第一章 死は終わり、全ては無に帰る――はずだった
第一章 死は終わり、全ては無に帰る――はずだった
1
照りつける太陽の下、埃っぽい赤茶色の大地がどこまでも続いていた。大地は乾いており、サボテンどころか、雑草すら生えていなかった。
荒野に、二十代後半のスラブ系と日本人のハーフ男が一人、キャスターつきの銀色のメッキが剥げた旅行鞄を持って、呆然と立っていた。
男の名は、結城 昴。
格好は、上着がオリーブ・ドラブ色の厚手の長袖シャツ。ズボンは使い古されたカーキー色のジーンズ。手に黒のガーデニング手袋を嵌め、ブラウンのモカシン・ブーツを履いていた。
頭には頬と首を覆う、シルバーのガーデニング・ハットを被り、首にはタオルを巻いている。
格好はまさに、園芸用の格好であり、とても旅行者のものではなかった。
昴は持っていた鞄を開けた。鞄の中には、いつも旅行に行くときに用意する着替えや、荷物が入っていた。
「なんで、こんな荒野に? 寝ている間に運び出されたのか? それにしても、いったい誰が、なんのために? 財産が目当てか? いや、計画は弁護士だって知らなかったはずだがなあ……」
昴には、なぜ荒野に一人で立っているかが全然わからなかった。だが、当座、緊急にしなければいけない行動は理解した。
今、直ちにやらなければいけないのは、一目散に逃げること。
荒野は段々と風が強くなってきていた。空も録画の早回しのような異常な勢いで、暗くなってきている。
「間違いない。嵐になる。それも、ハリウッド映画級の素晴らしいやつだ」
ゾンビ映画と同じだ。リビングで見るならいい。体験させられるのなら、真っ平御免被りたい。
一目ちらっと見ただけでも、荒野には雨、風を避けられる場所はおろか、枯木一本たりとも生えていなかった。
危機感は大盛りいっぱいだが、初めて立つ場所なので、どこに向かっていいのかが皆目わからない。
ハッキリしているのは一つ。何もしないという選択肢は『連続殺人が起こる館で、部屋に鍵を掛けて閉じこもる』という選択肢を採るのに等しい結果になる。
昴はより悪い決断をしないために、とにかく競歩のようなハイペースで歩き出した。
悪い予感ほど、良く当る。
せかせか歩いて、ほんの数分で困難が訪れた。風は音を伴うほどに強くなってきた。乾いた地表から砂が巻き上がり、目がまともに開けられない。
昴は目にゴーグル代わりにタオルを巻き付け、風に耐えた。
「この嵐、規模だけなら、アカデミー賞は無理でも、ゴールデングローブ賞ものだ。悪さでいえば、最悪のゴールデン・ラズベリー賞は取るかもしれないな」
風は、横殴りになった。足を前に出すのが辛かった。風に打たれる寒さが、服を通して熱を奪う。
風が強すぎるので、いっそ、逆方向に進もうかと思い、振り返った。
振り返ると、薄暗い中を天まで聳える赤い塔が見えた。
塔は大地から一直線に伸びていた。形は神様がふざけて陶芸をしているかのように細長く、空に届く上のほうが広い、構造上ありえない形だった。
昴は、不思議に思った。
「あの凶悪な建造物は、なんだ? そもそも、あんな所に、塔なんかが建っていたか? おかしいのは、俺の目か? それとも認知力か?」
少しの間、タオルを透かして眺めていると、東京スカイツリーやワン・ワールド・トレードセンターよりも巨大な塔が移動しているのに気が付いた。
「こりゃ、目や頭がおかしいんじゃない。おかしいのは、世界のほうだ」
2
数秒の遅れで理解した。遠くにあるのは塔ではない。天に届くほどの竜巻だ。
「いや、違った。世界はおかしくない。神様は正しい。天も正しい。危機も正しい。あやふやなのは、俺の将来だけだ」
竜巻の移動速度は速い。車にでも乗っていれば別だが、迫ってくれば、徒歩で逃げるのは不可能。
いっそ、昴に向ってくるのなら、諦めがつくが、竜巻は行き先を見失った酔っ払いのように、ふうらり、ふうらり揺れて、方向が定まらなかった。
「神様は酔っているのか? それとも、何か気に入らないことがあったから、アブラムシでも潰すように俺を消そうとしているのか。案外こいつは、一挙両得を狙っているのかもしれないな」
多少なりとも逃げられる可能性があるなら、竜巻に向って歩いていくのは愚かだ。
昴は足に力を入れ、身体を斜めに倒して、風に逆らって歩くしかなかった。 幸い竜巻は一つしか見えなかった。
辺りは暗く、風が強い。さらに、赤い砂が待っており、視界が悪いので、見えないだけかもしれない。砂が目に入りそうになるので、キョロキョロと辺りを確認しながら歩くわけにはいかなかった。
昴は目に砂が入らないように、足元を赤茶色の地面だけを見ながら、歩いた。
風が激しく吹き、呼吸に必要な空気を、半分は容赦なく奪い去った。風が服を引っ張るので、動きが制限され、思うように進めなかった。
僅かに露出した皮膚を、風が容赦なく砂を巻き上げ叩いた。
もう、後ろは振り返らない。もし竜巻が背後から来たら、気が付いた時には手遅れだ。
最悪の状況だと思った。すぐに、間違いだと知った。より状況が悪くなった。
昴は顔に痛みを感じた。原因は雹だった。小石のような雹が昴の体を、不倫者に課されるイスラムの石打ち刑のように、立て続けに打った。
昴が天を呪うと、天は答えてくれた。
雹は止み、激しい雨となった。体が濡れ、重くなった。冷たい雨は、体から温もりを奪った。
