話を聞かぬ者
カッ……カッ……カカッ………
机の上のノートをシャーペンで叩きながら、私はぼーっと黒板を眺め続けていた。黒板に書かれ続ける古文単語の数々……意味がわからん。けしうあらずとはなんぞや。全然勉強に身が入らない。
「………65」
だけど私が集中できないのには他の理由があった。
なんだったんだ昨日のは………
女が変形し、刃のような爪で襲いかかってきた昨日の光景が頭をよぎった。
あの記憶の後私はいつの間にか家のベッドで寝ていた。……夢……だったのだろうか。
「…………52」
夢だ……夢に決まっている。あんなの現実離れしているもの。この世にファンタジーなんて存在しない、あるのは取るに足らない冴えない現実だけ。
「…………49。しけてんな。」
「………煩いんだけど。」
隣でブツブツと意味不明な数字を呟いている転校生にイラつきながら注意した。
転校生……橘雫。昨日この男を尾行していてあのよく分からない現象に出くわした。いや、現象とか認めないから。あれは夢さ。
「何ブツブツ言ってんのよ。」
大体、こんなちっこいやつが体よりも大きい鎌を持って、人を斬りつけるなんてことがあり得てたまるか。もし現実で起こっていたら報道で取り沙汰だ。……あり得ないあり得ない。自転が止まるぐらいあり得ない。あんなのやっぱり夢で………
「魂に点数つけてた。全部不味そうだな。」
………こいつの言葉のせいで心の平穏が簡単に壊れた。鏡を殴った時みたいにバラバラだぁ…………
「………昨日のあれってやっぱり本当なの?」
「…………」
雫は頭の後ろで手を組んで前を見続ける。私のことなんて一切見ようとしない。
「女がいきなり変身って嘘だよね?だってそんなの……」
「…………」
「………もう!なんか言ってよ!」
「………前、見てみ。」
「へ?……っだぁ!」
コツン!
白色のチョークが飛んできて私の額に力強く当たった。あまりの衝撃に頭が少し後ろにグラついた。
「四矢倉ぁ、転入生が珍しいからって授業中に話しかけるな。喧しいぞ。」
「なぁ!?喧しいのはこっちの方で!!」
「口ごたえするか………罰として明日中にこのページの全訳を提出するように。」
なぁぬぉお!?古文とか1番苦手な科目なのに!!寝れないじゃんんんんん!!
「くっくっくっ………」
そして雫はそれを見ながらニヤニヤと笑っていた。
………絶対にこの借りは返す!!
〜放課後〜
「アヤ………あんた何やってんの。」
下駄箱の上に寝転がっている私を見つけ、智子が呆れながら聞いてきた。
「あの男ぉぉお、雫!!を、驚かせる!!この恨み晴らさでおくべきかぁ!!」
フヒヒヒっ、乙女の怒りは凄まじいからね。
授業が全て終わった直後に走ってきてこの場所を独占してやった!覚悟しなよ、真上から奇襲をかけて腰抜けるまで驚かせてやる!徹夜一回ぶんの恨みは果てしない!!
「………私思うんだけどさ、あいつにはそこまで関わらない方が良いと思うんだ。」
私が驚かせた状況を想像して悪どくニヤニヤ笑っていると、智子が少し暗い声で話してきた。
「昨日のあれ……覚えてる?いや、忘れられるわけない。あんな恐ろしい光景………」
「………夢でしょあんなの、あり得ないよ。」
私は自分に言い聞かせるように、喉を狭めて声を発した。それはズンズンと私の中に溶けていった。
「あり得ない……そう、あり得ない。でも私とアヤはそれを見た記憶がある。2人が同時に全く同じ夢なんて見る?………そっちも十分にあり得ないよ。」
………むぐぅ、それは……
「雫は……その………人を……」
智子の喉がつまり、そこから先の言葉が出てこなかった。
「……………」
私も何も言えなかった。彼が体から[何か]を取り出し、口に入れる瞬間を見ていたからだ。昼間の教室での言葉も………もしかしたら私達は食べられて………
「見えてんぞ。」
ドキィ!!
