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第四章 罰を受け続ける者と、花の種

第四章 罰を受け続ける者と、花の種


        1


 残念ながら、昴が植えた十六粒の種は、適度に水遣りをしたにもかかわらず、七日七晩が経っても、芽を出さなかった。大いなる落胆だった。


 朝顔なら早ければ、植えてから三日目ぐらいで、芽を出す。

 死後の世界では生育が遅い可能性もあるので、水遣りを続けたが、昴の園芸家としての感が、種は発芽しないと告げていた。


 原因は全然わからない。


 昴は気落ちしながら、芽が出ない朝顔の鉢をじっと見ながら、悲しむ恋人に話しかけるように声を掛けた。

「いったい、なにがいけなかったんだい? 花を咲かせるのに、何が足りなかった? 愛かい? 愛なら、三途大黄河の大きさにも負けないよ。悪かったのは種播きの時機かい? なら、謝るよ。時間はたっぷりあるから、いつまででも待てるよ。好きな温度かい? 日向が駄目なのかい? 水が多すぎたのかい? 俺には全然わからない。頼むから、教えてくれ」


 声を掛けても、赤い土で満たされた鉢は、なにも変化がなかった。


 昴は一人、自問した。

「ライ麦がどこかで育つんだ。植物は育つはず。花が咲かなくても、芽も出ないなんて事態は、異常だ。何か原因があるはずだ。原因は、なんだ? 土か?」


 鉢の土を一摘みすると、舌の上に載せて味を見た。

 昴は花を育てる時、土を舌に載せる行動を時折やっていた。


 周りの人間からは、とても奇異な目で見られた。でも、昴には分析機器がない場所では、土の味で、土地の性質がある程度までは判別できた。

 舌に載せた土の舌触りと味から、単なる痩せた土で、特段これといった塩類もなく、問題は感じなかった。


「土が問題ないのか。なら、水か。三途大黄河には植物を芽吹かせない、成分が含まれているのか」


 考え辛かった。昴は毎日、濾過した水で紅茶を淹れて飲んでいる。有害な成分が入っていれば、体調が変化するはず。


 百歩譲って、体が死んでいるので影響がなくても、毎日こうして紅茶を飲んでいる。水が重金属類のような物をを多く含むなら、紅茶の色が影響を受けないのはおかしい。


 コツがあるなら、知りたい。マスターやザフィードは花を育てた経験がないので、知るよしもない。あれば、きっと教えてくれるはず。


 昴は落胆しつつ店の中へ戻った。いつもどおり、人魚亭を出ようとすると、マスターが昴を呼び止めた。


 マスターは麻製の手提げ袋を昴に差し出した。

「昴にやるよ。まあ、なんだ。季節外れのクリスマス・プレゼントだ。必要になるから、持っていけ。きっと、お前が前に進むのに役に立つ」


 クリスマスとは、意外な言葉だった。

 昴にとってクリスマスといえば、サンタクロースでも、ケーキでも、プレゼントでも、樅の木でもなかった。クリスマスとは、ポインセチア、バラ、カーネーションの赤い花が街を飾る日だった。


