第五章 境界の宅配便、アナンの運ぶ荷物と小さな命
第五章 境界の宅配便、アナンの運ぶ荷物と小さな命
1
嵐を纏った少年に会った翌日。昴が眠るために、着替えてベッドに入ったところで、部屋の扉がノックされた。
昴が返事をすると、ヴェロニカの声が聞こえてきた。
「起きている、昴? アナンが店に来たよ。それじゃあ、教えたからね」
昴は一階に下りるために、部屋の電気を点けた。昴はさっそく、届けてもらったスーツケースから出した綿のパンツに、藍染の長袖シャツに着替えた。
もう、夜は遅いが、夜遅くまでアナンが人魚亭に来られなかった原因が、昴自身を助けたためなのは間違いない。
アナンが来ているなら、御礼と謝罪を言わずにはいられなかった。
昴がスチール製の階段を下りると、普段は見ない夜の人魚亭の姿があった。
天井を見上げれば、真っ暗な空があった。天井の梁に付けられた十二の電球が、赤みがかった光で、階下の黒御影石を照らしていた。
アナンがヴェロニカが描いた絵を褒め、ヴェロニカが素直に受け止めている声が聞こえていた。ヴェロニカとアナンは、とても仲の良い雰囲気だ。
ヴェロニカにしても、話相手は、夜に訪れるアナンしかいない。仲がよくなるのに時間は掛からなかったのだろう。
アナンがカウンターの、明るすぎず、暗すぎないに場所に座って、パンと紅茶の食事をしていた。格好は、会った時と同じく、ヴァーミリオンの制服だった。
アナンが座る横に、ティッシュ・ペーパーの箱を大きくしたような、小さな段ボールの箱が置いてあるのに、昴は気が付いた。
アナンは階段から下りて来た昴を見ると、微笑んで挨拶した。
「今晩は、昴。良い夜だね。昴やヴェロニカから見れば、月も星もない夜空は味気ないかもしれないけど、静かで、涼しい夜道をバイクで飛ばすのも、いいものだよ。夜には夜の三途大黄河の顔もあるし」
昴は丁寧に礼を述べた。
「荷物を届けてくれて、ありがとうございました。おかげで、助かりました」
アナンは、最後のパン一切れを口に放り込むと、何かを楽しい隠し事をしているかのように微笑んで、「ちょっと待っていて」と立ち上がって、外に出て行った。
アナンの顔は、深夜にクリスマス・プレゼントを子供の枕元に置いて、反応を見て微笑んでいた施設の人と通じるものがあった。
何か、嬉しいサプライズでもあるのだろうか。花が見つかった、とかだろうか。
すぐに、違うと思った。アナンは仕事と友情に、とても忙しかった。とてもじゃないが、花を探す時間など、なかったはずだ。
アナンを待っていると、アナンの横にあった箱が、小さなトンという音を立て、小さく箱が揺れた。
昴はカウンター越しにヴェロニカを見ると、箱から視線を上げるヴェロニカと目が合った。どうやら、ヴェロニカも箱が揺れるのを見たようだ。
箱の中身が気になるが、触るわけにはいかない。
アナンが仕事の途中なら、当然、荷物を持っている。盗難や雨の心配は皆無なので、荷物は外のバイクに積んであるのだろう。
盗難の心配がないのに、アナンがわざわざ店に箱を持って入って来た以上、目の前の箱は、何か特別な荷物だろう。
アナンの特別な荷物には、触れるわけにいかない。
すぐに、アナンが、薄い電話帳のような本を持って戻ってきて、昴に差し出した。
表題はマスターの読んでいる新聞の文字と同様で、読めない。パッと本を開けてみた。
昴は中を見た瞬間、驚き、嬉しくなった。
本は花の種子のカタログで、花の写真が掲載されていた。昴はどきどきしながら、パラパラと本を捲った。
本は種子だけでなく、肥料や、園芸用品も掲載されていたが、半分は花の写真だった。
昴が顔を上げると、アナンが説明した。
「マスターからのプレゼント。花の種は三つまでなら、注文していいって言っていた。もっとも、ここじゃあ、出荷はアバウトだから、届くまで、どれだけ日数が掛かるか、全然わからない。だけど、注文してくれたら、私が責任を持って届けるよ」
昴はアナンに抱きつきたいほど、嬉しかった。でも、自重するだけの理性はあった。
昴はすぐに、カウンターに腰掛け、アナンに頼んで。
「ちょっと、待って、最初の一つは、すぐ決めるから」
昴は胸を躍らせ、カタログを急いで見た。注文して日数が掛かるのなら、最初の一つは今すぐにでも、アナンに注文したかった。
2
