幼馴染が女になってた2
ソファに寝転んで漫画を読んでいた。
すぐそばのベッドの上には、同じシリーズを読む南。
一週間はとおに過ぎた。いつまで居座るつもりだ。
「何その目」
俺の視線に気づいた南がうざく絡んでくる。
「いや、可愛いなと思って」
「………………」
ずいぶん驚いたようで俺を凝視したまま固まってしまった。
冗談だと明かしたり視線を逸らすのは、あいつへの助け舟になってしまうのでそのまま見つめ続ける。
友達にかっこいいだとか可愛いだとか言われたら、嬉しいことはあっても照れることはないだろう。
だからすぐに言い返されて終わるほんの戯れのはずだったのだが。女になってしまったからか、俺の想定より可愛いという単語に敏感になっているらしい。
「……私の可愛さに今更気づいたの?」
「……」
視線を漫画へ戻す。
定期的にからかってやらないと、彼女が優位になりすぎる。ある程度のバランスをとっておかなければ俺が悔しい。
その後は黙っていたが俺にやられたのをそのままにしておけないらしく、意気揚々とした足取りでやってきてボスッと俺の隣に座った。
「はぁー」と言いながら俺の肩に頭を乗せてきた。こっちが「はぁ」だ。
なんと言えばいいのか、すごく複雑な気持ちだった。喜ぶに喜びきれないし、嬉しくないわけでもない。
唯一言い切れることは、俺が仕掛け、こいつが仕掛け返した以上は先に恥ずかしがって折れた方が負けだということだ。
「はぁー」
俺はもたれ掛かった南を押しのけて、彼女のももに頭を乗せる。膝枕だ。
「くっ……」
表情は見えないが、悔しそうな声でダメージが入ったことを知る。
数秒後、足がゆっくりと引き抜かれそっと頭がソファに置かれる。
俺の勝ち、とドヤ顔を見せようとしたのもつかの間、背後に気配。ソファが深く沈む。
「はぁー」
上は肩から下は首の隙間から手を回され、抱きつかれる。そして背中に熱と柔らかさ。
やたらと脈打つ心音を感じる。恥ずかしいならやらなければいいだろうに。
俺にはまだ――。
――「壁ドン」が残っている。
というかもうそれぐらいしか知らない。
「はぁー」
俺に抱きつく手をほどき、横になっている彼女の体を起こしつつ背もたれに体を預けさせる。
俺は膝立ち、目線は彼女より少し高い。
ソファは壁沿い。あとは。
ドン!
右手で壁を叩き、手は離さずそのまま壁についておく。
南の顔はわずか十数センチ先にある。
彼女は動揺を隠しきれず口をわなわなと震えさせて俺に目が釘付けになっている。
「……」
様子を見るが、まだ耐える。
ずいっと顔を寄せ、鼻が触れ合うまで指四本分の幅もない。
「……」
南は口をぎゅと結んで抵抗を示す。
もうこれ以上手はないぞ。
……いや、ある。
あごクイだ。
静かに左手を南のあごに添える。
彼女はピクッと揺れて下方へ一瞬目を遣り、また俺と目を合わせる。
ジリジリと距離を詰めていく。
友達同士キスしてしまっては敵わない。もしもがないようゆっくりと。
「うっ…………」
ん?
「やめろ!」
「うぐっ!?」
蹴りが俺の股間を炸裂し吐き気と痛みに床へ倒れた。腹部と足が鈍く痛む。内臓が口から出そうだ。
「い、いい加減にして!」
南は二、三度俺を踏みつけてベッドの上に戻った。なんなんだ、ほんとに。
十分もすると痛みが引いていくらか楽になった。ソファの上に移動して安静にしておく。
「……ごめん」
「いいよ」
始めたのは南だとしても原因を作ったのは俺なのだ。喧嘩両成敗でいい。
こいつがうちに来てからもう何日も経った。だから、当初から気になっていたことを聞くことにした。
「気になってたんだが、女になってすぐなんで俺に連絡入れなかった」
俺たちは別々の高校に上がって離れるまでは仲が良かった。勘違いでなければ。
「そりゃー……」
南は壁際の方を向いて横になりベッドが軋んだ。
「……ジャックが覚えてなかったら嫌じゃん。関係も無かったことになってたら…………嫌だったから」
「……」
「でも、ちゃんと言わなきゃって思ってたから、だからこうやって来たんじゃん」
「……そうか」
知りたくないことがあるかもしれない。だから見ない。それは正しい。
だが、彼女は見たくないものを見ないままにせず、向き合った。それもまた正しい。そして南らしい。
「……ありがとな。ちゃんと伝えに来てくれて」
南がそれほど俺のことを大切にしてくれていたというのが嬉しかった。
「当たり前じゃん」
当たり前なんかじゃない。
