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第二章 死後の世界も、まあいろいろと生活が安定しない

第二章 死後の世界も、まあいろいろと生活が安定しない


        1


 第二の人生、というより、死後の人生は、人魚亭の店員に決まった。接客は苦手で、生きているときなら、別の仕事を探しただろうが、今はここしかない。


 マスターがふらりと立ち上がると、奥に消えて鍵束を持って出てきた。

「二階の部屋が空いている。好きな部屋を使え。どの部屋でも変わらない。全部、生活に不自由しない上等な部屋だ」


 一階が上等だからといって、二階も上等だとは限らない。でも、住み込み従業員の立場では文句は言えない。


 もっとも、マスターの性格からして、掃除は行き届いてだろう。

「二階は、宿泊客用の部屋じゃないんですか。そこまで厚遇していただかなくても、物置で結構ですよ。なんなら、シンデレラのように、台所で寝起きしましょうか」


 マスターは、昴の申し出を一蹴した。

「おいおい、台所で寝起きって、それは、なんの嫌がらせだ? 客室には客がいないが、物置には、すでに物が入っている。それに、客室は掃除してあるが、物置は掃除していない。泊まり客なんて来ないんだから、どちらを使わせたほうがいいか、明白だろう」


 収益の上がる場所を、従業員のために消費する。マスターの価値観は、明らかに昴と違った。

 また、マスターはオーナーにも拘らず、誰も客がこない状況を見栄を張らず、あっさりと認めていた。


「それでいいのかい?」と念を押したいところだ。でも、いいのだろう。人魚亭は、そういう場所らしい。


 お客がほとんど来ないので、給料は望むべくもない。

 店にいる限り、餓えや渇きが凌げる。給与も、花の種や肥料が買えれば、それでいい。

 今の目的は、花のある生活だ。理想をいえば、花を育てて売って生活できればいいのだが、花の売買は難しい。なんせ、ここには人がいない。


 昴は階段を上がった。部屋は六室あったので、一番奥の部屋を使うことにした。

 鍵があるので、六室の全部を開けてみて、一室を選べた。が、選択はしなかった。人魚亭のマスターが上等というのだ。快適さはどれも同じだろう。


 もし、最悪の部屋を選んだのならば、むしろラッキーだ。マスターの大切な客に、より良い部屋を提供できる。


 部屋の広さは生前の屋敷と比べれば百分の一。問題は全然なかった。

 生前の屋敷は花を育てるためにあったようなものだ。実際の生活には、今こうして借りている部屋のスペースがあれば足りる。


 部屋の天井は、やはりガラス張り。天井には、巨大な砂色のロール・カーテンがついていた。もっとも、人魚亭の近くには、人魚亭以外の建物がないので他人目は気にならない。


「カーテンをしなくても、空に軍事衛星でも飛んでいない限り、覗かれる心配はないな」

 部屋には小さなバスやトイレがあった。もちろん部屋の天井も、ロールカーテンを備え付けたガラス張りだった。


 客室だけあって、生活に最低限必要なものは、全て揃えてあった。

 部屋を確認していると、扉が開いて、マスターが入ってきた。マスターは、海賊の宝でも入っていそうな、古く大きなチェストを手にしていた。


「困っているだろうから、これをやるよ。善意の塊だ。ヴィンテージ品とまではいかないが、悪くはないはず。人から物を貰うのが嫌いなら。支度金代わりだと思ってくれ。どちらにしろ、これは正当な報酬の先払いだ」


 宝箱の支度金は金銀ではなく、現物支給の衣類だった。

 箱の中には、サイズがちょうど良さそうなジーンズやシャツ、それに、下着があった。カバンは竜巻に飛ばされたので、着替えがなかった昴には、至極ありがたかった。


 同時に、不思議でもあった。マスターは昴より一回り以上も体が大きい。ならば、マスターの服のお古ではない。


「この服は、どこから? どこかに古着屋でも。それとも、マスターの手縫いですか。もし、糸から作っているなら、協力しますよ。綿花の栽培は、是非ともやってみたかった。綿花に必要な大量の灌漑用水も、人魚亭なら事欠かないようです。立派な綿花畑を作って見せますよ」


 マスターは踵を返して、部屋から出て行く時に答えた。

「生憎、そこまでこだわっていない。服は貰い物だ。店では時折、客が荷物を忘れていく事態が多々ある。そういう物は、喜捨として貰っている。意思確認はしていないが、どうせ、河を渡れば、もう戻ってこられないしな」


 では、河を渡らなければ、現世に戻れるのだろうか。

「おそらく、戻れないだろう」と昴は思った。他の人間なら知らないが、昴自身、戻りたいという欲求も、なぜか湧いてこなかった。


 昴は貰った服の臭いを嗅いだ。古い油のような臭いは一切しなかった。代わりに、お日さまの匂いがした。きちんと洗って、時折、日に干している証拠だ。


 マスターは大柄な人物だが、気遣いはとても細やかな人物だ。


 客は来ないのに、店の入口は掃き清められていた。

 部屋の掃除は、いつ人が来てもいいように、行き届いていた。

 衣類をなくした人のために、衣類も洗濯して準備してある。


 マスターは、夏の厳しい日差しから守り、食料を与えてくれる、ゴーヤのカーテンのような人だと思った。


        2


 人魚亭での一日は、とてもファジーだった。

 大体、日の出と共にマスターが起きてきて、朝食(といっても、パンとスープと紅茶だけ)を用意して、客を待つ。暗くなれば、店を閉めた。


 人魚亭には決まった営業時間がなかった。そもそも時計自体、店に一つもなかった。


 昴が、時計がないのかと尋ねると、マスターは天井を見上げて答えた。

「ここには、管理された時間なんてない。時の流れなんて、人それぞれさ。それに、贅沢なことに、必要な時間はお日様が逐一、知らせてくれる。時計は、お日様が引退するまで休業さ」


