17 現状確認
深町が恐縮しながら筑波ホビークラブを後にしてから、洋介は愛の様子がいつも通りに戻っていることを確認して一安心し、東の外れにある籠り部屋に入った。篠崎と深町とのそれぞれの話し合いの結果を何度も繰り返して考えてみたものの、事故か事件かの見当さえ付かない状況から脱することはできなかった。
「そろそろ鹿子木さんと話をするタイミングになったみたいだな」
そう呟きながら部屋を出て受付に入り、電話に手を伸ばした。
「あっ、鹿子木さんですか。キノコ中毒事件に関してそろそろお話しをすべき時期になったように思うのですが、鹿子木さんのご都合はいかがですか?」
「どうやら、神尾さんの捜査に進展があったようですね。分かりました。今晩そちらに伺います」
「いや……、進展があったとは言えない状況ではありますが、鹿子木さんと現時点での情報を交換しておいたほうが良いと思いまして」
「まあ、そうですね。それでは夜、また」
鹿子木がやってきたのはその晩の十時近くになってからであった。
「済みません、遅くなってしまって。なかなか抜け出せなかったものですから」
言い訳しながら鹿子木が受付に入ってきた。愛はいつものように濃いめのコーヒーを鹿子木に出すと、遅いからと言って源三郎と二人で帰っていった。
「鹿子木さんにご紹介いただいてキノコ業者の篠崎さんとお会いした後、日陰和田病院の医師である深町さんがここにいらっしゃっていろいろとお話を伺いました」
「そうですか、深町がここに来たのですか。二人から話を訊いて、神尾さんのお見立てはいかがですかな?」
「あははは、鹿子木さん。まだお二人と初めてお会いしただけなんですよ。そう簡単に物事が見通せるのなら、とっくの昔に警察の方で結論が出されているのではないのですか」
「まあ、その通りではありますけどね。とにかく、神尾さんの現時点でのお考えをお聞かせくださいよ」
「分かりました。私にはまだ事故か事件か皆目見当がついていませんが、これまで私が考えてきたことをまとめてお話しします」
「はい、よろしくお願いします」
「先ず、今回のキノコ中毒が事故だとした場合、どこでクロハツと、恐らくニセクロハツだと思われる毒キノコとが間違ってパーティーに出されてしまったかが、全く分からないのです。キノコ業者の篠崎さんのキノコの鑑定に関する知識や判断の慎重さは面談した限りでは、本当にしっかりとしたものだと思いました。日陰和田さんもその点に関してはかなり信頼していたものと思われます。もちろん、篠崎さん以外の人がキノコを提供してないのが大前提ですが」
「確かに、篠崎のキノコに関する眼力は私も認めておりますよ」
「そうなると、事故の可能性は相当低くなります。では、事件だとすると、容疑者になり得る人物、つまり、動機を持つ人間は思いの外沢山挙げられそうです」
「先日、私がお話したH署の春田刑事がピックアップした人物も含めて、まとめるとどんなふうになりますかね?」
「深町さんとの話の中で出てきた容疑者になってもおかしくない人たちとは、先ずは日陰和田病院の関係者です。例えば、看護師、事務職員、リハビリ担当者、技師や若い医師たち、調理担当者などです。皆、高圧的な日陰和田に酷いことを言われたり、されたりしていたようですから。その他に、あの病院の元患者、キノコ業者の篠崎さんも対象者にリストアップされました。忘れてはいけないのは、東京H署で疑っている深町医師と神保医師もですけどね」
「本当に沢山いますね。日陰和田聡一郎という男は余程素行のよくない部類の人間なんですねえ」
「そうですね。ただし、動機を持つ人間は多いのですけど、どのように実行したか、ということになると、答えを見出すのは現時点では非常に難しいのです」
「どんな風に難しいとお考えですか?」
「キノコ汁やキノコのバター炒めに接触できたのは、調理担当者以外は日陰和田さんだけだったと思われるのです。今、私が候補者としてリストアップした人たちのうち、料理に手を出せたのは調理担当者だけなのです。ただし、現時点で入手できている情報から考えた場合なんですけど。
それから、食材としてのクロハツが三種類あったという件についてですが。調理担当の野田さんがはっきりと言われているのですから、彼の手にキノコが渡った時点ではきっとクロハツは三種類あったのでしょう。しかし、キノコ業者の篠崎さんはクロハツは一種類しか届けていないと言っています。これらの証言がどちらも正しいと仮定すると、二つの可能性が浮かびます。
