18 三度目の美由紀
鹿子木が帰ってから直ぐに洋介は東側奥の専用部屋に籠った。その二日目、受付の電話が鳴った。愛はまだ大学に行っていたため源三郎が出た。美由紀からであった。部屋からすっ飛んできた洋介が電話に出ると、かなり憔悴した感じの声で美由紀がすがるように話した。
「ああ、神尾君……。神尾君が忙しいのは分かっているんだけど、こっちにいてもどうしようもないの。今日これからそちらに伺ってもいい?」
突然の来訪依頼に驚いた洋介であったが、頭の片隅に美由紀と愛とが再び出くわした時の愛の憂鬱そうな表情が浮かんだ。
「美由紀さんの気持ちは分かるけど、今日はちょっと拙いんだ。明日午前中はどうですか?」
「分かったわ。そちらのクラブは朝何時から開いているの?」
「朝は一応十時から始まることになっていますけど」
「それでは、十時に私が行ってもいい? それとも朝はとても忙しいの?」
「いや、朝は比較的暇なんです。夕方から夜にならないと会員さんたちが来ないので」
「そう、それなら良かったわ。明日朝一番で伺います」
翌朝、洋介は念のためいつもよりは早めに身支度をし、朝食を摂った。自分で淹れたコーヒーを飲みながらふと外を見ると、既に美由紀が入口の辺りを歩き回っている姿があった。まだ十時には三十分もあったが、受付の窓を開け、大きな声を出した。
「美由紀さん、どうぞ中に入ってください」
洋介の声を聞くと美由紀は満面の笑顔で応え、急ぎ足で中に入ってきた。
「ごめんなさい。こんなに朝早くから来てしまって」
「大丈夫ですよ。気にしなくていいですから」
「有難う。相変わらず神尾君は優しいのね」
「コーヒー、緑茶? あっ、そうだ。美由紀さんは昔から比較的濃いコーヒーだったね」
「有難う、お願いします」
洋介はキッチンに入り、美由紀用に濃いめのコーヒーを淹れ、お客様用のカップに入れて受付に運んだ。
「さあ、どうぞ。それにしても早かったですね。今朝は東京から来たのですか?」
「いえ、昨日電話した後、向うにいても気持ちが静まらなかったので、夜つくばに来てしまったの。駅前のホテルに泊まって、朝タクシーに乗って来たの」
「そうだったんだ。それで、今日はどんな話をしたいのですか?」
「神尾君が深町と話して、どう思ったか訊きたかったの。彼は犯人じゃないわよね?」
「美由紀さん。今回のキノコ中毒は事故なのかもしれないし、事件かもしれない。まだ何も分かっていないのです。深町さんが犯人かどうかを疑う以前の段階にあるのです」
「でも……、神尾君は深町と話をしたのだから、何か感じ取ったに違いないわ。隠さないで教えてちょうだい」
「隠したりしてないですよ。ただ、深町さんと話した印象では、彼は友人を殺すような人間にはとても思えませんでした。美由紀さんはそんなに心配しないで、深町さんのことを信じてあげていれば良いのではないのでしょうかね」
「そう……。私だって彼を信じてはいるのよ、でも、心配なの」
「深町さんは美由紀さんよりずっと精神的に安定しているように感じられました。今の美由紀さんは、以前私が知っていた美由紀さんとは別人のように不安定な状況におかれているように感じますね。どうしたのですか?」
「実は……、私と深町とは一カ月後には離婚する予定になっているんです。それが、こんな状況になってしまったの。今離婚したら、私はとんでもなく冷たく酷い女ということになってしまうわ。それは困るの」
「ええっ……」
暫らくの間、洋介には次の言葉を見つけることができなかった。数分間の沈黙が続いた後、ようやく冷静さを取り戻した洋介が口を開いた。
「美由紀さん、一体何があったのですか?」
「深町は本当に優秀で優しいお医者様だわ。私が患者だったら、最高の主治医ね。でも、今の私は彼の患者ではないの。配偶者なの」
美由紀の人並み外れた涼しく美しい目には大粒の涙が今にも溢れそうになっていた。一瞬、洋介は美由紀に手を差し伸べようという衝動に駆られたが、どうにか思い留まった。
「私はまだ一度しか会っていないけど、確かに深町さんは素晴らしいお医者さんのような気がしました」
「彼は患者のためなら自分のベストを尽くすわ。治療に関して疑問点が生じれば徹底的に調べるの。患者の傍にいた方が良いと判断すれば、徹夜でも何でもするのよ。同僚の医師、看護師、事務担当者、さらに上司からも強く信頼されているわ」
「それは素晴らしいことじゃないですか」
「だから、彼は私の傍にはほとんどいてくれないのよ。結婚してから私はずっと独りぼっちなわけ」
「そうですか、それは寂しいですね」
洋介はそう言いながら、別のことも考えていた。美由紀を取り巻く人間、特に男性に関してであった。多分、彼らは美由紀を放ってはおかないだろうと。
「そう。私にとっては有り余った時間をどのように過ごすかが大問題になってしまったの。そんな気持ち、昔は持ったことなんてなかったのに」
「世間の人からみれば、医師の妻って、お金があって社会的に認められていて羨ましいって思うのが普通なんだと思うけど、実際は、本当に大変なんですね」
「あの時、神尾君のこのクラブの事を知っていたら、本当に良かったと思うわ。でも知らなかった。結局私はスポーツクラブに入ったの。ランニングマシンで走ったり、プールで水泳のレッスンを受けたりしていたわけ。そんな時、私に優しくしてくれた人がいたわ。私のために彼の時間をたっぷり割いてくれたわ。それに惹かれてしまったというわけなの」
「あの時もそんな心境だったのかもしれないね」
洋介は美由紀が自分から離れ、深町の方を向いていった頃を思い出してそう言った。
「ご免なさい。あの時は学生から社会人になって、男性を見る私の目が変わったように思えたの。私の選択は正しいと思っていたのだけれど……。今から思えば、全くの世間知らずだったようね。ご免なさい」
「あっ、美由紀さんのことを責めたわけではないんですから、気にしないでください」
洋介には美由紀の涙はやはり相当応えた。
「それで、随分悩んだのだけれど、結局、深町と別れて、新しい人生を始めようと決心した所だったのよね」
「事情はよく分かりました。例え今回のキノコ中毒が事故ではなく事件だったとしても、深町さんが犯人だなんてことにはならないと確信しています。だから、美由紀さんは安心して自分の将来のことを考えるようにしてください」
「有難う。今日は帰るわ。神尾君と別れたのは間違っていたかもしれないわね。タクシーを呼んでくださいな」
タクシーが着くと、美由紀は先ほど涙を見せたことなどすっかり忘れたような明るい表情で筑波ホビークラブを去っていった。




