1.聡催パーティー
洋介と美由紀がつくば駅周辺で偶然出会った半年ほど前、日陰和田聡一郎は陽が高くなってから目を覚ました。前夜は遅くまで盛り上がって楽しく飲み、参加者たちと語らったことを思い出した。ベッドから離れるとパジャマのまま、病院に繋がっている廊下の方向を見つめて耳を澄ました。病院の様子はいつもと何も変わらず、特別気になるような音も聞こえなかった。
「そうか、何事も起こらなかったか……。次回は別のものを頼むことにするか」
日陰和田は病院内の医師、看護師、検査技師、理学療法士、事務担当者など、その日の夜に手が空いている人たちから参加希望者を募り、会議室兼イベント室で年に数回パーティーを開いていた。日陰和田聡一郎が主催するパーティーなので、『聡催パーティー』と自分で勝手に名前を付けて皆にそう呼ばせていた。『そうさい』という響きが日陰和田にはとても心地よく感じられた。
前夜はいつになく参加者が多く盛会であった。翌日はほとんどの人は仕事が待っていて、しかも二日酔いの状態でできるような業務ではないため、深酒をする人はまずいなかった。そのため、おつまみや料理に凝り、毎回皆が珍しがるようなものを出していた。食材は日陰和田自らが取り寄せたものを中心に、病院の食堂の調理担当責任者で、料理の腕前はピカイチだと評判の野田慎一を無理やり巻き込んで、特別なメニューに仕立てさせていた。
前夜は『北海道の日』と銘打って、主な食材はわざわざ北海道の知り合いの業者に送らせていた。オードブル、スープの他、メイン料理は、肉がラムで魚はホッケであった。ラム肉は当然ジンギスカン、ホッケはレモンバター焼きと燻製スティックであった。酒類は、日陰和田ご自慢の各種海外ワインに加え、白ワインでは『おたる』、赤ワインでは『十勝ワイン』が用意されていた。また、日本酒もこの日のテーマに沿った北海道の酒、『男山』と『北の誉』の一升瓶が置かれていた。それに加え、ウイスキーは『シングルモルト余市』まで用意されるという懲りようであった。その他、焼酎とウーロン茶、炭酸水、ミネラルウオーター、さらには梅干しとお湯まで置かれていた。勿論、お酒の飲めない人のためにも、ジュース、ジンジャエール、コーラ、レモン水、コーヒー、紅茶、緑茶などが用意されていた。
半分は仕方なく、残りの半分は毎回珍しい料理が出ることに釣られて参加している人たちであったが、美味しい料理と適度なアルコールとで、それなりに気分も緩やかなものになり、会話も弾んできた。
日陰和田が看護師の瀧上蘭の隣ににこやかな表情で近づくと、何か話をしなければいけないというプレッシャーを感じた蘭は話し始めた。
「聡一郎先生、つい先日、入院患者さんと話していたのですが、その人、私の言ったことに対して難癖をつけてきたのです」
「それは大変だったね。で、どんなことを言われたのかな?」
「私が、『この病院は下町の地域の皆さんに救急から療養まで一貫した心ある医療を提供しているんですよ』って言ったんです。そしたら、その患者さんが私のことを馬鹿にしたような顔で『あのねー、この辺は本来、下町とは呼べない地域なんだよ』って言うんです」
「へー、そんなこと言われたんだ」
「失礼な患者さんでしょ。それで、私はそう言われる理由を訊いてみたんですよ」
日陰和田は興味深そうな顔をして続きを促した。
「その患者さんはこう言ったんです。『本来東京における下町という言葉は江戸時代に使われるようになったんだよ。決められた範囲にしか住むことが許されなかった町人たちは、武士の家や神社やお寺があった地域が丘陵地にあったものだから、そこを山の手と呼ぶようになったのだそうだ。町人たちは自分たちが住んでいる所が、江戸城の城下町ということで、下町と呼ぶようになったと言われているんだよ。本来の意味で下町という言葉を使えるのは、うちの先祖が住んでいた今の神田や日本橋近辺だけなんだよ。明治になってから東京はどんどん拡大してきて、町が広がったというわけだ。百歩譲ったとしても、少なくとも関東大震災までには都市部であった地域でないと、下町でも山の手でもないんだよ』ですって」