 昴はなんとなく、クリスマスは単なるプレゼントの理由かもしれないと思った。花が街角を彩らないクリスマスに興味ない。ただ、マスターのプレゼントには関心があった。


 受け取って中身を確認すると、中身はライ麦パンと、以前にアナンが掛けていたのと同じ、砂避けのゴーグルだった。


 ラッピングもない、味も素っ気ないプレゼント。見方によっては不思議な贈り物だ。

 ザフィードの店に通うようになってから、弁当を渡された経験はなかったし、必要ともしていなかった。


 渡されたライ麦パンは、明らかに一人分の弁当にしては量が多かった。


 砂避けのゴーグルにしても、くれた理由が不明だ。


 ザフィードの店に通い出してから、まだ竜巻はおろか、砂嵐にあった経験もなかった。おおよそ、必要だとは思えない。


 マスターの顔を見るが、マスターの顔は動物帽子に隠れて、表情が読めなかった。

 昴にはマスターの考えは皆目わからないが、素直に感謝の言葉を表した。


「マスター、プレゼントありがとう。日頃から感謝になっているお返しに、何か贈り物をしたいけど、今は渡せるものがない。花ができたら、リースを作って送るよ」


「ああ、いつになるか一切わからないが、期待しているよ。店に花がなくても構わないが、壁に花の一つがあってもいいと、最近は思うようになった」


 マスターは昴に背を向けて最後に「頑張れよ」と声を掛けて、店に戻っていった。

 昴は一応、ゴーグルを首から提げ、ザフィードの店に向おうとした。


        2


 外に出ると、その日は珍しく、空に多くの雲が出ていた。

 先ほど鉢を眺めていたときは見当たらなかった雲だ。


 昴は雲を見て、人魚亭に来た日の過去を思い出し、嫌な気分になった。

「空が曇るなんて、珍しい。天候が荒れると厄介だな。荒れれば、台風でもカスミ草のように可愛いと感じるほどに荒れる可能性がある。少し急いだほうがいいのかもしれない」


 空が曇るだけなら気にしないが、マスターが砂避けゴーグルをくれたのだ。今日の天気は、いつもと違うのかもしれない。


 砂嵐に遭えば、人魚亭からザフィードの店までの間、やり過ごす場所はなかった。

 もし、前回に遭遇したときのように、竜巻に遭って吹き飛ばされれば、もう人魚亭には帰ってこられない気がした。


 人魚亭は楽園といえない。ただ、心地よい住処なのは確かだ。せっかく手に入れた、安住の地から追い遣られるのは御免だ。


 天候が荒れそうだといって、仕事を休むのは、気が引けた。そこまで天気は悪くなかった。空は、たまたま曇っているだけなのかもしれない。


 昴が、ザフィードの店へ向かって道を急ぐと、空模様は段々怪しくなってきた。ザフィードの店に行くようになってから経験しなかった風も、出てきた。


 丘を越えると、アナンがバイクで丘を登ってくるのが見えた。


 昴はアナンに会うと、声を掛けた。

「おはよう、アナン。今日は珍しく天気が悪いね。こんな日は今までになかった。今日は神様の機嫌が、少し悪いんだろうか」


 アナンは、いつもなら砂避けゴーグルを上げて挨拶をするはずなのに、今日はゴーグルを外さなかった。


「おはよう、昴。ザフィードの店に行くなら、今日は急いだほうがいい。神様の機嫌はいいかもしれないが、今日はおそらく、嵐がザフィードの店の戸を叩く日だ」


 昴はアナンが珍しく、急いでいるのを感じた。天候が荒れるなら、すぐにアナンと別れたほうがいい。


 昴は不安になって尋ねた。

「嵐って、そんなに酷いのかい。竜巻が起きるとか。災害になるのかい」


「災害というほど酷くはないけど、かなりのものだよ。ザフィードには嵐を追い返したりはできないだろうから、避ける方法もない。もっとも、避けるべきだとも思わないけど。でも、外にいなければ、安全さ」


 昴は「ザフィードには嵐を追い返したりできない」とは、アナンがおかしな表現をするなと思った。


 アナンが、昴が口を開く前にアナンが早口に別れの挨拶を述べた。

「ごめん、昴。今日は、ちょっと急ぎの仕事があるんだ。荷物の性質上、嵐に遭遇するわけにはいかないから、これで失礼するよ。それじゃあ、魂と向き合う優しさを、お忘れなく」


「ああ。魂と向き合う優しさをお忘れなく。また、どこかで」


 昴は急ぎ立ち去るアナンを見送った。別れの挨拶として「魂と向き合う優しさをお忘れなく」と言われて、不思議な気分になった。


 嵐の日が来る日は、特別な挨拶をするのが、三途大黄河付近の習慣なのだろうか。

 確かに、自然の猛威と直面すると、人間は自分と向き合う必要せまられる事態もあるだろう。


 疑問が浮かんだが、ボーッと立っていられない。アナンが言うのだ。天候の悪化は確実だ。

 不安が頭を擡げたが、幸いそれ以上は、天候は悪化しなかった。


 ザフィードの店に着いた時には、昴は歩く速度を落とした。


 店ではザフィードが、いつもと違い、鉄パイプを方舟から荷車から取り出していた。

「風の贈り物を無駄にするのは申し訳ない。風車を使う準備をするから、鉄パイプを取り出すのを手伝ってくれ。慌てる必要はない。風が来るには、まだ充分な時がある」


 どうやら、初めて風車が動くようだ。確かに嵐は運送屋には天敵でも、風車には願ってもない恵みとなるのだろう。


 昴はすぐに、荷物を置いて、手伝った。

 ザフィードは昴に鉄パイプ運びを任せると、ポンプの動力を手動から風力に切り替える作業に取り掛かった。


 昴は、今まで動いたことのない巨大な鉄の風車を見上げた。

 風車は辺りに湿気がないせいか、錆一つ浮かんでおらず、ただ、鉄の巨人が来るなら来いと、風の吹くのを待っているようだった。


 風車が廻ると、人力で汲み上げるより、多くの石油を汲み上げることができる。大量の石油を汲み出せば、受け皿にしている容器では、すぐに一杯になる。


 強風下の作業では、石油が一杯になっても、容器を交換するのも容易ではないだろう。

 昴は鉄パイプを運び出しながら、ザフィードが何をするのか見た。


 風車から数メートル離れたとこに突き出している小さなマンホール大の栓の蓋をザフィードが開いた。


 石油の汲み出し口と栓を鉄パイプでザフィードが繋いでいった。


 昴は鉄パイプと栓を繋ぐ作業を、見様見真似で手伝いながら、ザフィードに尋ねた。

「真下に大きな貯蔵タンクでも? それとも、どこかの秘密基地にでも繋がっているんですか」


 ザフィードは、静かな職人のように仕事をしながら返事をした。

「アナンから聞いた話だと、栓から先には地下を通るパイプが伸びていて、運送業者の組合まで、繋がっているらしい。運送業者組合の建物がどこにあるかは知らないがね。とにかく、燃料を大量に必要としている人がいるのは確かだ」


