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泡の理屈(あわのりくつ)

作者: 諸星新


 実はそう珍しくもない「痴漢行為」という埒のあかぬ行為から生じたトラブルで、電車は少々遅れていたが、何とか終点にたどり着き、そこから歩いてきて、ようやく店の前に到着した。

 そう、あの時の場所・・・。

 あの時も、「ここ」やった。

 女は、回想している。

 それは、三年前の冷え冷えとした歳末のことだった。


 ある関西私鉄のローカル線、ターミナル駅からの肌寒いくねくねした狭い一本道。

 閉まりっぱなしの茶色に錆びついたシャッターが目立つ道の両側、まばらの域を出ない程度の人通り。だがそのあたりは、戦後のドサクサにかなり栄えた闇市に端を発する繁華街である。

 両側には歳末売り出し中の商店が点在して、有線のクリスマスソングがあたり一帯に心地よく流れている。少し離れた通りを走る選挙カーからの大声もカーカー聞こえてくる。少しすると、焼き芋の香ばしい匂いがほんのりと漂ってくる。

 道沿いに南東方向へ足早に歩いて約十分の場所に、四つ辻がある。

 その北西角、鎮守の右隣には、喫茶店が。

 外観はぼんやり薄暗い外観で、しかしながら瀟洒なたたずまいの喫茶店。

 幅が広いチャコールグレーの壁面には、どことなく前衛風な彫刻が施されている。だが、よほどに目を凝らさないと気が付かない程度の。

 で、今。

 たった今。

 茶色いコート姿のすらっとした男性が、目には止まる程度だが、すごい駆け足でこの店の中に入っていったのである。


 入店の駆け足の浮き具合が少し気になるので、ちょっと試しに無断でこの喫茶店の扉を開け、中をのぞいてみよう・・。


 中に足を踏み入れると、なかなか広い客室である。

 部屋の奥では、二人の大人が大理石のテーブルをはさんで腰かけている。もう夜の七時半。従業員らしき者たちを別とすれば、他には誰もいない。

 照明は薄暗く、BGMはソフトなスタンダードジャズ。壁にはポップアートのレプリカとサンタクロースの三体のぬいぐるみ。

 さて、その二人の大人とは・・・。

 一人はグレー背広姿の男性。多分、先ほど入店したばかりのあの男性だろう。

 顔立ちから判断するに、彼の歳は五十代くらいか。艶のある赤いネクタイを締め、見るからに健康そうで、どことなく熱い表情を漂わせている。

 対峙する女性も五十代程度か。やや堅い面持ち。

「で、今日は何か。そんなにきちんとめかし込んで」と男性からの問いかけ。

「ええ、まあ、ちょっとね」

 濃い目のコーヒーを持て余し気味に飲む二人。

 なぜか互いの目をしかと見つめ合っている。 

 飲みさしのコーヒーカップをそっと卓上に置いてから、女性がゆっくりと切り出した。

「あのう、突然なんやけどね、山中さん」

「何?」

「こんな場合、どう言ったらいいのかしらね」

「うん?」

「私たちのこんな関係について、最近になってよく思うの」

「どうしたの」

「うん、不倫とかって、世間ではよくあるみたいやけど、やはりダメよね」

「・・・」

「単なる社会通念かもしれないけど、でもそうよね。わざわざお忙しいのにお呼びして、言いたかったのはそれなの」

「ちょ、ちょっと」

「そりゃ確かに、最初に近づいたのは私からでした。でも」

「いやそやから、あの、容子ちゃん。確かに世間に公言できることとは言えない。だから君は不安なんやよね。僕の妻の姿におびえてて。そら、大いにわかる」

「・・・でしょ」

「でも僕は、君とこうやって互いを支え合えてる今の関係を感謝してる。ホンマにありがとう。毎日同じフロアで働いてた縁やよねこれ」



 約十年前に結婚して、夫婦水いらずの生活をする山中敬一は、地元の製薬会社に勤務する、ごく真面目な社内で評判のいい有能な事務職員であった。片隅に追いやられた同期の何名かの男性社員を尻目に、信頼を勝ち得ていた。

 毎日の仕事には大きな不満はなく、責任に相応したやりがいも感じていた。

 ある朝、山中は給湯室で、同じ課の吉川容子からいきなり呼び止められたのだ。話があると。

 それが、この喫茶店での会話をさかのぼること約一年前であった。

 この吉川容子は、ベテラン社員であり、独身であった。

 容子は若い頃、夫に浮気されて離婚した。当時の夫が招いた、彼の職場の女性社員との熱愛なのであった。容子は許さなかった。

 離婚した頃、精神を半分病んだ時代もあった。

 その後、一人息子を何とか育てながら、ずっと二十年以上独身を通してきた。

 自分自身がされた反動なのか、習い事や通っていたスポーツジムで知り合った妻子ある男性と恋仲になったことも何度かあった。ただしどうしてか、いずれも長続きしなかった。相手の男性に対して、程なくして興ざめすることの連続であった。

 今回も容子は日常の空しさを晴らすべく、既婚者である山中に魅力を感じて接近を試みたのである。

 こないだ仕事でお世話になったから、お茶をおごりたいと。

 てんで相手にされないだろうと容子は思っていた。

 ところが、山中の反応は、意外にも良かった。

 そして容子の想像は正しかった。お茶の後の酒席での山中は、のほほんとしながらも、知的で話が面白かった。

 それからも逢瀬を重ねることにより、それまでに交際してきた男性たちには無かった性格の良さを感じた。人目を忍んだ身体の交際をする仲へと進展した。以後、二人の関係は秘かに潜行した。