体が奥から、五臓六腑から震えてきた。
昴は覚悟を決めて座り込もうと思ったが、足が立ち止まるのを許してくれなかった。足は処刑場に連行される罪人のように、ゆっくりだと確実に前に進んでいく。
昴は息も絶え絶えに、風に曝されながら歩き続けるしかなかった。昴は体が丈夫なほうではない。もう、倒れて気を失ってもおかしくなかった。が、倒れなかった。
「おかしい。なぜ倒れない? 俺は意地っ張りでも、辛抱強くも、聖者でもないぞ」
苦痛を感じる感覚が途切もしなかった。目、耳、口、肌から絶えず、苦痛の信号が送られて来た。
自然による拷問だった。
どれだけ歩いたか、皆目わからない。いずれにせよ、かなりの距離を歩いた。
倒れず、苦痛が長引くことが、事態の異常さを伝えていた。にもかかわらず、昴にはどう対処することもできなかった。
腹が減った。喉が渇いた。足が疲れた。なのに、やはり脅迫的に膝を突くのを許されない気がして実行できない。
疲れが頂点に来た。いよいよ駄目かと思った時、思い出した。
小学校の時に広大な砂丘で一人で遭難して、死に掛かった時の事件を思い起こした。
「そういえば、中学生の時に見た綺麗な赤い花。もう一度、あの花を見たかったな」
昴はふらつきながら、大好きな花のことだけを考え、歩き続けた。
中学生の時に見た、砂丘の中に咲く大きな花は、強い風に煽られても、散ることなく咲いていた。花びらはまるでダイアモンドの如く力強く、歪んだりしない。花は確かに砂嵐に曝されいるのに、全く揺るぐことなく咲いていた。
今にして思えば、ありえない状況だが、風に微動だにしない花は、確かに記憶に残っていた。
もし、もう一度あの花が見られるなら、現状のような嵐に耐えてもよかった。現実には綺麗な赤い花を見た時より、遭遇してる条件が過酷なのに、花はない。
ただ、曇天の下、乾いた赤茶色の地面がどこまでも続いていた。
気が付くと、依然として風は酷いが、雨が止んでいた。
視界に人影を見えた。人影は小さかったが、見間違いではなく、確かに人だった。
サイズから言えば、大人の男性にしては小さい気がする。中学生くらいの少年か、それとも小柄な女性かもしれない。
現地の人だろうか? それとも昴と同じように、突然こうして理不尽な環境に投げ込まれた人物だろうか?
昴は風に声を消されないように、大きな声で人影に呼び掛けた。何度か呼び掛けると、人影は停まった。と、思ったら、人影は駆け出した。
昴は追いかけようかとも思ったが、すぐに止めた。
「なぜ、逃げる。人じゃないのか。ああ、でも、もし、人じゃない存在が見えたら、ラッキーかもしれないな。やっと終わりが来る」
人影は、疲労が見せる、絶対に捕まらない幻のようなものかもしれない。追いかけるだけ無駄。
普通に考えれば、こんなひどい嵐の中を女子供が歩いているとは思えなかった。
謎の人影が消えしばらくすると、風が去った。空も明るくなってきた。助かったと思った。正にその時、風が渦巻く大きな音が聞こえてきた。
振り返ると、暴走するトラックのように、竜巻が突っ込んできた。
昴は、どこか安らかな気持ちで、迫り来る竜巻を見上げていた。
「雪解けの季節も待つように、待ち侘びたよ。さあ、風よ、タンポポの種子のように、どこか高い所に連れて行ってくれ」
昴の体は風に吹かれたタンポポの綿毛のように、宙に舞った。
視界に赤い地面と灰色の雲が交互に現れ消えていった。耳には強い風の音が聞こえ、風の音以外聞こえなかった。
体は、重さがゼロになったような浮遊感に包まれ、どんどん上昇していく。もう、どっちが上だか認識できなかった。
視界が移り変わり、地面が意識できないのは、気持ちの良いものではない。おそらく、かなり高く舞い上げられたので、落下の衝撃はかなりのものになるだろう。
「今は気持ち悪いが、落ちてしまえば、痛いのは、ほんの一瞬だ」
昴は死を覚悟して、「やっと終われる」漠然と思ったところで、意識が途切れた。
3
昴は喉の渇きによって目を覚ました。昴は、運がいいのか悪いのかわからないが、痛む上半身を起こすことができた。
タオル、帽子と、旅行カバンは、竜巻に持っていかれたようだった。
「悪意のない自然の追い剥ぎか。取って欲しいのは、荷物じゃなく、命だったのに」
災難を逃れたのかと思った。が、顔を上げると、遠くに動く巨大な物が見えた。
地獄を這いずる巨大な蛇にも見えて、一瞬、ぎょっと呼吸が詰まり、心臓が止まった。
幸い、蛇は、昴に向かって来なかった。
荒野の赤い大地を、大蛇が黄色みがかった体躯を震わせ、一方向に進んでいた。
昴のほうから恐る恐る、ゆっくりと近寄っていくと、相手が巨大な、黄色く濁った水の流れだと知った。
水は一方向に向かって流れているので、海ではなく河だと思った。潮の臭いもしない。
「水があるのか。こんなに濁っていちゃ、飲めそうにはないな。でも、いい。水があれば、花もあるだろう。我が身が白骨になるにしても、シャレコウベの目の穴から花が飛び出せば、風流だ」
日本には存在しない大河だ。三途の河だろうか。いや、この際、もう生きていようと、死んでいようと、構わない。
昴の足が速まった。噂では、三途の河なら、向こう岸に沢山の綺麗な花が咲いていると聞いている。
「もう一度、花が見たい」
荒野を彷徨うちに、心は餓え、渇き、疲労を押しのけ、花が見たいという気持ちに支配されていた。早足は、いつしか駆け足になった。
