プロローグ
プロローグ
神尾洋介は豊作の年に収穫されたブドウを用いて醸造された赤ワインを見つけ、それがあまり高価ではなかったので大喜びし、まとめ買いすることにした。ワインを台車に乗せて駐車場まで運んで車に積み、時計を見るとまだ午後三時を回ったばかりだったので、もう少し久しぶりのつくば駅周辺の散策を楽しむことにした。秋晴れの気持ちの良い天気ではあったが、十月に入って街路樹は少しずつ彩を鮮やかにしようとしていた。期待以上の買い物ができたためかいつもより弾んだ気分になって、つくば駅南側に設けられているペデストリアンデッキの上を歩いた。
何となく不思議な気配を感じて前を見ると、デッキの先にスポットライトが当たっているかのように見える場所ができていた。そこには、その存在に気付いた周囲の人たちが思わず立ち止まり、その美しさを再確認する程の女性がこちらの方に向かって歩いてくる姿があった。日本人の女性にしては背が高く、頭は小さく、頭髪は淡い栗色に染められ、ゆるくカールして肩の下位まで伸びている。目はそれ程大きくはないが二重瞼で、いわゆる涼しげな目をしている。肌は透き通るような透明感があり、手足はかなり長く真っ直ぐに伸びている。体にピタリと張り付くようなワインレッドのスーツと同系色のミドルヒールは、豊満さの入口に差し掛かりつつある不安を感じさせつつも抜群のプロポーションを際立たせている。
スポットライトに照らされたような状況のまま、その女性が洋介に近づいてきた。擦れ違う瞬間、思わず立ち止まり、凍り付いたようになった洋介に声が掛かった。
「あらっ、神尾君じゃない?」
「ああ、やっぱり君だったか……」
「お久しぶりね。何年ぶりかしら?」
「そうだなー、あの喫茶店で会った時以来だから、六年ぶりじゃないかな」
「もう、そんなに過ぎたのね……。神尾君、今時間ある? 本当に久しぶりに会えたのだから、お茶でも飲まない?」
明らかに動揺していた洋介は一瞬迷ったが、深町美由紀の目に射抜かれたように同意させられ、気が付くと美由紀を先導して、時々使っている喫茶店「サイエンス」への階段を上っていた。
コーヒーが運ばれてきた後、疲れたような表情の美由紀は、以前には見せたことのない揺らいだ気持ちを、相変わらず涼しげに見える目に漂わせて洋介に尋ねた。
「神尾君は、あのまま研究所に勤めているの?」
「いや、あれから二年後にあそこを辞めたんだ」
「そう、辞めちゃったんだ。それで、今は何をしているの?」
「今はね、筑波山の南側の麓で、筑波ホビークラブっていう研究者の心を癒すための施設を作ってね、何とかやっているんだよ」
洋介が渡した筑波ホビークラブのロゴ入り名刺をじっくりと見てから美由紀は言った。
「変わったことをやっているのね……。それで、研究者の心をどうやって癒すわけ?」
「美由紀も…、いや、美由紀さんも知っていると思うんだけど、若手の研究者は下働きみたいなことをやらされることが多いでしょう。しかも長時間。だから、いつも強いストレスに苛まれているんだよね」
「まあ、そうなんでしょうね」
「そんな状態の心を癒す方法として、一般的にはいろいろなスポーツをするのが良いと考えられているよね」
「そうね」
「スポーツも確かにストレス解消法として良いとは思うんだけど、スポーツが苦手な人やスポーツだけでは解決されないようなストレスを感じている人たちにも何か方法はないかな…なんて考えたんだ。そしたら、自分の好きなことを好きなだけするのも一つの方法じゃないかって思ったんだよ」
「例えばどんなこと?」
「音楽を聞いたり、読書をしたりするのはよくあることだけど、それ以外にも、木工や彫金、作曲したり詩を書いたり、小説などの文章作成、陶芸など、何でもいいんだよ。最近ではシルクスクリーンも導入したんだよ」
「そうなの……。神尾君らしいことを始めたのね。それで、本当に効果はあるの?」
「多分……ね。あははは」