一つ目は、篠崎さんが届けた沢山のクロハツを見て、日陰和田さんが自分なりの選抜を加え、一番良いクロハツだと評価したグループとその次に良いとされたグループ、さらに最後に、普通の品質であると評価された沢山のキノコのグループの三種類に分類して野田さんに渡したというケースです。二つ目は、篠崎さんが届けたクロハツ以外に日陰和田さんが自分で別の入手経路によって二種類のクロハツを手に入れたケースです。これらのどちらが正しいのかは現時点では全く情報がないので、判断できないのです」
「そう考えると、どちらにしても日陰和田しかクロハツには触っていないということになって、所轄で最も疑わしいと考えている深町や神保にはキノコに手を出す機会が全くなかったと言われるのですね」
「はい、これまで私が知り得た情報ではそうなります。しかし、これからの捜査で、日陰和田さんと調理担当者以外の人が、パーティー会場に運ばれる前にキノコ料理に近づくことができたという情報が明らかにならないとは限りませんので、あくまで、現時点での判断ということになります」
「そうですか……、要するにあまり進展は見られてないということになりますね」
「まあ、その通りではありますが、問題を解決するためには、一つずつ確認する作業の積み重ねが重要ですからね。あっ、これは鹿子木さんからの受け売りですよね」
「あははは、神尾さんに一本やられてしまいましたね」
「それではと。今度は私の方が鹿子木さんにお訊きする番ですね。鹿子木さんは所轄の刑事さんにどのような報告をされたのですか?」
「所轄からの要求は、キノコ業者である篠崎の人柄、この辺りでの評判はどうかということでした。連絡してきたのが、昔からの知り合いの刑事だったので、事件の背景を教えてくれたんです。彼の話を聞いたら、そのうち面倒くさい事件になってしまいそうな予感がしたものですから、神尾さんに予めご相談したというわけです」
「それは有難うございました。それで、向うへの報告内容は?」
「私が篠崎から話を訊いた印象は、先ほど神尾さんが言われたものとほとんど同じでした。篠崎のキノコを判別する時の態度は慎重で、知識に裏打ちされていると思いました。同業者にも何人か訊いてみましたが、皆、彼の事を真面目で信頼できるキノコ業者だと言っていました。篠崎が住んでいる家の近所の人や昔からの友人にも会いましたが、彼の評判はすこぶる良かったのです。ですから、私からの報告は、そのままを伝えました」
「所轄の刑事さんの反応はどうでしたか?」
「向うでも同じような印象を持っていたようで、特段のコメントはありませんでした。篠崎への容疑は相当薄くなってきているようです」
「では、現時点で所轄の刑事さんたちが一番疑っているのはどなたなのですか?」
「友人の刑事の口ぶりでは、今最も疑わしいと思われているのは深町のようです」
「深町さんがそれ程疑われている理由は何なのですか?」
「特製キノコ汁を食べることを断ったことが最大の理由のようです。他の容疑者候補には一連の行動に疑わしいものが見出せていないのに対し、深町には疑ってもおかしくない行動が認められているからです」
「深町さんが日陰和田さんを殺害しなければならない動機はあるのでしょうか?」
「日陰和田の深町に対する嫉妬心が怖くなって先手を打って殺害したのであろう、というのが所轄の現時点での考え方のようです」
「私には深町さんがそんなことをするようには見えませんでしたけど……。では深町さんはどのようにして日陰和田さんを殺害したと考えているのでしょうか?」
「それがですね……、所轄の刑事たちも全く見当が付いてないようです」
「そうすると、深町さんが疑われているのは、特製キノコ汁を食べなかったからということだけなのですね。深町さんはお祖父さんから珍しいキノコは食べてはいけないと言われたことを忠実に守ってきたそうですけど、警察でもご存知なんでしょう?」
「ええ、深町を訊問した時、そう言ったそうです。現時点での警察の考え方は深町の言い逃れだろうということになっているようです」
「警察の方でもまだまだ単に想像しているだけの段階のようですね。鹿子木さんのお蔭で、今回のキノコ事件の現状を把握することができました。有難うございました。これまで得られた情報についてもう一度よく考えてみたいと思います」
鹿子木は自分が直接担当している事件ではないものの、神尾でも事故か事件かが決めきれていない状況に少なからず落胆して筑波ホビークラブを後にした。




