11 筑波ホビークラブ
洋介が美由紀と偶然出会ってから一週間後、洋介はいつものように筑波ホビークラブの受付でゆったりと椅子に座り、新聞に目を通していた。電話の音が静けさを破った。
「あのー、私は深町美由紀と申しまして、神尾洋介さんの知り合いですが、神尾さんはいらっしゃるでしょうか?」
「はい、いらっしゃいます。お待ちください」
愛は、心配そうな顔つきで美由紀からの電話であることを洋介に伝えた。洋介は一瞬表情を硬くしたが、直ぐに笑顔を取り戻して受話器を受け取った。
「ああ、美由紀さん。僕です。洋介です。どうしたんですか?」
「お忙しいところご免ね。実は、この間神尾君に会った後、東京の警察の刑事さんにつくばでキノコ業者を訪ねたことを話したのよ。そうしたら、つくばまで行かれたのなら有名な探偵さんに相談でもされれば良かったですね、なんて冷やかし半分に言われてしまったの。念のため、その探偵さんとやらの名前を訊いたら、何と神尾という人だというじゃない。もしかして、あなたのことじゃないかと思って電話してみたのよ。そうなんでしょう?」
「うーん、探偵をしているつもりはないんだけど、こちらの刑事さんに相談された時に協力しているだけなんだよ」
「やっぱりそうだったのね。この間会った時にそう言ってくれれば早かったのに……」
「ごめん、ごめん。実はどうしようかとは思ったんだけど、僕なんかが出る幕ではないような気がしたものだから」
「私、本当に困っているのよ。明日にでもそちらに行くから相談に乗ってちょうだい」
「分かったよ。ここの場所は分かる?」
「つくば駅からタクシーで行くから大丈夫。それじゃ、よろしくね」
翌日の昼過ぎ、洋介は受付のカウンターに座り、自分で淹れた食後のコーヒを飲んでいると駐車場にタクシーが止まるのが見えた。
「結構遠いのね」
美由紀はホビークラブの受付のガラス扉を開けて顔を出した洋介を見るや否やそう言った。
「お疲れ様でした。どうぞ中に入ってください」
受付の中のカウンターにバッグを置き、勧められた椅子に座ってから美由紀は頭を下げながら言った。
「今更こんなお願いができる立場ではないとは思うのですけど、私、本当に困っているんです。どうか助けてください」
「美由紀さんがそんなことを言うなんて、本当に大変なんだね。分かりました。できるだけ詳しく事情を話してください。その前に、コーヒーでいいですか? 僕が淹れたんで味の方は定かではないけど」
「ええ、お願いします」
洋介がキッチンから運んできたコーヒーに口をつけると美由紀は大きな溜息をついた。
「何からお話すればいいのかしら?」
「そうですね、ご主人が勤務されている病院でキノコ中毒が発生した時の状況や、何故ご主人が疑われているのか等、美由紀さんが知っていることをできるだけ詳しく話してくれませんか」
「夫の深町が日陰和田病院で週一回アルバイトしていることは先日お話しましたわね。その病院の理事長の息子である日陰和田聡一郎さんは、お父さんを継いで次期理事長になるべく病院で医師として働いていたのね。それからもう一人、新保恭平さんというお医者さんも同じ病院に常勤の内科医として働いているのよ。深町、日陰和田さん、新保さんの三人は高校の同期生らしいの。それで時々三人と他のお医者さん、看護師さん、事務やその他のスタッフの人たちとで院内パーティーをやっていたようなの。九月九日の夜、ええと、深町があの病院でアルバイトしているのが火曜日だから、パーティーをやったのも火曜日ね。いつものようにパーティーを開いたの。深町の話によれば、珍しい食材が手に入ったからパーティーをしようって日陰和田さんが言い出して開いたようね。それで、その日のメイン料理がキノコだったという訳なの。翌日、パーティーを主催した日陰和田さんがキノコ中毒で亡くなってしまったの」
「日陰和田さんという人が中毒になった時の状況は分かる?」
「私はそのパーティーに出席していたわけではないから、詳しい状況については分からないけど、深町の話では、出席した人たち皆でキノコ汁とバター炒めを食べたらしいの。それからしばらくしてから日陰和田さんがこっそり特別のキノコ料理を持ってきて、深町と新保先生とご本人の三人でそれを食べるよう誘われたのですって。その後、パーティーはお開きになったの。皆が帰ってしばらくしてから日陰和田さんが嘔吐したようなの。その後下痢にもなったらしいわ。最初のうちはご本人も大丈夫だと思っていたようね。翌朝、日陰和田さんの体調は優れなかったようだったけど、いつものように外来診療業務は行なったらしいわ。お昼過ぎ、日陰和田さんの状態が酷くなったので新保先生に話し、彼から深町に連絡が来たらしいの。でもその日の夜に日陰和田さんは亡くなってしまったの」
