第三章 天国にも石油は湧いていた
第三章 天国にも石油は湧いていた
1
昴は朝食を摂ると、まだ太陽が地平から頭を出さないうちに人魚亭を出て、新たな職場であるザフィードの燃料店に、向った。
暑い中を歩くので、ジーンズに長袖のシャツを着て、園芸の時に使う帽子を被り、首にタオルを巻く。
昴は人魚亭を出るとき、マスターの言いつけにより、飲料用の水が入ったタンクを背負い、手には燃料を入れてもらう金属製の容器を持っていた。
マスターの話では、人魚亭から三十分くらい歩いたところにザフィードの燃料店があるらしい。
朝早くに出発するのは、マスターの言う距離が大雑把なのも関係するが、ひょっとしてザフィードの店には花壇があるもしれないという期待が大きかった。
昴は歩きながら、まだ見ぬ花に胸を躍らし、歩き始めた。
「もし、花壇があったら、仕事の前に鑑賞させてもらおう。どんな花が咲いているのだろう。もしかしたら、真っ赤なサボテンの花が艶やかに咲いていたりするだろう。それとも、死後の世界固有の種があるのだろうか」
昴はまだ見ぬ花に夢が膨らみ、鼻歌を口ずさみながら歩いていった。
ザフィードの店は、河と逆方向。辺りには何もないので、真っ直ぐ進んで丘を下れば、盲人でもない限り、見過ごしはしないそうだ。
丘を登っていると、エンジン音が聞こえてきた。薄暗い丘の向こう側からサイドカー付きのバイクが姿を現した。バイクにはアナンが乗っていた。
アナンは昴の近くに来ると、砂避けのゴーグルを外し、心地よい顔で挨拶してきた。
「おはよう、昴。太陽が昇りきらない今ぐらいだと、涼しくていいね。私は今、ザフィードの燃料店から給油の帰り。昴が燃料タンクを持っているところを見ると、ザフィードの燃料店に買出しかい。ああ、そうそう、前に会った時は急いでいたから、お祝いしていなかったね。今度また人魚亭に寄ったとき、一杯ごちそうするよ」
昴はちょっと肩を竦めて冗談めかしく返した。
「じゃあ、奢ってはもらえないな。人魚亭はすぐに、新しく来たヴェロニカって女性とポジション争いになって、クビになったよ。これから、ザフィードさんというところに就職活動に行くところ。もっとも、ヴェロニカが来てから店は夜も営業するから、アナンにとっては悪い話じゃないかもしれないけど」
アナンは少し考えるような仕草をして感想を述べた。
「うーん、そうなんだ。だとすると。昴に悪いけど、夜でも人魚亭も開けてもらえると、今の私個人としても、助かるな」
昴には少し意外だった。
死後の世界は、すごくゆっくりしたイメージがある。朝から夜まで物流が絶えず動いている日本とは違うと思っていたが、アナンは夜も働いているようだった。
サイドカーに目をやると、何も荷物を積んでいなかった。今から、アナンの仕事が始まるのかとも思った。
本当は逆で、アナンは夜通し働いて、やっと帰宅するのかもしれない
まだ薄暗かったが、アナンの顔をよく見ると、目尻に少し疲労の色が浮かんでいた。
昴はアナンを気遣って言葉を掛けた。
「これから、帰りなのかい。運送業ってのは、随分と長く働くんだね。気付かなかったけど、今、死後の世界ではお歳暮やクリスマスのような、贈答イベントがあるシーズンなのかい」
「イベント・シーズンはまだ先かな。もっとも、生活が苦しいとか、センター長が人使いが荒いとか、仕事中毒ってわけでもないよ。仕事に責任とやりがいは、持っているけどね。ただ、まあ、ちょっと今は勤務外で、やることがあるんだよ」
アナンの言い方には、何か引っかかりを覚える。何かは全然わからない。ただ、アナンは今ちょっと大変なのかもしれない。
昴は、すぐに申し出た。
「何か、手伝おうか。働いてない今なら、まだ手が空いている。そりゃあ、就職が遅れれば、マスターには怒られるかもしれない。けど、アナンには世話になっているし、ザフィードさんにしても、今すぐ人手が必要というわけでもなさそうだ」
ザフィードの店に行かなければ、最悪、マスターに人魚亭から追い出されるかもしれない。
追い出されれば、生活設計が全て狂う。アナンのためなら、それでもいいと思った。
困った時は、困ってから考えよう。最悪でも、荒野の難民に戻るだけだし、竜巻や雹がないだけ、まだマシだ。
アナンは、少し困ったような笑顔を浮かべた。
「申し出ありがとう、昴。気持ちだけ、ありがたく頂くよ。勤務外の作業は、私の誇りと友情に関る事案だから、一人でやるって、自分に誓いを立てている。だから、手伝いは無用だよ」
誓いを立てているなら、試練に望む修行者のように他人の手を借りてはいけないのかもしれない。手を貸してアナンに迷惑を掛けるなら、歯痒くても、見守るしかない。
死後の世界で知り合ったアナンは、気が許せる友人みたいなものだ。
会ったのなら、もう少し話をしていたい。でも、特別な作業で疲れているなら、すぐに帰ってゆっくり疲れを癒してもらいたい。
昴はアナンを早く帰すために、話を切り上げ別れた。
2
人魚亭から歩いて三十分、小さな丘を越えたところに、ザフィードの燃料店はあった。
燃料店と聞いたから、古びた個人経営のガソリン・スタンドのような店舗を想像していた。
ところが、目に見えたものは違った。
まず、丘を越えて目に入ったのが、送電線用の鉄塔をさらに頑丈にした高さ二十メートルほどの高い構造物。
建物の中央には真下に昴の胴と同じくらいありそうな鉄パイプが延びており、天辺には大きな風車がついていた。
風車の動力で何かをするシステムらしい。今は付近に風は吹いていなかった。
鉄塔の横には巨大な魔女の大鍋のような容器と、人魚亭で水を作るのに使っている円盤状の容器があった。
鉄の風車の他に、離れた場所に高さ五メートルほどで、上部が切り取られたような三角形の建物があった。更に奥には、全長百五十メートルほどの真っ黒な方舟があった。