河に向かって駆けていった。向こう岸は見えなかった。が、河は汚く黄色に濁り、河辺に緑は、一切なし。
「神様は、とことん意地悪を貫くって決めたらしいな。ホント、頭が下がるよ」
昴は水辺には何かしらの花が咲いていると期待したが、水辺には雑草一本たりとも生えていなかった。
河は、大黄河と形容するにふさわしく長大で、カレー専門店の排水のように、濁っていた。
河べりに座り込み、ただぼんやりと、カレー色に濁った河を眺めた。
「まあ、でも、選択肢は一つ増えたわけだ。荒野に戻るか、河に飛び込むか。最悪の二択だが、ないよりはいいか」
再び強い風が出てきて、川面を揺らした。昴は竜巻が、また来ると、予感した。意外に早く最悪の二択を迫られた。
「今度は、竜巻に飛ばされる前に、多少は苦しんでも、確実に楽になれる河に身を投げるかな」
昴は立ち上がり、目の前の河を眺めた。
河の流れは、見た目には速くないが、大きさからいって、水深は深そうだった。流れも速いかもしれない。
「河に入れば、もう、誰に発見されることもなく、終わりだな。いつ生まれたとも知れない人生だ。誰に知られることなく終わってもいいだろう。願わくば、躯が小海老の住処になろうとも、隣には珊瑚が咲いて欲しいものだ」
ところが、なぜか水中への一歩が踏み出せなかった。多少の恐怖感もあった。が、さきほど膝を突くのが許されなかったように、足が前に出なかった。
昴には自殺を試みた経験があったので、自殺に及ぶ躊躇いを経験していた。なのでわかるが、足が前に出ないのは怖れや躊躇いとは別な感覚だった。
本能というにはあまり穏やかで、学習で習得したものにしては、あまりにも不自然な、説明できない心のありようだった。
4
突如、女の声が背後でした。
「お兄さん、こっちに早く! 人魚が戻ってくる」
昴が後ろを振り返ると、背の高い人物がバイクに乗っていた。
格好は赤い大地に似たヴァーミリオンの制服に、顔をすっぽりと覆う帽子を被り、ゴーグルをしていた。
バイクは見たことなく古いデザインで、第二次世界大戦でソ連兵が使っていたと言って通用するような型。バイクの色は薄い緑色の中型で、荷物を積むサイドカーが付いていた。
一見すると、兵士にも見えなくはない。だが、胸にネームプレートでAnanとあって、腕に白鳥のマークが入っていた。
アナンは素早く、バイクから降りて、サイドカーからダンボール、揺籃、バッグを惜しげもなく、ぼんぼん、地面に放り投げていった。
昴は、わけがわからなかったが、アナンが急いで、昴の乗るスペースを作っているのだと思った。
アナンは荷物をあらかた捨てると、「早く乗って」と早口で言い、バイクに跨った。
死のうと思っていた昴だったが、すぐに、サイドカーに乗るという選択肢をした。
昴が乗り込むと、アナンはエンジンを目一杯に激しく吹かしながら、河から斜め四十五℃の角度で、バイクを走らせた。
昴には、人魚が存在するとは思えなかった。けれども、アナンが急いでいる心情は、伝わってきた。
「人魚の肉を喰えば、不老不死になるっていうけど。人魚の主食は人間なのか。人魚と人間は、食いつ、喰われ相互補食関係なのかい」
「人魚は喰えないよ。だが、バイクのケツにキスされると、大怪我をする」
ゴーという音が後ろから聞こえてきた。昴が振り返って、アナンが言っていた人魚とはなんだか知った。
人魚とは、昔話に出てくる、半身が魚のメルヘン的な存在ではなかった。人魚とは泥河の荒々しいまでの逆流現象だった。
河の下流から泥水が迫り上がってくる光景が見えた。泥水は飢えた一億匹の蛇のように、激しくのたうち、バイクを目掛けて殺到する。
泥水の激しい運動には意思すら感じた。汚い黄色い水が、撥ね、散らばり、上下しながら、凶暴に全て飲み込もうと拡がってきた。
「なるほど、あんな大口でキスされたら、イチゴの種のように丸呑みされること、間違いなしだな」
竜巻が舞う赤土の荒野も、逆流する大河も日本には存在しない。もう、ここが日本ではない事実が確定だ。
貪欲な蛇の群れは、獲物を求めるように扇状に拡がり、迫ってきた。
昴は迫り来る水を見ながら、胃を締め付けられるような思いで、アナンに尋ねた。
「狂っている。全てが狂っている。いったい、ここは、どこなんだ」
アナンがバイクのエンジンを吹かし、叫び返した。
「別に、狂っちゃいないよ。死後の世界じゃ、ときどきあるのさ」
アナンは今「死後の世界」と確かに言った。普通なら受け入れられない言葉だ。とはいえ、確かに、日本のどこどこ村と言われるよりは、説得力がある。
いつから死後の世界にいるのか。竜巻に遭う前か、遭った後か。
どっちでもいい。はっきりしているのは、河の逆流に飲み込まれたら、一瞬では楽になれないという事実だ。
昴は、エンジン音に負けないように叫んだ。
「これが、俗に言う、地獄に仏というやつかい? だったら、あんた時計の電池を替えてくれ。あんたの時計は、かなり遅れている」
「別に、遅れちゃいない。ピッタリの登場さ。信者を獲得すると、神様から獲得奨励金が出るのさ。だから、ずっと隠れて、あんたが神様を信じたくなる瞬間を待っていたのさ。どうだい、神様信じる気になった?」
こんな、酷い目に遭うのなら、生きている時に坊主に大金を渡しておけば良かったのだろうか。
