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最終章 人が人を思うときに美しい花咲けり

 最終章 人が人を思うときに美しい花咲けり


        1


 金属の階段と靴がぶつかり合う音がした。ヴェロニカが荷物を持って階段を下りる音だ。苦しい別れの時が近付いていた。


 ヴェロニカが少年の横に座り、優しく頬を撫で「また、会える日まで」と別れの挨拶をした。ヴェロニカが出て行こうとしていた。


 昴は、ヴェロニカを停められなかった。出て行こうとするヴェロニカの背中を見ていると、突然、背後から小さな声が聞こえた。


「ゴーグル、役に立ったよ、今度は、しっかりと花が見られたんだ。ゴーグルのおかげで、はっきり目を開いて見られたよ。花は、とても綺麗だった。花に悪いと思ったけど、一輪だけ摘んだよ」


 昴が振り向くと、少年は握ったままの手を、弱弱しく差し出した。

「綺麗な花。赤い花、きっと気に入ると思って、ずっと、持っていたんだ。今度は嵐に取り上げられないように、しっかりと持ってきたよ。放さなかったよ」


 少年の手が開くと、中には勲章のように小さな、ペアノチアの美しい赤い花が握られていた。


 昴は少年から花を受け取ろうとした。

 が、昴が花を受け取ろうとした瞬間、少年の手から力が抜けるように下に落ちて、少年は意識を失い、再び目を閉じた。


 昴がペアノチアを拾ったときには、ペアノチアは枯れており、汚れて丸められた油取り紙のように、縮んでいた。

 

 昴は愕然とした。

 かって、あれほど熱望したものが、目の前で見るも無残な姿を曝している。さっきまでペアノチアの花は、枯れずに美しく咲いていた。


 昴は少年の孤独が花を醜く、枯らしたのか、一瞬、激しく憎みさえした。だが、少年の顔を見て、次の瞬間には、憎しみは冷めた。


 少年の顔から苦痛が和らいでいた。昴は直感した。

 花が少年の寂しさによって醜く変わったのではない。花は伝承どおりに、少年から苦痛を取り去り、役目を終えたのだ。


 花は、いずれは枯れ、次の世代を残すために実を付ける。

 アナンは以前「ペアノチア」は二つ種を付けると話していた。一つは普通の花の種、もう一つは、救われた人間を指すのではないだろうか。


 昴は、ペアノチアが救った少年を観察して思った。

 少年は、もう一種類の花の種だ。


 苦しみを取り去っても、母親の悲しみがあれば、嵐は止まらない。嵐が止まらなければ、また少年が苦しみを背負い、寂しさに傷つく。


 なら、やるべき行動は一つ。昴の頭は、素焼きの壺に入った水のように冷静になってゆき、一つの決断をした。

 昴は床から立ち上がり、背を向けているヴェロニカに話した。


「ヴェロニカが三途大黄河を渡る必要はないよ。黙っていたけど、実は、もう一つ手があるんだ。誰かが少年の母親の悲しみを引き受けるために、河に身を投げればいい。俺が、河に飛び込む。だから、ヴェロニカは人魚亭にいたらいい」


 三途大黄河に身を投げよう。三途大黄河に飛び込んでも、苦しいだけ、消滅はしない。それに、時が経てば、人魚として戻ってこられる。


 いつかは、わからないが、ヴェロニカにとって、戻ってこられる〝いつか〟が重要だ。

 時機を逸すれば、ヴェロニカがザフィードのように、時間の流れが一切わからない人魚亭で何百年も待ち続ける状況になるかもしれない。


 ヴェロニカの子供は待ってくれないかもしれない。花はいつまでも待ってくれる。人魚となって戻ってきてから、花壇作りを再開してもいい。時間はたっぷりある。


 ヴェロニカが食って懸かった。

「なんで、昴が河に身を投げるんですか。それなら、私が行きます」


 昴はヴェロニカは子供に振り回され、冷静さを失っていると感じた。さっきの昴自身も冷静ではなかった。


 昴は、静かにヴェロニカに諭した。

「ヴェロニカは理解できないかもしれないが、全ては花のためだよ。ペアノチアが二つ種を付けるのは繁殖に必要だからだと思う。ペアノチアはおそらく、苦しみから救われた人間が発芽に必要なんだ。花が受粉に蜜蜂を必要とするようにね」