「燃料店というよりも、古代の遺跡の発掘現場だな。前方にあるのがミニチュア版のメキシコのチチェンイッツアー。後ろにはあるのは、ノアの方舟か」
ミニチュア版チチェンイッツアーはいいとして、砂漠にどうして船を造ったのかが、気になる。
もし、方舟が三途大黄河から流されて来たのならば、三途大黄河は一万年に一度くらいの割合で、とてつもない氾濫を起すのかもしれない。
昴は、辺りに花壇が放つ緑色を探した。
ところが、どこにも花壇らしき場所は見当たらなかった。サボテンもない。ザフィードの店は無機質な黒と赤しかなかった。
ザフィードの店に近付くにつれ、灯油のような揮発性燃料の匂いがしてきた。
昴は辺りから立ち込める臭いに不快感を覚えた。
「どうも、この灯油というか、ガソリンの臭いは、好きになれないな。まあ、花にやる肥料の臭いを嫌いだと言う人物も時にはいるから、臭いの感じ方は人それぞれだろうけど」
近付くと「アッラーは偉大なり」と唱える男の声が聞こえてきた。
声のした方角に歩くと、一人の砂色の作業着た日焼けした五十代くらいの男性がいた。男の顔には深い皺が刻まれ、頭は禿げており、顎に長い髭を生やしていた。
男は人魚亭より少し北の方角に向って座り、頭を下げて祈っていた。男がザフィードだと思った。
ザフィードという名前からして、相手が中近東出身の人間でイスラム教徒かもと漠然と思っていたが、どうやら当たりのようだった。
昴はザフィードが礼拝の余韻から戻り、立ち上がるのを待って、声を掛けた。
「ザフィードさんですか? 結城昴といいます。人魚亭のマスターから紹介されて、来ました。ここで、働かせて貰えませんか。燃料店で働いた経験はありませんが、仕事はすぐに覚えますよ」
ザフィードは黒い瞳でじっと昴を見て、優しい瞳で謙虚に答えた。
「おはよう、昴。いいとも、仕事を教えよう。どれ、まず背負った荷を下ろしないさい。疲れただろう。私が持とう」
ザフィードは腰が低く丁寧で、敬愛すべき人生の先輩といった感じだった。
昴は、雇用主であり、年上のザフィードに荷物を持たせるのを躊躇った。
「いえ、大した重さではないので、自分で運びますよ」と申し出て、荷物を背負ったまま、ザフィードの後に従った。
作業場を歩くと、他に人はいなかった。人魚亭もそうだったが、死後の世界では家族と過ごす人はいないのだろうか。
いや、おそらく、大多数の人は、さっさと河を渡ってしまうのだろう。河の向こう岸には、先に亡くなった、家族や共同体があるのかもしれない。
3
ザフィードは、ミニチュアのチチェンイッツアーのような建物に向って歩いていった。
建物の前には、地面が三メートルほど掘られており、階段になっていた。どうやら建物は、半縦穴式住居のようだ。
昴は、マスターが水を持たせた理由を理解した。
人魚亭が河の氾濫に備えた作りになっている。こちらは全く水害を想定していない。
ここら辺では、雨もろくに降らないのかもしれない。だとすると、よけいに黒い方舟の存在が謎ではあるが。
扉の前にあった灯油ランプに、ザフィードはライターで火を点けた。
ザフィードが扉を開けると、中は石造りの二十畳ほどで、背の高い質素な生活空間になっていた。
部屋の上部には、陽の取り込み口として小さな窓が四つほどあるが、まだ陽が高く昇っていないので、光はあまり入ってこない。
ザフィードは天井から吊り下がる釣鐘にランプを吊した。ボンヤリとした灯りが部屋を照らした。
部屋の中には水桶を備えた竈と、テーブルと椅子があった。
椅子は一人掛け用の物と、人が横になれるほどの長めの、長椅子があった。
奥にカーテンで作られた仕切りがあるので、おそらく風呂場か何かだろう。
昴は、人魚亭から汲んできた水を水桶に入れたら、すぐにでも仕事を始めるつもりだった。が、ザフィードは湯を沸かし始めた。
ザフィードは、悠然と竈で湯を沸かしながら、落ち着いた様子で歓迎の言葉を述べた。
「若者よ、そんなに急ぐな。楽しみを一つ奪わないで欲しい。まずは、客人にチャイを振舞わせてくれ。客人を持て成す行為は、その家の主の大いなる楽しみなんだよ」
昴は十五歳の時から働いていたが、若造呼ばわりされるのは、見下されているようで特に嫌だった。昴はさりげなく、ザフィードの言葉に異を唱えた。
「喉なら渇いていません。それに、若者というほど若くもないですよ」
昴の言葉に構わず、ザフィードはお茶の準備を続けながら、答えた。
「随分と率直に物をいうね。そうか、若者というほど若くはないか。悪かったな。実は、私は、目が良くないんだ。戦いの時に砲弾でやられてね。チャイを勧めるのは、これから一緒に働く人間がどんな物が好きで、どんな物が嫌いかを知っておきたいと思うからだよ」
昴は、ザフィードは面接試験しているのだと思った。
無理もない話だ。ザフィードにしてみれば、いきなり外国人の若者が、働きたいと言ってきても、「はい、そうですか」とは、いかないのかもしれない。
昴は一人掛け用の椅子に腰掛けた。昴は面接に向けて、心を堅くした。すると、ザフィードは、にこやかに語り掛けきた。
「そう堅くなりなさるな、たとえ、お前さんが異教徒だって、追い返したりしない。生前はまあ、かなり信仰の違いに気にしたが、ひたすら礼拝を繰り返した結果、今は他人がどうかが、あまり気にならなくなったよ。要は、自らの心の持ちようだ」
昴はザフィードの言葉に小さな疑問を持った。ザフィードは目が良くないと言ったが、「堅くなるな」と言った。つまり、僅かな昴の変化を見逃さなかった。
ザフィードの目は、それほど悪くないのかもしれない。現にお茶だって、一人できちんと淹れている。
目の前の爺さんは案外、喰えない奴なのかもしれない。
昴の考えを読んだかのように、ザフィードは発言した。