戒名にランクがあるように「三十分以上、死後のお迎えに遅れたら、代金をお返しします特約」があったのかもしれない。
やはり、アナンが〝死後のお迎え〟だろうか。
昴はすぐに、違うと思った。アナンが昴の前に来た時、サイドカーには、すでに荷物が積まれていた。迎えに来たのなら、荷物は積んでいないはずだ。
つまり、アナンの言葉は、昴をリラックスさせよとするためのジョークだ。
アナンが大きな声で怒鳴った。
「地獄は、まだずっと先さ。私はアナン、単なる運送屋さ」
単なる運送屋ではないだろう。お人よしの運送屋だ。バイクはおそらく、昴を乗せなかったら、余裕で逃げられたのに、アナンは危険を冒して昴を救ってくれている。
昴は漠然と思った。アナンは、会ったばかりだが、いい奴だ。もし、人魚の足がバイクより速いのなら、余計な荷物である昴が一足先に人魚に飛び込もう。軽くなれば、速度が上がりアナンは助かる。
どうせ、河に飛び込もうと思っていた。他人の迷惑にはなりたくないが、お人よしを災難に巻き込むのは、なお悪い。
川が遡ってくる速度は速かった。追いつかれるかと思った。が、河の遡る速度が落ちたので、状況は一切わからなくなった。
おそらく、河は扇状に広がっているのと、アナンのバイクの進行方向が緩やかに登り坂になっているからだろう。
昴は願望を大きな声で叫んだ。
「神様って、いるんだな。神様はお人よしの運送屋と、文字通りお荷物な人間を気紛れにせよ、救ってくださろうとしている。神様、ありがとうー」
叫びながら、昴は心の中で自分自身を笑った。
神や仏に感謝する人生は送ってこなかった。信条的にも、人間が死ねば、意識は電気が入らなくなった家電のようになると、思っていた。
けど、死後の世界はあった。ただ、漠然と、生き返るという選択肢はない、と直感的に思った。
昴の人生を、若くして亡くなった。と、人はいうかもしれないが、納得ずくの人生だった。
ゆっくりと、河の先端が迫ってきた。実は神様は意地悪で、バイクが飲まれるかと思った。
ところが、河の水の拡がる勢いがなくなった。
アナンがガッツポーズを取って、脳内アドレナリンが充満したような、声を上げた。
「よし、河に尻を齧られなかった。人魚を撒いた。全戦全勝、記録更新だ」
バイクが河に対して、横に曲がると、河はアナンが乗るバイクを追い越し、上流に上がっていた。
どうやら、アナンは昴だから助けたわけではなさそうだった。
アナンはおそらく、人魚という河の逆流現象に巻き込まれそうな人間を、差別することなく、助けているのだろう。
アナンは河から充分に距離を取ったところで、バイクを止めた。
さて、ここは、どちら側だろう。
天国が花咲き乱れる場所であるのなら、今こうして立っている場所は、天国ではない。
地獄が薄暗い空の下で、不快な臭気を放ち、鬼や奇怪な獣が跋扈しているというなら、地獄でもない。
5
昴はサイドカーから降りて、礼を述べた。
「死後の世界で溺れるとどうなるか、わかりませんが、とりあえず、人魚の大口にキスされなくて、助かりました。これでも、意外と面食いなんです、大柄な蛇のような人魚のキスは御免こうむりたい」
アナンはゴーグルを上げ、腰に付けた水筒を外して昴に差し出した。
「河の近くに座り込んでいたってことは、荒野を抜けてきたわけでしょう。喉が渇いていない? 水に追いかけられた後だけど、飲む?」
昴は、一礼して水筒を受け取ると、水を飲んだ。
水は温く、微かに泥臭かったが、渇いた喉を潤した。
アナンは昴が水を飲み終わると、昴に興味を示し、好意的に尋ねた。
「それで、お兄さん、名前は、なんていうの」
「名前は、結城昴。単なる花好きの園芸家。いや、そこから道を踏み外して金儲けに走った、愚かな園芸家かな」
さて、死後の世界に来たのはいいとしよう。ただ、行く当てはない。待つ人もいない。でも、死んでも望みはあった。
「助けていただいて、ありがとうございました。すいませんが、ついでにもう一つ、助けていただけると嬉しい。花が咲いている場所を、知っていますか」
アナンは肩を竦めて、幾分か声のトーンを落として話した。
「残念だけど、花の咲いている場所は、知らない。ひょっとしたら、近くを通りかかっているかもしれないけど、こっちは配達に忙しい。砂除けのために常にゴーグルをしているから、気づかないだけかもしれないけど」
アナンは河の一端を指した。アナンは大事な事実を教えるように、真剣な面持ちで話し続けた。
「ここをまっすぐ上流に行けば、《人魚亭》っていう、カフェがあるよ。まあ、カフェといえるほどお洒落じゃないかもしれないけど、ちょっとした、お茶や食事を提供している店さ。そこにマスターがいるから、聞いたら良いよ。ひょっとしたら、花の咲いている場所を知っているかもしれないし、店の裏に小さな菜園くらいあるかもしれないよ」
昴は乗せていってもらえないか、と頼もうかとも思った。
すぐに思い直した。アナンは仕事の途中で荷物を投げたのだ。これ以上の迷惑を掛けられない。
人に借りは作らないという信条はない。だからといって、返済の見込みのない過剰な借り入れをする気はなかった。これ以上しつこく頼めば、タカリになる。
昴はアナンに丁寧に礼を述べて、別れを告げた。
アナンは軽く手を上げ、挨拶を返すと、バイクで走り去った。