昴がカタログを見詰めていると、カタログに、いつか見たいと願っていた。あの、赤い花を見つけた。
最初は、見間違いかと思った。でも、記憶にあるのと寸分も違わない。昴の心は、遠足を待ち望む小学生のように高鳴ぶった。
花の名前を知りたかったが、文字が読めないのがもどかしかった。
昴は、アナンに尋ねた。
「この花。この赤い花の種を注文するよ。ところで、この素晴らしい花は、なんていうの? 人魚亭の周りでも育つの?」
アナンがカタログを覗き込み、眉間に小さな皺を寄せて、文書を目で追っていった。
アナンが文書を目で追い終わると、お勧めできないと言った否定的ニュアンスで説明した。
「花の名前は、ペアノチアって読むのかな。ここら辺では全く見ないから、おそらく、河の向こう側に咲く花だね。説明を読む限り、強い日差しや、高温に弱いらしい。種を収穫して、次の年も咲かせられるかは人による、ってある。無理とはいわないけど、人魚亭の周りで育てるなら、難しいかな。もっと育てやすいのにしたほうがいいかも」
一生涯を掛けても見たいと思った花だ。
難しいからといって、妥協はありえない。園芸家としてのプライドもある。見事な赤い花を咲かせてみようじゃないか。
「いや、ペアノチアを頼むよ。ペアノチアをもう一度、どうにかして見るのが、俺の希望そのものなんだよ。攻略困難だからといって、撤退は、ありえないんだ。きっと、ペアノチアの赤い花を咲かせてみせる」
アナンが何かを思い出したように、昴に声を掛けた。
「あ、ちょっと、待って。ペアノチアって、癒しな草の仲間だな。癒しな草ってのは、聖人が花を苦しむ人に与え、人の苦しみを取り去り救ったと言われる伝承がある草なんだ。でも、伝承では、寂しさを抱えた人が近くにいると、花は咲かないって話があるんだよ」
生前なら「伝承って、所詮は創作だろう」と聞く耳など持たなかった。死後の世界もあったのだ。あながち無視できない。
昴は、大きな問題にぶち当ったと感じた。
昴自身は、今は寂しさは感じていない。マスターやザフィードもある種の達観した人物だから、寂しさとは無縁。問題は、ヴェロニカだった。
ヴェロニカは、後悔も寂しさもあるだろう。人魚亭での滞在と就労はマスターが認めているので、ヴェロニカを動かすのは不可能。
ヴェロニカだけ動かしても無意味かもしれない。花が咲くまでどれくらい期間が掛かるか全くわからないが、それまで人魚亭に寂しさを抱えた人間が来れば、同じ結果になる。
マスターは苦しみを抱えてくる人の救済を目的にしているので、苦しみも寂しさも抱えた人間が、きっと尋ねてくる。
花壇のほうを移動する手もあるが、ザフィードの店付近では水の調達が難しい。石油が花に悪影響を与えるので、ザフィードの店に花壇の移設は不可能だ。
昴はアナンに尋ねた。
「ねえ、アナン。人が近くにいるって、どれくらいの距離? 百メートル? それとも、触れたら駄目というだけで、近くで観賞するぶんには問題ないのかい? 伝承の内容は、どうなの」
アナンは記憶があやふやなのか、少し困ったような表情で答えた。
「さあ、なにぶんにも、伝承だからね。伝承では、聖人は寂しさが花を弱らせるからと言って、花園を人知れず、秘密の場所で作ったそうだよ。でも、真相は、こうかな。今は、こうして園芸カタログに載っている花だけど、昔は貴重な薬だった。だから、花の乱獲を防ぐ目的で、聖人は理由を付けて場所を教えなかっただけかも」
伝承がどうこうより、アナンの説明が、すっきり頭に入る。問題はないのかもしれないが、案外、伝承は当っているのかもしれないと感じた。
以前、ヴェロニカが言った。「三途大黄河の水は寂しい味がする」と。
太陽も、水も空気もあるのに植物が育たない理由は、三途大黄河に含まれる寂しさの成分のせいかもしれない。
3
ゴソっとまた、アナンの持って来た箱がまた動いた。自然と箱に視線が行くと、ヴェロニカが尋ねた。
「アナン。さっきから、ときどき箱が動くんだけど、箱の中身は、何? 何か電気で動く玩具? それとも、動物」
アナンは箱を哀れみを込めた視線で見詰め、説明した。
「箱の中身は、母親の胎内から出て呼吸一つすることなく、人生を終えた、二千グラムに満たない存在だよ。死後の世界では、死ぬことがない。だけど、苦しみはある。箱が時々動くのは、赤ん坊が苦しがって、箱を蹴飛ばしているんだよ」