「ほら、また、緊張した。そう、警戒しなさるな。目が悪いのは、本当だよ。ここでは、長く暮らしていると、色々と感覚が変わってくるんだ。勘が良くなったり、人の持つ縁を感じたり、ね」
確かに、生前とは生理現象が違う。明らかに食欲が減った。人魚亭では一日二食パンを数切れと一杯の塩のスープを摂るだけで、腹は満たされる。
花壇を作るため、暑い中に外で作業をしていても、汗はあまり掻かなくなった。汗を掻かないのに、頭がボーッとしたり、熱射病には全然ならない。
死後の世界に体が馴染み出しているのだろうか。
ザフィードは、ティポットから茶葉を取り出し、大量の砂糖を入れた。
大目の砂糖が入ったお茶を、無骨な造りのマグカップに注ぎ、一つを昴に渡した。
4
ザフィードが、困っている問題解決策を聞くように尋ねてきた。
「では、まず、質問させてくれ。これは、よくする質問なんだ。私にとっては、初めて会う人にする挨拶のようなもの。そう、誰にでも尋ねる。では、聞くよ、トゥルコンスタンティニィアは陥落したか、マホメッド二世は今どうしているか、聞いてないか」
聞いた覚えのない都市名と人名だった。
昴は丁寧に応対した。
「すいません、ザフィードさん、花のことなら詳しいですが、トゥルコンスタンティニィアという都市についても、マホメッド二世という人物についても、知りません。中東には植物の買い付けには、時々行きました。だけど、人間にはあまり興味がないので、政治や著名人は知らないんです」
ザフィードは少しだけ落胆し、視線をお茶の入ったカップに落とした。
「そうか。いや、知らないならいい。私はね、マホメッド二世に忠誠を誓った、イエニチェリだったんだ。戦いの結果を知りたかっただけさ。別にもう、随分と経つから、勝敗がどうこういうんじゃない。ただね、どう決着したかを知りたかったんだよ」
ザフィードは気を取り直して、気さくに声を掛けた。
「まあ、知らないならいいさ。昴は花が好きなのかね。私は花の名前は、ほとんど知らない。花の記憶は、故郷に咲いていたラーレだな。ああ、日本ではチューリップというらしいね」
チューリップと聞いて、昴はザフィードの背景について大まかに理解した。チューリップはオランダの花と思われているが、原産国はトルコ周辺。
とすると、トゥルコンスタンティニィアと聞こえたのは、コンスタンティノープルを意味するのではないか。コンスタンティノープルは、今のイスタンブール。
なら、マホメッド二世は、コンスタンティノープルを陥落させた、オスマン帝国の王様だろう。
そういえば、王様にはイエニチェリという直属部隊がいたはずだ。つまり、ザフィードは約六百年前に死んでいる事実を示している。
昴の記憶では、マホメッド二世はコンスタンティノープルを陥落させている。
事実を教えようかとも思った。が、昴はザフィードの次の言葉を聞いて、迷った。
「私はね、人を待っているんだよ。もう、三十年くらいになるだろうか。あの人がいつ来るか全然わからないが、ここにいれば、いつか、きっと、待っている人に会える日が来ると思ってね」
真実を教えれば、ザフィードに六百年も経過している事実を教えてしまう。
六百年も待っているとなると、もう来ないということかもしれない。内容によっては、とても残酷な結果になる。
六百年もあれば、多くの人がザフィードの許に来たに違いなかった。
昴の他にも、ザフィードの背景に気付いた人もいるだろう。なのに、誰も教えなかった理由は、やはり簡単には教えられないと思ったのだろう。
昴は心に重荷を背負ったら、すぐに話して、荷を投げ出したい性格だった。話せばザフィードの心は重くなるが、昴の心は軽くなる。
昴は生前なら、話しただろう。今の昴は昴自身が心に多少重い荷を背負っても、簡単に人に重荷を渡す気にはならなかった。
ザフィードは身の上話をするが、昴は昴自身の過去を話さなかった。
ザフィードが信用できないわけではない。花の話なら何時間でもできる。身の上話はあまりした経験がない。
大抵、両親がいない事実を話すと話題が停まる気まずくなるので、話したくなかった。
昴が話さないので、会話が続かなかった。
会話が好きではないと伝わったのか、ザフィードは話を切り上げた。話は終わったが、帰りなさいといわれなかったので。面接は合格だったらしい。
5
仕事が始まった。仕事は燃料店の店員というより、石油採掘業に近かった。
油層は地下二十メートル以下という浅いところにあるが、圧力が弱いので、自然に吹き上がっては来なかった。
石油は、風車の下に取り付けられた、鉄製のシーソーのようなポンプで汲み上げられる。
風車には動力を伝えて、石油を汲み上げる機構も備わっている。ただ、ザフィードの店の周囲には、今は風が吹いていなかった。
ザフィードの話では、強い風は時折、吹くので、風が吹いた時だけ、風車を使用するそうだ。
風が吹かない時は、人力でシーソーのようなポンプを動かし、石油を少しずつ汲み上げなければならない。
ポンプを下げる時は、力と体重を込めて押さなければならなかった。
人力での石油の汲み上げは、今まで経験した中で、一番の重労働だった。昴は久々に息を切らし、汗だくなった。
ザフィードが、昴の汲み上げた石油をバケツに移しながら、のんびりと声を掛ける。
「そんなに早くやらなくてもいい。ゆっくりやれ。ゆっくりとだな。石油は逃げない。時間も、たっぷりある。気ばかり急いだら、太陽に笑われるよ」
昴は、思いついた考えを提案した。
「ザフィードさん、こっちの世界にもバイクがあるんだ。ここには、燃料となる石油も湧いている。ディーゼル式のポンプを使えば、もっと楽に大量に汲み上げられるんじゃないですか」
ザフィードは手を休めて、笑って答えた。
「そうだな。おそらく、アナンの奴に相談すれば、ディーゼル式ポンプをどこからか、手に入れて来るだろう。ディーゼル式ポンプがあれば、もっと楽に仕事ができる。だが、いいのかい、昴。そうすれば、お前は失業だぞ」
