5.キノコ業者
日陰和田が父親の病院に就職して三年が経過した。医師としての実力もないのに院長の御曹司として期待される医師像を演じることに疲れていた日陰和田は、通常の休みは勿論のこと、夜勤明けでさえも東京を脱出しようとしていた。丹沢、秩父、奥多摩や八溝山系の方まで一人で足を延ばし、自然を眺めながら歩き回ることで心の中に湧き上がってくる不満や不安を掻き消そうとしていた。
十月初め、筑波山の北側に足を延ばした。
病院内の自分好みの人たちだけを選んで行っていた、聡催パーティーの前身とも言える夕食会を、もう既にこの頃から主催していた。二日後にパーティー開催が控えていたため、日陰和田は食材探しも兼ねて来ていた。山道の少し開けた所に、掘っ立て小屋みたいな地元の食材直販の店が開いていた。
「おっ、ちょうどいいな。美味しそうなキノコでも買っていくかな」
日陰和田は店を覗き込んで、台の上に大雑把に広げられていたキノコに目をやった。
「ここはなかなか良いじゃないか。キノコの種類が半端じゃないぞ」
嬉しくなった日陰和田は店主に告げた。
「おじさん、この店にある全部の種類のキノコを貰いたいんだけど」
「おお、そうかい。安くしとくよ。この近くに昔から『キノコ山』っていう所があってね、コナラなんかの落葉樹が多いんだよ。だからキノコの生育環境としては絶好なんだ。九月下旬頃から千本シメジ、一本シメジ、大黒シメジ、カキシメジなどが採れるんだ。十一月頭までは収穫時期でね、品質は最高だよ」
六十代に入ったばかりと思われる痩せ形だが筋肉質の店主が満面の笑顔で応えた時、別の客が飛び込んできた。年齢は五十歳前後、小太りで力は強そうに見えた。
「おい、オヤジ。お前のところのキノコで、中毒しちまったぞ。どうしてくれるんだ!」
「ええっ、一体どうしたというんですか?」
「先週の日曜日、この店でキノコを買っていったのを覚えているだろう。そのキノコを皆で味噌汁にして食ったんだよ。そうしたら翌日の朝、何人かが腹痛を起こしてな、下痢が続いたんだよ。お前の所で買ったキノコが原因なのに違いないんだ」
店主はいきなり怒鳴り込まれて、慌てふためいているのか言葉が出て来なかった。日陰和田は自分の買い物にケチをつけられたような気持になり、店主を助けたくなった。
「あのー、何人でキノコの味噌汁を食べたんですか?」
「何っ……。誰だ、お前は?」
「いやー、ただの客ですけどね」
「客なら関係ないんだから黙っててくれないか!」
「私は関係なくはないと思いますけど」
「何で?」
「だって、これからここのキノコの全種類を買って帰って、大勢で行うパーティーで食べようって考えているんですから」
「ああ、そうかい」
怒っていた客は仕方なさそうな顔になって聡一郎の方を向いて言った。
「それで、何の質問だったっけ?」
「あなたたち何人で問題の味噌汁を食べたかっていう質問でした」
「そうだったな。全部で十人で食べたんだよ」
「そうですか、十人の方々が食べられたんですか。それで、下痢をされた方は何人いたのでしょうか?」
「三人だ」
「他の七人の方がたには全く異常はなかったのですかね?」
「まあ、そうだ。俺も含めて胃腸が頑丈にできてる奴もいるからな」
文句を付けに来た強面の客には若干動揺し始めた様子が見て取れた。日陰和田は黙ったまま目を瞑った。
日陰和田が静かになったのを見て安心したのか、強面の客は店主の方を向いて自信満々の顔で言った。
「おやじ、どうしてくれるんだよ!」
「お客さん、大変申し訳ありませんでした」
「謝って済むんなら警察はいらないよ。どう落とし前付けてくれるんだよ!」
店主は返す言葉も見つけられずに深々と頭を下げ続けていた。そんな状況を吹き飛ばすように日陰和田が質問した。
「下痢になった人たちは何か一つのグループだったのではありませんか?」
「何だって? まだあんたここにいたのか」
「発症したのは何か特別なグループの人たちだったのではないか、ってお訊きしたんですよ。例えば、旅行好きの人たちでキノコを食べた前の日にどこかに行っていて何か特別な料理でも食べていた、なんてことはなかったのでしょうかね?」
「うーん……、そう言えば、彼奴ら、揃ってどっかに行ったって言ってたな」
「旅行先で何か変わったものを食べたなんて言っていませんでしたか?」
