9.深町医師の取り調べ
東京H署の春田は少しいらついていた。調理担当責任者である野田慎一の事情聴取の後、キノコ業者やパーティー出席者にも電話したり面会したりして情報収集してみたものの、事故なのか事件なのかの判断が下せないのだ。事件だとは考えたくない上司からは早く決着を付けるように急かされるので、あまりのんびりと構えている訳にはいかなくなった。
「あのパーティーの調理担当者である野田やキノコ業者の篠崎の言うことからは事故か事件かの判断をすることは難しいようだな。とりあえず、事件だったと仮定してもう少し厳しく訊問してみるしかないな」
そう独り言を言ってから春田はデスクの上の受話器を取った。
一時間後、H署の取調室では深町正人と春田とが向かい合って座っていた。若い刑事が部屋の隅で調書作成のためメモを取る準備をしていた。
「深町先生、またお越し願って申し訳ありません。日陰和田聡一郎先生が亡くなったキノコ中毒の真相解明が遅々として進まないものですから、関係者の皆さんに何度もご足労をお掛けしているのです。深町先生もその一環ですので、気楽に何でもお話しください」
「はい、聡一郎は高校時代からの友人ですし、私も今回の件の早い解決を望んでおりますので、できる限りご協力したいと思っております」
「そう言っていただくと、こちらもホッとします。それではと……、前回お話を伺った時は話題に上りませんでしたが、深町先生はあの病院の理事長から後継者にならないかと誘いを受けていたそうではありませんか」
春田の身長はあまり高くなくてぽっちゃり型で、全体の印象は何となくユーモラスな感じを与える。そのためか、かなり突っ込んだ尋問をしても相手の反感を買うことは少なく、訊問されている人はすらすらと本当のことを言ってしまうことが多かった。署内でも被疑者への尋問では一目置かれていた。
「キノコ中毒が起こったパーティーの半年ほど前になりますが、確かに理事長から簡単な打診がありました」
「やはりそうだったのですね。それで、理事長はどんなことを話されたのでしょうかね?」
「最初は、私にあの病院を継ぐ気持ちはないか、と訊かれました。私はあの病院の後継者になることなど、全く考えたこともなかったですし、もともと大学病院に残って医師としての技術を磨いていくことが当面の目標でしたから、そう理事長に申し上げました。そして、理事長には医師をやっている息子さんが二人おられ、そのどちらかを後継者にすれば良いのではないかと言いました。しかし、理事長は、次男の方はアメリカで活躍中なので日本には戻ってこないと思われること、長男の聡一郎はあの病院の理念を納得しているとは思えないので、後継者としては疑問があると思っていること、を理由に挙げて、別の候補者を探しているような話をされました」
「深町先生がそのように答えたら、理事長は了解してくれたのですか?」
「私の気持ちをお話したら、理事長も私が大学病院に残って仕事をしたいということをご理解くださっていたようなので、本当に私の意思が変わっていないのかどうかを確認されただけだとおっしゃってくださいました。ですから、私の意思に変わりがないと申し上げると、直ぐに了解されて別のことを話ました」
「別のこととは、一体どんな話をされたのですか?」
「ええとですね……、言わなければいけないのでしょうか?」
「無理にとは言いませんが、そうなると、深町先生が怪しいという見方が強くなってしまうのでないかと思いますよ」
「それも困るのですが、他の人の名前を出さなければならないので、少し躊躇いがあるのです」
「なに、深町先生がその人の名前を隠しても、私たち刑事はいろいろな方からお話を伺うのです。そのうち必ずその人のことは明らかになります。時間の問題だけです。それだったら、今、深町先生がおっしゃった方が、いろいろな意味で良いということになるのではないですかねー」
「分かりました。確かにその通りなのでしょうね。お話します。私への確認の後に理事長がお訊きになったのは、やはり高校時代からの友人で、あの病院の常勤医師である神保恭平のことでした」
「ああ、神保先生のことでしたか。それで、どんな内容だったんですか?」
「恭平をあの病院の後継者にすることをどう思うか、という質問でした」