言葉がなかった。無理に効率化を求めれば、昴自身の首を絞める結果となる。
ザフィードの苦労を考えれば、機械化を勧めたほうがよい。ザフィードはディーゼル式ポンプの存在を知っていたので、導入したければ、いつでもできたのだろう。
ザフィードもマスター同様にこだわりというか、信条があるのかもしれない。
昴はザフィードに一応、確認した。
「いいんですか、それで。機械なら、ずっと多くの石油を汲み上げられますよ。石油を多く汲み出せば、価格が下がるかもしれない。価格が下落しても生産量を調整すれば増収になりますよ」
ザフィードが突拍子もない考えを聞かされたように、呆けた。
「石油は、腐らないが、飲み食いできないよ。そんなに大量に汲み上げて、どうするんだ。それに、一日に精製できる量は、限られている」
昴は原油からの精製作業がボトルネックになっているのかと思った。が、ザフィードの言葉の続きを聞いて、それ以前の問題があるのを知った。
「それに、常連は人魚亭のマスターと、運送屋のアナンだけ。使う量は、たかが知れている。一度に大量に作って、他の日を休むと、日々の勤労の調和が崩れ、いつしか怠けグセがつく。労働も生活の一部だ、バランスよくやらないと」
前提となる燃料の需要がなかった。人魚亭の電気と、アナンのバイクだけでは、一日に使う量なんて、昴の部屋のシャワータンクの容量よりも小さいだろう。
マスターもアナンも、燃料が量産できて価格が下がったとしても、設備を買い換えて、燃料を大量消費するとは思えない。
電飾に二十四時間ずーっと光り輝き続ける人魚亭なんか、あまり趣味がいいとは思えない。
商売なんて成り立たないと思った。すぐに別の考えが頭に浮かんだ。
そもそも利益を考えるなら、人魚亭のサービスも、アナンの運送業も成り立たない。
死後の世界の住人は利益なんて考えていない。皆、誰か他人のために働いていて、それで良しとして生きている。ここでは効率は、意味をなさない。
昴は全力でポンプを操る作業を緩め、優しく石油を汲み上げた。
6
ザフィードが「もういい」と合図したので、石油を汲み出す作業が終わった。
汲み終えた、黒っぽくて粘性が薄い石油は、魔女の大鍋のような容器に移され、溜まっていた。
鍋の底に蛇口のような部分がついているのを、昴は見つけた。
ザフィードが鍋に蓋をしたので、昴は「次に何をすればいい」か、と問い掛けると。ザフィードから「待つだけ」という答が返ってきた。
ザフィードはそのまま、家に帰って長椅子に横になろうとしたので、昴は尋ねた。
「待って。容器に石油を入れて蓋をするだけ。それだけでいいんですか? 他にすることは?」
ザフィードは長椅子に横になった。
「そう、待つだけ。石油には水が混ざっているんだ。一日ずっと静かにおいて置けば、水と油の層が分離する。次の日に下の水の層を捨て、精製する。精製した油は、金属製の円盤に入れて蓋をして、陽に当てて残っている水を飛ばす。そうして冷めたら、取り出す」
人魚亭では水を得るために、円盤を使っていたが、ザフィードのところでは、水を抜くために円盤を使っていた。
というより本来、円盤はザフィードの精油所で使っていたのを、人魚亭でも応用しているのかもしれない。
昴は長い待ち時間ができたの理解した。大鍋での作業が完成するのは明日。
今の円盤には夜のうちに、ザフィードが移した分離した石油が入っているのだろう。陽はこれから高くなり、熱が冷めて蒸留が終わるまで、最低十二時間は掛かるだろう。
石油の引火点はおそらく、四十~五十℃。冷える前に円盤を動かして、金属が擦れて火花が飛べば、引火する怖れがある。
働き出して二時間で、長い待ち時間になった。
昴は椅子に座って、まだ残っているお茶を分けてもらい、横になっているザフィードに聞いた。
「是非とも教えていただきたいのですが、ザフィードさんはどうやって、花の種を手に入れたんですか? 私は花に囲まれて息をして、眠る前の一日の終わりの光景を花で締める、そんな生活がしたいんです」
ザフィードは横になり、天井を見上げたまま、目を少し細めた。ザフィードが記憶を思い出しながらといった顔で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「花は、ここら辺には咲いていない。そういえば、花なんて、しばらく見た記憶もないよ。花の種は、嵐を纏った少年から、前にお礼として貰ったものだ」
希望が湧いた。とりあえず、花の種を持っている人物が存在するらしい。
案外、最初に降り立った荒野で、嵐に遭った時に見た人影が、ザフィードの言う嵐を纏った少年だったのかもしれない。
もう、相手が炎を纏っていようが、雷を纏ってもいても良い。竜巻に巻き込まれても死なないようだから、苦痛を伴う程度だ。花のためなら、火傷も感電もいとわない。
昴は次々、質問した。
「それで、少年は、また来るんでしょうか? 来るなら、いつぐらい? 何を持っていれば、花の種と交換してくれるんですか? 何種類くらい持っていそうですか? 花の育て方を、知っていそうですか?」
ザフィードは歯を見せて笑った。
「昴は、せっかちだな。まるで、大酒飲みのキリスト教徒が葡萄酒を求めるように、花を求めるな。まあ、私も改宗前はキリスト教徒で、葡萄酒を飲んでいたから、他人のことを言えんが」
ザフィードは憂いがかった表情で言葉を続けた。
「可哀想な少年は、また来るだろうさ。が、いつ来るかは、全然わからない。花の種を持っているかどうかは不明。こちらが何も差し出さなくても、昴が頼めば、きっと分けてくれる」
話が途切れたので、昴はザフィードに、待ち時間中に何をすればいいかを聞いた。横になったザフィードは、目を瞑って答えた。