昴はアナンが見えなくなるまで、感謝の気持ちを持って見送った。
アナンの印象は生きていた中で会ったどの人物より好感が持てる人物だ。死後の世界の住人とは皆、アナンみたいなのだろうか。
昴はアナンの遠ざかる背中を見ながら、思い直した。
「きっと彼女は特別なのだろう。人間はどこへいっても、そうは変わらない。程度の大小はあれど、誰もが利己的で、打算で生きている。もう、ラッキーは起こらないと考えたほうがいい」
河に沿って、上流を目指した。上流に向かう途中、ずっと植物はないかと目を凝らしたが、植物はペンペン草の一本もなかった。
昴はどこまでも続く、不毛な大地を見ながら、ぼやいた。
「なんで、何も生えてないんだ? ひょっとして、ここは天の国防軍の軍事工場跡地で、何かに汚染されているのか。それとも、天使と悪魔が戦って大量破壊兵器が使われた古戦場なのか。それでも、キノコくらい生えていてもいいだろう」
数時間も歩くと、遠くに建物が見えた。アナンが言っていた、人魚亭だろうか。
人魚亭は、河からなだらかな斜面を上がったところにあり、河面から四メートルほど高い場所にあった。人魚亭の五メートル手前まで、水に濡れていた。人魚亭自体が高さ二メートルの巨大な円盤状の岩の上に立っているので、より大きな河の氾濫でも、水に浸かる心配はなさそうだった。
ただ、建物は、カフェというより遺跡に近い建造物だった。
「アナンが嘘をつくとは思えないし、河の分岐はなかった。まさか、目の錯覚で上流と下流を間違えた。だとしたら、桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿ってところだな。まあ、実際、杉すら生えていないがな」
昴は一応、建造物の周囲をグルリと回ってみた。
人魚亭は、一辺が二十五メートル程度で、クリーム色のレンガ造りの古い四角い建物。正面と裏口には十段ほどの階段があった。一階部分には、窓らしい窓が正面に二つある。窓は鎧戸が下ろされ閉じられていた。
上層部分にも窓はある。ただ、こちらは下からでは中が見えなかった。
「警戒されているのか? でも、何にだ。まさか、自然パニック映画から、中世戦争映画ってことにならんだろうな。森は好きだが、俺にロビンフッドはできないし、大軍を敗走させる諸葛亮孔明にもなれないぞ」
裏手には、少し離れたところには、穀物庫のような建物があった。こちらは明らかにカフェですらない。
あと、用途がわからない、鉄製の巨大な円筒形の装置と、円盤が置かれていた。
「本当に場所がここで合っているのか? それとも、あの世のカフェというのは、今見ている状況が標準なのか? だとしたら、環境に馴染むのは一苦労するかもしれない」
6
昴は、古代の要塞のような建物の前に戻ってきた。
「なんか、カフェというより、外敵から身を守るために建てられたような造りだな。やっぱり、辺りに山岳ゲリラでも出るのか?」
もし、アラブ人の観光ガイドが寄ってきて、「社長さん。これは、今から千年前に建てられた砦ですよ」と説明されても、納得してしまいそうだった。
昴は正面にから入口まで続く階段を見上げた。
十段の階段を上がったところに、机やイスを出せそうな、ちょっとしたスペースがあるが、何もなし。
カフェらしいプランターに飾られた花や、目立った看板もなかった。拘置所や税務署でも、まだ愛らしさがある。もし、店の名前が霊廟亭や要塞亭という名前でも、違和感は全然なかったろう。
「本当にここがカフェなのか。生前なら、歴女に客層を絞った遺跡カフェとも思ったかもしれないな。でも、違うだろうな。それとも、知らない間に潰れたのか。カフェは店の寿命が短い業種だからな。ありえない話ではないが」
あまりにひっそりしているので、定休日かとも思った。
昴が階段を上がると、扉の横に、木彫りの人魚らしき小さな看板があった。
看板の下には「SELL」の文字ではなく、きちんと「OPEN」の文字があった。
店の主人にという存在がいるなら、あまり集客に熱心ではないらしい。それでも、入口前は汚れていないので、怠け者ではないらしい。
「営業しているようでよかった。あの荒野でもう一度アナンに出会うのは、見知らぬ土地でマダケの花《百二十年に一度、花が咲く》を探すようなものだからな」
昴はタールで塗られたような、分厚い黒い樫の扉を開けて中に入った。
扉についていたベルが、来客を知らせるように、乾いた音を立てて鳴った。
店の中は、予想に反して明るかった。原因は、天井がガラスでできており、日光が降り注いでいるせいだった。
普通なら頭上から強い日光が照りつけているので、店の中は暑いはずなのに、空調がないにも拘わらず、適温だった。
店の中は、外と千年の違いがあった。
店の中は四人掛けのテーブル席が四つあった。テーブルはどれも、空中から吊された細い支柱で端を固定されアルミ天板が宙吊りになっていた。
細長い六人掛けカウンターは、砂でできていた。おそらく、目の細かい砂に、ガラスを加え、加熱して固めたのだろう。
店の内装は、悪くなかった。これで、近くに、でかい花の卸問屋があって、美味いパンでもあれば、きっと、常連になっただろう。
床は一見すると、黒御影石のようだった。
昴が一歩を踏み出すと、靴底から砂が落ちた。砂はまるで蚤のように床を跳ねる、一直線に店の隅の穴に向かっていった。