「あっ、言ってた。馬刺しを食べたって自慢していた。何でもちょっと汚そうな店に入ったんで、心配しながら食べてみたら結構美味かった、とか言ってたな」
「もしかしたら、その馬刺しが怪しいのではありませんか? 以前、こんな話があったんです。私の友人が四人で飛行機に乗って出張に行き、帰って来た翌日、そのうちの三人が酷い下痢になってしまったそうなんです。きっと機内食が原因だと思って、乗った飛行機会社に電話したんです。そうしたら、担当者が菓子折りをもって直ぐに謝りに来てくれたそうです。ただ、その担当者が言うには、同じ飛行機に乗った人たちの中で、食中りと思われる症状を起こしたのはその三人以外にはいなかったそうなんです。
飛行機会社の人が帰った後、もしかしたら原因になったのは機内食ではなかったのではないか、って心配になり、一緒に出張に行った別の課のもう一人に訊いてみたんだそうです。そうしたら、その人はすごく元気だったそうです。実は、下痢を起こした三人は出張先で仕事が終わってからレバ刺しを食べにいったんだそうです。もう一人は別行動をしたんで、他の物を食べていたんです。同じ飛行機で帰ったので、機内食は四人とも同じものを食べていたんです。だから原因は機内食ではなかったと思われたんだそうです。三人は飛行機会社には悪いことをしたと後悔していましたよ」
「うーん、俺もちょっと自信がなくなってきた。てっきりキノコ中毒だと思っていたんだがな…。ところで、あんたは何をしている人?」
「一応、内科医をやらしてもらってます」
「そうか、それでいろいろと詳しいんだな……。仕方がない。おい、店主、今日の所はこれで帰ってやるよ。だけど、変なキノコを売らないように気を付けてくれよ」
強面の客は来た時と比べると相当ひるんだ顔で帰っていった。
客が視界から消えると、店主は満面の笑みに戻って日陰和田にお礼を言った。
「先生、本当に有難うございました。お蔭様で、酷いことにならずに済みました。本当に先生のお蔭です。助かりました。お礼と言っちゃ何ですが、この店のキノコ全部を差し上げます。いくらでもお持ち帰りください」
「いやいや、金はきちんと払いますよ。たかる気なんて毛頭ありませんから」
「いや、それでは私の気が済みません。どうかお持ちください」
「いや、いいですよ。きちんとお支払いします」
払う、払わないでしばらくの間押し問答が続いたが、店主の勢いを止められそうもないと感じた聡一郎はある提案を行った。
「それじゃ、おじさん、私のこれから言うことを引き受けていただけないかな?」
「はあ、私でできることでしたら、何でも致しますよ」
「先ず一つ目は、キノコの見分け方を教えてほしいんだけど。とりあえず、今店にあるキノコについてでいいから」
「分かりました。私にとっては簡単なことですから」
店主は台の上に載せてあった全てのキノコの名前と採取の仕方、食用キノコに似ていて間違えると危ない毒キノコの名前と見分け方などについて得意そうに話し始めた。日陰和田は熱心にその話を聞き、時折質問までして一所懸命覚えようとした。店主の説明が一段落すると、日陰和田は次の要望を伝えた。
「私が勤務している病院で、時々職員を集めて夕食会を開いているんです。私が主催者なんですが、食材を何にするかでいつも苦労しているんです。ありきたりの食材ばかりじゃ詰まらないので、目新しいものがないかいつも探しているんです。今日も山歩きも目的だったんだけど、良い食材探しも兼ねてここに来たというわけなんです」
「ああ、それで沢山の種類のキノコを沢山買おうとしていたんだね」
「その通り。それでお願いというのはね、できるだけ珍しいキノコや他の食材を探して、ある程度の量がまとまって入手できそうな時には、私に連絡して欲しいんです」
「そんなことでしたら、お安いご用ですよ。私の名前は篠崎隆文と言って、これが連絡先です。申訳ありませんが、お客さんの連絡先も教えておいてくれませんか?」
日陰和田は嬉しそうに自分の名刺を差し出して自己紹介し、店に出されていたキノコの大半を包んでもらい、代金をきちんと支払ってからご機嫌で山を下った。
その後、篠崎はキノコばかりでなく、地元の野菜や特産品など珍しいものを必死になって見つけては日陰和田に提供した。初めのうちは大いに喜んで篠崎の努力に感謝していた日陰和田であったが、次第に要求がエスカレートしていき、難しい注文を次々と篠崎に出すようになっていった。