見たくないことを見るのには尋常ではない労力を要する。南は気づいていないようだが、そこが、こいつのすごいところだ。
俺には真似できない。
南が持っているものを、俺は持ち合わせていない。
もし女になったのが俺だったなら、南には会いに行けなかった。
二人の思い出を失う痛みに耐えられない。
そんな痛みを味わうかもしれないなら、最初から触れない。近づかない。
相変わらず、すごいやつだ。
「……ジャックが私が男だったこととか、昔のこととか……全部覚えててくれて、嬉しかったよ」
「……当たり前だろ」
強がって、そう言ってみる。
立ち止まって考え直してみれば、澪のやつが同伴してないのはわざとだろう。
南が澪と来る予定だと言ったのが嘘か、あるいは澪が気を遣ってのことか。あの女が俺に関わる気遣いなぞするのかはなはだ疑問だが。
どちらにせよ、二人でこうやって時間を過ごせたのは幸いだった。あいつも来て過ごすとなれば数日で追い返しにかかったし、否応無く紛糾を招くことになっただろう。
誰の判断にしろ懸命なことに違いはない。感謝だけはしておこう。
そんなちょっとしたイベントがあったが、俺たちは漫画を読むのを再開する。そうして過ごすのが日常かのようにこの部屋に同化していく。
エアコンの音、ページをめくる音、ベッドかソファーの軋む音、時折クスッと笑う声。そんな静かな部屋で、今日も一日が過ぎていく。
◇
夏休み四週目も目前。
麦南はまだ俺のアパートに居座っていた。
まるでそれが至極当然であるように、俺の日常に溶け込んでいる。俺もついつい慣れてしまいそうになるが、一歩踏みとどまって問いを投げかける。
「お前いつ帰るんだよ」
テーブルに課題らしき書類を広げ、床に女の子座りしている南。
そこらに彼女の充電器、服、枕等々の私物が当たり前のように置かれ俺のスペースを侵食している。
本来はこういったこともなるたけ注意すべきなのだろうが、こいつがごく自然にそうするので俺も流されてしまう。
「ジャックがバイトしてる間に何回か帰ってるよ」
「はぁああ!?」
しかし考えてみれば納得できた。やけに服のバリエーションがあるなと疑問に思っていた。定期的に家に帰って服を置いたり逆に持ってきたりしていたのだろう。
「そういう話じゃなくて、いつまでこの家に居るんだって訊いてるんだよ」
「時が許すまで、かな……」
「つまり?」
「ジャックに追い出されるまで」
「はぁ……」
「それより明日この夏祭り行かない?」
「……いいよ」
「やったー!」
俺が追い出さないってわかってて言ってるんだろう。
少し考えてみる。俺は彼女に出て行って欲しいと思っているのか。
彼女と居るとうんざりしたり疲れる事がめちゃくちゃ多い。しかし、同時に楽しいことも多い。
俺は自分からイベントを作って行動するようなタイプじゃないから、彼女のように動き回る人間と一緒にいると飽きがない。
何より彼女に振り回されていれば余計なことを考えずに済む。
滞りなく明日はやってきて陽は暮れ落ちた。
俺たちは祭りへ繰り出す。
南が実は浴衣を用意してたりするんじゃないかと思ったが私服だった。肩紐に吊るされたつなぎ。作業着じみたその服はオーバーオールとかいうものだ。
がっかりはしないが、そっか、と思った。
「一緒に祭り行くなんて久しぶりだな」
「だねー。中二の時だっけ? 一緒に行ったのって」
ああ、そうだ。
いやというほど鮮烈に覚えている。
すし詰めのバスに乗り、のろのろと進む道路を行く。そして目的地近くで降りてそこからは徒歩だ。
到着。
夜を焼く赤い光と賑わい。
独特の空気が耳と目から侵入してくる。
祭りだ。
しばらく雑踏と喧騒を進むと屋台が近いのか祭り特有の匂いがした。
つられてそちらへ歩き出す。当たり前のように俺たちは手を繋いでいて、はぐれることはなかった。
二人で分けて食べた方がいろいろ食べられるとかなんとかで、焼きそばもチョロスもホットドックもたこ焼きも一人前だけ頼んで二人で食べた。
こういう場の食い物はぼったくりなので買いたくなかった。が、彼女曰く雰囲気を買ってるだとかなんとで買わされた。
的屋も彼女が気になったものはすべて回った。
中学の時はそんなに金がなかったからここまで色々やらなかったが、今はそれなりに金がある。だから彼女はやりたい放題やっているのだ。思考が男だ。
催しもいよいよ終幕。最後は花で飾られる。
俺たちは人から離れ、静かな場所を目指す。