ヴェロニカが目を見開いて、アナンに激しく抗議した。
「赤ん坊をダンボールで運ぶななんて、酷すぎるよ。どうして、そんなことをするの。アナンがそんな乱暴な扱いをする人だとは思わなかったよ」
アナンは気持ちの高ぶるヴェロニカに言って聞かせた。
「残念だけど、どうすることもできないんだ。本来、小さな未熟児を運ぶのは、母親の胎内と同じような環境がいいんだ。だから、本来は同じ条件にできる、天使の揺籃を使って運ぶんだけど。ちょっとした事情で、天使の揺籃を、今は持っていないんだ」
昴は、河の逆流に遭遇した時のことを思い出した。あのとき、アナンが捨てた荷物の中に、揺籃があった気がした。
昴を救うために、小さな存在が苦しんでいた。申し訳ない気がする。けれど、小さな赤ん坊には謝っても伝わらないし、協力できる手段は、何もなかった。
アナンが箱を開けた。箱の中は銀色の保温材と、脱脂綿に覆われた、人間の小さな顔があった。小さな顔は光に当ると、苦しそうに身を捩った。
赤ん坊を見たヴェロニカの顔が、辛そうに歪んだ。
アナンは箱をそっと閉じて、箱にすまなそうに話し掛けた。
「天使の揺籃がないから、応急の処置をしている。船着場まで行けたら、どうにかなるけど。天使の揺籃がないのなら、体の中に入れて運んであげるという手段もあるけど、私には、人間でいうところの、子宮がない」
ヴェロニカが何かを決意したような顔で、腹を触りながら、アナンに尋ねた。
「子宮が必要なら、ここにあるよ。血液型が合えば、入れられるの? この子を船着場まで、できるだけ苦しませずに運んであげたい」
「血液型は関係ないよ。昴やヴェロニカの体は人間の形をしているけど、もう、昴やヴェロニカは、生物ではないんだ。体は、人間の記憶と意思が象った容器のようなものだよ」
ヴェロニカが迷うことなく、確認した。
「じゃあ、入れられるのね」
アナンがヴェロニカに注意した。
「赤ん坊を身ごもった経験があるの? 生まれてくるような大きな赤ん坊をお腹に入れるのは、ひどく大変なんだよ。そこまでしてあげる義理はないよ。それに、赤ん坊は苦しいだけ。私が付いている限り、消滅したりはしない」
ヴェロニカは小さな存在が入った箱を見ながら、告白した。
「妊娠も出産も、経験あるよ。私ね、出産の時に子供を残して、一人で死んだんだよ」
ヴェロニカが優しく箱を撫でた。
「私の子供は、誰かの手に頼らなければ、生きてはいけない。なら、私が他人の子供のために尽くさなきゃ、不公平だよ。善意のタダ乗りはできないし、子供に会った時、胸を張れないよ」
ヴェロニカのパートナーは、おそらく、子供を望んでなかったのだろう。だから、ヴェロニカは一人で無理な出産をして、命を落としたのではないか。
ザフィードが誰かを待っていたように、ヴェロニカもまた再会を待っているのだ。
アナンは確認した。
「サイドカーから荷物を全部、下ろせば、ヴェロニカを乗せられる。けど、船着場までは遠い。その間ずっと、ヴェロニカは苦しい思いもするよ。それに、一度でも始めたら、どれほど苦しくても、船着場までは我慢してもらわなければならない」
ヴェロニカは気丈に微笑んだ。
「経験がなければ、不安だけど。どれくらい大変かは、経験しているから、大丈夫よ」
ヴェロニカは赤ん坊が入った箱を見詰めた。
「可哀想なのは、この子だよ。今まで温かく暗いとこにいたのに、暑さ寒さが急激に変化する、明るい場所に独り連れてこられた。誰も、抱きしめたり、護ったりしてくれない。不安で不安で、いたたまれないよ」
昴はヴェロニカに尋ねた。
「子供を運ぶのはいいけど、店のほうは、どうする? マスターを起して、許可を取るかい?」
アナンが歯を見せて笑い、力強く宣言した。
「もう夜も遅いから、起さなくてもいいよ。それに、マスターなら理解があるから、大丈夫。もし、そんなわからずやなら、理解させるまでさ」
アナンはヴェロニカに、出産をケアする助産師のように優しく指示した。
「わかった、じゃあ、カウンターに腰掛けて」
アナンはヴェロニカに指示を出すと、昴のほうを向いて厨房を指した。
「さあ、男の人は立ってないで、あちらに退場」
4
昴は厨房の中で、椅子に座って思考した。
正直、ヴェロニカが赤ん坊を引き受けたくれたので、心の荷は下りた。赤ん坊もまた、昴を助けるために、苦難を強いられた存在だ。
