教鞭で殴る
「ヤバイ………頭がクラクラする…………」
合わない目の焦点を必死に合わせながら、私は夜の学校を散歩する。夏の夜の風は生暖かく、たっぷりと水分を保ったそれは私の肌を気持ち悪く舐めていく。
「あの人の教える速度が凄すぎて頭が保たないよ…………」
速いだけなら右から左へと抜けていくのに、あの人の教え方は理解ができてしまうからタチが悪い。頭に残ってしまうから、大量の知識で殴られている気分だ。
「お前が何も知らなすぎるだけだろ。あれでもセーブしてる方だぞ、あいつ。」
う、うっそだぁ。授業があそこまで早く感じたのは初めてだよ。あの人が本気を出したら授業の体感速度は1分とかになっちゃうよ。
「ほらお前、思い出してみろよ。結構雑談が多かっただろ?」
思い出すっていっても………ヤバイ、単語や数式ばかりが頭の中に出てくる。頑張れ私の頭。なんとかして数時間前のことを思い出すんだ…………
「許してぇ〜〜…………」
授業が始まって30分、あまりの情報の多さに私は机に倒れこんだ。頭が爆発しかかってる!冗談とかではなく本格的に破裂しかかっているんだ!
「こんなの教育の暴力だ!教鞭で人を叩きやがって死んじゃうよ私!」
「私は楽しいけど………」
「お前のレベルが低すぎて、誰もが楽しめて勉強になる最高の授業が苦痛になっているなんて………かわいそうすぎて流石の俺でも憐むわ。」
確かに生物の授業はとても楽しくて、私の知らないことや興味深いことを教えてくれる。でも私の頭の大きさじゃ耐え切れないんだ!助けて!
「そんな褒めないでくださいよ雫さん。俺はただ自分の知識を喋ってるだけですから。…………でもそうですか、四矢倉さんがキツイと言うのであればもう少し速度を下げますか?」
「やったーー!!」
「えーー!?私はこれぐらいが丁度いいから下げなくていいよ!!」
ふざけんなよユリユリ!!この速度のままだったら私の頭が破裂するんだよ理解して!!
「今までサボってた罰だろ、必死にくらいついてみろ。」
「雫もそういうこと言う!?雫だってキツいよね!?」
「いや全然?これをキツいだなんて思うのは幼稚園生ぐらいだぞ。」
「ぐぁああああ!!バカにしてくれちゃって許せない!!天才になって見返してやる!!」
「さすが四矢倉さん!その心意気は素晴らしいでね!」
狩虎は私を褒めてくれるじゃないか素晴らしいね!雫と違って!
「相手にバカにされて悲しいと四矢倉さんは感じ、その悲しみを[相手を乗り越える為の元気]に替えたわけですね!これを倫理的には昇華といいます。」
「私は今昇華している!?」
「イエス!バカで無知な雫さんなどもう既にあなたの足元にすら及びません!バカにしてやりましょうよ!」
「いつも私のことをバカにしてくれちゃって悔しいかざまあみろ!」
「ちなみに、今みたいに[私の頭が悪いんじゃなくて相手の頭が悪いから私がバカにされるのは仕方がないんだ!]と自分の状態を相手に置き換えて対応するのを投影と言います。」「投影!」「イエス!というわけで倫理の教科書は閉じて、生物に戻りますか。」
私は倫理の教科書を閉じて生物の教科書を開いた。狩虎の授業はちょっと特殊だ。机を3つ用意し全ての教科の教科書を予め準備しておくのだ。そして授業が別の教科に脱線した時、その教科書を開いて理解していく。一度に何冊もの教科書を使うからちょっと疲れたよ…………
「………まぁ、みなさん面倒くさいとは思うんですよ。こんな何冊も教科書使って、一々色んなもの開けたら閉じたりなんかしたら。」
振り返り話し始めた狩虎の目はとても優しそうに輝いていた。
「でも大切なんですよこれが。知識とは[人間が発見したもの]でしかなく、それが故に繋がっているんです。」
「……………?」
どういうこと?
「数学や物理、生物や化学は人間が発見したり証明したりした数式や化学式、構造やルールを学んでいるだけ。そうして見つけた数式を利用して切り拓いてきたのが人類史という歴史であり、それと共に変わっていく価値観や生活様式に適応していくのが倫理や政治・経済。地理は言わずもがな俺達の生活の土台です。人間が発見したものを学んでいるのだから、繋がりがあるのは当然でしょう?」
「た、確かに…………」
「まぁ、予め決められた数式や原子をこねくり回して俺達生命が勝手に生活しているだけなのだから、本当は人間とか関係なしに繋がっているんですけどね。」
「………………?」
最後のは難しかったからよく分からなかったけど、繋がりがあるっていうのはよく分かった!凄いね勉強って!
「いずれ分かりますよ、たくさんのことを知ったらね。」
そのまま授業は続いていった。
「…………本当だ!最初の授業中はほとんど雑談だ!」
「あれで死にかけてたんだからお前の頭は救いようがねぇよな。」
むがーー!!……………なんも言えないんだよなぁ。
「ま、まぁ?この補習の間に私は天才になるから覚悟することだね。」
「昇華するのか?」
「そういうことさ。」
あんたへの劣等感なんて叩き折ってやるわ!
「しかし昇華ねぇ………あの男が言うとひっかかるものがあるな。」
「………なんていうかさ、狩虎のことになると雫は嫌みったらしくなるよね。」
私に対しても嫌みったらしいけど、でも、なんていうか狩虎相手だと心の底から嫌みったらしいのだ。彼は背が高いし、まぁまぁカッコいいし、この学校で一位をとるほどの学力の持ち主だ。雫に嫌われる要素は一見見当たらない。でも、私にはわからないだけで、雫にしか見えないもので判別しているのだとしたらそれは…………
「俺はあいつの魂が嫌いなんだ。」
だと思った。あの中で狩虎の魂を見れるのは雫だけだからね。そもそも人の魂を見れる人間なんて普通いないけど。
「凄いとかいってたけど、どんだけすごいの。100点満点?」
「逆だ。」
「えっと………じゃあ、0点?」
「0点だぁ?そんな優しい点数で済んだら俺だって笑顔だっての。…………もっと下だ。」
えっと………つまり?
「-の方に突き抜けてるんだよ。-100点よりも更に下、低すぎて俺の目でも判断つかないレベルであいつの魂はマイナスだ。」
ま、まま、まい、マイナス!?この世にそんな数字があるのか!?いやあるけど、あるけどもね!?100点満点で測られる魂においてマイナスなんて概念を作ってしまうのはマズくないか!?
「いるんだよごく稀に…………あそこまでいくと別の生物って感じだな。俺はああいう魂を持ってる奴を人間と認めたくねぇんだ。」
そんなに凄いことなのか…………もし私が魂を見ることができていたら、狩虎の魂を見たときにどんな反応をするのだろうか?……………想像もできない、そんな魂も、私の表情も。
「それに……………」
次の言葉が、私の耳に残って離れなくなった。それは例えば、遠足の日の前日に必死に準備している時に親が申し訳なさそうに「明日中止になっちゃった。」って言った時のように、頭にこびりついた。
「殺さなきゃいけない人間とそっくりなんだよ、あの魂は。」
殺さなきゃ………いけない?
私の足は一瞬止まって、しかしすぐに私は歩き出した。
学校の怪異その2〜トイレの花子〜