 死後の世界の人間は呑気だ。風が吹くまで石油の輸送がなくても、燃料の供給に問題が生じないのだろうか。


 地下に埋めたパイプラインだと、漏れがあっても修理が難しい。

 ポンプの汲み出し口と、輸送管を鉄パイプで繋ぐと、風は強くなった。まだ、風車の羽は揺れるだけで、回転が始まらなかった。


 ザフィードは風車と栓を繋いだパイプを最後に手で触って確認した。

「昴、初めてなのに、ようやってくれた。漏れは全然ないようだ。上出来だ、さあ、我々は嵐から避難して、客人が来るのを待つとしよう」


 客人といっても、ザフィードの店も人魚亭と変わらず、アナンぐらいしか来ないと聞いていた。

 だとすると、燃料がちゃんと汲み出され、組合とやらに送られるのを、組合の人間が来て確認していくのだろうか。


 それとも、ずっと前から外せない約束があって、誰かが今日、ザフィードの元を訪ねて来るのだろうか。


        3


 ザフィードは、ミニチュア版のチチェンイッツアーの出っ張りに足を掛けて、昇っていく。

 建物には天窓の役目をする穴が空いているので、外から木の板を、しっかり嵌めた。


 ザフィードは室内に入ると、いつも天井から下げるランプより大きめのランプを、部屋の天井に吊した。


 死後の世界で酸欠になるのかどうか、知らない。

 部屋には窓を閉じても、葦で編まれた目の粗い網が填め込まれた、ザルのような通気坑が二箇所あるので大丈夫だろう。


 昴は天気が荒れてきているので、作業が済めばザフィードは帰宅を命令するかと思ったが、何も言わなかった。


 風力による汲み上げ作業が終わるまで待機が続くのだろうか。普段から勤務時間が短いので、長丁場の作業でも付き合うのは、やぶさかではない。


 ただ、人魚亭に来て以来、荒天に遭遇した経験がないので、いつまで天気が荒れ続けるか皆目わからないのが、心配の種だった。

 やることがない中、二人だけになったので、世間話でもしようかと思った。ところが、ザフィードは長椅子に横になり、目を瞑ってしまった。


 昴は赤く光る灯油ランプの明かりを見ながら、思った。

「ひょっとして、一日、二日くらい、外に出られない可能性がある。だから、マスターは食料を二日分くらい、持たせてくれてのかもしれない。まあ、普段が普段だから、泊り込みの作業でも、文句はないけど」


 風がかなり強くなり、窓を覆う木の板を小石が叩いた。風の音に運ばれて、大きな鉄製の風車が回り出す音が聞こえてきた。


 昴は人魚亭の花壇を思い出した。花壇にはまだ植物が生えていないので、心配はない。ただ、被った砂を避けてやればいい。問題は、鉢をしまい忘れたことだ。


 ヴェロニカには期待できないので、マスターが気づいてくれればいいが、望みは薄い気がした。

 風がさらに強くなってきた。窓に嵌められた気がカタカタと音を立て、風の唸るような音が聞こえてきた。


 昴は竜巻に遭った日の記憶を思い出し、不安になった。あのときも最初は、こんな状況だった。

 ザフィードの家は頑丈な石造りの家だ。とはいっても、もし天に達するような竜巻が起これば、ひとたまりもないだろう。雨でも降れば、半地下にあるザフィードの家は冠水する。


 昴は不安を、すぐに頭の隅に追いやった。

 ザフィードは六百年ここに住んでいるのだ。危険があれば、対策は採っているはずだ。


 目を瞑っていたザフィードが、昴の心の内を読んだように、急に言葉を発した。

「昴は不安かい。無理もない。天気が荒れるなんて、普通では起きない事態だからね。でも、ここじゃあ、必要があれば、空が荒れるんだよ。空が荒れて救われない存在もあるけど、誰かが救われているんだよ。天は、いつも正しい」


