7.発症
日陰和田は吐き気がして慌ててトイレに駆け込むと、数回嘔吐した。
「今日はちょっと食い過ぎたかな。しばらくの間、静かにしているとするか」
そう呟きながら自宅へ直接続いている廊下をゆっくりと歩き、自室に入ってベッドに横たわった。着替えもせずにそのままうとうとしていたが、お腹が痛くなって目が覚めた。時計を見ると夜中の十二時だった。自宅のトイレに慌てて入ると、ドアを閉める間もなく酷い下痢に襲われた。
「これは食中毒かもしれないぞ。もしかしたら、あのキノコは本物だったのかな。いや、そんなことはあり得ないはずだ」
日陰和田は若干不安になったが、何事も自分に都合の良いように考えることでこれまで生きてきたので、とりあえず我慢して様子を見ることにした。
翌朝、日陰和田の体調は良くはなく、朝食を摂る気力もないのでそのままいつものように外来診療を始めた。何となく後頭部から背中にかけて強張りが出てきているように感じたが、食事抜きの影響なのだろうと思い込むことにした。午前中の診療が終わり控室に戻ると、手足が痺れているのに気付いた。関節も痛い。呼吸も少し苦しい感じがしてきた。
「これはちょっと拙いな……」
日陰和田は控室から顔を出すと、一緒に診察を担当していた看護師の瀧上蘭を見つけて言った。
「体調が優れないんだ。直ぐに誰か先生を呼んでくれないか」
蘭は直ぐにナースステーションに入り、院内放送で神保を呼び出した。
いつものように急患が入ったと思い、急いで走り込んできた神保は蘭から事情を聞くと、青ざめた顔で言った。
「分かった。瀧上さん、直ぐに聡一郎先生を特別室にお連れして病衣に着替えてもらって」
日陰和田を蘭に託すと、廊下に出てスマホを取り出し深町に電話した。神保が事情を説明すると、深町は冷静な声で応えた。
「実は、昨夜私たちが帰る時、聡一郎の様子が少しおかしかったので、もしかしたらと思っていたんだよ。それからずっと気になっていたので、今朝大学病院に着くと直ぐに調べてみたんだ。食中毒の原因がニセクロハツだとすると、日本では症例の報告が非常に少ないんだ。我々が事前に対処法を身に着けておく機会がなかったのも仕方ないようだね。
全く症例報告がなかったわけではないので、インターネットと中毒に関する本を調べた結果を直ぐにメールで送るよ。今、料理を食べてから十七時間が経過したところだよね。そろそろ酷い症状が出てくる時間なのかもしれない。記載内容を見て、恭平の判断で処置を行なってくれないか。
それと、あのパーティーに参加していた人たちの中に同じような症状が見られる人がいるかどうかも、今直ぐにきっちりと調べておいた方が良いと思うんだ。私もこっちが何とかなったら、直ぐにそっちに駆け付けるから、とりあえずよろしくお願いします」
神保は電話を切ると、急いで病室に戻った。病室では既に蘭を含め三人の看護師が待ち構えていた。神保の顔を見ると日陰和田は残念そうに言った。
「恭平は何ともなかったんだ」
神保は頷いてそれに応えた。蘭が手招きして神保を陰に呼び小さな声で言った。
「神保先生、血尿も出ました。大丈夫でしょうか」
「申し訳ないけど、一人は理事長に連絡してください。後の二人は手分けして昨夜のパーティーに参加していた人全員の健康状態を訊いてもらえないだろうか。特に嘔吐や下痢がないかを訊いてほしいんだ」
蘭は走って理事長室に向かった。他の看護師たちは直ぐに事務所の方に移動して、調査を開始した。出勤している人には直接会って体調を訊き、非番の人には電話で確認した。
理事長とともに特別室に戻った蘭は、神保に頼まれて日陰和田の腕から採血し、超緊急の分析を依頼した。神保は理事長に昨夜からの経緯を説明し、ニセクロハツ中毒の症例を扱ったことがあるかどうか訊いた。
「いや、私はそんな珍しいキノコの中毒症状を起こした患者なんて見たことはないな」
父親の顔になって心配そうに日陰和田の顔を覗き込んでから理事長は答えた。
しばらくの間、日陰和田を観察していたが、神保の目には大きな変化は認められなかったものの、少なくとも良い方向に進んでいるようには見えなかった。理事長は、神保に任せると言い残して理事長室に戻っていった。入れ違いに、パーティー出席者の健康状態を調べていた二人の看護師が帰ってきて報告した。
「参加した人たち全員と連絡が取れました。少なくとも現時点では吐き気や嘔吐の症状があったり、下痢をしたりしている人はいないようです」
「そう、それは良かった。それでは聡一郎先生の治療に集中しましょう」
一安心した神保は、その場を看護師たちに頼み、自分の居室に行った。パソコンに深町からのメールが入っていた。直ぐにプリントアウトし、その書類に一通り目を通した後、パソコンに血液の緊急分析結果が表示されているかどうかを確認した。
相当急いで分析したらしく、既に分析結果が載っていた。必死で異常値の部分を探すと、炎症があることを疑わせる白血球数値がやや高く、骨格筋、心筋、脳などに多く存在しているクレアチンキナーゼの値が異常に高い値を示していた。これらの組織が障害されていることを示すデータであった。
「残念ながらニセクロハツ中毒に間違いなさそうだな」
そう呟きながら特別室にいる日陰和田の所に戻り、先ず自分で抗痙攣薬を静脈注射した後、看護師に大量の輸液をするよう指示した。
その後、日陰和田の瞳孔が縮小しているのが観察され,言語障害も認められるようになった。意識も時々朦朧となってきたので、強心剤,ビタミン剤などを注射した。
午後四時前になってようやく深町が病室に姿を現した。
「どう? 聡一郎の状態は?」
「正人が送ってくれたコピーに書いてある通りの症状を呈するようになってしまった。大量の輸液や抗痙攣薬と強心剤,ビタミン剤なども注射しているんだが、状態は良い方向に向かってはいないように思える」
「そうか。血尿みたいのも出たそうだな」
「看護師が確認した」
「あれはどうやら横紋筋融解の結果として生じるミオグロビンを含む褐色尿らしくて、血液は混入していないそうだ」
「何か、他の治療法はないのかな?」
「うーん、後はICUに入れて中心静脈から輸液をもっと大量に入れると良いのかもしれないが、この病院にはICUはないし、大学病院まで運ぶことも選択肢の一つだが、聡一郎の体力がそれに耐えられるかどうか難しそうだからな。理事長とも相談してどうするか早急に決めよう」
深町と神保が理事長室に行って相談していると、看護師の一人が慌てて飛び込んできた。
「先生、直ぐに戻ってきてください。聡一郎先生が意識不明になりました」
理事長も一緒に特別室に戻り、日陰和田を見ると、意識は完全になくなっており、縮瞳が著明になっていた。直前に行った二回目の血液検査の結果も、肝臓の状態を示すトランスアミナーゼ値やクレアチンキナーゼの値がとんでもなく高値を示していた。
そして、キノコ汁摂取から二十四時間後の午後八時、日陰和田聡一郎の死亡が確認された。