「仕事は終わったから、帰っていいよ。マスターには誠実な男を紹介してくれて、ありがとう、と、礼を言っておいておくれ。もし、人魚亭に燃料を持って行くなら、資材倉庫裏に、貯蔵タンクがあるから、持って行きなさい」
資材倉庫とは、おそらく、方舟のような建物だ。三途大黄河を渡ってきたであろう、堅牢な船は、現在では倉庫となっているのだろう。
方舟には以前、何が積まれていたか少しだけ気になる。花がないなら、別に固執する必要もなかった。
昴は「他にすることは」と聞くと「ないよ」と静かに返された。
ザフィードの家を出ようとした時、ザフィードが思い出したように、声を掛けてきた。
「なあ、昴は、ここがどこだと思う。死後の世界なのは、間違いない。では、天国か? 少なくとも、七人の処女も、酔わない酒もなければ、果樹の一本も見たことがない。それでは、地獄か。確かに、ここは熱いが、身を焼かれはしない。恐ろしい蛇や蠍もいなければ、責め立てられるわけでもない」
昴がザフィードを見ると、静かに懺悔の問い掛けの答を待つ老いた男の顔があった。おそらく、ザフィードは会う人、会う人に、同じ問いをしているのだと思った。
昴は正直に、言葉に出した。
「天国や地獄が、単純な人間の想像の産物ではないでしょう。案外、河の向こう側には、そんな場所があるのかもしれません。でも、私にとって、天国も地獄も、今はどうでもいい。ただ、目の前に花があれば、それでいいんですよ。花から膨らみ続ける預金通帳の数字に目が行ったときから、私の破滅が始まりましたから」
ザフィードは再び目を閉じ、祈るように言葉を発した。
「そうかい。花が見つかるといいな。老人の説教だと思って、聞き流してくれていいんだが、花は野に咲くだけだとは限らない。花は人にも咲くものだよ。人に咲く花もまた、美しい」
人間を花に例える人間は多いが、昴にとっては理解しがたい言葉だった。花は美しく、人は醜い。花は命の結晶であり、人は欲の塊だ。
昴が何も答えないと、ザフィードが息をゆっくり吐くように話した。
「私は、次の祈りの時間まで、少し眠るとするよ」
7
昴は水を入れていた空のタンクを手に持ち、燃料の入ったタンクを背負って、人魚亭に帰っていった。
新しい職場での初日は、充実したものだった。人魚亭で働くのもいいが、ザフィードの店で働くのも、悪くない。
肉体的にはきついが、石油の汲み出しはいずれ、ゆっくりやっても三時間と掛からなくなるだろう。
ザフィードはほとんど汗らしい汗を掻いていなかったので、体はじきに慣れる。なによりも、ザフィードという人物の静かで控えめな物腰には、好感が持てた。
生きていたとき、人間はどこか好きになれなかった。別に周りが悪人だらけというわけではなかった。なぜか、どこかにフェンスを作って身を守らなければ、いけない気がした。
心のフェンスのがどこかが破れると、人は隙間から入ってきて悪意なく花壇を踏み荒らす獣に変わる。
昼夜を問わず、フェンスの周りを周回し、綻びがあれば修復する。獣がフェンスを齧っていれば、大きな音で追い返す。
そうして守った花壇だが、ときには、うどんこ病が白い斑点を撒き散らし、大切な花を腐らせる。撒きたくないと思いつつも、農薬を散布して防ぐ。
今度は、どこからかモグラが侵入してくる。モグラよけに、花壇には不釣合いな大蒜を植えたりしなければいけなくなる。
そんなふうに懸命に守った大切な花壇だが、気が付いた時には調和を失い、美しさが失われていた。
「人生のどこかで何かを間違えたいたのかもしれない。他に方法がなかった。ただ、汲々としていた。人魚亭の周りにはなぜか、焦りというか追い立てられる感じがない。人がいないというだけかもしれないが、何か違う気がする。ここは生きてきたのとは違う場所だ」
陽が高く昇り、雲一つない荒野をただ、人魚亭に向って歩いていった。
人魚亭に着いた昴はマスターに「ただいま」の挨拶をして容器を返却する。
マスターは相変わらず新聞を読みながらだが、声を掛けてきた。
「ザフィードの燃料店は、どうだった。やっていけそうか」
短い言葉だが、気に掛けてくれているのがわかった。動物帽子を被るのも、いつも新聞を読んでいて顔を上げないのも、マスターが他人に無関心なわけではない。ただ、気に掛けているのを知られたくないのかもしれない。
昴はマスターの優しさに気付かないフリをして答えた。
「石油の汲み出し作業は、ヴェロニカには辛いかもしれませんが、男の俺には、問題ないですよ。それに、花壇作りで外での作業には慣れているから、太陽に照らされるのは苦になりません」
本当の感想を言えば、燃料の臭いで少し気分が悪くなった。でも、話せばマスターが仕事を紹介してくれた好意に水を差す。
燃料の臭いは我慢していれば、いずれ、気にならなくなるだろう。
マスターは「そうか、それはよかった」と短く答えたので、昴は着替えて、水作りの作業に入った。
人魚亭ではもう働かなくても良いのかもしれない。ただ、今日はザフィードの燃料店で二時間も働かなかったので、気が引ける。
どのみち、泥を手に入れなければ、花壇の土壌改良が進まない。
単純作業は疲れ、飽きが来るのが常だが、昴は充実感を覚えながら作業をした。
生前は屋敷で実験ばかりしていたいために忘れてしまった、体を動かす喜びと、花を思いやる充実感があった。
河からバケツで水を汲み、人魚亭の裏庭の濾過装置に水を運ぶ。満水になると、日陰で、ひたすら泥が濾過されるのを待つ。
生きている時には無駄だと感じられた時間が、今ではとても安らかに感じられた。
裏口が開く音がした。振り返ると、ヴェロニカがジーパンに長袖シャツといったラフな格好で立っていた。
ヴェロニカが笑顔で挨拶する。
「おはよう。昴。私のために、水造りをやっていてくれたんですね。ありがとうです。ザフィードさんの燃料店での勤務は、午後からですか。でしたら、どうぞ少し休んでいてください。水造りは私が引き継ぎます」