 確かに、日の出に合わせて起きる生活なら、出社、退社時間を気にしなくてもいい。超過勤務もないから、管理が必要ないのかもしれない。


 意外な事実が一つ。人魚亭には、なぜか、電気があった。

 夜暗くなり、人魚亭の一階にある照明が点いたのを昴が見上げていると、マスターが声を掛けてきた。


「客の一人が、アナンに発電機を注文したまま、河を渡っちまったのさ。苦労して運んできたアナンが処分に困っていたから、喜捨として貰った。そうしたら、電気工の客と大工の客が泊まった時があって、宿代として配線工事をしていった。俺はランプで充分だったが、客の中には燃料の臭いを嫌いや客もいるだろから、今は電気を使っている」


 人魚亭には善意が集まる場所なのかもしれない。生が人を変えるように、死もまた人を変えるのだろうか。

 電気は店の裏に隠すようにして設置してある大きな発電機に、黒とも茶ともつかない液体燃料を入れて作っていた。


 発電量は大した量ではないのだろう。人魚亭にはエアコン、電子レンジ、冷蔵庫がないので、発電量は問題ない。灯りがあるだけ嬉しい。夜でも灯りがある環境は、どこか安心する。


 昴の住む部屋を探してみれば、無骨な木製の埃止めの入った一箇所だけコンセントがあった。

 電圧、周波数、直流、交流、一切不明が不明。そもそも電化製品を持っていないので無用の長物だった。


 ただ、人魚亭には電気はあっても、水道がない。井戸もない。

 眼前には三途大黄河があるが、水はいつも濁っている。綺麗な水を作る作業が常に必要だった。

 昴の仕事は店の雑用と店の裏にある、単純な装置で綺麗な水を作る作業だった。


 まず、河の水を高さ二メートルほどのどんぐり型の円筒形の装置の上に入れる。

 円筒形の部分には、小石を除く篩と、泥や砂を除くための砂が詰まった、円柱容器がセットされていた。


 上からバケツで水を入れると、泥水が濾過され、濁りのない水が下の容器に溜まる。

 濾過した水は、掃除、洗濯、シャワー用に使っている。が、飲料に適さない。

 なので次に、濾過した水を、真ん中が凹んでいる直径五メートルほどの円盤状の金属容器に入れる。

 仕組みとしては、円盤状の容器の下に、濾過した水を入れると、日中の熱で金属容器が熱せられ、水蒸気が発生する。


 水蒸気は上に上がり、円盤状の容器の上の部分に付着する。

 円盤は真ん中が凹んでいるので、水蒸気できた水滴は容器の天井を伝わり、凹みに集まり、落下してくるので、飲料用の水が得られる。


 飲料用の水は微かに泥臭いので、飲むときは沸かして、紅茶にして飲んでいた。

 水作りは河から水を汲み上げて、容器に注ぎ込めば、あとは、ほとんど待ち時間となった。手持ち無沙汰な昴は、マスターに尋ねた。


「仕事に冬の時間が到来しましたよ。草木のようにじっと待つのは、さすがに気が引けます。なので、次の作業は何を」


 マスターは新聞を読みながら、顔を上げずに返事をした。

「なら、温かい春が来るまで待ったらどうだ? もっとも、人魚亭の周りは、いつも夏で、客足は乾季だがな。もう、生き急ぐ必要もないだろう。仕事がないときは、休憩したらいい。時間があるなら、裏の倉庫の整理でもしていたらいい」


 裏にある古い建物は、穀物庫ではなく、倉庫らしかった。もしかしたら、店の古さを考えれば、以前は穀物庫だったのかもしれないが。


        3


 今日も朝から、店を開けている。時間的にいえば、昼の二時過ぎなのに。店に来た客はいなかった。

 経営という観点から言えば、店が存続しているのが不思議だ。

 一般的な考えなら、税金を払ってでも、人を雇って、河の向こう側にあるという船着場付近に、ホット・ドッグと飲料のワゴンでも出したほうが儲かる気がする。


 昴は思いついた考えを、心の中で笑った。

「コスタリカの種メーカーとの新種争いで破滅した俺が、儲けでどうこうと考えるのがおかしい。採算を考えたら、まず俺を雇ったりしないよな。マスターは効率なんて、気にしない。死後の世界では、俺よりマスターのほうが正しいんだろうな」


 人魚亭の裏の倉庫には、鍵が掛かっていなかった。

「マスターの言葉だと、今いる場所は、天国に行く人だけではなく、地獄に行く前の奴も通るはず。悪い人間がいないとも限らないのに、鍵はなしか」


 昴は瞬時に思い直した。

「なくてもいいのかもしれない。飯もタダ、宿泊もおそらくタダ同然。マスターにとっては、物がなくなっても、果実が鳥に運ばれていく、くらいの感覚しか、ないのかもしれない。マスターは生き仏――違った、死んでいるから、正真正銘の仏だ」


 扉を開けて納得した。金目のものは何もなかった。金目のものは全然なかったが、昴は飛びっきりの宝物を発見した。

 倉庫には、大小のシャベルやスコップ、鋤に鍬、それに如雨露(じょうろ)や鉢などの、古い園芸用作業用具があった。他にも、花壇を作るためにのレンガや、花を倒れないようにするための、支柱まであった。