 ザフィードが何を言いたいのか、皆目わからなかった。質問しても、満足の行く答は返ってこないと思った。


 昴にしてみれば、空が荒れる理由は、熱の移動による大気の流動に過ぎない。

 意思があってとしても、天から見れば、人間なんて小さな存在。気に掛ける価値もないだろう。


 天候には愛もない。憎しみもない。カジノのルーレットの目のように人間の意志を離れて、運不運をもたらす存在だ。

 ザフィードはおもむろに起き出して、チャイの準備を始めた。チャイができる頃になると、風はとても強くなっていた。


 チャイの準備をするザフィードには悪いが、客人は、風が停まるまで来られないと昴は感じた。

 ザフィードが部屋の隅にあった行李を開けた。ザフィード古びた黒い外套を羽織、砂避けのゴーグルを装着した。


「風が強くなってきた。もう、そこまで、客人が来たようだ。迷っていたら可哀想なので、ちょっと、客人を迎えに行って来るよ」


 昴はザフィードの言葉に驚いた。外は見えないが、凶暴な風の音は聞こえて来る。外はかなり荒れているだろうし、砂埃が強く舞って、視界はほとんど利かないはずだ。


 昴は、ザフィードを止めようとした。

「それは、無茶だ。こんな嵐の中に出て行けば、ザフィードも遭難する。客人というのも、どっかで嵐をやり過ごしているんだろう。ここで待ったほうがいい」


 ザフィードは昴が止めるのも聞かず、心配ないとばかり微笑んだ。


 ザフィードが外に出ていこうとしたので、昴も一人で行かせられないと思った。昴も一緒に行こうすると、ザフィードは昴を手で制止した。

「昴は、ここで帰りを待っていてくれ。私は目があまり見えないが、勘が働くから、嵐の中でも家に帰って来られる。でも、昴は、そうはいかないだろう。昴と客人、バラバラに迷ったら、迎えに行く私の体が辛い」


 ザフィードは昴より歳を取り、体力もないが、経験があるから問題ないのだろうか。

 登山で荒天に会った時、体力自慢の素人より、経験を積んだ山男のほうが生還する確率は高い。


 窓の木を叩く小石の音が強くなった。

 昴はランプに照らされた灯りの中、ただザフィードを待ことにした。


        4


 嵐が更に強くなった。昴は一人で、ザフィードの身を案じながら、長い時間を待ち続けた。ちょっと外に出て様子を見ようかと思った時に、ドアが開いて、ザフィードが帰ってきた。


 ザフィードが帰ってきた時には、ザフィードと同じく黒い外套を羽織った少年を一人、連れていた。


 少年は中学生くらい。昴と同じく、スラブ系と日系のハーフだった。

 少年を見て、昴は少年を哀れんだ。この場所にいるなら、少年も、やはり死んだのだ。


 ザフィードが外套をコート掛けに掛け、少年から外套を受け取った。

 少年は赤いジャージに、スニーカ履きだった。


 おそらく少年は、学校の行事の最中か、課外活動中に亡くなったのだろう。

 昴は昔を思い出した。昴自身も同じくらいの年齢の時に、死にかけた経験があった。あの時は、運よく生還できた。


 目の前の少年は、昴が辿るかもしれない、もう一つの可能性だと思った。

 少年の顔には疲労が浮かんでいた。


 無理もない。激しい砂嵐の中を歩けば、消耗する。なのに、死後の世界では倒れることも、死ぬこともできない。

 ザフィードが砂糖のたっぷり入ったチャイを勧めると、少年は震える手でチャイを少しずつ飲んだ。


 昴は、持ってきたパンを、すぐに少年に勧めた。

「ライ麦パンがあるけど、食べるかい。歯応えがあって、酸味がある。好き嫌いが分かれるからもしれないが、中々いける。クセがあるかもしれないけど、美味しいよ」


 少年がコクリと頷くと、昴はザフィードの家の台所で、パンを切り分けて、少年に出した。昴は同時に、熱いチャィを淹れ直した。


 少年が「美味しい」と呟いてパンを食べているのを見ると、蕾がついた花を見るようで、なんだか愛おしく思えた。

 昴は、昴自身に似た少年に生い立ちや経歴を聞いたみたい気もしたが、止めた。少年に過去を振り返らせ、これ以上の辛い思いをさせる必要はない。


 昴は少年を責め苛んできた外の嵐に向って、忌々しく腹を立てた。

「全く、酷い嵐だ。いつまで続くんだ。春を呼ばない嵐に、本当にうんざりだ」


 少年がパンを食べる手を停めて呟いた。

「ごめんなさい。すぐ出て行きます。嵐は、僕に憑いてきているんです。嵐は僕に課せられた罰だから。罰はずっと受けいれなければならないんです。そう、お母さんが許してくれるまで」


 ザフィードが前に言っていた、嵐を纏う少年の話を思い出した。

 昴には少年がなんで罰を受けなければいけないか、わからなかった。また、受けなければいけないほどの悪事を働いたようには見えなかった。


 昴が少年に嵐について聞けずにいると、ザフィードが熱いチャイを飲みながら、少年の代わりに答えた。

「嵐は少年の母親が起している。いつまでも、子供を悪いものから護りたいという気持ちが、嵐となって少年を囲んだ。長く続いた母親の嘆きに、世に対する怒りが加わると、嵐の性質が変化し、少年をも傷つけるようになった」


 昴はザフィードが、世に対する怒りと表現したが、おそらくは少年を慮っての言葉だと思った。

 母親が少年を失った喪失感が時と共に、母親の無意識下で少年に対する怒りを含むようになったとしても、驚くに値しない。やり場のない感情は、いつしか歪みを伴う。


 少年はすぐに、ザフィードの言葉に異を唱えた。

「お母さんは悪くありません。全部、僕が悪いんです。僕がいけないんです。だから、お母さんは怒っているんです。僕を嫌うほどに。でも、いいんです。これでも、いいんです。たとえ、苦しい嵐でも、お母さんの思いだから」