「俺を助けるために、赤ん坊が。赤ん坊を助けるために、ヴェロニカが。なら、俺はいつか、ヴェロニカを助けなければいけないのかな」
生きていた時なら、ヴェロニカが勝手にやったこと、物好きだと納得しただろう。今はとても、ヴェロニカの趣味だとは思えなかった。
「今度は、全ては花のために生きようと思った。でも、それじゃあ、いけないのか。いや、花のために生きよう。ただ、花を見るだけじゃない。今度は花にも、俺を見せよう。俺も花には自分を見せよう」
昴は誓った。
花が俺を裏切らないなら。俺も花も裏切らない。
しばらくして、アナンの昴を呼ぶ声がした。昴が戻ると、ヴェロニカはおらず、アナンが荷物を、カウンターの上に運んでいた。
昴は機敏に外に出て、荷物を下ろす作業を手伝った。
空には雲がないが、星も月もない。人魚亭から離れれば、真っ暗な闇があり、肌寒かった。
サイドカー上の荷物を全部すっかり運ぶと、ヴェロニカがゆったりした服を着て、大きなお腹で降りて来た。
昴は「ちょっと待ってて」と声を掛けて、すぐに厨房に戻った。昴は、残っていたパンをざく切りにして袋に詰め、甘い紅茶を水筒に入れた。
次に小走りに二階の昴の部屋に上がって、旅行鞄から薄手の黒いコートを持ち出してから下りた。
ヴェロニカが大きなお腹をさすりながら、母の顔でお腹に声を掛けていた。
「よし、よし、落ち着いたね。船着場まで一緒に行こうね。でも、不思議。あの子を入れていた時と、何も変わらない。あの子が戻ってきたみたいにすら感じられる」
昴は外で出発するのを待つヴェロニカに、パンと紅茶とコートを手渡した。
ヴェロニカは昴からの贈り物を受け取ると、昴に頼みごとをした。
「昴、マスターに事情を説明してくれますか」
「ああ、マスターなら、話せばわかってくれる。もし、夜の営業を続けても、俺がヴェロニカの分まで働くよ」
ヴェロニカの顔に、僅かに憂いの表情が浮かんだ。
「でも、そうすると、一日の大半を働くことになりますよ。大変ではないですか。無理をすれば倒れますよ」
「気にするな。体は丈夫なほうじゃないけど、過労で死ぬ事態にはならないよ。嵐の夜をずっと彷徨う経験をしたんだ。夜の店で店番するくらい、楽なもんだよ」
ヴェロニカがアナンのバイクのサイドカーに腰掛けて、微笑して声を掛けた。
「昴は、なんか、変わりましたね。丸くなったというか、猫のようになったというか。では、行ってきますね」
出発の時、アナンがエンジンを掛ける前に、何かを思い出したように昴に声を掛けた。
「あ、そうそう、伝承では、ペアノチアってね、二種類の種を付けるそうだよ。一つは普通の種で、もう一つは……。あれ、なんだったっけかな? まあ、この子を送った時に、一緒に注文を出して、詳しい情報とかあったら、聞いておくよ」
昴は、小さな光の点となり、荒野を走っていく、アナンとヴェロニカを見送った。
翌朝、目が覚めた昴は店に下りた。すると、相変わらずマスターが新聞が読んでいた。
アナンが店のカウンターに置いた箱の一つが、開いていた。どうやら昨日の荷物の一つは、マスターが読む新聞の束だったらしい。
昴はマスターに挨拶をして、昨日の出来事を説明した。
「――というわけで、マスター。ヴェロニカは船着場に行ったよ。夜の営業をするなら、俺が代わりに店に立つけど」
マスターは新聞を読みながら、平然と答えた。
「なぜ、昴が店に立つ? 夜の客は、アナンだけ。そのアナンがヴェロニカと一緒に船着場まで出かけたらのなら、ヴェロニカが戻ってくるまで、店を開ける必要はないだろう。他にしばらく誰が来るとも思えない」
昴は一応、尋ねた。
「マスターは、ヴェロニカが店を断りなしに休んだ件を怒っていないの。クビにしようとか、思わない?」
マスターは、知人からつまらない馬鹿話を聞かされたように、素っ気無く返した。
「思わないね。ヴェロニカは自ら歩けない赤ん坊の客と、アナンを送っていっただけだろう。ただ、送っていった先が、隣の船着場だっただけだ。常連客の送迎で、一々怒ってはいられない」
隣といえばその通りなのだが、昴が半日で辿り着けなかった。帰って来るまだどれくらい時間が掛かるかわからない。
マスターは問題だとは思っていないようだった。
5
ヴェロニカがいなくなり、七日が過ぎた。少年が荒野に戻って以来、人魚亭の周りには雲一つ出なかった。
