19 淡い嫉妬心
午後になって小野村愛が筑波ホビークラブにやってきた。いつもの生き生きとした表情ではなく、下を向いて受付に入ってきた。
「やあ、愛ちゃん、いらっしゃい」
洋介が少し無理して明るく挨拶しても愛の表情は冴えないままであった。もう一度洋介が話し掛けた。
「どうしたの? 何だか元気ないね。何かあったの?」
「洋介さん、この間の女の人、今日午前中にここに来たでしょう?」
洋介は一瞬ドキリとしたが、表情には出さないようにして応じた。
「ああ、ご主人の状況を確認するためにいらっしゃったよ。でも、どうして知っているの?」
「私、つくば駅の傍であの人を見かけたんです。友達とお昼を一緒に食べる約束をしていて、駅の近くで待ち合わせしていたんです。友達が来るのが少し遅れたので、ぼんやり人の動きを見ていたら……。あんなに綺麗な女の人は滅多にいませんから、直ぐ分かりました。タクシーを降りて、エスカレーターで地下の改札口の方に行きました。私は直ぐに気が付きました。ここに来たんだって」
「そうだったんだ。あの人はご主人が事件の容疑者の一人にされているので、心配で仕方がないようなんです。だからここに来て、現状がどうなっているのかを確かめただけなんですよ」
「でも、あの人、洋介さんの昔の恋人だったんでしょ?」
「……。ああ、学生時代付き合っていました。私は大学院に進学したんだけど、彼女は製薬会社に就職してMR、つまり、薬に関する情報をお医者さんに伝えて、自社の製品を購入してもらうように働きかける仕事に就いたんです。大学病院で医師として働いていた今のご主人と出会ってね、そのお医者さんと結婚したんです。私はフラれたっていうわけですよ」
「でも……、何で今頃になって、そんな酷いことをした相手に相談しに来たりしているんですか? 普通じゃ、そんな厚かましいことできないでしょ」
「まあ、お互いに少しは敷居が高く感じるものはあるのだけれど、要するに、今はもうただの普通の社会人同士という関係なのだろうと思うんです」
「それなら、いいんですけど……」
その日の愛はずっといつもとは違う表情のまま過ごし、夕方になるにはまだ時間があるのに早々に引き上げてしまった。
「若い女性の扱い方は本当に難しいな……。まあ、若くない女性の扱い方も上手くはないけどな」
洋介は一人受付で愚痴をこぼした。
愛は久しぶりに洋介の父母の家を訪ねた。庭を覗くと、芳雄が庭仕事をしていた。
「小父様、こんにちは。お久しぶりです」
「おお、愛ちゃん、いらっしゃい。おーい、母さん。愛ちゃんが来てくれたよ」
芳雄の大声に気が付いた妻の初子が庭に顔を出した。
「あらっ、愛ちゃん、お久しぶりだこと。よく来てくれたわ。今、お茶でも淹れるわね。ちょっと待っててね」
「十月も下旬ともなると日が落ちるのが早く感じるね。肌寒くなってきたし、キッチンに上がろうか、愛ちゃん」
愛は素直に従って勝手口からキッチンに上がった。愛が椅子に腰を下ろすと、目の前に緑茶の入った茶碗と木製のフォークが添えられた小皿に餡ドーナツが載せられて出てきた。
「お寺の向かいにあるお菓子屋さんで売っているこの餡ドーナツ、最近は予約しておかないと手に入らないことがあるのよ。昨日、何だか急に食べたくなってしまって、予約しておいたの。愛ちゃん、グッドタイミングよ」
「あら、そんな大事な餡ドーナツ、私がいただいてしまっていいのですか?」
「なに、気にしなくていいんだよ。どうせ必要量以上に予約してあるんだからね」
芳雄は笑いながら愛を安心させてくれた。
「それじゃ、遠慮なくいただきます」
愛が美味しそうに食べているのを嬉しそうに見ていた初子が訊いた。
「愛ちゃん、何か私たちに訊きたいことがあるんじゃないの?」
「実は……、そうなんです」
「洋介に関係したことなのかしら?」
「はい、そうです。今日、洋介さんの昔の恋人が筑波ホビークラブに来られたんです。先週も突然押しかけてきたようなんです」
「ああ、それで心配になってしまったというわけね」
初子の言葉を聞いた芳雄は自分の出番はなさそうだと察したのか、そっと庭の方に出ていった。
「あの人、洋介さんのことが忘れられなくて、つくばに来たのじゃないか、って心配なんです」
「ああ、そのことなら大丈夫だと思いますよ。あの二人が別れた時、洋介は相当ショックを受けていたようね。二度とああいう思いはしたくない、って何回か言っていたわ。あの子は一度決心したことはまず変更することはないわね。これまでもこれからも。だから、あの二人が縒りを戻すなんてことは絶対にないと言えるわ」
「そうなら、いいんですけど。私、本当に心配なんです」
「全く、洋介もはっきりとした態度をとらないから、愛ちゃんのことを苦しめてしまうのね。しょうがない子。ご免なさいね」
「有難うございます。小母様にそう言っていただくと気持ちが軽くなりますわ」
愛は来た時よりも明るく振る舞った後、家路に就いた。




