場違い感を煽ってくる。
きゅうきゅうと鳴るスニーカーの音に合わせ、私は視線を動かした。
「緊張しちゃうわ」
「なんでですか。というか、そんなにキョロキョロしないでください。目立ちます」
「無茶言わないでよ……」
「あはっ。小心者すぎ。デカイのに」
ケタケタという笑い声が空間に響き渡る。
知生の不気味な笑いに囲まれつつ、ようやくエレベーターにたどり着いた私は、壁に身を預けてふうと息を吐いた。
空間は涼しいのに、さっきまでとは違う汗が出てきた気がする。
「私の格好、変じゃない? 怪しくない? 追い出されない?」
「挙動はめちゃくちゃ怪しいですけど、服は似合ってますよ」
「なんか思っていた答えとは違うけれど、ありがとう」
弾けるような電子音が鳴る。ぐだぐだと話をしている間に、エレベーターは目的の十階へと到着したようだ。
無駄のない動きで部屋の前に進んだ彼女は、さらりと自室の鍵を開けた。
「どうぞ」
知生が開いた扉の先には、物が少なくきちんと整頓された玄関があった。先ほどのキラキラとしていたエントランスに比べ、室内は随分と落ち着いた様子に見える。
「あれ、中は意外とシンプルだね」
「いやいや、駅に着いてからずっとシンプルでしょ。気持ちの問題ですよ」
「庶民には刺激が強すぎるんだよ……。でも、部屋は知生の匂いがして落ち着くかも」
「気持ちわるっ。あ、スリッパはそれ使ってくださいね」
事もなげにそう言って、知生はすたこらとリビングへと入っていった。
出会った当初の会話の通じなさに比べると、随分と突っ込んでくれるようになったな、なんてことを思いながら、私は促されるままリビングへと向かう。
居室空間は今日の知生同様、必要以上の飾りもなく、知生っぽいと言えば知生っぽいし、そうでないと言えばそうでない、なんとも言えない雰囲気だった。
なんというか、それほど個性もないせいで、誰の部屋と言われても納得してしまうほどだ。
まあそれでも純粋に広いことは間違いないが。
「普通だね」
思わず口に出たこの言葉は、下手をすれば失礼な言葉かもしれない。しかし、知生は気にする様子もなく鼻歌を奏で始めた。
「もっとゴテゴテしたのをイメージしていましたか?」
「ぶっちゃけるとそうだね。私の中では、あなたって結構変わり者って印象だから」
「お褒めに預かり光栄です」
「褒めてないよ」
「コマキサ先輩も十分変わり者ですよ」
キッチンからグラスを持ってきた彼女は、テーブルの上にそれを置いた。空間にそぐわない可愛らしい色合いが、ことりと音を立てる。
「私のどこが変わり者なのよ」
「いや、それよりいつまで立ってるんですか。適当に座ってください」
「えっ、ああ、ありがとう」
私の質問をさらりと流し、知生は再びキッチンへと戻っていった。
適当に座れと言われても、この広い空間でどこに座るのが正解なのか分からないから立ち往生しているんだよ。私は室内を見渡し、それっぽいクッションに腰かけた。
教材達から解放された肩を労わるように回していると、お茶らしきものが入ったピッチャーを持った知生がキッチンから戻ってきた。
「お茶でいいですか?」
「うん。ありがとう」
心地よい水音がグラスに色を付いていく。色味的に緑茶かと思ったが、それよりも爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。
「良い香りだね」
「ハーブティーです。集中力アップに良いんですよ。もしかして苦手ですか?」
「ううん。大丈夫」
「まあ、苦手でも飲んでもらうつもりでしたけどね」
彼女は水滴をなぞった後、テーブルを挟んだ正面に腰掛けた。こんな洒落た飲み物、うちでは絶対に出てこない。
暑さからか緊張からかは分からないが異様に渇いた喉に、爽やかな香りを流し込む。私の脳は知生の言葉に簡単に騙されたようで、なんだか集中力が上がった気がした。
私の嚥下を確認し終わった知生が、おほんと息を吐いた。
「さて、さっそくお勉強といきましょうか」
「えー……。折角だからお茶してのんびりしてからにしようよ。咲かそう、ガールズトークに花を」