不思議に思い、もう一歩、足を踏み出すと、落ちた砂が震えるように床を伝わり、室外に排出される。
入口の横には二階へ続くスチール製の階段があった。階段の先にはスチール製の廊下があり、扉が見えた。
「宿泊施設があるなら、ここは、どこかに行く道の中継地点なのか。にしては、人がいない。今がオフシーズン――な、わけないか。人が死ぬのに、オフとかオンとか区別ない。戦争は特売のように、年中どこかでやっているしな」
店はカフェというより、一階が食堂で、二階に宿泊施設がある造りだった。
視線を走らせたが、店には、やはり花はなかった。花の代わりに、カウンターの奥で、壁に凭れ掛かり、椅子に座って、足を組んで、新聞を広げている人物がいた。
新聞は譜面台のようなスチール製の三脚の上に載って広げられていたので、相手の顔は見えなかった。
おそらく、店のマスターだろう。
7
声を掛けようと、カウンター越しに立つと、マスターが立ち上がった。
マスターは洋風の店に不釣合いな、色の褪せた紺色の作務衣を着ていた、がっしりとした体格の男だった。
だが、特徴的なのは、顔だった。尖った耳の付いた、ジャッカルを模した真っ黒な古い帽子で、顔の半分までが覆れていた。
マスターの肌は褐色なので、着ている服が作務衣ではなく、上半身裸で、腰に布を巻いていれば、エジプト神話のアヌビス神に見えただろう。
そういえば、古今東西、死後の世界の話に、よく頭部が動物の住人が出てくる。案外、死後の世界では「室内で動物帽子を被る」というのは「夏の朝顔」のように定番の格好なのかもしれない。
ただ、気になるのは、アヌビスなら死者の心臓を取り出し、罪を計る。日本の牛頭馬頭{ごずめず}なら死者を拷問する。
動物の頭を持つ存在は、あまり好意的な存在として伝わっていない。
竜巻で歓迎されたのだ、料理はゲテモノかもしれない。
マスターは、手近にあった金属のアルミ板を差し出した。
マスターは独りで店を切り盛りする、誇り高き居酒屋の大将のような口調で尋ねた。
「人魚亭へ、ようこそ。何にします? 場所が場所なだけに、生の野菜はないけど、パンは毎日、焼いているよ。紅茶は有名なブランドじゃないが、苦味と渋みがよくて、俺は気に入っている」
昴は、普通の接客をされたので、とりあえずホッとした。
差し出されたアルミ板を見た。アルミ板は手書きのメニューだった。メニューは両面書きだが、文字が読めなかった。おそらく、店で出している品数は二十種もない。
昴は喉がまだ渇いており、空腹も感じていた。適当に何か頼もうと思った。そこで昴はメニューには金額の単位が書いていないのに気が付いた。
「マスター、これって、金額はいくら、日本円は使えるの」
マスターは無愛想な口調を崩さずに尋ねてきた。
「金額? 適当でいいよ。それより、あんたは金を持っているのかい」
昴は、いつも財布を入れている場所を探った。財布はなかった。もちろん、小銭、カード、携帯電話の類も持っていなかった。
どうやら、死ぬ時に、持っていた物を全て持っていけるわけではなさそうだ。それとも、竜巻に巻き上げられたのかもしれない。
昴は素直に詫びた。
「すまない。財布を持っていないようだ。店の利用は、持ち合わせがある時にさせてもらうよ。注文しなくても悪いけど。もし、花が咲いている場所を知っていたら、教えてもらえませんか」
マスターは会ったばかりのお客が一文無しと知っても、嫌な顔一つしなかった。マスターは商売人というより、知り合いにでも接するように、聞いてきた。
「注文? ああ、別に人と接するのに、金のあるなしは、気にしないけどね。花かい。花を見つけて、どうする。蜜蜂や牛じゃないんだから、花では腹は膨れないだろう」
花を無用な物でお金を出す価値がないと思う人間は多い。花=仏花や葬式の輪、という人間は多いが、気にしない。
花は昴にとって価値がある。それだけでいい。
「別にどうも、ただ、花の傍にいたいだけ。アナンさんという親切な運送業社の方に、人魚亭のマスターなら知っているかもしれない、と言われたものでね」
マスターは「悪いな」とばかりに、答えた。
「花か? 花ねー、どこかで見た気がするが、場所は覚えていないな。普段は気にも止めない。贈る相手もいないし、花鳥風月を愛するわけでもなし、詩人でもないからな」
死後の世界の住人も、生きている人間も、あまり変わらないのかもしれない。花屋で金を出して買った花ならいざしらず、道端の花には興味がない。
昴は一礼して店を出ようとした。どうせ、金がないのだ、店にいても邪魔なだけ。
おそらく、死んだので、時間だけはたっぷりある。荷物の配達にバイクを使っているのだ、最後の審判を伝える天使のラッパの音も、ここまで届くのは、ずっと先だろう。
店を出ようとすると、マスターが呼び止めた。
マスターは無理をする人を叱る僧侶のように、少し強い口調で諭した。
「あんた、荒野を渡ってきたんだろう。だった、足のほうは労わってやりな。足はずっとあんたを支えて、ここまで連れてきてくれたんだ。頭は前に進みたくても、足は疲れている。人魚亭は座るだけで金を取るような店じゃない」
変わったマスターだと昴は思った。普通なら、金がなく汚れた人物が来たなら、さっさと出て行って欲しいと思うものだ。
昴がカウンター席に座ると、マスターは店の奥に入っていた。