 人魚亭に園芸用具があるという事実から見て、以前は付近でも花が育てられたのだ。

 昴はもしやと思い、種を探した。残念ながら、種は見当たらなかった。


 種はないが、道具がある以上、やることは一つだ。

「園芸家には宝の山だ。俺は今、絶望の野で、百万の至宝の味方を手に入れた。あとは、兵糧となる種さえあれば、いつでも、この荒野に対して聖戦を始められる」


 昴は子供のように逸る心で、すぐに、園芸ファッションに着替えた。

 着替えて道具を取りに倉庫に再び戻ると、昴は人魚亭の裏口に金属製の十八Lタンクを見つけた。


 先ほどは、なかったものだ。昴が蓋を開けると、灯油のような匂いがした。

「いくら死後の世界でも、燃料缶があの忌まわしいウドン粉病をもたらすカビのように、湧いたりはしないだろう。発電機用の燃料か。マスターが置いたのか」


 付近に人気はない。燃料が入っている、密閉容器を日の強い外に出して置くのは、引火の危険性があった。

 昴は店の裏口から入って、日の当たらない涼しい場所に金属容器を移した。

 容器を移すと、早速、農作業に取り掛かった。

 種が手に入るのは先。でも、土作りは今からでも始められる。進捗を考えたら、種を手にしてから土作りでは遅すぎる。


        4


 天候が曇らないので、人魚亭は、やって来た時が嘘のように暑かった。

 花壇を作るのに、暑いのは苦にならなかった。死後の世界で、生き甲斐を見出すとは、おかしな話だ。


 昴は作業しながら感じた。

「生きていても、死んでいても、やりたいことがあれば人間幸せ。人は死ぬ前に『ああしておけばよかった』って後悔するけど、案外、死ぬ前に後悔するのは、死後に何をしたいかを明確に知るためかもしれない」


 作業が一区切りつくと、マスターが店の窓側の席に座って窓を開けて、新聞を読んでいた。おそらく、新聞を読みながら、昴が土を耕す音を聞いていたのだろう。


 昴は店の前に花壇を作る許可を貰っていなかったので、窓の向こう側にいるマスターに、許可を求めた。

「すまない、マスター。事後承諾になったけど、店の前に花壇を作ってもいいかな。作るからには人、魚亭を訪れる人の心に一時の安らぎを与えられる立派な物にするよ。だから、その、是非にも作らせてください、お願いします」


 マスターは相変わらず、新聞を広げながら、返事をした。

「人魚亭の外観が荒野に合うから、荒野に建っているわけじゃない。俺が荒野が好きなわけでもない。人魚亭がたまたま、この場所にあったから、ここにいる。周りがジャングルなら、ジャングルでも良かった。花壇を作りたいなら、好きにしたらいい。俺は拒絶もしないが、応援もしない」


 窓辺には素焼きのポットが置いてあった。飲めという意思表示だと思い、昴はポットから分厚いマグカップに水を入れて飲んだ。


 素焼きの入れ物に入っていた水は素焼きの細かい穴から僅かに染み出す。染み出した水は気化するときに熱を奪うので、中の水は熱くならない。


 水には僅かだが、塩分が入っていた。河の水に塩分は含まれていなかった。


 塩はマスターが外で汗を流して花壇を作る昴のために、加えてくれたものだろう。

「応援しない」といっているが、水の温度も、塩分も昴を気遣っての措置だった。

 昴はマスターの心遣いに感謝して、返事をした。


「もちろん、水作りを疎かにしない。人魚亭の周りの土は赤土。赤土は養分が少なく、微生物も乏しく、水捌けも悪い。おおよそ、植物を育てるには不向きだからね。窒素分の多い河の泥を集めて、混ぜて土壌改良が必要だよ。だから、土を得るためにも、水作りはきちんとやるよ」


 ホームセンターで売っている園芸の土は、赤土を赤玉土に加工して、水捌けを良くし、腐葉土や油粕を適度に加えたもの。赤土、単質とは全く違った。


 マスターが鼻で笑い、返した。

「人魚亭を開業して以来、いろんな奴を見てきた。泥を欲しがる奴は、初めてだな。そういえば、花壇を作ろうと言い出した奴もいなかったか。好きにしたらいい。ここでは、人と同じなんて、意味を持たない。もっとも、人の目なんて、ないけどな」


 昴は仕事に戻る前に燃料缶を仕舞ったのを、マスターに告げた。

 マスターは新聞を下ろし、立ち上がった。マスターすっかり忘れていたとばかり、裏口に歩いていった。


「ああ、そうか、燃料缶を置きっぱなしだったな。ザフィードの奴に飯を作っていたら、すっかり忘れてた。ザフィードってのは、ここから少し離れた場所で燃料屋をやっている男だ。数少ない店の常連。時折、やってきて、店で食事をして、代金代わりに燃料を置いていく。今度、紹介するよ」


        5


 翌朝早くに、店の開店準備をしていると、「マスター、ライ麦粉を持って来たよ」と元気の良い女性の声がした。


 声のした方向に視線をやると、アナンが肩に大きな厚手の紙袋を抱えていた。

 アナンが昴を見つけると、元気よく挨拶してきた。

「おはよう、昴。この時間に店の手伝いをしているところを見ると、人魚亭で住み込みで働くことになったんだね。おめでとう。人魚亭にはよく休憩に来るから、今後ともよろしくね」


 昴は恩人であり、人魚亭を紹介してくれたアナンに礼を述べた。

「おはよう、アナン。色々とありがとう。おかげで、時間は掛かっても、花に巡り合えそうだ。人魚亭の周りを綺麗な花で満開にする予定だから、しばらくここにいるよ。今度は何かあったら、言って。手伝うから」


 昴はライ麦粉を受け取ると、カウンターに置いた。


 アナンは腰につけた水筒を昴に差し出し、注文をした。

「最近、店で、ずっと注文していた小麦粉をやめて、ライ麦粉を使っているみたいだから、ライ麦パンに変わったんだよね。じゃあ、ライ麦パンと水を、テイクアウトで。ああ、ライ麦パンには軽く塩を振ってね」


 昴は少し不思議に感じた。


 小麦で焼いたパンより、今ここで食べているライ麦パンのほうが昴の口には合うからいいが、なぜ、店で出すパンの種類を増やすのではなく、変えたのだろう。


 てっきり、人魚亭では、パンはライ麦と決めているものだと思っていた。もっとも、単にマスターの気まぐれで、粉が最近になって変わったのかもしれないが。

 昴は人魚亭で食事をしてくれれば、はもう少し気の利いたサービスもできるので、店での食事を勧めた。


「人魚亭で食事をしていかないの。少し前にパンが焼けたし、熱い紅茶もある。パンにつけるオリーブ・オイルもあるし、今朝はマスターがスープを作っていたみたいだけど」


 アナンは、ちょっとだけ、すまなさそうな表情を浮かべ、事情を説明した。

「うん、できれば、ゆっくり腰を落ち着けて食べたいけど、今朝はちょっと忙しくなりそうなんだ。だから、運転しながら食べられるパンと水だけでいいよ。マスター、お手製スープは、またあとでご馳走になるよ」