 ヴェロニカに対する同情や、少年に対する哀れみも確かにある。二人のために三途大黄河に身を投げるのは、できない。


 いや、できるのかもしれないが、動機が必要だった。今、昴は必要な動機を手に入れたと感じた。

 ペアノチアを咲かせる大願のためなら、できる。ぺアノチアが必要とするのが、水でも、土でも、太陽でも、昴でもなく、少年なら、ペアノチアを綺麗に咲かすために少年を残そう。


 今ここで、少年を荒野に帰すと、少年は再び嵐で消耗し、力尽き、消えてしまうかもしれない。そうなれば、誰がペアノチアを咲かせるのだ。


 ヴェロニカが躊躇いがちに抗議した。

「でも、花のために河に身を投げるなんて、おかしいです」


 小さい頃、施設で育っているとき、花壇の世話を黙々としていて「なぜ、花のために、そこまでできるのか」と聞かれた。

 聞かれても、困った。

 やりたいから、やる。好きだから、やる。理由は言葉にできなかった。成長し、学問も語彙も豊富になったが、未だに好きな理由を文書にはできない。


        2


 昴はもう最後の別れの時が来たと思い、ヴェロニカに打ち明けた。


「俺は両親の顔を知らない。施設で育った。施設には、花があってね。俺は、花が好きだった。十五歳で苗木会社に就職するかたわら、趣味で花を探して、世界を飛び回っていたら、偶然にも新種の花を発見してね。新種は、ちょっとした人気が出て、金持ちになったよ」


 振り返れば、新種を持ち帰り、働く必要がなくなった頃が絶頂だったと思う。稼いだ金で田舎に小さな花畑でも作れば、よかった。


 初めて手にした成功が、人生を狂わせた。

 昴は河に飛び込めば、話す相手はいない。なら、いっそ全て打ち明けてしまおうと思い、言葉を続けた。


 相手は別にヴェロニカでなくてもいいが、マスターを呼び出して聞かせるのは、悪趣味だ。

「花は、どんどん売れた。けど、類似した種を売る巨大な種メーカーが現れ、競争になった。競争に勝つために、ウィルスを使った不法な品種改良に手を出したのが、運の尽き。新種を生み出したと同時に、真紅の朝顔の花を汚すウィルスを作り出した」


 競争から下りるという選択肢は、まだあった。けれど、手にした名声と金に欲を駆り立てられた。

 遺伝子の専門家を雇う金はあった。専門家は雇わなかった。不正な手段なので、告発や裏切りを警戒して、一人で屋敷に篭ってやった。


 当時、昴は周りにいる人間を、誰も心の底から信用できなくなっていた。


 昴は全てを、ヴェロニカに語った。

「ウィルスの発見に気が付いた時には屋敷中にウィルスが広がっていた。俺は結局、悩んだけど、俺の欲で朝顔を汚すのは、忍びなかった。結局、俺は屋敷に燃料を撒いて、丸ごと高温滅菌したよ。俺は、花のために身を焼いた男、花を守るために河に飛び込むのだって、できるのさ」


 昴はヴェロニカに告白して、つくづく思った。まさに、花のためなら火の中、水の中だな。

「他人には、理解しがたいかもしれないね。でも、俺は人魚亭に来て、花のことだけを考えて、花のために、生きようって思った。花を裏切らないとも誓った。今ここで少年を救わないとペアノチアを裏切る。じゃあ、もう会うこともないけど、お元気で。あと、マスターに河の下流まで行ってくるって伝えてくれ」