いつの間にか下駄箱の上に雫が立っていて、私を見下ろしていた。
「パンツ。ここ吹き抜けだから……」
雫は指を上に向けた。
「上の階から丸見え。」
………ッッ!!
バッ!!
私はすぐにスカートを直してパンツを隠した!!
「な、なんで私がここにいるってわかった!!」
「いや、顔真っ赤になって詰め寄られてもなぁ……こんな堂々と会話してたら誰だってわかんだよなぁ。」
「パンツも丸出しだし。」と笑いながら付け加え、雫は下駄箱から飛び降りた。
「そんじゃあなぁ。宿題頑張れよー。」
くっくっくっと、笑いながら靴を履き替え、雫は外へと歩いていく。
「ムキーー!!絶対に見返してやる!!粘着するわよ智子!!」
バタバタバタ
私もすぐに下駄箱から飛び降り、雫の元へと走って向かう。
「えーー………私の話聞いてた?あいつは危険だって…………」
「危険だからってこの怒りを収めないわけにはいかない!!怒りの最上級、[くびり殺す]まできてるからね私はぁああ!!」
「……はぁーーー。まぁ、しゃあないか。こいつを1人にする方が危険だし………」
私と智子は雫の元に走った。まるで昨日をなぞるかのように。
それから私達は昨日の記憶を頼りに、先回りして雫を驚かそうとしたのだが、何故か雫は直前で道を変えて私達の血も凍るようなドッキリをかわしていった。まるで居場所がバレているかのようだ。
「チィ!……見失った!!」
そんなこんなで時間はもう6時くらいになっていた。雫は途中までは昨日行った方向に向かっていたのだが、途中で方向を変えて街の方に進んでいた。だから私達の周りには人がたくさんいて、あいつはそれを利用して人に紛れて私達をかわしたのだろう。
ヤバイヤバイ………どんどん時間がなくなっていく!
もうすっかり暗くなり、少し明るい濃い青空になっていた。
(こっち………)
私が周りを見渡していると、頭にいきなり言葉が流れてきた。女の優しい声。包容力と安心感がある厚い声だ。
声がした方に視線を向けると、そこは薄暗い路地だった。
(そう、こっち………)
「え?アヤ?」
私はその声に導かれるようにその路地に入っていった。
薄汚い灰色の壁に挟まれた細い路地。壁に手をつけるとなんの熱も感じることなくヒンヤリとしていた。
後ろから智子が声をかけてくるが、今の私は何かに囚われたように頭が空っぽでその言葉を理解できない。
チチチチ…………
微かに聞こえるネズミの鳴き声。話しかけているのだろうか、それとも罵倒しているのだろうか、警告しているのだろうか……悲しんでいるのだろうか。何かまるで意味があるかのようにそれは聞こえた。
(こっちよ………)
先の見えない、光がささない真っ黒な路地。普通じゃあり得ない。まるで魔法の世界に迷い込んでしまったかのようだ。
ビュゥゥうう…………
建物の間を吹く風が、唸る。でも不思議だ、当たり前の音なのにどこか場違いに思える。私が知っている雰囲気じゃない…………
ブワッッ
いきなり大量の光が私達の目の前から走り寄ってきて、体を覆った。突き抜けたようにも感じた。光が流れ、泳いでいたんだ………言葉で表せば奇妙だけど。
その光が過ぎ去ると、目の前に小さな家が建っていた。
真っ赤なレンガの屋根に、オレンジ色の壁。この、雑居ビル群が立ち並ぶ街では異質だった。現実から隔離されているようだ。
「ようこそ、我が家へ。」
そして、家の扉の前に女が立っていた。色の落ちた銀色………ベージュ色とでも言えばいいのか、そんな薄い色のした長髪の女性はニコッと笑った。