水を作るのが目的ではない。必要なのは、分離される泥のほうだ。
別に、ヴェロニカに恩着せがましく嘘をついても良かったが、嘘を吐く気は、さらさらなかった。
「いや、もう帰ってきたところだよ。張り切りすぎて、今日の仕事は二時間で終わった。だから、こうして河の水を濾過している。花壇の土を改良するための泥を作っている。別に、ヴェロニカのためじゃないよ」
ヴェロニカが昴の横に腰掛けた。
ヴェロニカがちょっと憂いの含んだ表情で、躊躇いがちに質問してきた。
「ねえ、昴。人魚亭の水って何か、変わった味がしませんか」
土地が違えば、水の味も違う。植物に対しては、職人のように僅かな水の違いにも気を配ったが、昴が飲む分には軟水でも硬水でも、こだわりがなかった。
「土地が違えば、水も違う。消毒された水道とは明らかに違うけど、無いものねだりをしても、無意味だよ。慣れることだね。俺には気にならない味だけど」
ヴェロニカが水に僅かに残る土臭さを気にし、紅茶も好きではないなら、水を綺麗にするしかない。木炭があれば可能だ。
木炭には分子を吸着する作用があるので、泥臭さを除ける。確か、人魚亭の倉庫に木炭を見た記憶があった。
後で木炭をしっかり乾燥させて。ヴェロニカの用の飲み水だけ、一手間を掛けて濾過して作ってやろう。何回かやれば、ヴェロニカもいつか気付くだろう。
昴の思いとは全く別の言葉を、ヴェロニカが曇った表情で漏らした。
「そうですか、昴は気になりませんか。あのですね、塩分があるって言いたいんじゃないんですよ。三途大黄河の水って、涙を薄めたような寂しい味がしませんか」
理解し難い言葉だ。水は水、H2Oであり、それに、どれだけミネラルが溶け込んでいるかだ。涙だって、科学的に分析できる、寂しい成分なんてない。
もし、ヴェロニカの舌が寂しい成分を検知して水の味がおかしいと言うなら、木炭では解決できないだろう。
8
昴が答に窮すると、ヴェロニカが理解されない事態を察したようだった。
ヴェロニカの顔が人魚亭で働いているときのスマイルに変わり、少し弾んだ口調で質問を投げてきた。
「昴は水じゃなくて、土が必要なんですよね。でも、植物は土だけじゃダメなんでしょ。ほら、花には窒素、リン酸、カリって要素が必要なんでしょ」
花の種と鼠の糞の区別がつかないヴェロニカが肥料についての知識を持っているのは、オウムが『ロード・オブ・リング』の一節を口ずさむほどに驚きだ。
昴は、ヴェロニカの言葉に足りない要素を付け加えた。
「植物に必須なのは、三つじゃないよ。必須は十六元素。炭素、酸素、水素、窒素、燐、カリウム、カルシウム、マグネシウム、硫黄、鉄、マンガン、銅、亜鉛、モリブデン、ホウ素、塩素。ここでは、何が不足しているのか全然わからないから、何を肥料として加えればいいか、わからないけどね」
ヴェロニカは昴の知識に感心し、感想をもらした。
「植物に詳しいんですね。でも、ここには花が全くありませんよね。聖書が正しいなら、どこかにエデンの園があるかもしれませんね」
ヴェロニカが悪戯っ子ぽく微笑み、ちょっとからかうように問いかけた。
「昴はやはり、イブと二人で、エデンの園で暮らしたいと思いますか」
昴はアダムになったらと仮定して、少し考えてから、答えた。
「命の樹か。世界に一つしかない素晴らしい樹か。育ててみたいな。俺なら、実に養分が摂られて花が小さくならないように、実に変わる前に、咲き終わった花は、すぐに捥ぎ取るだろうね。だから、知恵の実は、ならないな」
昴はもし、エデンの園に住んでいたらと想像した。頭に花や樹木の記憶が浮かび、楽しい気分になってきた。
昴は滑らかに空想を捲し立てた。
「そうだな。命の樹の周囲か。まず、土の柔らかさと性質を確認して、樹と調和する花を探そう。エデン中を探して、気に入ったのを植えるね。次に適当な大きさの石を探して、周りを円形に囲んで花壇を作ろう。それが終わったら、東西南北に花壇を作ろう。そうすると、他の樹も移動させなければならないから、結構な時間が掛かるな。神様に肋骨をもう二本か三本ほど差し出して、スコップやネコ《土を運ぶ道具》を貰おう。ああ、とても、イブには構っていられない。イブに構わなければ、楽園から追放されないから、いいかも」
昴が一気に楽しい空想を話し終わると、ヴェロニカが口を結んで、渋柿と知らないで囓りついた子供のように、顔を歪めていた。
ヴェロニカは苦い顔で異を唱えた。
「それなら、きっと、楽園から追われます。イブは蛇に唆されて、知恵の実を育てて、齧るでしょう。イブは裸だと気付いて隠れますが、アダムは一切、気にしない。そのうち、恥ずかしがりながら、イブはもじもじと出てきます。しかし、土いじりをするアダムは、全く目もくれない。そのうち、段々イブは腹が立って、裸を隠さず、アダムの目の前に立つでしょう。でも、アダムから、花壇に入るなと怒鳴られ、ついに怒ります。イブは知恵の実を捥ぎ取り、アダムに力いっぱい投げつけ、アダムを殴りつけ、馬乗りになってアダムの口に知恵の実を押し込んで、二人とも楽園追放ですよ」
ヴェロニカの話を聞いて、ふと過去の一瞬が過ぎった。
「ああ、それは、あるかもな。女性は急に怒り出すからな。俺も女性に、庭になっていたリンゴを投げつけられた経験があるな」
ヴェロニカの顔に驚きの顔が浮かび、呆れたように声を出した。
「え、本当にあるんですか。いったい何をしたんですか」
「いや、なにも怒らせる行動は、していないよ。家に遊びに来たけど、庭仕事で手が放せないから自由にして、って言ったら、なにやら、ゴチャゴチャ話し出した。適当に相槌を打っていたら、大きな声を出して何か言ったから、気が付いてスコップを取ってくれって頼んだ。すると、その女性は乱暴にショベルを差し出したから、イラッとして『馬鹿、それはショベルだろう、俺の言ったのはスコップだよ』といったら、ヒステリックに怒り出して、庭のリンゴを次々に捥いで、全力で投げつけられたよ」