 昴は過去を思い出した。

「なぜ、自分には両親がいないか。自分が悪い子供だから、両親が捨てた」と考えて苦しんだ経験があった。


 昴の周りには皆、理由があって親と暮らせない子供が多かったし、施設の人間は「昴は悪くない」と慰めてくれた。それでも辛かった。


 いつの日か苦しみは自然に消えた。けれど、少年には、支えになる人はいない。会ったばかりの昴が何を言っても、心に届くとも思えなかった。


        5


 昴は、何も言葉を掛けられなかった。

 ザフィードがいつも使っている長椅子から立ち上がった。ザフィードは天井からランプを下ろし、テーブルの上に置いた。


 ザフィードは床に広いゴザを敷いて横になった。

「疲れただろう。椅子で横になって休むといい」

「いえ、僕がいると、嵐が去らない。僕がいると皆さんにご迷惑が掛かります。すぐに、ここから出て行きます。僕は許されない存在。人を傷つける存在なんです。いないほうがいいかもしれないけど、僕がいないと、誰もお母さんの苦しみを受け取れる人がいないから」


 ザフィードは昴を見て「迷惑か」と、聞いた。


 昴は、すぐに口実を思いつき、少年を引き止めた。

「いえ、全然。アナンさんのところには大量に石油を運ばなければいけないけど、手押しポンプじゃ、汲める量が少なすぎる。まだ、嵐の力を借りて、風車を回し続けたほうがいい。今は、そう、じっくり待つときです」


 少年が風に揺れるススキのように、ふらふらと立ち上がり、小さな声で申し出た。

「なら、僕が床で寝ます。風を凌げるだけで、充分です。もう、誰にも迷惑を掛けたくない。誰も傷つけたくはない。もう、誰にも嫌われたくない」


 子供なら、もっと甘えていいだろうに。昴は少年が移動してくる前に、すぐに、ザフィードの横に寝転がった。

 床は冷たく、ゴツゴツとして硬く、寝るには不向きだった。なおさら、少年を床に寝かせるわけにはいかないと思った。


 昴は適当に言い訳した。

「いや、いいよ。椅子だと寝すぎて、起きた時に仕事が辛くなる。だから、仕事が残っているときは、後のことを考えて、いつも床で寝ることにしてるんだ。しっかり寝るときはきちんと、家に帰ってベッドを使うから、君は長椅子を使ってくれ」


 ザフィードと昴がゴザに寝転がってしまったので、少年の寝る場所は、ザフィードがよく使う長椅子しかなくなった。


少年は長椅子に横になる前に、俯きがちに大人びた礼を述べた。

「こんな僕に親切にしてくれて、お心遣いありがとうございます。できるだけ、早く眼が覚めるようにしますね」


 少年の言葉とは裏腹に、少年が椅子の背に顔を向けて横になると、よほど疲れていたのか、すぐに寝息が聞こえてきた。


 昴は少年に関して情報を、あれこれザフィードから聞きたかった。話が声が少年を起すのではないかと躊躇っていると、ザフィードからも寝息が聞こえてきた。


 昴は冷たく、ゴツゴツと硬い床では眠れないと思った。が、薄闇の中、風の音を聞いていたら、いつしか眠ってしまった。


 どれくらい、眠っただろうか、少年とザフィードの話声で目を覚ました。二人は長椅子に隣合うように座り、話していた。


 何を話していたかわからないが、昴が目を覚ますと、二人は話すのを止めた。

 外では相変わらず、風が吹いているらしく、窓に嵌めた木を風が叩く音が聞こえていた。

 昴が起き上がると、少年は再び黒い外套を纏った。少年はまた、あの嵐の中に戻っていくようだった。


        6


 昴は嵐の中に戻る少年が不憫になり、声を掛けた。

「何も急いで、嵐の中に戻ることはないだろう。まだ、チャイもパンを残っている。ゆっくりしていったらどうだい」


 少年は首を振り、少しだけ悲しそうに礼を述べた。

「いいえ、もう、充分です。ありがとうございました。僕がここにいると、嵐は留まって皆さんにご迷惑が掛かります。それに、たとえ、嵐でも僕にとって、お母さんとの絆なんです。お父さんは僕をいらないと思ったけど、お母さんはまだ僕を思っていてくれるから」