春田の顔には、明らかに失望の色が見えた。既に入手済の情報を深町が勿体ぶっていたことに落胆したのであったが、深町に話の続きを喋ることを促した。
「理事長が考えておられる病院の理念に関する理解については、恭平を信頼して良いのではないかと私には思える、と言いました」
「理事長は何と言われましたか?」
「私の考え方と理事長のそれとはほぼ同じであると言われ、それ以上その話は発展しませんでした」
「そうですか。そうすると、深町先生より神保先生の方が怪しいかもしれないということですね」
「いえ、私はそんなことは言ってはいません」
「あははは、まあまあそんなに熱くならないでくださいよ。ところで、深町先生は何故、亡くなった日陰和田さんが密かに出してきた特別なキノコ汁を食べることを断ったのですか?」
「これまで何度も言っていますように、小さい時に祖父から教わったキノコに対する接し方を守っただけなのです。他に何の意図もありません」
「しかし、そんな理由は後からいくらでも言うことができますからね。我々警察から見ると、毒キノコが入っていたかもしれない特別なキノコ汁をあなただけが食べなかったことがとても不自然に見えるのです」
「それでは、あのキノコ汁に毒キノコが入っていたことが証明されたのでしょうか?」
「何せ、パーティーで使用された食器類などは、終了と同時に調理担当者によって綺麗に洗われてしまったものですからね。残念ながら分析しようにも試料がないのです」
「そうすると、警察ではあの特別なキノコ汁に毒キノコが入っていたのだろうとお考えなのですね?」
「今の所はそう考えています」
「でも、あの特別なキノコ料理は聡一郎以外に恭平も食べていました。何故恭平は発症しなかったのでしょうか?」
「まあ、それが現時点でも一つの謎なのです。三人のお医者さんが特別なキノコ汁を食べる直前に私たちが把握できてない出来事があったのではないかと考えているのです。調理担当者の野田さんに訊いたところ、特別なキノコ汁は二種類あったそうです。それらが入った鍋二つを日陰和田先生がどこかに持っていき、お椀に入れた後であなた方の所に運んでいったと思われます」
「確かに聡一郎が特上品のキノコを使ったキノコ汁だと言って運んできたお椀は、上品なものが二つと普段使いのお椀が一つでした」
「それで、あなたと神保先生はどちらのお椀を勧められたのでしょうか?」
「私たちは上品なお椀に入っているキノコ汁を勧められました。私は食べるのを断りましたが、恭平は勧められるまま美味しそうに食べたのです」
「それでは、普段使いのお椀に入っていたキノコ汁を食べたのが日陰和田先生だったということですね?」
「そうです。聡一郎は私と恭平の目の前で、最初に普段使いのお椀に入っていた特上品のキノコ汁を美味しそうに食べ始めました。それに釣られて恭平も上品なお椀に入っていたキノコ汁を食べたのです」
「普段使いのお椀に入ったキノコ汁を食べた日陰和田先生だけが中毒になり、神保先生は何ともなかったことから考えると、普段使いのお椀に入っていたキノコだけが毒キノコであった可能性が高いですね。そうなると、日陰和田先生は毒キノコが入っていたことを知っていて、敢えてそのキノコ汁を食べたと考えるか、どこかで何らかの間違いが起こったか、すり替えが行われ、日陰和田先生はご自分の意思とは異なって毒のある方のキノコ汁を食べてしまったと考えるか、他の誰かが毒キノコを日陰和田先生のお椀にこっそりと入れたと考えるか、の三つの可能性がありますね」
「でも、聡一郎が自殺するなんてことは考えられないと思いますけど」
「私たちもこれまでの捜査から考えて、日陰和田先生が自殺する可能性は高くないと思うのです。深町先生はどちらに毒キノコが入っていたかご存知ではなかったのですか?」
「ええっ、何ですって。そんなことを知っていたはずがないじゃないですか! 春田さんは、私が何か企んで聡一郎が間違って毒キノコを食べるように仕向けたとでもおっしゃるのですか?」
「いや、そこまでは申し上げておりません。ただ、お椀の中身の違いを深町先生が知っておられたかどうかを伺っただけです」
「私は本当に知りませんでした」
深町はそれ以上の言葉を見つけることができなかった。それから三十分後、ようやく春田から解放されたものの、深町は春田が自分に感じている疑いを晴らすことはできず、沈んだ気持ちで家路についた。