「何しにきたんですか。追い出しますよ」
彼女はジロリとこちらを睨んだ後、素早く自身の教材を取り出した。せっかく場の空気を盛り上げようと思ったのに、つれない奴め。しかも私は形式上呼び出された立場なのだ。
深い溜息を吐いて、私も自身の教材を取り出した。
「先輩、そこ計算ミスしてます」
「えっ、うそっ」
「公式は覚えてるんですから、単純なミスは厳禁ですよ」
「はーい……」
これではどちらが先輩かわかったものではない。これを思ったのはもう何度目になるだろうか。
教材に向かい始めて一時間。知生は知生で自分のテスト勉強をしているはずなのに、ちょくちょく私の進捗を気にして声をかけてくれている。
ありがたいことこの上ないのだが、どうしても不安と申し訳なさが過ぎってしまう。
「あのさ」
「ん? 何ですか? そこは合ってますよ」
知生はまだ用があるのかという怪訝さを表情に貼り付けた。
「正直私、邪魔じゃない? なんだかものすごく足手まといになっている気がする」
「何がですか?」
「何がって……ほら、休みの日にまで家に来て、おまけに集中を途切れさせて。知生ちゃんの点数に影響したらやだなぁと――」
「ああ、なんだ。そんなことですか。めっちゃ今更。いらぬ心配ですよ」
「でも……」
心配すぎて思わず直接的表現で聞いてしまうほどだったのに、私の懸念は彼女には刺さらなかったようだ。知生は飄々とペンを回し始める。
「私は私の意志で今を選んでいます。たとえ今回の結果が悪くても私のせい。良かったら私のおかげ。それだけですよ」
「そういう事じゃないんだけどなあ」
私としては、私が足を引っ張ったという事実自体が避けたい事なのだ。今週すべて協力してもらっておいて、本当に今更ではあるが。
何故か不満げな私に対し、知生はペンの先を向けた。
「そもそも前提が間違っていますね。ここから一切の勉強を禁じられようと、私が一位を取れないことなどありえません」
「すごい自信だね……」
「ただの事実です。それに今回のリストは二人ともが目標に到達しないと意味がないんですよ。頑張ってください」
「なるほど」
察しが悪い私でも気付いてしまった。要は知生が一位を取るよりも、私が赤点を回避する確率の方が低い見込みらしい。
この自信を見たところ虚勢では無さそうだ。であれば、ありがたく恩恵を受けることが正解か。
私は一息吐いた後ハーブティーを口に運んだ。
というか同じ高校に通っていて、なんなら私の方が先輩なのに、この学力差はなんなんだ。いつの間にうちの学校の偏差値は上がってしまったんだ。
「ほんと、同じ高校に通ってるとは思えないわ」
ぽつりと呟いた後に、ぐるぐると疑念が蠢き始めた。
この学区だけで比較しても、我が校は偏差値が高い方ではないし、目を引くほど特出した部活があるわけでもない。
今までの彼女を概評しても、もっと学力と行動力に即した学校があるはずだと思ってしまう。なぜうちに来たんだろう。せっかくの機会だし、息抜きがてら尋ねてやろう。
「一つ質問してもいい?」
「手短にお願いします」
「ケチだなぁ。んじゃ手短に。なんであなたはうちの学校を選んだの? もっと賢い高校でも余裕だったんじゃない?」
「ペンを止めてするほどの話ですかそれは」
「気になっちゃったのよ。言いたくないならいいけども」
知生は息を深く吐いた後、やれやれと言わんばかりの表情でペンの先をベランダに向けた。
「別に、簡単な話です。ダーツ投げて刺さったんでここにしました」
「そんなに適当に決めたの?」
「どこに行ったって私のやりたいことが変わるわけじゃないですしね。はい質問終了! 勉強に戻りますよ!」
それだけ言って、知生は自分の世界へと帰っていった。私の驚きだけが取り残される。
部活や学力、その他諸々を無視して、運だけに身を任せた高校選び。それも一人暮らしを強いられるほどの物理的距離間。慣れてきたと思っていたが、やはりこの子は私の常識の外にいたようだ。
現状を生み出した運命の一矢に感謝と呪いを浮かべつつ、私は再び教材へと目を向けた。