 昴は最後に少年を見下ろして、二本指で軽く敬礼した。別れの挨拶をして外に出ようとした。


        3


「待って、昴。私も一緒に行く」


 振り返れば、思い詰めた顔のヴェロニカがいた。なぜ、ヴェロニカが一緒に来ると言い出したのかは、さっぱり見当がつかない。


 先ほどまで河を渡ると言っていたヴェロニカに、心中願望があるとは思えない。ヴェロニカは少年を介抱して、子供と再会できるまで、人魚亭で暮らせばいい。


 全く持って、理解不能な発言だった。

「河に入るのは、一人で充分だよ。代わりに行くというなら、まだわかる。けど、なぜ、一緒なの。ヴェロニカは黙って人魚亭で暮らせばいいじゃないか」


 ヴェロニカは、真剣な表情で訴えた。

「昴は昴の中にある悲しみに、気が付いてないのですか。お節介かもしれないけど、昴はどこか寂しそうに見えるんです。ここで、昴が一人で行ってしまうと、昴はずっと一人になる気がします」


 言葉の通り、余計なお節介だ。働くようになってから悲しみは感じた経験はなかった。現に今も悲しくもないし、涙が目に上がっても来ない。


 生きている時に友人と呼べる存在もいなかったが、産まれてからこれまで、孤独だと感じた記憶もなかった。


「お前は生れ落ちる時に孤独を忘れ、生きている内に悲しみも捨てた」と、誰かに指摘されて記憶がある。

 その通りだと思った。結城昴は独りで生きて、独りで死んだ。


 自分の顔は、自分には見えない。案外、他人から見れば、孤独で悲しみを抱えた顔に見えるのかもしれない。

「あの、ヴェロニカ。笑いハイエナって、知っているかい。サバンナで腐肉を前に、目尻を垂れ下げ、頬を緩ませて、笑い声を上げるんだ。でも、本当は、笑っているんじゃなくて、笑っているように見えて、笑っているように聞こえるだけさ。俺には、悲しみも寂しさも一切ない。ヴェロニカが悲しいように見えるなら、ヴェロニカの見間違いだよ」


 ヴェロニカは自殺者を説得する、聖職者のように諭してきた。

「人間は、いつも自らを正確に把握しているとは限りません。他人からしか見えない一面もあります。昴も、きっとそうです、寂しいと感じる心や、悲しいと感じる心を、どっかに、置いてきてしまったんです。心を取り戻さないと、結局は、どこにも辿り着けません」


 昴は、少しうんざりした、過去にも女性に寂しそう、悲しそうと言われた経験があるが、どれも昴にしてみれば、見当違いだった。


 女性とは、こうもお節介で、思い込みが激しいものかと、疎ましくも思った。

 人はそれを、母性と呼ぶのかもしれない。でも、昴には不要なもので、ヴェロニカもまた、決め付けて思い込むタイプなら、ガッカリだった。


 街中で生きるのは利便性のため、触れ合いを求めるためではない。花を身近に植えれば、どこに辿り着く必要もない。

 こうなると、議論は必要ない。口で言っても、無駄だ。


 昴は心の中で結論付けた。

「結局、俺が河に飛び込めばいい。一人で充分なことは、わかりきっている。俺が身を投げれば、ヴェロニカにも打算が働くだろう。放っておいても、飛び込もうとはしない」


 昴はヴェロニカの横をすれ違いざまに言葉を掛けた。

「俺は、もう行くよ。俺が飛び込んで駄目なら、その時は、また考えたらいい。それじゃあ、ちょっと行ってくる。マスターに、よろしく」


 昴は人魚亭の黒い扉を開けるときに思った。

「ずっと、長い時間、流されるのなら、死に装束に選んだ園芸用の格好をすればよかっただろうか。いや、いいか。どうせ人魚亭には、また戻ってくる。マスターのことだ、お気に入り衣装は、取っておいてくれるだろう」