 急いでいるなら、長話は無用だ。昴は二階で掃除をしているマスターの代わりに注文に応えるために、厨房に行った。


 昴は作業しながら思った。

「別に、いいか。アナンとは人魚亭で働いていれば、頻繁に会うだろう。その時にサービスをさせてもらおう」


 アナンは昴からパンの入った袋と水筒を受け取ると、別れ際に応援の言葉を残した。

「店の前に花壇を作るんでしょ。綺麗な花が咲くといいね。綺麗な花を、ちょっと期待しちゃうな」


 アナンが帰ると、客足が途絶え、そのまま午後の時間に突入した。

 空き時間になったので、赤土を掘り起こし、篩に掛けて土の塊の大きさを選別していると、女の大きな甲高い声がした。


 昴が顔を上げて、声の主を見ると、短い黒髪の、白人の女性がいた。年齢は昴より若いか、同じくらいに見えた。

 樹木の年齢なら当てられる昴だが、女性の年齢を推測するのが不得意なので、本当のところはよくわからないが、年下だと思った。


 女性の顔はスラブ系なので、東欧の出身なのかもしれない。

 人間にはあまり興味がない昴でも、相手がスラブ系かどうかは、すぐに意識に上った。


 昴は育てられた施設の人間から、昴にはスラブ系ロシア人の血が半分入っていると言われていた。

 現に、昴の目鼻立ちは違い、日本で暮らす以上、良くも悪くも、体に流れるスラブの血を意識せずにはいられなかったせいでもある。


 女性は場違いな黒い服に、薄手のコートを羽織り、キャリー・バッグを持っていた。見たところ、ちょっと変わったキャバクラの店員か、歌手、せいぜいが芸人といったところだった。


 客だろうか。だとしたら、邪険にはできない。昴は農夫ではなく、店員なのだ。相手の声が大きかったのは、作業に熱中していて聞き逃したせいかもしれない。

「どうしました」と声を掛けると、女性は、不安な表情を浮かべ、丁寧な口調で話し掛けてきた。


「すいません、ちょっと、道に迷ったようで。ここは、日本のどの辺りですか? 日本には時々、仕事で来ているので、JRの駅まで出られれば、あとはどうにかなると思います。でも、日本にもこんな場所があるんですね」


 昴は服装から見て、目の前の女性は昴と同じく、死んで彷徨い、人魚亭に辿り着いたのだと感じた。

 ただ、言動から推測して、相手は死んだという事実を自覚しているようには見えなかった。


 荷物を持っているので、異常気象に追い立てられた経験も全然なさそうだった。

 死後の世界だと聞いて、女性が信じるようには思えなかった。適当な言葉を見つけられなかったので、ストレートに教えた。


「ここは、死後の世界。目の前に流れるのは三途大黄河で、後ろにあるのが、人魚亭」


 女はまるで理解した様子がなかった。日本語を聞き間違えたとでも思ったのだろうか。

 昴は、どう説明したものかと迷った。すぐに、説明は慣れているであろうマスターに任せたほうが、効率が良いと判断した。


 昴は篩を置き、靴の泥を払うと、店の扉を開けた。

「後ろの店、こう見えても、ちゃんとしたカフェなんです。紅茶とパンくらいなら、出せますけど、どうします」


 女性は人魚亭を見上げ、正直に意外性を口に出した。

「へー、遺跡に似せたカフェなんですか。遺跡を改装して使ってるんですね。こういう建物は、アフガニスタンとかカザフスタンとかで見たけど、日本にもあるんですね」


 理解できない言葉ではない。人魚亭は店といわれて見なければ、店に見えない。

 近くで花壇を作る作業をする人間がいれば、変わり者の金持ちの家に見えなくはない。

 おおかた、昴を見て、最初は庭を手入れする農夫だと思ったのだろう。


        6


 昴は靴の泥と服の土を落すと、店に女性を入れて「お客さんですよ」とマスターを呼んだ。


 マスターは相変わらず、作務衣姿で新聞を読んでいた。

 店の中の応対はマスターがするので、昴が店内ですることはなかった。


 今後も、死んだことを理解しない人間が、必ずやって来るだろう。なら、後学のために、マスターの対応を見ておこう。


 女性から目に付かない位置に陣取って、成り行きを見守ろうと思った。

 マスターは昴の時と変わらずに、新聞を下ろした。


 女は、マスターの被った動物帽子を見て、目を団栗のようにして驚いてから、穏やかに微笑んだ。

「とっても、素敵な犬のお帽子ですね。よく、似合っていますよ。お手製ですか、だとしたら趣味が合いそうですね」


 マスターは、女性に帽子を褒められても、喜んだりはしなかった。ただ、昴にしたのと同じように、メニューを出して、金があるか聞いた。


 女は財布を捜したが、昴と同じく財布を持っていなかった。

 途端に女性の顔が慌て、小動物のように揺れた。手で体中を探り、ちょっとしたパニックになった。


 マスターは立ち上がると、依然パニックになっている女性に、平然と声を掛けた。

「まあ、落ち着け。ゆっくり探せば、探し物が出てくるかもれない。焦ることはない。時間は充分にある。紅茶とパンなら金がなくてもいいさ。困りごとなら、できる範囲でいいなら、相談に乗ってやるよ」


 女性は金がないのに、食事を提供されるのを一歩引いて遠慮すると、マスターが淡々と告げた。

「金がない奴に食事を提供するのは、俺が徳を積むための寄付だよ、協力していってくれ。嫌いな物があれば、残してもくれても構わない。慣れない環境の変化で疲れただろう。まず、足と頭を休めることだ」