木々を抜けて空を一望できる場所へ。なにやら壁沿いに階段がありそれを登っていくと、公園全体を見下ろせる場所に出た。いくらか人が集まっている。穴場というやつなのかもしれない。
俺たちは近くの岩の椅子に並んで腰掛け、待つ。
時は満ちて、空に花火が打ち上がる。
閃光と轟音。歓声。
田舎の祭りとはまるで違う。
圧倒された。
音も、光も、空の支配率も、空気も。体験したことがないほどに圧倒的だ。
明るみから逃げるように、視線を隣へ向けた。南は楽しそうに笑っている。
横顔が鮮やかな光に照らされ様々な影を見せる。
変わらない。
あの時と同じ笑顔だ。
「……?」
俺の視線に気づいたらしく、南がこちらを向く。
嬉しそうににこっと笑ったので俺も笑い返した。
なんでもないかのようにもう一度花火に目を遣る。
鮮やかな光の粒が綺麗に咲き、次の瞬間には点滅して夜空に消えていく。
その様を見ても何も思わないようにした。
考えた先に痛みしかないなら、考えたくはない。
フィナーレ飾る大きな大きな花火がめいいっぱい空に広がった。
光が淡く消えたかと思えば鮮やかな色になってちらちら光り、息をひきとるように光は溶け、再び輝くことはない。終わった。
拍手、歓声。
なんだか寂しくて肯定的な声をあげたりすることは出来なかったが、この素晴らしい催しをつくりあげた人たちに向けて敬意と感謝の拍手を送る。届きはしないだろうが。
余韻を切り裂くように、楽しげに会話しながらこの場にいた人たちは立ち去ってしまった。
三分としないうちに二人だけ残される。
「帰るか」と声をかけようとした時、彼女に手首を掴まれる。
訊ねるように彼女の方へ振り向くと、余った手を胸の前に置き、深く短い呼吸を繰り返す姿が目に入った。
異常な光景であり、その様子が何を示すものなのかありありとわかった。だが、理解は追いつかない。
「あのねっ。……気持ち悪い、とか、思われるかも……しれないけど」
乱れた呼吸と力の入る手。
緊張のあまり今にも泣きそうな顔。
今の言葉だけで全容は伝わっている。
彼女がからかいを盾にどう思っていたのか感じられないほど、俺たちは短い付き合いじゃない。
でもそれは。
「私、雀のことが好き。だから、私と、付き合って、ください……!」
――ずるい。
彼女の細かく揺れる瞳を見つめる。
そこに映るのは俺だ。
人を見れば自分が見える。
彼女を見ると俺が見えてしまう。
こんなことが許されてしまうのを、俺は許せない。
「……そっか。…………実は俺も、南のことが好きだったんだ」
ここで彼女を肯定すれば、俺が報われない。
俺をずっと見てきたのは俺だけだ。
俺をわかってやれるのも俺だけだ。
ある朝性別が反転してるなんて奇跡に、俺の苦悩を否定されたくない。
たとえ相手が南だとしても。
そして何より、俺は南が好きだが、彼女を好きになったわけじゃない。
「…………けど、ごめん。ダメだ」
気がつくと、もう隣に南はいなかった。
祭りの賑わいはもう虫の息。俺も同じようなものだ。花が散ったしめやかな空と枯凋した熱気。
今日はなんとなく帰りづらかった。
カラオケを探し入店した。タバコ臭い部屋で、お一人様料金で割高。
歌のない曲が次々と流れるだけ。俺はただ画面を眺めた。疲労に促されるまま眠りにつく。
近づけば離れる余地を生む。
仲良くなるれば仲が悪くなる可能性が生まれる。
幸福を知れば不幸を知る。
俺が一人を貫けば彼女は傷つかなかった。
朝、帰路につく。
これまでの疲れが堰を切ったように押し寄せてきて足が重い。歩くのがここまで億劫に感じるのは初めてだ。
まるで地面が感じられない。道中、店の大きな窓に映った俺が見えた。亡霊じみていた。
俺の部屋の前にかろうじて至る。
なぜか玄関のドアから懐かしい感じがした。
ドアを開けようとすればガチャリと抵抗があった。
財布から鍵を取り出して解錠。
靴を脱ぎ捨て部屋に上がった。何かが変だ。
電気をつけた。
そうか、無くなっているんだ。
靴も、服も、充電器も、コップも。
彼女の痕跡がまるで無くなっていた。
懐かしく感じるわけだ。
一人で生きる俺の日常が帰ってきたんだから、懐かしくも思うだろう。
しばらく突っ立っていたが、のろのろ歩いてソファに深く腰をかける。彼女の熱はどこにも感じない。
影も形もない。
彼女の存在が疑わしくなるほどに、綺麗さっぱり元どおりになっている。
「はぁ……」
けれど、一つだけ忘れ物がある。
この匂いだ。