「日陰和田さん以外のパーティー出席者の中で中毒になった人はいなかったの?」
「症状が出たのは日陰和田さんだけだったようね」
「その珍しいキノコ汁とバター炒めを食べたのは日陰和田さん一人だったということは先ず考えられないよね」
「そうね、キノコパーティーだったわけだから、そんなことはなかったのではないかしら」
「それで、何故美由紀さんの夫の深町さんが警察から疑われているんだろう?」
「深町はキノコを食べるのを遠慮したようだわ。警察では深町が毒キノコを汁に入れたので、自分は食べなかったのではないか、と考えているようなの」
「そうなんだ。深町さんは何故キノコ汁を食べなかったのか美由紀さんは知っている?」
「深町は高校は東京だったけど、小さい頃は田舎の山育ちだったらしいの。お爺ちゃんから見知らぬキノコは絶対に食べないようにと教わっていたみたい。だから珍しいキノコだということだったので、自分は食べるのを止めたと言っていたわ」
「そうなんだ。それで、その珍しいキノコの名前は何と言うの?」
「えーと、ちょっと待ってね。メモしておいたから」
美由紀はバッグから手帳を取り出すと、ページを捲って探した後で読み上げた。
「クロハツという見かけはシイタケにも似ているようなキノコだったそうよ」
「クロハツか……。後でよく調べてみるね。それから、先日つくば駅近くで出会った時、美由紀さんはキノコ業者に会いに来たと言っていたよね。一体何を訊きに来たのかな?」
「キノコ中毒で亡くなったということだったので、警察にどういうキノコで亡くなったのか訊いてみたのよ。そしたら、捜査にかかわることなので教えることはできないって言われてしまったの。私には主人に関することをあれやこれやと非常に細かいことまで訊いてくるくせに、酷い話なのよ。それで、自分で調べてみたのだけれど、キノコに関する常識がほぼ皆無の私にはちょっとハードルが高かったの。深町に訊いたら、問題のキノコを採取した業者にはずっと前に日陰和田さんから紹介されて名刺交換したことがあったはずだからって、名刺ファイルから探し出してくれたのよ。名前は篠崎隆文さんだった。それで、いっそのことそのキノコ業者に会って詳しいことを訊いてしまおうと思って、この間、押し掛けてみたの」
「そうだったんだ。それで成果はあったの?」
「その業者が言うには、日陰和田さんからクロハツという珍しい部類に属するキノコを食べたいから採取してくれないかと依頼されたので、自分はそのキノコを山で採取してご本人に渡したというのよ。ただ、それだけなので、自分でも何故中毒が起きたのか分からない、と言っていたわ」
「そうなんだ……。ところで、亡くなった日陰和田さんとそのキノコ業者の篠崎さんとはどういう関係だったのか美由紀さんはご存じ?」
「深町から聞いた話だけど、日陰和田さんが筑波山の北側に足を延ばした時、山道でキノコを販売していた店があって、沢山買ってあげたみたい。その時、トラブルになっていた篠崎さんを日陰和田さんが助けてあげたことから親しくなったようね。篠崎さんはキノコに関する知識が豊富だったので、日陰和田さんはすっかり気に入ってそれからずっと懇意にしていたみたいだわ」
「なるほどね。それで、日陰和田さんに中毒症状が出た時の様子はどうだったか聞いている?」
「深町は患者さんのことを家に帰ってきて話すことは全くない人だから、そういう話は聞いてないわね」
「そう、深町さんという人は患者の個人情報をきちんと守るような真面目な人のようだね」
「ええ、嫌になるくらい真面目だわ」
「日陰和田さんは亡くなる前の晩は自宅に帰ったのでしょう?」
「ええ、そうよ。あの病院の隣に廊下で繋がっている家があって、そこに住んでいたみたい。どうせ、理事長をしている父親が建てたのでしょうけどね」
「日陰和田さんのお父さんもお医者さんだったわけだ。二人とも病院の隣に住んでいたのなら、日陰和田さんの症状が悪化しても直ぐに対応が取れる状況にはあったはずだね。それにも拘わらず亡くなってしまったというわけか……。そのキノコの中毒は相当酷いもののようだね」