 女性が頭を下げると、マスターはパンと紅茶を出すために、奥に行った。

 女性は深呼吸して、胸に手をあて、数秒間ほど心を落ち着ける儀式をしてから、キャリー・バッグを開けて、財布を捜し始めた。


 結局、財布が見つかるより、パンと紅茶が出るほうが早かった。


 女性は縮こまって、紅茶とパンの施しを受けた。

 昴の時は、紅茶についていたのが砂糖だった。

 女の紅茶には、砂糖の代わりに、小さなコップにジャムが入った物が付いていた。典型的なロシアン・ティだった。


 女性はライ麦パンを口にすると、軽く感動したように驚いた。

「こんなところで、ウクライナ・パンが食べられるなんて、美味しい」と呟いた。


 黒いライ麦パンは、ライ麦パンでしかないと思っていた。ところが、どうやらロシア・パンとかウクライナ・パンとか、区別があるようだった。


 女性はイチゴ・ジャムを舐めながら、「ここは、どこでしょうか」と、マスターに尋ねた。当然の質問だった。


 マスターは新聞を読みながら答えた。

「死後の世界だよ。目の前を流れるのが、三途大黄河――」

 マスターは続けて昴にしたように同じように、河の向こうに渡る方法と、河の向こう側に、天国や地獄があると説明した。


 女性が振り返って、昴を見た。

 今度の女性の顔には、死んだ事実を否定して欲しいような、悲しそうな顔があった。


 昴は否定せずに、女性に肯定の意を返した。

 女性の顔がゆっくりと悲しみに沈んで、俯いた。


 おそらく、女性自身も尋常ではない事態に巻き込まれたのを理解したらしい。異常気象に小突き回されたわけではないが、やはり異常を感じていたのだろう。


 女性がどこか、他人事のように、弱弱しく言葉を発した。

「そうか。私、死んだんだ……」


 女性は背を向けているので、顔は見えない。が、ポタリと、涙が落ちるような音が聞こえた気がした。


 女性が涙声になり、小さな悲しみの声を上げた。

「本当に死んだ。最悪の事態を想定していたけど、まさか、その最悪が訪れるなんて、ミューズ《ギリシャの芸術の女神》は、なんて嫉妬深いんだろう。両方を望んだって、いいじゃない。あんまりだよ――」


 女性の最後の声は、聞こえなかった。でも、泣きながら食事をしているのが、わかった。

 マスターは女性の反応に構わず、新聞を読み始めた。


 相手の顔を見ない気遣いが、マスターにはあった。おそらく、マスターはもうずっと、死を告げられて悲しむ人間を、見てきたのだろう。


 女性の声が、ピタリと停まった。女性は悔しさをと悲しさ全身で表すように、テーブルを思いっきり両の拳で叩いた。


 昴は女性の背中を見ながら、心の中で、そっと「悲しいね」と声を掛けた。


        7


 昴に家族はいなかった。昴は父親の顔を知らないし、母親は昴を生む時に亡くなっている。結婚はしていないので、妻はおらず、子供もいない。もちろん、恋人もいない。


 バイオハザードを封じ込めるために、屋敷を高温にして自殺しても、悲しむ者の名も思い浮かばなかったし、心配する対象もいなかった。


 女性は、きっと違うのだろう。残してきた家族がいるのだろうか。小さな子供がいてもおかしくない年齢に見えた。


 人魚亭は静まり返った。女性は、食事を食べ終わると、声を落として、マスターに声を掛けた。


「食事、ごちそうさま。美味しかったです。親切にしていただいて、ありがとうございました」


 昴は入口で女性を見送った。女性の顔には、どこか苦しいような、悲しいような、やりきれない表情が浮かんでいた。


 女性が悲しみを吐露して楽になるのなら、花壇を作る作業の手を止めて、聞いてあげてもいい。

 が、出て行こうとしている女性に対しては、何もできることはない。


 昴は女性を見送ると、食べ終わった食器を下げて、水に浸けた。一旦、園芸用の服を、普段着に着替えてから、食器を洗おうとした。


 着替えて、一階に下り、厨房に行こうとすると、扉が開いたときに鳴る、鈴の乾いた音がした。


 本日で二人目の客が来たと思って振り返ると、さっきの女性が立っていた。

 女性は目に強い決意を宿しているように見えた。女性は昴を気に掛けず、マスターの前に、ずんずん歩いていった。

 女性はカウンターに、どん、と手を突いた。

 女性は、さっきとは打って変わった、大きなしっかりとした声、早口に捲し立て、売り込みに出た。


「私を、ここで働かせてください。名前は、ヴェロニカ・ノソワ。出身は、ロシア。前に飲み屋で働いていたから、接客は慣れています。酔っ払いの相手もできます。飲み屋で働いていた時は、客の受けは良かったです。よく気がつくほうです。雇って、損は絶対ありません。きっと、お役に立ちます」


 マスターは新聞を下ろして、ヴェロニカを見て答えた。

「死後の世界の住人は、目に見えないわけじゃない。つまり、ウチは見ての通り、客足がほとんどない。それに、すでに一人、店員がいる」


 ヴェロニカは昴を強い視線で見た。ヴェロニカに目は強敵のボールを打ち返すテニスプレイヤーのように力強かった。


 ヴェロニカが、マスターに向き直ると、さらに強く売り込んだ。

「雑用もできます。力仕事も可能です。料理も洗濯も掃除も得意です。体力もあります。それに、男より女のほうが、細やかな気遣いもできるし、客も喜ぶでしょう。つまり、私のほうが、店員には向いています」