 昴は両親について思いを馳せることをしなくなったのが、いつかは覚えていない。


 両親を思い出させる物を、何一つ持っていなかった。だから、早く吹っ切れたのかもしれない。

 けれど、少年は違った。少年はこれからも嵐という形で、忘れることなく、悲しい思いと向かい合っていかなくてはならないのだ。


 少年が出て行こうとしたので、昴は呼び止め、今朝マスターから貰った砂避けのゴーグルを差し出した。

「待ってくれ。これを持っていくといい。少しは、砂が防げるだろう。俺には、ちょっとサイズが小さくなって、必要ないものだが、君にはよく似合いそうだ」


 少年はすぐに、砂避けのゴーグルを受け取らなかった。

「ありがとう、でも、僕にはもう、何も渡せるものがないんです。人から何か貰っても、僕には代わりにあげられるものはないから」


 昴は砂避けのゴーグルを少年の首から提げた。

「これはザフィードを通して貰った花の種のお礼だよ。俺は花が好きなんだ。もし、花の種があれば、また欲しい」


 少年はポケットを探るが、何も出てこなかった。

「あれ、おかしいな。砂嵐越しだったけど、とても綺麗な赤い花を摘んでポケットに入れたのに、なくしたみたいだ。それとも、風に取られたのかな。どちらにしろ、御免なさい。綺麗な花だからこそ、人にあげたかったのに」


 昴は直感的に少年が見た、赤い花こそ、前に死に掛けたときに見た赤い花と同じ物ではないかと思った。


 やはり、生涯に、もう一度お目に掛かりたいと思った。赤い花は、死後の世界に咲く花だ。


 昴は優しく少年に言ってきかせた。

「なら、君には、やっぱり砂避けのゴーグルが必要だ。今度はゴーグルをして、しっかり目を開けて、花を見るといい。もっとよく見えるよ。花の美しさは、しっかり目を開けてみなければダメだ」


 少年はゴーグルを掛けて、礼を述べた。

「ありがとう。今度は、もっと花をよく見ます。嵐に吹かれても大丈夫なように花を選んで、しっかりと握り締めて持ってきます」


「花が見られなくて、残念だけど、ないなら、なくてもいい。いつか自分で探しに行こうと思ってたところだ。もし、よかったら、また寄って欲しい。その時は、花のことを教えて欲しい」


 少年の顔に僅かだか、笑顔が差した。

「花が好きなんですね。僕も好きです。何か見ていると、落ち着くというか。そこだけ特別な、優しい場所を感じるんです。特に赤い花が一番いい。バラ、カーネーション、チューリップ、朝顔、皆、好きです」


 少年は一礼し、扉を開けた。外から、強い風が吹き込んできた。


 少年は出て行く前に昴に声を掛けた。

 少年はどこか、はにかみながら、控えめにお願いしてきた。

「一つ楽しみがきました。ご迷惑かもしれませんが、もしよかったら、今度また会った時、花の話をしてもらえませんか。ここら辺には花は咲いてないけど、話だけでも聞きたいんです」


「ああ、いいとも。花についてなら、三日三晩でも語れるよ」


 少年は黒い外套をさっと着て、そのまま外へ出て行った。


 少年が出て行くと、ザフィードが壁に向って「アッラーは偉大なり」と礼拝を始めた。

 昴は神を信じてはいなかった。ただ今は、座って立っての礼拝を繰り返すザフィードの後ろで、少年の嵐が止むようにと祈った。


 ザフィードは礼拝が済むと、すぐに長椅子に横になった。昴は向かいに座って、ザフィードに尋ねた。


「少年を嵐から救う方法は、ないのかい。母親には罪はないかもしれない。でもあれでは少年が可哀想すぎる。いつか、少年は風に吹かれる花のように散ってしまいそうだ」


 ザフィードが天井を見ながら、答えた。

「少年を救う方法は、三つある。一つ目は、母親が少年と再会し、互いに互いを思いやること。両者の思いが、両者を救う。二人が苦しみから解放されれば、嵐は止むよ」


 少年が中学生として、母親が寿命まで生存すれば、あと五十年は会えないだろう。

 もし、母親が早く死ねば、再会の時期は早まるかもしれない。母親が早く死ねば、今度は少年がとても苦しむ結果になるのは、目に見えていた。


 ザフィードが、目を救いを求めるよう細め、どこかで聞いているかもしれない神様に頼むように言葉を続けた。

「二つ目はアラーが奇跡を起こして、少年を救うこと。全知全能なる神ならば、少年を救える」


 二つ目の解決法は存在しないと、昴はすぐに思った。神様は人間の都合では動くとは考えられない。ザフィードを見ていれば、わかる。

 ザフィードは神を信じて、六百年ずーっと祈り続けても、神様はザフィードを救ってくれてはいない。


 死後の世界はあるので、神様はいるのかもしれない。が、少なくとも河のこちら側では、祈るだけでは救いは訪れない。


 ザフィードが三つ目の方法を伝えた。

「誰かが、三途大黄河に身を投げること。そうすれば、少年の母親の苦しみは、飛び込んだ者により引き受けられ、嵐は止む」


        7


 少年が去ると、風は徐々に穏やかになり、風車は停止した。


 外に出ると、新しい朝日が昇り始めていた。


 上り始めた朝日を見ながらザフィードが口を開いた。

「嵐は、過ぎ去った。また、新しい陽が昇る。熱くなる前に、配管を仕舞おう。今日の苦しみは、今日の苦しみだよ。明日からはまた平穏な日々が始まる。いずれ救済が訪れる。日々の勤めを果たしながら暮らすしか、我々にはできない」