午前中に、ザフィードの店で石油を汲み上げ精製する。午後には人魚亭に戻って、土を得るために水作りをし、鉢に水を遣る。
何の変化もない穏やかだが、平穏な日々。鉢からは一向に芽が出ないが、水を遣り続けた。ヴェロニカがいなくなっても、何も変わらない。
七日が過ぎてもと、マスターは特に何も言わなかった。昴はひょっとして、ヴェロニカが河を渡ったのではないかと思った。
河を渡ったのなら、渡ったでいい。幸せはどこに落ちているかわからない。
河のこちら側で待つのも、向こう側で待つのも、同じだ、ヴェロニカ自身が決めればいい。昴は黙って、花壇で花が咲くのを待つだけ。
昴は夕日をのんびり見ながら、一日の作業を終え、腰に手を当てて伸ばした。
店に戻ると着替えてから、マスターの店じまいを手伝った。
全てを片付け終えると、マスターが天井を見上げながら、誰に言うでもなく口を開いた。
「これは、一雨やって来るな。雨だとすると新聞が予測していた通りだな。上手い方向にことが運んでくれればいいが、こればかりはな、俺にはどうしようもない」
昴はマスターに尋ねた。
「低気圧の進行方向に問題があるんですか。天気図からすると、三途大黄河が氾濫する怖れがあるとか? 確か、倉庫に土嚢を見た記憶が。入口に積みましょうか」
発言して、不思議に思った。
確か、マスターは新聞に天気予報欄はないと言っていた。なら、なぜ雨が予測できたのだろう。勘だろうか。
マスターは動物帽子の視線を天井に合わせたまま、答えた。
「三途大黄河は、長雨では氾濫しない。別に店が水浸しになっても問題ないし、店が流されても、俺はなんとかする。だがな、俺にはなんともできない状況ってのもある」
昴はマスターが何を言いたいのか理解できなかった。考え込んでいると、マスターが珍しく、昴に視線を合わせた。
マスターは動物帽子を被っているのでわかりにくいが、帽子の奥の瞳には、ある種の優しさが見えた気がした。
「昴、人生は死によって一度は清算される。稀に清算しきれない状況もある。三途大黄河のこちら側では、清算しきれなかったものを救済するチャンスが訪れる。チャンスとは可能性なんだ。カンダタの前に垂れる一本の蜘蛛の糸だ」
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話は知っている。なぜ、今そんな話を引き合いに出すのか、皆目わからなかった。
天井を見上げてからのマスターは、なんだかいつもと違った。昴は黙ってマスターの言葉を聞いていた。
「お前に自覚がなくても、救済の機会が訪れる。機会が訪れたら、お前が誰になんと言われようと、判断しなければならない。いいな」
マスターは最後に念を押した。
昴が頷くと、マスターは背を向けた。
マスターが世界戦に望むボクサーを送り出す熟練トレーナーのように、最後に言葉を付け加えた。
「魂と向き合う優しさを忘れるな。苦しみが消えた時、三途大黄河は逆流する。俺が言えるのは、それだけだ」
6
昴がシャワーを浴びていると、普段は気にならない風の音が聞こえてきた。嵐を纏った少年が近くまで来ているのだろうか。
昴はすぐに、鉢を避難させた。
ヴェロニカが夜に一人で帰ってくるとは限らない。念のため昴は晩にヴェロニカが帰ってきても扉をすぐに開けられるように、人魚亭の一階に毛布を敷いて寝ようと思った。
昴は厨房側の明かりを一つだけ点けて、人魚亭の床に横になった。人魚亭の一階から見える空は、曇っていた。
雨が降り出し、人魚亭のガラスの天井を叩いた。雨音は段々強くなった。昴は目を閉じるが眠れなかった。
風の強い音が聞こえてきた。
人魚亭の樫の木の扉を叩く音がした。昴は、ヴェロニカが帰ってきたと思い、飛び起きて、人魚亭の扉を開けた。
すぐに、ずぶ濡れのヴェロニカが入ってきた。ヴェロニカは人をおぶっていた。ヴェロニカがおぶっていたのは、嵐を纏った少年だった。
ヴェロニカが人魚亭に入ると、崩れるように床に倒れた。少年も力なく床に転がった。
昴は大変なトラブルに発展すると予感し、怖れた。昴はすぐに怖れを頭から追い払った。
少年が引き起こす、深刻な事態になるのは、もう少し先。今は、目の前の疲弊した二人に処置をしなければ。
昴は急ぎ、ヴェロニカと少年の状態を確認した。