 昴が重い扉を開けて、外に出た時、外はまだ暗かった。激しい風が吹き、雨が斜めに降っていた。

 穏やかな三途大黄河が波立ち、サーファーでも立ち入らない荒れた海のようになっていた。


        4


 昴は予想以上の河の変わり方に、刹那の間、足が止まった。昴は大きく息を吸い込むと、一歩ずつ、恐ろしい形相の三途大黄河に向って歩き出した。


 河の縁まで来ると、恐怖で足が停まった。立ち止まっていると、背後で人の気配がした。


 振り向くと、何かの決意を秘めたヴェロニカがいた。ヴェロニカは手を差し出し、大声を上げた。

「私は、あの少年も大事ですが、昴も見捨てられません。一緒に行きます。昴の悲しみは、私が持ちます」


 昴はヴェロニカの手を見た。

 河に身を投げるのは、決断したが、正直なところ、荒れ狂う河を目にすると、河に飛び込むのは怖かった。ヴェロニカが一緒に行ってくれれば、河に入りやすいかもしれない。


 手を繋いで河に入っても、河の流れは激しいので、すぐに握った手は離れるだろう。離れてしまえば、河は広く、濁っているので、離れ離れになる。


 つまり、一緒にいられるのは一瞬だけ。恐怖を和らげるのは入水まで。入水に決意が要るのなら、手を繋いだほうがいいかも思った。


 一旦、水に入れば、あとは嫌でも三途大黄河からは上がれないだろう。とはいえ、入るまでが難しい。


 昴はヴェロニカを巻き添えにしたくない気持ちがあった。同時に一緒に河に入ってくれるなら、入って欲しい気持ちがあった。


 昴は、ためらいがちに、ヴェロニカの手を軽く握った。

 河に入る寸前まで来たら、ヴェロニカを陸側に突き飛ばそうと思った。けれど、ヴェロニカがギュッと手を握ってきたので、離せなくなった。


 昴は、最後に確認した。

「本当に、いいのかい」


 ヴェロニカが瞳に強い意志を宿し、頷いた。ヴェロニカの手に僅かな温もりを感じた。ヴェロニカの手には怖れ、強張りがなく、力強さしかない。


 昴はヴェロニカの揺るぎない心に呆れると同時に、頼もしさを感じた。

 昴とヴェロニカは河に向って歩いてゆき、川の水に一歩を踏み入れた。


 ヴェロニカは最後に、大きな声で告白した。

「昴は、私が好きな人に、とても似ているんです」


 ヴェロニカは、つくづく男運のない女性だと思った。好きになった男は出産を認めず、逃げ出した。

 次に見つけた男は花にしか興味がなく、最後は、一緒に荒れ狂う大河に飛び込む羽目になる。


 昴はヴェロニカの告白に対して、慰めの嘘を叫んだ。

「俺も、ヴェロニカが気に入ったよ。きっと生涯で一番、思いやりのある女性だと思う。花壇の中に入れてもいいぐらいだ」


 ヴェロニカが微笑む声は小さくて聞こえなかった。でも「なんですか。それは、褒めているんですか」と聞こえたように感じた。


 昴は漠然と思った。ひょっとして、昴の母親も、こんな人物ではなかったのか、と。


 昴とヴェロニカが十歩と進まない内に、河に足元を掬われ、河中に流された。目の前が泥に覆われ、ヴェロニカと結んだ手が離れた。


 昴は水中に入って、まだ息が苦しくなる前に懺悔した。