ヴェロニカは、息を吐いて、全くなっていないというような感想を述べた。
「それは、女性は怒りますよ。馬乗りになって殴られなかっただけ、よかったですね」
昴はリンゴを投げた女の気持ちが一切わからなかったが、ヴェロニカの言葉も全然わからなかったので、抗議した。
「おいおい、ショベルは足掛けがあり、掘る道具。スコップは足掛けがなく、掬ったり混ぜたりする道具。外見も違えば、用途もまるで違う道具だ。間違うほうがどうかしているよ」
ヴェロニカは立ち上がって、出来の悪い息子でも見るかのような表情で昴を見下ろし、去っていった。
ヴェロニカがなぜ去っていったのかは不明だ。別に気にはしなかった。女性とは、つくづく理解しがたい生き物だ。
昴は黙って、お宝のような泥ができるのを待った。
9
昴は午前中をザフィードの店で働き、午後から人魚亭の前の花壇を作るのに注力した。
ザフィードの所での燃料を作る作業も、人魚亭で水を作るのも、単調な日々だが、飽きは来なかった。
朝顔らしき種を植えてからいつ、芽が出るかと 期待に胸躍らせた。どの鉢からも芽が出なかった。
花壇の土は、かなり軟らかくなった。昴は将来、植えた植物の根が伸びてもいいようにと、深めに土を耕して、河の泥を加えた。
人手魚亭の周りの土は、土の団粒ができづらいために、土が水や空気を保持しない。本来なら、腐葉土、稲藁、水蘚を加えたいが、どちらも人魚亭では手に入らなかった。
昴はザフィードの店から帰り、花壇を整備していた。
辺りが赤くなってきたのに気が付いて顔を上げると、窓際に座って新聞を読むマスターが見えた。
マスターは一日中ずっと店の奥で新聞を読んでいる。昴が花壇で作業をしていると、必ずといっていいほど、窓を開けて窓際に座っていた。
昴は腰を伸ばして、マスターに尋ねた。
「マスター、新聞には、天気予報欄って、ある? 全然、雨が降らないんだけど。これは今年だけ? それとも天国にも、異常気象は存在するのかい」
マスターは顔を上げることなく、答えた。
「天気予報欄は、ないな。まあ、俺が記者なら観測せずに、晴れと毎日ずーっと書くだろう。百日中の九十八日までは晴れだから、晴れと書いておけば、それだけで的中率は九十八%だ」
雨が降らないのは、由々しき問題だ。
「それは、困ったな。雨が降らなくて、三途大黄河が干上がったら、花を育てられない。今のうちに貯水槽を掘って、水を溜めて置くべきだろうか」
マスターが鼻で笑った。
「水がなくなりゃ、花より先に、俺たちがミイラになって困るだろう。だが、心配は要らない。俺は、三途大黄河が干上がった光景は見た記憶はないし、新聞にも、そんな記事は載っていない」
昴はマスターの呼んでいる新聞が気になったので、それとなく聞いてみた。
「そういえば、マスターは、いつも新聞を読んでいるけど、配達って、いつ来てるんだい? 離島のように纏めて届くのかい」
「新聞は、アナンが不定期に、纏めてダンボールにどっさり詰めて持ってくる。日付もまちまちだが、問題はない。ここでは、時間は意味をなさないからな」
生きているときは、常に速度が求められる。
朝刊は、夕方には古新聞になっている。が、死後の世界では、違うらしい。いつのものかが皆目わからなくても、新聞は新聞といったところだろうか。
マスターが顔を上げた。
「ああ、そうだ。明日は日曜日だな、昴は、どこか出掛けるか。といっても、観光地なんて物はないし、市が立つこともない日曜日だがな。教会も河のこちら側にはないから、ミサもない。でも、日曜日は日曜日なんだ」
人魚亭にはカレンダーがないので、日付の感覚はなかった。
昴としては別に働いてもいいのだが、イスラム教徒なら、きっと日曜日は特別な安息日だ。
ザフィードの生活を乱すのは悪い。マスターが日曜というのなら、人魚亭も休みなのだろう。
日曜でも月曜でも、やることは一緒だから人魚亭にいようと思った。昴は、赤く染まった三途大黄河を見て、気が変わった。
河の上流には、植物がないだろうか。上流にあるという船着場近辺まで行けば、花があるのではないだろうか。
「そうか。なら、ちょっと遠出をしてくるよ。どこかに、植物が咲いているかもしれない。もし、花を付けない植物でも、育つ場所があれば、花を咲かせるヒントがそこにあるはず。全ては花のためだ」
10
翌日、昴は園芸用の帽子を被り、三途大黄河を上流に向って進んでいった。
昴は、河が逆流してもいいように、河から離れて歩きながら、何かしら草木がないか、探した。
日が高くなるまで歩いた。河を上流に向っても、タンポポ一つ見つけられなかった。
さらに歩いたが、ただ荒野の中を河が流れる風景が続いていた。
「どこまで行っても、同じ風景が続く気がする。川の向う岸も見えない。こうなると人魚亭の存在がどこまでも奇跡に感じられる」
真上から少し日が傾いてきた。残念ながら船着場も見えなかった。船着場に向う人にすら会わない。
詳しい距離はわからない。徒歩では一日くらいでは、どうやら船着場までは行けないらしい。
昴が上流を眺めていると、遠くから何かが近づいてきた。
しばらく眺めていると、動いているのは、バイクだった。誰が乗っているかはわからないが、そっとアナンのほうに賭けた。
昴は立ち止まり、答を待っていた。バイクも昴のほうに気がついたようで、昴に寄ってきた。やはり、バイクにはアナンが乗っていた。
アナンが砂避けのゴーグルを外して、爽やかに挨拶してきた。
「三途大黄河の周りを散策かい。たまには、何も考えずに三途大黄河の周を歩くのも、いいものだよ。何か思いがけない発見があるかもね。前に川辺に座り込んでいた数学者は新しい定理を発見していたよ。もっとも、説明されても、さっぱり理解できなかったけどね」