ヴェロニカは大きく息をして疲労していおり、少年はぐったりとして弱く息をしていた。
少年は前回に会った時よりかなり衰弱しており、ヴェロニカより重態だと思った。
死後の世界では、死ぬ事態に発展しないかもしれないが、放置すれば、どうなるかわからない。
昴は、すぐに行動に出た。
乾いたタオルと着替えを取りに、昴は足早に二階に上がった。昴の部屋にあったタオルだけでは足りないので、ヴェロニカの部屋に入った。
昴はヴェロニカの部屋に入ってすぐに、大きなB4版の紙に炭で描かれた、向日葵畑の絵に見とれてしまった。
おそらく、数秒間であろうが、目を奪われるほどに良い絵だった。昴は、すぐに我に返ると、一階に下りた。
ヴェロニカが少年の服を脱がしており、ヴェロニカ自身も濡れているのを構わず、まず少年の体を拭いた。
それから、ヴェロニカが「着替えてくる」とだけ弱弱しく言って、階段の手すりにしがみつくようにして、二階に上がっていった。
昴は一階の照明を全て点けてから、少年を毛布に包んだ。
ヴェロニカは少年が嵐を連れているのを知らない。きっと、嵐の中で少年を助けて、人魚亭に連れてきたのだろう。
少年は以前に会った時より、明らかに危険な状態だった。少年はどこか消えてそうな雰囲気があった。
昴は漠然と思った。
「死の次にあるもの、それは、消滅なのかもしれない」
長い年月が人が成長させるように、生きて過ごした時間が存在の強さを作るのではないか。
昴やヴェロニカのように二十年以上も生きた存在だから、異常気象にも苦難にも耐えられた。けれど、目の前にいる少年は、まだそれほど苦難に絶えられるほど強くなかったのだとしたら。
「危険なのかもしれないな」
7
しばらくすると、ヴェロニカが危なげに階段を下りてきた。
ヴェロニカが心配そうな顔を浮かべて、少年の横に座った。
厨房からマスターが大き目の深皿にスプーンを入れて持ってきた。皿の中には赤い液体が入っていた。匂いから推測して、なんらかのスープだろう。
マスターは「残り物のボルシチだ、喰え」と薦めた。
ボルシチスープは人魚亭では出していない。マスターはヴェロニカが帰ってきた時のために材料を取っておき、作ったのだろうか。
ヴェロニカは黙って深皿を受け取ると、ゆっくりスープを口にした。
ヴェロニカの体は大きくはない。外見だけ見れば、とてもじゃないが、少年をおぶって運べるとは思えない。
おそらく、少年を助けるために、かなりの無理をしたはずだ。
マスターは、ヴェロニカがスープを食べ終わるまで、近くの椅子に腰掛けて様子を見ていた。
マスターはきっと少年が嵐の原因である事実を知っている。となれば、マスターは少年を追い出そうとするはず。マスターは切り出すタイミングを計っているのではないだろうか。
少年を助けたい。マスターを困らせたくもない。ヴェロニカも傷つけたくない。昴は答の出ない葛藤を抱えて事態を見ているしかなかった。
スープを食べ終わると、マスターがヴェロニカに声を掛けた。
「その少年は、どうした。どうするつもりなんだ」
マスターはいつもと違い、不機嫌な様子で、口調にも棘があった。
ヴェロニカはマスターに弱弱しく頼んだ。
「嵐の中で倒れていたから、連れて来ました。介抱するつもりです。行くところがないなら、ここにおいて上げてくれませんか」
マスターは冷たく返事をした。
「置いておくことはできない。ヴェロニカ、嵐の原因を知っているか。嵐は、お前が連れてきた少年に付随して来ている。目が覚めたら、とっと出て行ってもらえ。少年がいると、他に人が寄り付けなくなる」
ヴェロニカが目尻を少し上げ、即座に反論した。
「人に嵐が付いてくるなんて、そんなこと、ありません」
嵐は視界を奪う。嵐の中なら人魚亭は小さな岩にしか見えないかもしれない。建造物であることする認識できなければ、人は来られない。
もし、アナンやザフィードに場所を聞いた人がいて、人魚亭に向かってきたと仮定する。
雨が降り続けば、三途大黄河は膨れ上がり、人魚亭に来た人を危険に曝すかもしれない。
人魚亭は死後の世界で迷える人を救う、道標的存在だ。少年一人のためにあるわけでもない。
マスターの立場から考えれば、嵐を纏っている少年を追い出すのは当然の発想だ。
8
昴は、納得できないでいるヴェロニカに声を掛けた。