美由紀は自分には明確な答えの持ち合わせがなかったので、ただ頷くだけであった。
「日陰和田さんの最期を看取ったのはどのお医者さんだったか、美由紀さんは知っているのかな?」
「深町はパーティーの翌日、大学病院での勤務があったから午前中はそっちに行っていたの。たぶん、新保さんか日陰和田さんのお父様が治療したのだと思うけど。深町があの病院に駆け付けた時にはもう危篤状態に近かったと言っていたわ」
「さてと、深町さんが疑われているということだったけど、警察のこれまでの動きについても話してくれないかな」
「さっきも言ったように、警察はこちらには嫌になるほど訊いてくるのに、こちらからの質問には全く答えてくれないの。だから、私にはよく分からないけど、深町の話だと、現在警察は事故と殺人事件の両面作戦を行なっているみたい」
「と言うことは、警察でも事件の見通しはまだほとんど立ってない、ということのようだね」
「キノコ汁を食べなかったのは深町さんだけだったのかな? 他のパーティー出席者でキノコを食べずに警察から疑われている人はいないの?」
「よく分からないけど、今の所、一番疑われているのは深町のようね」
「もう少しキノコパーティーの様子が分かるといいんだがなー。誰かパーティーに出席していた人に話を訊くことはできないかなー」
「深町に頼んで見ましょうか?」
「ええっ、それは僕にとってはかなりハードルが高いなー……」
「大丈夫よ。深町だってかなり心理的に追い込まれているように感じているはずだから」
「うーん……」
そこに大学から直接筑波ホビークラブにやってきた小野村愛が受付の中に入ってきた。美由紀を見るなり、その美しさに一瞬茫然としたが、直ぐに我に返って言った。
「あら、お客様だったんですか。失礼しました。お茶でも淹れましょうか?」
「いや、いいよ。僕があまり美味しくないコーヒーをさっき淹れたから」
愛は頷くと美由紀の美しさをもう一度確認してから出ていった。
「美由紀さんは本当に深町さんのことが心配なんだね。これだけ熱心に疑いを晴らそうと動いているんだから」
「うーん、何て説明したらいいのかしら……。本当は私自身のためなの。今このタイミングで深町が犯罪者になんてなってほしくないのよ。次のステップに進めなくなってしまうじゃない」
「次のステップって?」
「まあ、それはまたおいおいお話しするわ。それじゃ、私はそろそろ失礼します。神尾君、よろしくね」
「うーん、今の話だけではどう動いたら良いのか分からないよ。きっかけが掴めないんだな。まっ、とりあえず、さっき話してくれたクロハツというキノコの調査から始めてみるよ」
美由紀は洋介に昔の淡く華やいだ気持ちを思い起こさせたまま、洋介が呼んだタクシーに乗って帰っていった。
タクシーの姿が見えなくなった途端、洋介は隣に愛が立っているのに気付いた。
「随分綺麗な方ですね。私、あんなに美しい女の人、見たことありませんわ。上品で都会的な感じだし、スタイルも抜群ですものね。あの方、もしかしたら洋介さんの恋人ですか?」
「ずっと昔の話だけどね……。今は東京の大学病院のお医者様の奥様だよ」
「お二人はいつどこで知り合ったんですか?」
「大学の研究室の同級生だったんだ」
「そうすると、結婚するかもしれかなった人なんですね。前に初子小母様が言っていた人なんでしょう?」
「ええっ、母さんがそんなこと言ったの?」
「てっきり結婚するものと思われていたと言われていましたわ」
「まあ、そういう時期もあったんだけど、終わってしまったというわけだ」
「そんな方が何故ここに来られたのですか?」
「なんだか、尋問されているみたいだなー」
「尋問なんてしていません。洋介さんのことが心配なだけです」
「有難う。でももう大丈夫だよ。彼女はある事件でご主人が警察に疑われているので、それを晴らすために動いているだけだから」
「それならいいのですけれど……。洋介さんの表情がとても普通だとは思えないので、つい心配になっちゃうのです」
「本当に大丈夫だよ。僕もそれなりに歳を重ねてきているんだから」
「そうだといいのですけれど……」
二人は受付の中に入ってから何となく寡黙になったままその日を過ごした。