 昴はザフィードと共に、風車に接続された鉄パイプを外し、方舟に戻す作業を開始した。

 作業をしていても、少年との出会いが頭を過ぎった。


 少年は一人で、嵐の中を再び荒野に戻っていった。倒れることも、死ぬこともできない荒野に。

 昴は、哀れな少年を助けられなかった非力さが、惨めだった。


 ザフィードの所にずっと少年を置いて嵐から匿うのは無理だ。石油の汲み出しは可能でも、精油作業ができない。

 人魚亭に泊めるのも、不可能だ。人魚亭にはやはり、苦労を重ねた他の旅人が、いずれはやってくる。人魚亭の周りがいつも嵐なら、人魚亭に向ってくる人を巻き込む事態になる。


 鉄パイプの撤去作業が終わったときには、すっかり風が止んでいた。


 昴が悩んでいると、ザフィードがまたも、昴の心を見越したように、声を掛けてきた。

「そんなに、他人のことが心配かい」


 心配だった。以前の自分なら、まず子供より、花の種を気にしただろう。だが、少年を見た時に、花の種に対する執着よりも、少年に対する同情が起こった。


 昴はザフィードに正直な気持ちを伝えた。

「ええ、心配です。おかしなことで。以前なら、すぐに忘れたでしょう。でも、まだ頭に彼の辛そうな印象が心に残っている。ここでは、人が少ない。だからこそ、人間一人一人に対して、強く共感するのでしょうか」


 ザフィードは天を見上げて、話し始めた。

「少し、年長者として、説教臭いことを言わせてもらおう。金を得るために平穏を失い、地位を得るために若さを失う。人は多くの物を得て、多くのもの失っていく。もちろん、家族や友情といった大切な物も多く得るが、死はそうして得た多くの物を、奪っていく。昴があの少年に見たのは、昴が昔に失ったもの、そのものだよ」


 ザフィードは昴に向き直り、皺のある顔で優しく微笑んで、言葉を続けた。

「心配は要らないよ、昴。あの少年は、きっと、救われる。私の目は、多くの光りを失った。だが、彼の将来が、朧げだが見えるんだ。救いがある未来だ。少年の救いも、昴の願いが叶う日もきっとやってくる」


 昴は「そうですね」と返事をした。けれど、ザフィードの言葉を信じてはいなかった。ザフィードの言葉は気休めで、神様が少年を救うとは考えられなかった。


 花の育成方法についても、いつわかるとも知れない。

 昴は撤去作業を終えると、人魚亭に戻って行った。外は日が昇り、熱くなってきたが、昴の心は日陰に置かれた石の裏のように、熱くはならなかった。


 人魚亭に戻ると、人魚亭、倉庫とも、嵐による損害はなかった。飛ばされたと思った鉢も、無事だった。

 昴は不思議に思い、鉢を持ち上げてみると、鉢の下に砂の薄い層があった。


 マスターが気を利かせて、嵐の間鉢をしまっていてくれたのだろうか。それとも、ヴェロニカだろうか。

 人魚亭に入ろうと正面に廻ると、河の上流に向かって走り去るバイクが見えた。アナンのバイクだと思った。アナンは悪天候の中でも黙々と仕事をしているように思えてならなかった。


 少年は可哀想だと思うが、嵐でアナンが苦労している事実を見せられた。アナンだけではない、嵐は人魚亭に関わる全ての人に苦難を強いるだろう。


 昴は花好きの、嵐を纏った少年とどう付き合うか、心が揺れた。


        8


 人魚亭に戻ると、ヴェロニカが珍しく起きていた。ヴェロニカは、銀色のメッキが剥げたスーツケースを持ってきた。


 スーツケースは、昴が竜巻に遭って紛失したものだった。

「おはよう、昴。少し前に、アナンが来て、旅行鞄は昴のじゃないかって、置いていきましたけど、昴のですか」


 中を確認すると、確かに昴の荷物が入っていた。アナンが偶然、道で落ちているのを発見して持ってきてくれたのだろうか。


「ああ、間違いないよ。俺のだ。ヴェロニカは、アナンを知っているの」


 ヴェロニカは愛想のいい顔で答えた。

「夜の、常連さんですよ。二日に一回は来ます。前は昼に来ていたけど、今は、昼は荒野を走り回って、探し物をしているそうです。アナンは『いやー、夜もやってくれて助かる』って言ってくれてますよ。もっとも、まだ夜には、アナン以外のお客さんは見えたことが全然ないですけどね」