「この少年が嵐を連れてくるのは、本当だよ。一度、俺が人魚亭に帰れなかった日があるだろう。その時に、少年と会った。嵐が少年の死を嘆き悲しむ母親のせいだと、少年も認めていたよ。ここでは、人の心が自然に影響するらしい」
ヴェロニカの顔が何か恐ろしい物を見たように変わった。ヴェロニカの顔を見て、昴は発言を後悔した。
ヴェロニカは出産の時に、死んだ。なら、ヴェロニカは、子供の生存をはっきりと知らない。出産において、母子が共に命を落とすケースもある。
ヴェロニカは、子供が無事だと信じたいと思っている。しかし、本当はわからない不安があるのではないだろうか。
不安や悲しみが愛する者を苦しめるなら、ヴェロニカは心に置き場に困るだろう。
先日の赤ん坊も、ひょっとしたらと、我が子と疑って体に入れたのではないだろうか。
ヴェロニカは黙って弱く息をする少年を見つめて「見捨てられないよ」とこぼした。
動物帽子で顔を半分ほど隠しているのでマスターの表情は本来なら読みづらい。
だが、マスターが人魚亭に来る大勢の人のために、進んで辛い役周りを演じているのは、明白だった。
マスターだって、本心では少年を助けられるものなら助けたいと思っているに違いなかった。
もしかしたら、マスターは時に辛い決断や悲しい決断をしなければいけない状況が、結構あるのかもしれない。
マスターの動物帽子は、ただの帽子ではない。相手の非難の視線から逃れるための防具でもない。人魚亭を預かる者として、責任を追う覚悟の証だと昴は思った。
マスターは立ち上がって、背を向け、少し怒ったよう口調で言い放った。
「まあ、好きにしたらいい。俺は喧嘩が、めっぽう弱い。力ずくでお前たちを放り出すことは、できないからな」
マスターは、がっしりした大男だ。本当のところ、腕力に物を言わせれば、ヴェロニカや少年を放り出すくらい、わけはないはず。
昴は自分の役目がヴェロニカと少年を説得して、少年だけを人魚亭から追い出すことだと感じた。マスターができないなら、昴自身がやるしかない。
ヴェロニカの説得こそ、マスターに対する恩返しだ。
ヴェロニカの説得は、とても難しい。それでも、少年が立ち去るのが、皆にとって一番良い解決方法だ。
少年の存在が希薄化していれば、もうここで追い出せば、二度と会うこともないだろう。昴の決断は、少年を荒野の彷徨う風にするかもしれない。
嫌な役割だと思うが、マスターには恩がある。
昴はマスターがいなくなると、一階の明かりを一つだけにした。人魚亭は薄暗くなり、僅かに届く光りが、横になっている少年の体に掛かっている。
昴は少年の横にいるヴェロニカの横に座った。
少年が目を覚ましてくれたら、納得してから出て行ってもらうつもりだった。少年は苦しそうに、時折ふっと寝返りを打つだけで、目を覚まさなかった。
ヴェロニカにしても、疲労しているであろうが、脇から立とうとしなかった。
昴はヴェロニカを気遣って、声を掛けた。
「ヴェロニカは疲れているだろ。眠ったらいい。いくらマスターでも、すぐに少年を追い出そうとはしないよ」
ヴェロニカは暗い顔をしたまま、何も答えなかった。激しい雨音だけが人魚亭の頭上から聞こえていた。
昴は再び口を開いた。
「なあ、ヴェロニカ。残念だけど、少年をいつまでもここに置いておくわけにはいかないんだ。それは、わかるだろう?」
ヴェロニカの白い顔が、よけい白く見えた。ヴェロニカがやっと話し出した。
「この子は、昴によく似ているね」
少年を見たが、昴はそんなに似ているとは思えなかった。ヴェロニカが同情を引こうとしているのだろうか。
ヴェロニカが少年を追い出せない気持ちは、わかる。おそらく、ヴェロニカが産んだ子供と目の前の少年が重なって見えるのだろう。
昴はヴェロニカを、ゆっくり説得に懸かった。
「この子が、日本人とウクライナ人のハーフだと思った。もし、そうだとしても、年齢からいって、ヴェロニカの子供には思えないよ」
ヴェロニカが少年をどこか悲壮な視線で見ながら、薔薇の棘で刺すように聞き返してきた。
「なんで、私がロシア人じゃなくて、ウクライナ人だと思ったの」
昴はできるだけ優しく答えた。
「ヴェロニカは、ライムギ・パンをウクライナ・パンと区別できた。生まれた家の近くに向日葵畑があるって言ったね。ウクライナには、多くの向日葵畑がある。向日葵はウクライナの国花なぐらいだからね」