 ヴェロニカは明らかに昴の解雇を促し、昴のポジションを狙っていた。ヴェロニカは、さっきは木の実を啄む雀だったが、今や小鳥を襲うカラスだ。


 確かに、昴は気遣いは苦手だし、家事も得意ではない。だが、こうもあからさまに、存在を否定され、居場所を追い出そうとされると、腹が立つ。


 昴はマスターが即座に断ると思った。ところが、マスターは目を細めて、昴とヴェロニカを見比べた。


 マスターが何かに納得したような顔して、ごく自然にヴェロニカに聞き返した。

「なるほどね。昴よりは要領もよく、客あしらいも上手そうだ。働く意欲もあり、心の切り替えも早いか。で、給与は、いくら欲しいんだ」


 昴はマスターの発言に、言葉を失った。

 マスターは、昴を切ろうとしている。昴には、すぐにヴェロニカより昴自身を売り込む文句が思いつかなかった。


 ヴェロニカは畳み掛けるように素早く、マスターに答えた。

「給与は、マスターが決めてくれて構いません。ただ、ここに、しばらくいたいんです。そう、いるだけでいいんです」


 マスターは即座に決定した。

「よし、あんたを採用しよう。昴、そういうわけで、お前は、もう人魚亭のほうはいい。短い間だったが、ご苦労だった」


 突然の解雇通告だった。死後の世界にもリストラがあると、初めて知らされた。


 河のこちら側には、税務署もないのだ。不当解雇を訴える裁判所も、当然ないだろう。

 怒りよりなにより、早すぎる意外な展開に、どう口を開いていいか皆目わからない。


 確かに同情はするが、自分の手にしたポジションを譲ろうとまでは思えなかった。タカを括っていたら、明らかに奇襲を受けた。

 春の日差しをのほほんと浴びていたら、突然の雹に、苗をずたずたにされ、楽園を荒らされた気分だ。


        8


「それは、あんまりだ」それだけ言うのが、やっとだった。

 マスターが顔を顰めて注意した。


「昴は、明日から、ザフィードの燃料店で働け。部屋代と飯代は、ザフィードから貰う。ザフィードには人魚亭のマスターから紹介されてきたといえば、人がいいから、男なら嫌な顔せずに雇ってくれるはずだ」


 リストラではなく、出向だった。立場が圧倒的に弱いので、出向はいいとしよう。いきなり解雇されるよりは、マシだ。

 働くに当っては人間関係の問題はないかもしれない。なんせ、人魚亭のマスターをして「人がいい」というのだから。


 でも、形だけでも意向は聞いて欲しかったと思う。

 マスターは立ち上がると、昴に近付いた。


 ポケットに手を突っ込んで、油紙に包んだ何かを、マスターが差し出した。

「こいつは、短い間だが、従業員として働いてくれた選別だ。きっと気に入るはずだ。そればかりか、中を見たら、昴はきっと進んで、ザフィードの燃料店に行きたくなること間違いなしだ」


 昴は手を広げて受け取り、油紙を開いた。中には小さく黒い種子の粒があった。


 驚きだった。マスターは、いつの間にか植物の種子を手に入れていたのだ。

「昴が花の種を探していると伝えたら、ザフィードの奴が持っていたから、貰っておいた。まだ持っているのか、他に種類があるのかは知らないがな。詳細はザフィードに聞けばわかるだろう。どうだ、ザフィードのところに行きたくなっただろう」