「これから長く、苦しい時間が始る。苦しくてもいい。これが、俺が俺であるために選んだ道であり、屋敷を高温殺菌して花たちを苦しめた償いだ」


 十数秒後、時間が止まったように、河の流れが止んだ。昴が浮かび上がると、ヴェロニカも近くに頭を出していた。


 見上げれば、空は曇り空だが、雨と風も停止していた。

 昴がヴェロニカを見ると、ヴェロニカの顔には「何が起きたのか全然わからない」といったように、驚きの顔があった。


 昴が何かを話そうとすると、下流から水が大量に遡る音が聞こえてきた。下流を向けば、大きな波が発生していた。


「川が逆流を始めた。人魚が戻ってくる時に、飛び込んでしまったのか」


 大きな波は再び二人を川底へ追いやり、激しく叩きつけた。体は水流に揉みくちゃにされ、回転した。視界は真っ暗になり、口に泥水が入ってきた。


 苦しみ藻掻くが、何の助けにならない。

 やがて、意識が朦朧として体に力が入らなくなった時、誰かが昴の体を優しく支えて、上流に運ぼうとしているのに気が付いた。


 昴はぼんやりとして視界で確認すると、昴の体を支えているのは、人の腕だった。


 足に動く巨大な魚の尾を感じた。昴を支えているのは人魚だと思った。昴は人魚に抱えられながら、母というものを初めて感じた。


 昴が苦しみに耐え、意識を保ちながら、体を支えて激流を泳ぐ存在を確認しようとした。顔は見えないはずだが、水の濁りが消え、光が差した。


 人魚の顔は、ヴェロニカだった。顔を確認すると、そこで意識が途切れた。


        5


 昴の顔に冷たい水が浴びせられた。朦朧とする頭を少し上げると、青空の元ホースを片手に立っている、アナンがいた。


 アナンは昴の体に水を掛けながら、声を掛けた。

「お、気が付いたね。今、洗浄作業中。泥を落としているから、今度は俯せになってね。泥は見えるところだけでも落としておかないと」


 昴は疲れた体をごろりと裏返した。アナンに水を掛けられながら、現状を確認しようとした。

 床は木製デッキの上。顔を少し上げれば、悠然と流れている三途大黄河が見える。


 どこかに流れ着いたのは、間違いなかった。

 ヴェロニカは、どうしているのだろうか。無事に拾われたのだろうか。


 アナンの放水が止んだ。昴は立ち上がって振り向くと、背後に大きな、半円柱系の建物があった。

 建物は、人魚亭のマスターのジャッカルの帽子のような形状になっていた。目の部分には大きなガラスが嵌っており、鼻の部分が扉になっている。


 視線を泳がすと、建物の近くに座ってバスタオルで顔や髪を拭いている人物がいた、ヴェロニカだった。


 ヴェロニカもずぶ濡れだった。泥に汚れていないので、先に泥を落としてもらったのだろう。


 ヴェロニカが昴に気が付くと、寄って来て、バスタオルをそっと差し出した。


 昴が頭と濡れる体を拭き終わると、アナンが笑顔で声を掛けた。

「昴、ヴェロニカ、何が起きたか、わかるかな。ヒントは、マスターの言葉と、河の逆流だよ」


 ヴェロニカが戸惑いながら答えた。

「ここは、前に来た船着場ですよね。私たちは、たまたま他人の人魚の逆流に遭遇して流されたんですか。嵐が止んでいるから、あの少年は嵐から逃れられたのかしら? でも、なんで?」