ヴェロニカが顔を下に向けて、押し黙った。ヴェロニカは悲しい記憶を思い出しているのだろうか。
悲しくても、思い出してほしい。記憶を思い出せば、きっと何が大切かを思い出し、決断できだろうと昴は思った。
ヴェロニカが小さな声で聞いた。
「ねえ、昴、この子を助ける方法は、ないの?」
9
ザフィードから聞いたので、少なくても助ける方法は三つある。が、ヴェロニカに全てを教えるのが躊躇われた。
昴は「三途大黄河の身を投げる」という選択肢以外の、「母親が少年と再会し、互いに互いを思いやること」「神様が助けてくれる」の二つを、ヴェロニカに教えた。
もし、三番目の方法を教えれば、ヴェロニカは目の前の少年のためには実行しなくても、産んだ子供のために河に身を投げるような気がした。
ヴェロニカが黙ったので、昴はヴェロニカが諦めるだろうと考え、決断の時を待った。
ヴェロニカにはヴェロニカの大切に思うものがあり、人魚亭にいる。ならば、人には人それぞれ大切なものがある事実に気がつくのだろう。
ヴェロニカはもう子供ではない、全ては思い通りにいかない世の理もわかっているはずだ。
ヴェロニカは今回の決断で心に傷をおうかもしれないが、きっといつの日か我が子に会えば、きっと立ち直れる。立ち直るまでは支えてやろう。
やがて、ヴェロニカが立ち上がったので、腹を決めたと思った。
あとは、ヴェロニカが眠っている間に少年が起きたら、店から出て行ってもらうだけ。
ヴェロニカは思い詰めた表情で少年を見ながら、意外な言葉を口にした。
「私、河を渡る。河を渡って、神様の所に行って、この子を救ってもらう」
ヴェロニカは昴と同じく河を渡るのを拒んでいた。河を渡れば子供に会うチャンスがなくなると、ヴェロニカが感じていたからだろう。
昴はすぐに、確認した。
「ヴェロニカは、ここにいれば子供に会えると思って、待っているんじゃないの? 今ここで河を渡れば、会えなくなるかもしれないよ」
ヴェロニカは昴を見て、悲しみを帯びた微笑を浮かべた。
「昴は人間に興味がないようで、案外と色々な人を見ているんだね。私も河を渡れば、私の子供にいつ会えるか、わからなくなると思うよ。でも、今この子には私しか頼る人間はいないんだよ」
ヴェロニカは確認するように、もう一度、言葉を口に出した。
「そう、河の向こうに行ったら、もう子供には会えなくなる気がする。でも、いい、私は河を渡るよ。きっと、それが、私がしなければいけないことだから」
ヴェロニカがなぜ、そこまで他人のために尽くそうとするか、昴には皆目わからなかった。
昴は同時になぜ、ヴェロニカに「好きにすればいい」といって送り出そうとしないのか、少なからず動揺した。
ヴェロニカに恋愛感情がないのは確かだし、ヴェロニカは他人だ。他人にあまり干渉しようとは思わないはずなのに、ヴェロニカを引き止めたい昴自身が、心の中にいた。
昴が昴らしくない心に戸惑っていると、少年が寝返りを打って「お母さん、ごめんなさい」と呻いた。
少年はとても苦しそうだ。でも、助けを求める言葉を聞いた覚えがない。少年もまた、昴自身と同じく、他人の手を借りたくないと思っているのだろうか。
同じなら、理解できる。他人の助けを求める言葉を口に出さないからといって、助けが不要なわけではない。
昴が動揺していると、ヴェロニカが立ち上がって、二階に向った。おそらく、ヴェロニカは河を渡る準備をしに行ったのだろう。
一度、アナンに船着場まで一緒に行ったのだ。ヴェロニカはもう、一人でも船着場に到達可能だ。アナンからも切符を買う方法を聞いているかもしれない。
今ここで、ヴェロニカが出て行けば、ヴェロニカは確実に河を渡り、人魚亭には戻ってこない。
ヴェロニカを停める言葉はない。あるとすれば、行動のみ。行動とは、三途大黄河に飛び込むこと。
昴はついに、頭がおかしくなったと思った。人と距離を置き、花を愛してきた自分が、ついには他人のために河に身を投げると本気で考えた。明らかに異常な思考だ。
異常な思考だが、もうヴェロニカと少年を救う道は、自己犠牲にしか見出せなかった。
昴は訳のわからない不安と苦しみに頭が掻き乱された。頭に手を遣り、押さえつけようとしたのに、混乱は治まらなかった。
頭の血流が悪い物質を運んでいるかのように苦しいと思った。