 出向話は、百八十度も意味合いが変わった。地獄から天国とは、このことだ。

 花の種が手に入るなら、飲食店員から燃料店の店員に職場が変ってもいい。むしろ、種の入手先が一つ増えるなら、願ってもないことだ。


 もし、ザフィードという男が園芸が趣味で、花を増やしているなら、願ってもない。すぐさま、七度でも平伏して、教えを請いたい。


 生者の世界では、日光と水と空気があれば植物は育つ。死後の世界では三途大黄河の畔に雑草すら生えていない。


 花の育成方法を知っているなら、是非とも会って話がしたい。


 昴は手の中で小さな黒い種を転がしながら、いつか咲くであろう花を夢見た。


 ヴェロニカが昴の手の平の種子を覗いて、不思議そうに小声で感想を述べた。

「鼠の糞?」


 ヴェロニカは厚かましく仕事を奪っただけでなく、教養もないと知った瞬間だった。

 マスターは新聞を広げながら、ヴェロニカに注意した。


「ヴェロニカ、店で働く上での注意事項が、一つある。日本語とロシア語の使い分けは、死後の世界では、無意味だ。お前にとって鼠の糞に見えるのは、昴にとってはお宝だ」


 マスターの言葉を聞いて、ヴェロニカが「やってしまった」とばかりに、昴を見た。

 昴は不機嫌さを確実に隠さず、ヴェロニカに当て付けるように言ってやった。


「ようこそ、花の種とネズミの糞の区別がつかない、教養の不自由な方。結城昴です。あまり親しくなれないかもしれませんが、まあ、よろしく」


 ヴェロニカは、仕事で離婚した妻にインタビューしなければ行けなくなった記者のように、どこかぎこちない笑顔で「よろしく、お願いします」とだけ挨拶をした。


 昴はマスターに言われ、使われていない隣の部屋に案内した。あとは簡単かつ憮然として、人魚亭の設備を説明する。


 昴はもう、ヴェロニカの相手をしていたくはなかった。花の種を鼠の糞と間違えるヴェロニカに悪い印象を持ったせいもがあるが、早く花の種を植えたかった。


        9


 昴はヴェロニカから逃げるように、部屋に戻った。種をよく観察すると、種は朝顔の種に近い品種だった。


「死後の世界の朝顔か。朝顔にしては少し粒が大きい。問題は、いつの種かだな。保存状態も気になるな」


 種は、食品とは違う。乾燥させればいつまでも保つ、というものではない。

 発芽するのは、普通は採取してから一年。保っても二年。それ以上なら、まともな発芽は望めない。


 土器の中から見つかった、古代の種が芽を出した、という話もあるが、昴はそんな種を実際には見た経験がなかった。


 昴は種を一粒、一粒、目を近づけ、観察してから、舐めた。

「不自然なテカリはないな。薬剤の味もしない。薬剤で処理されたものではない。自然に実った種なのは間違いない」


 ホームセンターで販売されている種は、発芽しづらいように薬剤処理されているのが普通だった。素人は狭いスペースに種を多く蒔く傾向があるためだ。


 密集して蒔かれた種が一斉に発芽すると発育環境が悪化し、良い芽が育たない。素人には芽を抜くのを躊躇う人間も多いので、発芽処理しづらくなる薬剤処理をしている。


 もっとも、薬剤は水に溶けるので、多く発芽させたい場合には、水に浸けて薬抜きをすればいい。

 種子の数は全部で十八しかない。もし、種が薬剤処理されているなら、薬剤を除かなければいけない。


 昴は次に丁寧に一粒ずつ、手の中で種を転がし、種皮の硬さを確かめた。

「朝顔の種同様に、硬い種だな。いや、朝顔よりも、まだ硬いかもしれない。これは外から手助けしたほうがいいかな」


 昴はすぐに下に降りて、マスターからヤスリの付いた爪切りを借りた。

 昴はヤスリの部分で、種の表皮を丁寧に削っていった。


 朝顔の種皮は硬い。硬すぎる種皮は発芽の邪魔になる。

 種がたくさんあるのなら、種皮を落とす作業はしない。種がどれだけ芽を出すかが全然わからない状態では、優しく手間を掛けてやる必要があった。


 昴は種皮を削るのと、そうでないもの、水に浸けるものと、そうでないものに分けた。

 下準備を終えると、さっそく下に降りて、四種一組で鉢に種を植えた。


 花壇の近くに鉢を置くと、昴の名を呼ぶヴェロニカの声に気がついた。

 声に気がつくと、周りは夕日に染まっていた。

 

 ヴェロニカは、昴のあてつけがなかったかのように、柔らかな笑顔で、ほがらかに話し掛けてきた。

「昴。マスターが、今日はもう上りなさいって。それと、お願いがあるんですが、部屋のシャワー・タンクに水を入れるの、手伝ってくれませんか」


 ヴェロニカには、認めるべき優秀な能力が一つある。環境適応能力だ。

 嫌味をいって憮然とした態度で接したのに、ヴェロニカの中では、もう半世紀も前の事件になっているようだった。


 日本の在来種であった東洋タンポポを押し退け、いたるところに繁殖した西洋タンポポのように、ヴェロニカは逞しい。


        10


 人魚亭は、各部屋にはシャワーがあった。

 シャワーといっても、一階から水を汲んで、バルブのついたタンクに入れて、浴びるので、水汲みが必要だった。


 タンクはタダの容器で、お湯を沸かす機能はないが、水は日中の陽気で温くなっているので、問題ない。

 冬季にどれほど気温が下がるかわからない。でも、発電用の燃料があるので、手間を掛ければ、冬でもシャワーが浴びられる。


 ヴェロニカが忘れる気でも、職場を奪われ、大切な花の種を「鼠の糞」呼ばわりされた昴は心の中では踏ん切りがつかなかった。


 昴はヴェロニカにぶっきらぼうに答を返した。

「力仕事は、そこそこ可能じゃなかったんですか。看板に偽りなしなら、水の場所を教えるから、自分で汲まれたらどうですか」


 ヴェロニカは拗ねた子供を懐柔する母親のように、微笑んで語り掛けてきた。

「なんですか。昴、まだ怒っているんですか。悪かったですよ。謝りますよ。どうせ、店には三人しかいなんです。顔もずっと合わせるでしょ。だったら、仲良くやりましょう。どうせ顔を合わせるなら笑顔がいいに決まっていますよ」


 ヴェロニカは美人な部類に入る女性だと思うが、昴は姓的な魅力を感じなかった花の価値がわからない分、あまり係わり合いになりたくなかった。


 昴は突き放すように言い放った。

「仲良くやりたいなら、自分の問題は、自分で処理されたらどうですか。俺は、あんたのせいで店の従業員という立場を追われたんですよ」


 ヴェロニカは、少しだけ困って表情で、手を合わせて昴にお願いした。

「お願いします。時間があるなら、自分一人でやりたいんですが、これから、シャワーを浴びて砂を落とし、化粧したら、時間が掛かるでしょう。すると、夜の営業に少し遅れます。初日は、ビッと決めたいんです」


 ヴェロニカの顔には男を軽く使ってやろうという打算の色は見えなかった。だが、昴は、わだかまりのせいか、すぐにはヴェロニカの言葉を信用できなかった。


 人魚亭は日が沈むと店を閉めていた。夜の営業なんてない。

 今までマスター一人だから店を開けなかっただけで、ヴェロニカが来たから営業するのかもしれない。


 マスターに商売気はない。ただ、マスターは死後の世界を彷徨う人間にそっと手を差し伸べる人だから、夜も営業できるなら、店を開ける決断をする可能性がある。


 昴は少しだけ迷ったが、ヴェロニカのために、シャワー・タンクに水を入れる手伝いをしてやった。


 ヴェロニカは素直に頭を下げて礼を述べた。

「助かりました。さすがに砂だらけで、お客さんの前には立てないですしね。仕事に対しては、どんなときも手を抜きたくないんです。マスターはいい方ですが、甘えるわけにはいきません。他人に優しく、仕事に厳しくです」