 アナンがジャッカル型の建物に歩いてゆき、扉を開けた。

 大きな茶色のカプセルを抱えた嵐を纏った少年が立っていた。正確には、今は嵐が吹いていないので、嵐から解放された少年だ。


 アナンがニコニコしながら、少年を昴の前に進ませた。カプセルの中には、ヴェロニカが船着場まで運んでいったはずの赤ん坊が、すやすやと眠っていた。


 アナンは意味ありげに笑うと、昴に声を掛けた。

「さあ、お届け物ですよ。昴さん、それにしても、三人ともよく似ていらっしゃる」


 ヴェロニカは、訳がわからないといった表情だった。でも、昴は全てを理解した。


 昴は、ヴェロニカに説明した。

「つまり、こういうことだよ。母さん」


 昴が少年の持つカプセルを開けて赤ん坊に口付けすると、赤ん坊は昴に吸い込まれた。

 昴は途端に寂しいという思いで頭が満たされた。


 すぐに頭に上った寂しさは、昴が経験した時間により埋められ、口に放り込んだ氷のように消えていった。

 後には、欠落が補われたような静かな充実感があった。


 驚くヴェロニカを尻目に、昴は少年に名前を聞いた。

 少年は、どこか懐かしいような顔で答えた。

「結城、昴。中学二年生」

 思っていた通りの答が返ってきた。


 昴が少年を抱き締めると、少年は消えてしまった。悲しみが溢れてきて、涙が出た。

 目を閉じて、しばらく悲しみと向き合った。悲しみは辛かったが、多くの思い出と善意の記憶により、やがて調和された。


 二つの感情が心に入って。昴はやっと一人の人間に戻ったと感じた。

 昴は、ヴェロニカに向き合った。

「わかったかい、母さん。目の前にいるのが、貴女が産んだ子供の、昴です。赤ん坊も、少年も、どっちも、俺。おそらく、俺が死に掛けた時に、生を得る代償に失ってしまった、俺自身かな。マスターが『ここでは時間が意味を成さない』と言っていた。あれは、時間を気にしなくていい、という意味ではなかったんだ。時間の流れが生前とは異なる、という意味だったんだよ」


 アナンが正解とばかりに鷹揚に頷いた。

 昴は、まだ要領を得ないでいるヴェロニカに丁寧に説明をした。


「生前の時間感覚からすれば、①ヴェロニカの死亡、②赤ん坊の俺の死亡と蘇生、③少年時代の俺の死亡と生還、④俺の自殺の順に起きている。けど、人魚亭の周りでは違った。中学時代に俺が生還するために、俺の分身が死後の世界に置き去りになる。自殺した俺が人魚亭に辿り着く。ヴェロニカが人魚亭にやって来る。出産後、蘇生するために死後の世界に赤ん坊の分身が誕生した。出来事は③、④、①、②の順で発生していたんだよ」


 河に入水する前に、ヴェロニカは寂しいと感じる心や、悲しいと感じる心が欠けていると評した。

 生れ落ちる時に、本当は死んでいた。母であるヴェロニカの命と思いのおかげで、蘇生して生者の世界に行けた。が、代償に寂しいと感じる心を、死後の世界に置いて来てしまったのかもしれない。


 遭難から生還するときには、悲しいと感じる気持ちを差し出して生還したのだろうか。

 または、寂しさも悲しみも、生きていく上で、辛いと思って捨てたのかもしれない。


 ザフィードが「人は多くの物を得て、多くのものを失っていく」「昴があの少年に見たのは、昴が昔に失ったもの、そのものだよ」と話していた、ザフィードの目には、しっかりと昴の未来が見えていたかもしれない。


 ヴェロニカがじっと昴の顔を覗き込み、涙を流して尋ねた。

「本当に昴は、私の赤ちゃんなの」


 ヴェロニカは昴の言葉を聞き、頭ではなく、心で理解したようだった。

 赤ちゃんという言葉には凄い引っかかりを感じる。下手に否定してヴェロニカの頭が混乱するといけないので、あえて反論しなかった。


 昴は推理を続けた。

「間違いないだろうね。最初、三途大黄河に入った時には、河の流れが停まってから、逆流した。最初は、他人が人魚になって戻ってくる場面に遭遇したと思ったけど、違ったんだ」


 昴は当時の状況を思い出しながら、解釈を述べた。

「三途大黄河に身を投げる前に、俺とヴェロニカは嵐を停める方法①の、母親が少年と再会し、互いに互いを思いやる条件を満たしたんだ。そう、俺たちは、知らず知らずのうちに背負っていた苦しみから、解放されたんだ。結果として、三途大黄河の逆流を引き起こす条件、苦しみが消えた時を満たしたんだよ。だから、三途大黄河の逆流が、すぐにやってきた」