昴はアナンのサイドカーに目をやると、サイドカーには泥に汚れた箱や鞄が載っていた。
ゴミのようにも見えたが、ちゃんと集荷票が張られていた。
「俺は人魚亭が休みだから、俺は植物を探しながら、ぶらぶらしているだけ。人魚亭は日曜は休みだけど、アナンは日曜も仕事なの。運送業って過酷だね」
アナンが昴の視線に気がついたのか、サイドカーに目をやった。
困ったような顔を浮かべて、アナンは事情を説明した。
「今日は、特別勤務。上流の船着場でちょっと事故があってね。配達すべき荷物が河中に放り出されたんだよ。それで、皆で手分けして探しているんだよ。全部は無理でも、できるだけ回収しないと、私たちは荷物と一緒に送り主の心も預かっているわけだし」
死後の世界はのんびりしているので、事故が起きるとは、少し意外だった。船着場は毎日、大勢の人が訪れ、忙しなく日々行き交う場所なのかもしれない。人魚亭の周りだけ特別な可能性もある。
昴は一応、事故について尋ねた。
「事故って、どんな事故? 被害は大きいのかい? 犠牲者は、何人くらい? 人魚亭に、事故を逃れた人がやってきそう?」
アナンが昴の心配を打ち消すように、捲し立てた。
「いやいやいや、そんなに大きなものじゃないよ。荷物運び用の小型ボートと客船の接触事故が、時々あるんだよね。でも、客船は大きいから、沈んだりはしないし、ボートの乗員は泳ぎが得意だから、岸まで泳げたと思うよ」
大きな事故でなくてよかった。
昴はアナンに尋ねた。
「船着場って、遠いの? 事故に興味があるとかじゃなく、ちょっと行って見てみようかと思ったんだけど。ほら、船着場だと、花のプランターぐらいあるんじゃないかと考えていたんだよ」
アナンが親切に教えてくれた。
「船着場は、遠いよ。私のバイクでも、結構かかるよ。とてもじゃないが、日帰りはできないなあ。目指すなら、しっかり心を決めていかないと、大変だよ」
アナンの言葉で船着場に行くのは諦めた。どうしても行きたいというわけではない。
まだ、陽が高かったので、昴はアナンと別れて、船着場に辿り着けなくてもよいので、上流に向かって歩き始めた。
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しばらく歩いたが、何もなかった。
昴は人魚亭から持ってきた水筒から、紅茶を飲み、一息ついた。
砂糖の甘みが、ほどよく口に広がり、疲れを癒した。
収穫はゼロ、一日を無駄にしたとは思わなかった。暑い日差しの中、時間がゆっくりと流れていくのも、悪くないと思った。
三途大黄河を眺めていると、何かが撥ねた。
「大きな魚か。これだけ広い淡水の河で、大きな魚がいても、おかしくはない。人間には濁流に見えても、案外これで、魚には楽園なのかもしれないし、アマゾン川にもサメがいるくらいだからな」
人にそれぞれ幸せがあるように、魚にも濁流のほうが、かえってエサが豊富な楽園なのかもしれない。
次に、河の中から人の頭が見えた気がした。
「頭? まさか、流木だろう。でも、川辺に打ち上げられた木なんて、人魚亭に来てからは、見た経験がないな。上流には、やっぱり木があるんだろうか?」
見渡す限り荒野と河で、遠くに山は見えない。
次に、はっきりと人の腕が見えた。昴は人だと確信した。昴はすぐに事故の話を思い出した。
「ひょっとして、ボートに乗っていた人が救助されずに、流されてきたのか」
助けたかったが、どうしようもできない。
近くには手を貸してくれる人はいないし、ロープや浮き輪もない。
泳げるが、得意なほうではない。河の流れは速いので、助けに入れば、確実に溺れる。
昴は、どうしようとか慌てた。人は力尽きたのか、抵抗する様子もなく、すぐに沈み、見えなくなった。
見間違いかとも思った。けど、どうしても、人に思えてならなかった。昴は死後の世界に来て、初めて嫌な思いをして、帰路に就いた。
人魚亭に着くと、昴はアナンから聞いたは事故の話と見た光景を、ありのままマスターに話した。
マスターは、相変わらず新聞を読んだまま、感心がないように聞き返した。
「で、そいつは、下流に流されていったか。それとも、上流に上っていったか」
昴はマスターはおかしなことを聞くと思ったが、素直に答えた。
「逆流していなかったから、上流から流されてきたんだと思う」
「そうか。なら、やっぱり人だな」
人間と聞き、昴は言葉を失った。死後の世界で自殺する人間はいないだろう。
ずっと河で溺れる苦しみを味わうのだから。事故なら助けてやりたかったが、どうすることもできなかった。
マスターがちょっと顔を上げて、昴の苦い思いを他所に付け加えた。
「言っとくが、事故の犠牲者じゃないぞ。無理に河から引き上げると、恨まれるからな」
昴がマスターの言葉に疑問を抱いた。
マスターは、スプーン一杯ほどの悲しみと苦い思いを動物帽子に滲ませて、淡々と説明した。
「三途大黄河は、人間の悲しみと、苦しみが流れる河。死んだ人間は、基本的に生きている人間に、何もしてやれないが、例外もある。三途大黄河に身を投げると、他人の苦しみを引き受けることができるんだ」
だとすると、河を流れていた人は自らの意思で飛び込んだのだろうか。思い起こせば、河を流れる人は助けを求めているようには見えなかった。
「それで、河に身を投げた人間は、どうなるんだい。永久に流され続けるのかい。それとも、海に出る」
マスターは新聞の次のページを捲り、答えた。
「神様は、そこまで残酷じゃない。いずれ、引き受けた苦しみの消える時が来る。苦しみが消えた時が来ると、人は人魚になって、河を上る。だから、下流に流されていくのは人間。上流に上っていくのは、人魚だ」
昴は河の逆流がなぜ、「人魚が戻ってくる」と呼ばれるのか、理解した気がした。あの時に逆流は、誰かが苦しみから解放されて戻っていくところだったのだ。