 昴は、アナンが届けてくれたスーツケースを見ていて、アナンにとんでもない迷惑を掛けているのでは、という事態に気が付いた。


 昼間は探し物をしていると、アナンはヴェロニカに漏らした。

 アナンは昴を助けるために、河に流されてしまった荷物を、日中ずーっと走り回って探しているのではないかと思われた。


 だから、昴の荷物を発見できたし、休憩を取るのが不規則になったのではないだろうか。


 アナンの性格から推測して、仕事を休むとは思えない。日中ずーっと広い荒野を走り回り、夜に仕事をしているのだろう。

 アナンは走り回る事情を一言も昴には告げなかった。荷物を探しているのを昴に知られ、昴が気にするのを避けるためだ。

 アナンはお人よしではない、素晴らしきお人よしだと思った。


 アナンの性格から推測して、もし昴が聞いても、真実は教えてくれないだろう。

 昴はアナンの友情に感謝した。


 昴は事情を隠して、ヴェロニカに頼んだ。

「そうか。アナンには、荷物を見つけてもらったお礼を言いたいな。今度もし来たら、夜中でもいいから、起してくれないか」


 昴は紅茶を淹れて、残ったパンを食べてから、花壇を作る作業に戻ろうと思った。そこで、店に花があるのに気が付いた。


 花は本物ではない、厚手の漂白されていない紙に木炭で描いた、大輪のダ・ヴィンチ(ポインセチアの種類)だった。


 相手は白黒の絵だが、絵はポインセチアの特徴をよく捉えていた。

 昴が動かずに絵をじっと見つめていると、何かヴェロニカが声を掛けてきたので、昴は聞いた。

「これは、ヴェロニカが描いたの? よく描けているね。白黒だけど、ポインセチアが生き生きとした瞬間を、見事に切り取っているね。この絵は間違いなく、プロの仕事だ。ヴェロニカは画家か、それともイラストレーター?」


 ヴェロニカは少し俯き加減に寂しい笑顔で「画家ですよ」とだけ短く答えた。

 ヴェロニカの態度を奇妙に思った。絵を描いているのを生業にしている人間なら、褒められても、煮え切らない態度は取らない。


『やっぱり、私って天才よね』とか、『いい気になるな、お前に絵の何がわかるか』という態度を取られるなら。まだわかる。


 何か事情があるのだろうか。昴は改めて絵を見た。

 写実的に花を正面から捉えたので、絵が盗作である疚しい作品ではないだろう。


 昴は何も気付かないフリをして、ヴェロニカに気軽に頼んでみた。

「よく描けているね。これなら、有名画家の模写とかも、かなり上手くできるんじゃないかな。ゴッホの『向日葵』とか『ベヌアの聖母』とか、描ける」


 ヴェロニカは、すまなさそうに、断った。

「すいません、昴。向日葵自体は村に大きな向日葵畑があるので、得意ですが。ゴッホの『向日葵』は見た記憶があるので、なんとなく覚えていますが、『ベヌアの聖母』は見たことがないので、描けません」


「ふーん。残念。そういえば、外の鉢が、嵐に遭ってもなくなったりしなかったけど、マスターが避難させてくれたの?」


「鉢は、私が嵐の間、倉庫にしまっておいて、ついさっき出したところです」

 昴は「ありがとう」と答え、着替えるために階段を上った。


 階段を上がりなら、ヴェロニカに職業を朧げに推理した。

『ベヌアの聖母』は、ゴッホの絵じゃない。マイナーなレオナルド・ダ・ヴィンチの作品だ。『ベヌアの聖母』は、ロシアのエルミタージュ美術館が所蔵している。


 花でダ・ヴィンチを知っているくらいの画家なら、『ベヌアの聖母』がゴッホではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品と知っていてもいいはず。


 ロシアに住んでいた画家のヴェロニカが『ベヌアの聖母』を見た経験がないというのも、少々腑に落ちなかった。


「何か、事情があって、わざと知らない振りをしているのだろうか? いやいや、そうは思えないな」

 ポインセチアのダ・ヴィンチも描けている。見ないで描いたなら、普段ヴェロニカはよくポインセチアを目にしていたはず。


 ロシアでは、ポインセチアよりもバラのほうが人気が高く、レオナルド・ダ・ヴィンチという名のバラが存在する。


 もし、ヴェロニカがレオナルド・ダ・ヴィンチを知っており、ヴェロニカ自身で頻繁に花を買っていたなら、バラのレオナルド・ダ・ヴィンチを購入していたはず。

 つまり、ポインセチアのダ・ヴィンをヴェロニカが描いていたのなら、ポインセチアを贈っていた花を知る人物がいたのだろう。贈り主は絵に詳しい、洒落た人物なのかもしれない。


 昴はヴェロニカの仕事の内容を想像した。ヴェロニカの仕事はやはり、絵描きにしか思えない。

「絵描きは絵描きでも、表沙汰にできない絵か」


 もしかして、ヴェロニカの作品は、ある程度まで名声のあるロシア人画家の贋作として闇で取引されていたのではないだろうか。

 絵が疚しいのではなく、贋作画家として人生が疚しいのかもしれない。

 昴は一応の結論を得て、もうヴェロニカの仕事には触れまいと思った。


 全ては昴の想像だが、本当なら、触れる必要のない過去だ。

「ヴェロニカは、嵐から鉢を守ってくれた優しい女性。それでいいじゃないか」


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