 ヴェロニカは「私の赤ちゃん」「よかった」「ごめんね」と声を上げて泣き続けていた。昴は、どこか居心地の悪さを感じつつ、ヴェロニカを泣かせていた。


 ヴェロニカにとって、子供と過ごす時間は、夢に見た貴重な時間だった。昴にしてみれば、もう、過ぎ去りし日々。昴は、もう独立した大人だ。


 ヴェロニカがいなくなることに怯えた心の混乱も、再び母に捨てられると、どこかで感じたためのものだろう。


 わかってしまえば、ヴェロニカを見る目が、どこか覚めた。

 ヴェロニカに対する心は、良き隣人だ。が、しばらくは、ヴェロニカの母親風に当ってもいい気がした。


 ヴェロニカが生むという決断をしていなければ、数々の花の美しさに触れなられなかったのだから。


 ヴェロニカが泣き止むのを待って、バスタオルを渡した。

 ヴェロニカが顔を拭くのを待って、アナンが声を掛けた。


 アナンは晴れ渡る空のように清々しい笑顔で、祝福を込めて確認してきた。

「それで、どうするの? 人魚亭に戻る? それとも、河を渡る?」


 昴の口から、自然と言葉が出た。

「ペアノチアの花の咲く、河の向こう側に渡るよ。もっとも、その前に荷物を取ってきて、マスターにきちんとお礼を述べて、別れの挨拶をしようと思う」


 河を渡るのを嫌がった心が、嘘のように消えていた。ヴェロニカを見ると、ヴェロニカも頷いた。

 誰の言葉か忘れたが「結果は、たとえ失敗に見えても、人は常に何が最良の道を常に選択している」という格言があった気がする。


 おそらく、死後の世界では最良の選択をよりスムーズにできるのだろう。河を渡りたいと思うなら、渡ったほうがいい。


 アナンがジャッカル型の建物に入っていくと、昴のスーツケースと、ヴェロニカの旅行鞄を持ってきた。


 アナンは昴とヴェロニカに各々の鞄を渡した。さらにアナンは、ポケットから印字された細長い紙を取り出した。


 アナンは昴の答に満足げな表情を浮かべ、どこか嬉しそうに急かした。

「これは、マスターとザフィードからの、残りの給与。給与は現物支給で、河の向うへ渡る船便のチケット。部屋は、値段の関係で二人で一部屋だけど、親子なら、いいよね。船はもうすぐ来るから、着替えてきて。着替えたら、メインの船着場まで案内するから」


 もうすぐ出航と聞いて、マスターに挨拶をしに戻るか、迷った。

 船は遅らせることができる。けれど、マスターはちょうど良い時間の船を手配してくれている。乗らなければ悪い気もする。


 マスター、ザフィード、アナン、どこまでも、気が利き、優しい三人だ。が、腑に落ちない点もある。


「ねえ、マスターは全てを知っていたの? ひょっとして、マスターは神様かなにか」


 アナンは意味ありげに微笑むと、回りくどく否定した。

「ふふふん、マスターは神様じゃないって。単なる人魚亭のマスターだよ。新聞を読んで時折、やって来るお客を接客するのさ。もちろん、予知能力がある訳じゃないし、人の心を読める訳でもない。まあ、なかなか良い男ではあるけどね。さて、答がわかるかな」


 昴は合点が行った。マスターはやはり、昴やヴェロニカについて、ある程度まで知識を持っていたのだ。

 もちろん、超能力ではない。マスターの情報源は新聞だ。

 マスターの読んでいた新聞には、天気予報欄がないだけでなく、社会面や政治面もないだろう。新聞には、これからやって来る人物の人生が記事になっていたのだと思った。


 新聞の配達は、昴がヴェロニカが来る前に来ていた。とすると、また新しい箱が届いていたので、誰かが来るのかもしれない。


 だとしたら、人魚亭に戻るのは、無粋かもしれない。

 今はもう、人魚亭に来た新しい訪問者と、マスターとのゆったりとした時間が始まっている。


 ヴェロニカが立ち上がり、手を差し、母親として言葉を掛けた。

「さあ、昴。早く着替えないと、船に乗り遅れますよ」


 もう、母親と手を繋いで歩く歳ではない。が、ヴェロニカは明らかに目を輝かせ、手を繋ぐのを待っている。


 まあ、いいか。親孝行とは無縁で生きてきたのだ、少しくらい付き合ってやろう。母親は、花の恩人でもある。


 昴は、ヴェロニカの手を取り、ペアノチアの咲く場所に旅立つために、歩き出した。

                                          【了】


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