「ほう、その辺に関しては相当詳しい患者さんだったという訳だね」
日陰和田は頷きながら微笑んだ。
「それでですね、私も悔しいものですから、『それじゃ、この病院があるような地域は何と呼べばいいんでしょうかね』って訊いたんです。そしたら、その患者さん、『ほとんどの所は農地だったんだけど、昭和になってから町らしくなったのだから、郊外とでも呼べばいいんじゃないの』なんて言うんですよ。それで、私はもう一つ言ってやったんですよ。『でもね、テレビのレポーターが何人もこの辺のことを下町って表現していましたよ』って」
蘭は怒ったような表情でそう言った。彼女が次の言葉を発しようとすると、それを抑えて日陰和田が口を開いた。
「その患者さんは多分、こんなふうに言ったに違いないな。古い商店街や町工場があって、高層ビルが建ってない地域のことをなんでもかんでも下町というアナウンサーが多いんだよ。彼らは全く何も分かっていないで喋っているんだよ、ってな感じでね」
「あらっ、その通りでした。聡一郎先生もお詳しいんですね」
「まあね。私もこの地で生まれて、ずっとこの辺は下町だと思い込んで育ったものだから、蘭ちゃんと同じような経験をしたことがあったんだよ。それで、ちょっと真面目に調べてみたら、そういうことだったという訳だ」
「本当にそうだったんですか。あの患者さんに言われただけでは信じ難いと思っていたんですけど、聡一郎先生に言われたんですから、信じるしかありませんね」
二人は大きな声で笑った。
日陰和田は次のターゲットを求めて視線を彷徨わせた。日陰和田の視線が注がれるとそこにいる人たちの何人かは静かに別の場所に移動した。結局、いつも同じような人だけが話し相手になっていた。
「今度入った高性能MRI装置はいかがかな?」
「お蔭様で随分と助かっています。X線の被爆がありませんし造影剤も要らないので、患者さんには優しい装置です。それに、早期アルツハイマー型認知症の判定支援にも使い出しましたので、患者さんばかりでなく病院の方にも貢献できていると思います」
半年ほど前に相当な資金を注ぎ込んで購入した装置の担当技師である菅原至は、少し緊張したような様子で答えた。
「それは良かった。目の玉が飛び出るくらい高い買い物だったんだから、大いに貢献してもらわないと困ることになるんでね。とりあえずは順調だと考えていいんだね?」
「はい、私はそう思います」
「今度の病院の広報誌でも大いに宣伝してもらうように編集係に頼んでおくことにしよう」
「有難うございます。よろしくお願い致します」
菅原が頭を深く下げたのを見て、日陰和田は満足そうに別のターゲットを探し始めた。
疲れた表情でポツンと一人で座り、酒類ではなくウーロン茶を飲んでいた深町正人を見つけた日陰和田は冷ややかな笑顔を作って近寄っていった。
「何だい、随分とお疲れのようじゃないか」
「ああそうだね、ちょっと疲れたかもしれない。昨日は大学病院で当直だったし、今日はこちらで外来があったから寝ている暇がなくてね」
「深町先生は本当に働き者でいらっしゃるというわけだ」
「まあ、忙しいのは私だけではなくて、他の医師たちも本当に忙しいから、文句も言えないのだけれどね」
そこに慌てた表情の新保恭平が息を切らせながら走るようにやってきた。
「あっ、もう一人働き者が現れた。患者さんたちの評判がすこぶる良いお医者様は、熱心にお仕事をされるんですね」
「いや、遅れて申し訳ない。どうしても患者さん一人当たりに掛ける時間が長くなってしまうものだから」
「本当はそうするのが医者としては望ましいのだから、仕方ないと私は思うよ」
深町は自分にも言い聞かすように言った。
「この病院はこんなに患者思いの良い先生方がおられるのだから、これからも安泰だな……」
日陰和田は薄ら笑いを浮かべながらそう締めくくった。