そういえば、まだ喉が渇いている、水の一杯でも施してもらえれば、ありがたい。
昴はただ、一杯の水を希望していた。だが、店の奥からパンが焼ける微かな匂いと、湯を沸かす音が聞こえきた。
8
ほどなくして、輪切りにされて、円筒形の黒パンと、紅茶が出てきた。
マスターは静かに食器とティーポットと砂糖壺を置いて食事を勧めた。
「店で一番安い食事だ。徳を積むための寄付だよ、協力していってくれよ」
一杯の水ではなく、質素といえ、食事の施しを受けるのは気が引ける。だが、マスターは徳を積むと言っている。
食事を摂るのが、人のためになるなら、喜んで頂こう。
昴はマスターに礼を言って、黒パンに手を伸ばした。
黒パンからライ麦の味がする、ライ麦パンだ。ライ麦パンは薄い塩味と酸味が混じり、どっしりとした食感だった。
ライ麦パンなのだが、デパートで売っているライ麦パンとは違った。どこか、洗練されていない。が、そこがまた、いい。
昴は、朝食はパンにする派だった。パンの種類に、こだわりはない。ライ麦パンを好んで買うわけではないのだが、マスターの出したライ麦パンを噛むと、安らぎに似た味を感じた。
マスターが奥から小皿を持ってきた。小皿には淡く黄色い液体が載っていた。
「俺には、これくらいしかできないな。花はないが、実はある。オリーブ・オイルは古いが、試してみるかい。あんたがオリーブの花を覚えていれば、きっと瞼の内にオリーブの花が咲くだろう」
昴はオリーブ・オイルをパンに染込ませ、口にした。オリーブの香りが鼻腔から脳内に登っていく。
マスターは静かに声を掛けてきた。
「どうだい、見えるかい。花が」
脳が香りを認識して、瀬戸内で見た、オリーブ園の光景が浮かんだ。
「ああ、見えるよ、マスター。綺麗な小人の帽子のような白い花が、たくさん咲いている。今日は、誰かの結婚らしい、帽子の小人が大勢いる。そう、一面、真っ白だ」
青空の下、満面の白い花を咲かせているオリーブの花たちが脳裏に浮かんだ。白い花の記憶に涙が滲んだ。
もっとよく香り楽しむために、パンを食べ終えてから、オリーブ・オイルを小分けに唇に付け、オリーブの花の記憶を楽しんだ。
昴は、オリーブ・オイルを蝸牛の歩むような速度で、楽しんだ。
苦痛から解放され、至福の時間を、昴は味わった。
マスターは、長時間ずっと、無料のオリーブ・オイル一皿でねばる客に一言も声を掛けずに、ただ、黙って、幸せな時間を提供してくれた。
花の記憶に浸る時間から余韻を残すように帰ってきた昴は、紅茶を手にした。
紅茶は濃いめに淹れられており、渋みと苦味が強かった。
天国に入れなかった人間は、天国の手前で充分な徳を積まなければ、天国の門は開かないのだろうか。
生きているときは金に追いまくられ、死後は安住の地に追い立てられる。人間とは常に何かに追い立てられる生きる存在なのだろうか。
昴は率直に、マスターに尋ねた。
「死後の世界では、皆が徳を積み、天国を目指さなければいけないのかい? 地獄ではない場所があるなら、そこに留まっては駄目なのかい。強制されるのは好きじゃないんだ」
マスターはまた椅子に腰を下ろし、新聞を読み始めた。
新聞を読みながらマスターは、老いた教師が学生に教えるように説いた。
「不安じゃなければ、何もしなくていいさ。ただ、人間が息をするように、常に何かを求め続ける。求めれば、悩み苦しむのがつきもの。苦しみが止むとき、人が人ではなくなる」
生きている時は、花と一緒にいられる園芸ができればいい、と思っていた。ところが、結局、破滅するまで、行動を拡大し続けずにはいられなかった。
「どこかの宗教家か哲学者の言葉か。それとも詩人か芸術家。あと、意外なところだと、銀行家か先物取引の営業マンかい」
マスターは含蓄があると思った言葉を、あっさり否定した。
「今、読んでいる新聞の社説だ。まあ、社説なんて偉そうに当たり前のことを書くから、書いている本人以外は有難くもなければ、役にも立たない。まあ、それでも習慣から新聞は端から端まで読まずにはいられない」
マスターの呼んでいる新聞に目をやった。
言語は日本語でも英語でもなさそうだった。なんとなく、アラビア語に近そうだが、昴はアラビア語が読めないので、何が書いてあるか全然わからない。
昴は生きていると時でも、新聞はあまり読まなかった。なので、新聞の内容にはそれほど興味がなかった。
9
食事はパンと紅茶だけの質素なものだったが、昴には充分だった。
昴は二杯目の紅茶に砂糖を三杯ほど溶かしながら、聞いた。
「人魚亭っていう名前は、どこから? あの河に本物の人魚が住んでいる、とか?」
マスターは新聞を読みながら、気楽に答えた。
「店を譲り受けた時から、店の名は人魚亭だった。おそらく、前の前のその前の主人の時からも、ずっと人魚亭だったんだろうと思う。俺も人魚亭と言う名前をずっと気に入っているし、俺の名前も、もう『人魚亭のマスター』になってしまったようなものだ。人魚亭の名前を変えるってのは自己認識を変えるに等しい。だから、俺がマスターの間は、人魚亭のままなのさ」
人魚亭は、ずっと座っていたいと思えるような、良い店だった。昴はリラックスしてきたので、一つ思いついた質問をした。
「もし、河から本物の人魚がやってきて、泥まみれでずぶ濡れのまま、店に来たら、マスターは、どうする? やっぱり来たら、お帰りいただくのかい」