 昴は張り切るヴェロニカに、アドバイスを送った。

「いっとくけど、ここじゃあ、頑張らなくてもいいみたいだよ。ただ、怠けるのはいけないけどね。理想はマスターの境地だろうな」


 一つわかった。ヴェロニカはさっき「両方とも望んでも」と言葉を漏らしたので、片方は仕事だったのだろう。


 では、仕事と、何を望んでの死んだのだろう。

 昴はすぐに、ヴェロニカの背景を思うのをやめた。

 まあ、どっちでもいい、俺には関係はない。俺に必要なのは、花だ。


        11


 ヴェロニカの部屋にある五十Lのシャワー・タンクに水を入れ終わると次に、昴の部屋のシャワー・タンクにも水を入れた。


 人魚亭は乾いた土地にある。目の前が河だからまだいいが、埃っぽい。飲食店という場所がら、埃だらけ姿でうろうろ徘徊するわけにもいかない。


 昴は花壇の後片付けをしてシャワーを浴び、着替えて一階に下りていった。マスターはいないが、ヴェロニカは店の主のように、働いてた。


 どうやら、店の物を動かして、営業がやりやすいように、グラスや皿を並び替えているようだった。

 普通なら、他人に店のレイアウトを変更されたら、店の主人は不快に思うだろう。

 だが、マスターのことだ。「レイアウトに拘りはない、やってみろ」とでも許可したのだろう。


 ヴェロニカは作業しながら、後ろ向きで昴に尋ねた。

「ねえ、昴。人魚亭にお酒って、ないんですかね。外の環境から見た感じ、缶ビールやワインは全然なさそうです。上等のウオッカじゃなくてもいいんです。中程度のウィスキーでもあればいいんですけど」


 昴は酒を飲まないので、上等も中等もわからない。

 厨房はマスターが仕切っており、地下にも食品庫らしい場所があるので、酒はあるのかもしれない。確かなのは、マスターが飲んでいるところを見た記憶がない。


 昴自身も酒を飲まないので、探したりもしなかった。

「見たことないな。ヴェロニカが飲むのか。なら、気をつけることだね。乾燥地帯でのアルコールは、回るのが早いよ。朝起きて、酔い潰れたヴェロニカが店に転がっていたら、笑い話にもならない」


 ヴェロニカは他愛もない冗談を流すように、明るく返した。

「お酒を置くのは店の雰囲気ですよ、雰囲気。夜の営業で酒がないなんて、肉の入ってないボルシチのようで、格好がつかないでしょ。それに、寂しいと、無性にお酒が欲しくなる夜とか、あるじゃないですか」


 ヴェロニカは生前の思いに浸っているように、しんみりと言葉を続けた。

「強いお酒は、好きですよ。でも、あるときから禁酒したんです。だけど、もう死んでしまったから、禁酒を解いてもいいかも。昴が奢ってくれますか」


 ヴェロニカの人生がどんな物だったのかわらない。おそらく、どちらかというと悲しい話に分類される気がする。ヴェロニカに対して同情の念はあるが、やはりまだ、どこか気を許せなかった。


 昴は思わず、ヴェロニカの言葉に皮肉で応じた。

「それは、ないな。俺は酒は好きじゃない。もっとも、ヴェロニカに酒を奢る金があるなら、花の肥料用の馬糞を買うよ」


 ヴェロニカは怒るか、膨れるかと思った。しかし、ヴェロニカはどこか寂しさと後悔を織り交ぜたように話した。

「私は、馬の糞以下ですか。まあ、人生を振り返って、評論家に講評を貰うとすると、案外そんなものかもしれないですね」


 昴は感じた。おそらく、ヴェロニカは生きている時に同じ言葉を言われたら、こんなしおらしい態度を取らなかっただろう。

 そうしない理由は、ヴェロニカには、何か後悔する事情があり、身を蔑んでのではないかと思った。


 昴はヴェロニカが望んだもののもう一つを、朧げに推測した。もう一つは、おそらく子供ではないだろうか。だからこそヴェロニカは、妊娠してから禁酒したのではないか。

 ロシアの事情は知らないが、出産と仕事は女手一つでも、難しいながら両立できると思う。

 両立できなかったとしたら、問題は男か仕事の内容に問題があった気がする。


 ヴェロニカは、現世に残してきた子供を、ずっと人魚亭で待つつもりなのだろうか。

 ヴェロニカの背景について想像した昴はもう、ヴェロニカを皮肉ったり、邪険にする気にはなれなかった。むろん、深く関わる気にも慣れなかった。


 原因は、怖れだった。ヴェロニカの生きてきた道に踏み込めば、両親がいない昴自身の古傷に触れるかもしれない。もう、花のことだけ考えて穏やかに過ごしたい。煩わしいのは、たくさんだ。

 昴はさすがに、ヴェロニカを皮肉ったのを悪いと感じ、フォローを入れようとした。


「いや、馬糞はそんなに、悪いものじゃないよ。馬は、ほとんどが食用に飼育されていないから、牛や豚と違って、糞中に抗生物質や化学物質が入らない。他の家畜糞に比べて、窒素、燐酸、カリ分が少ないが、含水率や炭素率は推肥に適している。今、俺が一番欲しいものさ」

 フォローになっていないとは思ったが、昴には他に言いようが思いつかなかった。


 ヴェロニカが首だけ回して、昴を見た。ヴェロニカの表情は、タンポポの綿帽子のように柔らかだった。

 ヴェロニカは微笑ましく答えた。

「なんですか、それは。褒めてるんですか。人生、色々褒められましたが。馬の糞みたいだって褒めた男の人は、初めてです。そういえば、昴は会った時には農夫の格好をしていましたが。生前は農家ですか」


 すぐに、昴の園芸家としてのこだわりが、異を唱えた。

「違う。農家じゃない。園芸家だ」


 ヴェロニカは思い出したよう、反応した。

「ああ、あの、金持ちの庭の植え込みを切る人でしょう。鋏を器用に操って、クマや犬の形に刈り込んだりする。キティちゃんとか、できます?」


 昴は苛立ちを覚えた。苛立ちはすぐに諦めへと変わった。

 ヴェロニカのように反応する人間は多い。農家、園芸家、造園技師は違うが、説明しても、わかってもらえなかった。


 熱心に説明すれば説明するほど、徒労感だけが芽生える。


 昴は、勝目の無い戦いになるを回避するように、投げ槍に教えた。

「ああ、できるよ。でも、メロンが果物じゃなくて野菜である事実のように、造園家と園芸家とは違うよ。まあ、生きていく上じゃ、必要ない知識だけどね」


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