「そう、それは良かったわね」
美由紀は自分が予想していたよりはずっと洋介が元気そうなので、少しがっかりしたような表情を浮かべた。話が続きそうもなくなったので洋介は相手の現状を訊こうと思った。
「美由紀さんはあれから幸せに暮らしているんだろう?」
「………。それがね……、今いろいろなことでちょっとピンチなのよ」
美由紀はそう言うと洋介には随分と長く感じられるほど黙ったままになった。洋介はコーヒーを飲みながらひたすら美由紀の沈黙に付き合った。暫く待ったが美由紀が固まったままなので、洋介は質問を変えることにした。
「ところで、どうして今日美由紀さんはここに来ている訳?」
その質問なら答えることができると思ったのか、ようやく美由紀が口を開いた。
「筑波山の麓に住んでいるキノコ業者に会いに来たのよ」
「えっ、キノコ業者? お医者様の奥様がキノコの販売でもしようというのかな」
洋介は今の状況を吹き飛ばしたいような気分になっていたので、ユーモアたっぷりに言ったつもりだった。
「そんなんじゃないわ」
そう言ったきり美由紀は再び沈黙してしまった。
洋介は仕方なくコーヒーをすすりながら、俯き加減になっている美由紀を労わるような目で眺めた。
「しかし、本当にこの人は美人だな。長い時間が経過してもその美しさは全く変わっていないな。いや、磨きがかかった感じがする」
洋介は心の中でそう呟いた。そんな視線に気が付いたのか、美由紀は落とした視線を上げ、洋介の目を見つめて小さな声で話し始めた。
「実はね、夫が疑われているのよ」
「ええっ、疑われているって、一体何があったという訳?」
「私の夫、深町正人はあの大学病院の勤務医を続けているのよ。その他に週一回、日陰和田病院という所でアルバイトしているの。少し前、その病院でのパーティーの後、キノコ中毒で一人亡くなったの。他の人たちと一緒に夫もそのパーティーに参加していたので、警察に疑われているの。それで、今日は中毒の原因となったキノコを採取した業者に会っていろいろと話を訊いてきたのよ」
「そうだったんだ。それは大変だね」
洋介は一瞬美由紀に同情して詳しく話を訊いて助けてあげようかと思ったが、自分がそんなことをする立場にはないことを思い出して言葉を呑んだ。
「さあ、そろそろ帰ります。東京まで結構時間が掛かるからね。今日は元気そうな神尾君に会えて良かったわ。それじゃ、お元気で」
「ああ、僕も美由紀さんに会えて嬉しかったよ。あまり自分を追い込まないようにね」
「有難う」
つくば駅の改札で美由紀を見送ってから洋介はデパートの駐車場に入れておいた車で筑波ホビークラブに帰った。
間もなく夕暮れを迎えようとしていた筑波ホビークラブは、沈みかけた西日に照らされた筑波山をバックに輝かしく見えていたはずであった。しかし、洋介の眼にはその美しい光景など全く入らず、下を向いたまま駐車場から玄関へと続く小路を歩いた。建物の手前には、管理人の源三郎が丹精込めて仕立て上げた大輪の菊が玄関脇から東西に何鉢も並べられ、来訪者の心を和ませていたのであったが、洋介の目には美しい菊の花は映り込んではいなかった。
「お帰りなさい。洋介さん、良いワインが買えましたか?」
洋介が玄関から中に入る前に、小野村愛が受付の窓を開け、嬉しそうに声を掛けた。洋介は一応無理して作った笑顔で応えてから受付の中に入っていった。しかし、黙ったままだったので、愛は訝しげな顔で再び質問した。
「何かあったのですか? 今日の洋介さんは凄く変ですわ」
「いや、別に大したことじゃないですよ」
洋介の言葉はそれで終わった。何か必死に考えているような表情のまま、東側の一番外れにある洋介専用の小部屋に行ってしまった。いつもとは異なった反応の洋介を見て、愛はそれ以上の質問をすることができなかった。愛は、この時点では理由は分からなかったが、自分の心の中に漠然とした不安の種が芽生えているのに気付いた。