マスターは新聞から顔を上げて、即座に否定した。
「尻尾が乾かないように、水で濡らしたバスタオルを渡して、奥からビニール張りのソファーを出すよ。もっとも、メニューが少ないから、リピーターになってくれるかどうか、わからないが。来るなら、いつ来ても変わらない対応をする」
おそらく、マスターなら本当に言った通りにするだろうと昴は思った。マスターの言動と行動には理念があるように感じた。
「でも、実際にやって来たら、水浸しで掃除が大変そうだね。もっと、目の前の河なら泥もすごそうだけど」
「どうせ掃除は、人が来ても来なくても、毎日する。そうだな、利用する人魚の数が多いなら、人魚に協力してもらって、河から店の横まで、一緒に運河を掘るね。それでもって、店の壁をぶち抜く。そうすりゃ、水から上がらずに利用できるようになるだろう。スイム・スルーっていうやつだ」
案外このマスターなら、本当に店の壁に穴を空けかねないと感じた。アナンもお人好しだったが、マスターも負けてはいないようだ。
昴は自問した。果たして、昴にも同じように他人のためにごく自然な行動ができるだろうか。
俺には無理だな。生きている時にも、そこまで人を愛せなかった。
昴はカップの底に溶け残った、砂糖の濃度が濃い紅茶を啜って、最後に尋ねた。
「マスター、河の向こうは、どうなっているんだい。ここと同じ風景が続いている? それとも、今までに亡くなった偉人を知識奴隷として総動員して建てさせた、文化まみれの大都会でも、あるのかい」
「三途大黄河の向こう側か?」
昴は目の前の河を三途大黄河と聞いて、希望が湧いた。
中国の黄河が黄色いのは、水に上流の土を大量に含むせいだ。
土は養分を含み、植物を育てるので、下流には肥沃な土地が広がり、文明ができた。
もしも、死後の世界の三途大黄河も同じ理屈なら、上流には雨が結構な量が降る山があり、下流には街があるのかもしれない。
上流に行けば高山植物、下流に行けば花畑があるかもしれない。問題は、どこまで行けば、花がある場所まで辿り着くか、だ。
10
昴の希望的観測を全く気にせず、マスターは淡々と説明を続けた。
「行政区分上、三途大黄河の向こう側からが、正式なあの世になっている。平たく言えば、天国とか地獄がある。向こう側に行きたいなら、上流に向かえばいい。船着場があって、渡し舟が出ている。金がないなら、雑用をやらせてもらって、船賃を稼げばいい。向こう岸に渡ったら、公営のターミナルがあるから、そこから、乗りたいバスなり、列車なり、馬車に乗ればいい。乗り物酔いするなら、自転車でも借りろ。あんたに相応しい場所に着くさ」
死後の世界は、かなり大雑把だ。
いや、生きていた世界が汲々とし過ぎていたのかもしれない。現に昴も、追い立てられるように生きて、責められるように死んでいった。
「地上は、どこも人間が決めた国境で、境界だらけだった。死後の世界にも、行政区分とか、あるんだな」
マスターが、なんでそんな常識みたいな知識を聞くんだといった顔で、普通に言ってのけた。
「当たり前だろう。河の向こう岸には、ちゃんと税務署があって納税の義務がある。だから、店は納税義務を負わない川の反対側にあるんだよ」
税金を払わなくていい国は、タックス・ヘイブンといわれる。だが、天国に税金があるなら、なんとも皮肉だ。
本当は税金なんて、ないのかもしれない。ただ、マスターがジョークで言っているのかも知れない。
案外、今ここで食べた食事も、手を付けやすいように、徳を積むための寄付だといってくれた心遣いなのかも。
昴は短い会話だったが。マスターに好感を抱き、店に居心地の良さを感じた。
もっと他愛もないお喋りをしていたい気もするが、文無しが長居すれば、迷惑だろう。
それに、人魚亭の周りには花がない。花の誘惑には抗し難い。
昴は、どこに咲くかわからない花を探しに行くために、立ち上がった。
「マスター、食事ありがとう。美味しかったよ。じゃあ、花を探しに行くよ。花の側で暮らす生活が、今の希望だから」
マスターが新聞を読むのをやめ、顔を上げて、不思議そうに尋ねた。
「花が好きなのはわかった。店から出て行く前に、一つ聞きたいことがあるが、いいか。河を渡ろうとは思わないのか?」
河の向こうに天国があるなら、綺麗な花も咲いているだろう。なぜか、昴は高温多湿を嫌うラベンダーのように、本能的に河を渡る気にはならなかった。
「ええ、不思議な気分です。どうしてかわかりませんが、河を渡る気になれません。河のこちら側で、花を探しますよ」
マスターは首を少し傾げ、さも不思議だという口調で、疑問を投げかけてきた。
「不思議だ。実に不思議だ。悪い、もう一つだけ、教えてくれ。これを聞かないと、眠りが浅くなりそうだ。なに、大した質問じゃない。他の奴にはわからない。おそらく、スフインクスでも答えられないだろう。答を知るのは、あんただけだ」
「花に関する知識なら、いっぱいありますが。花以外で、私がマスターに教えられることなんて、一つもないと思うけど、いいですよ。なんですか、さっくりと答えますよ」
「どこにあるか全然わからない花を探しに行くよりも、店に品物を運んでくる奴に注文して、花の種なり、苗を買って植えたほうが、花を探すより確実で手っ取り早いとは、思わないのか。要するに、ここで働きたいとは思わないのか、ってことだ」