 職場では、意味ありげなシグナルをこっそりと送り合いながら。

 山中は、自分には艶福家の素養があったのではないかなどと今さらのごとく得意な気になった。

 付き合いだして数ヵ月後、容子は退職した。子どもが成長して独立したことも一つの理由みたいだった。

 そのため、職場での顔合わせはできなくなったが、それでも、二人は交際を継続した。

 当然家には内緒であった。残業を口実にしての頻繁のデート。妻にも職場にも、ばれている気配は全くなかった。根拠のない自信さえあった。

 ただそれでも、二人の立場の違いは、消せない現実であった。

 山中は、妻帯者なのである。

 一方の容子は、独身。

 山中が既婚者であることを知って接近した容子ではあったが、山中の妻の存在を気にしないでいられようか。

 もっとも最初のうち容子は、山中が彼の妻のことを楽しく話すのに、気軽に耳を傾けていた。

 妻のことを愚痴る山中に対して、妻のことを庇った気配りの言葉を発しながらも、既婚者のつらさを憐れむ独身者の余裕さえ実感した。

 だが、ある日のデート中にかかってきた、山中の妻から彼への電話。

 帰宅の軽い催促であった。

 容子は、自分の立場について今までになく自問した。

 山中に関して、初めて憂鬱な気持ちを感じた。

 容子は、眠りの浅い日が続いた。

 そうなると、今までは感じたことのない山中の欠点を発見するようになった。あばたもエクボだと流せる余裕もなくなった。

 容子の意思で、出会う頻度はだんだんと減っていった。しかし、折り合いが悪くなったというわけではなかった。

 そして山中は、容子とのデートの割合が少なくなってきている事実には気がついているのに、最近の容子の心境の微妙なる変化には全く気付いていないのであった。



「心配ないって。君とのことは、絶対に家にわからんようにするしね。日頃はね、ある程度家庭優先やけど、君とデートの時はデート。けじめ、けじめ」

「・・・」

「うちには子どももいないし、奥さん孝行に集中できる。当然、君には迷惑をかけへんよ。大丈夫です。だから、これからもよろしくね」

「・・・」

「君に結婚してほしいなんて望んだりせん。今のままでいいよ、ね」

 容子は、じっと黙っている。少し考え込むように。

 しばらく続いた互いの沈黙を先に破ったのは、間一髪の差で、容子だった。コーヒーを少しすすった容子は、ゆっくりと首を縦に振りながら、

「はい、ありがとう、さすが山中さんやね。いつでもきちんとした理屈で。しっかりしてらっしゃる」

 おもむろな口調。

「いやあ、そんなこともないけどね。尻こそばいやんか」

 照れる山中。

「さすがに、私のことをそこまで思ってくれて、しかも、家庭を大事になさる模範亭主、ええ。

 そして私は家で一人。だけど、今後ずっとあなたを心の支えにして、充実した毎日。そうなんよね」

「ありがとう」

 容子の横顔には、かすかな微笑みが浮かんだ。 

「そうやわね、素晴らしい恋愛生活。そうなんよね~」

「そう、まさしくお互いに幸せで」

「いいことやわねえ」

「わかってくれん人もいるやろけどね」

「お互いに幸せでね。私はずっと、あなたのね、都合のすごくいい、ふ、ふざけんな、おのれ!」

 びっくりした従業員らが、二人の方を突然に振り向く。

「この思い上がりが!こんなん私が望むかい、ボケ~!もう退社してんや!だ・か・ら、こ・わ・い・も・の・な・し!ぶちまけたるぞ~おまえのこと!!」

 人が激変したような下衆な言葉を浴びせて、悠然と、だがさっと店を出た女性。

 容子を呼び止める気力は、放心した山中にはなかった。


 

 呆然とした山中・・・・。

 静まりかえった店内・・・・。

 大変なことになったが、このままここに明日までいるわけにはいかない。

 コートを着て、会計のレジに向かってとぼとぼと歩いた。

 頭の中が真っ白でないわけがない。


「山中様ですよね」

 呼び止めるように、一人の従業員が話しかけてきた。

「はい」

「山中様。さっき、ご一緒されてた吉川様という女性の方からここにお電話がありました」

「・・・」

「吉川様の携帯へ山中様からのお電話がほしいというご伝言でした」

「あ、そうですか」

「電話でお話ししてお詫びをしたいので、よろしくお伝えくださいとのことでした。あ、それとですね、コーヒー代は、お二人様分いただいております。ありがとうございました」 


             五


 え、一体どういうこと。

 頭がまだスッキリしない。

 当然である。

 とにかく、店を出た。

 もう遅い。コートを着ていても凍てつくような外気。

 ここでやることは、一つしかない。

 そう。

 山中は、つばを飲み込んで、呼吸を整えた。


 容子に電話した。

 携帯を持つ手が、ブルブル震える。

「あのう、吉川容子さん」

「もしもし、山中敬一さん。何を、改まって(笑)」

「・・・・」

「私の気持ち分かったの」

「う、うん」

「でもね、さっきは言い過ぎました」

「いやいや・・」

「これからは、奥さんを幸せにしてあげて」

「・・・・」

「それと、仕事しっかり頑張ってね!命令やよ!ではずっとお元気でね」


             六


 ああ。

 あれで良かったんやわな。

 ただあの時、もっといいやり方を考えるべきやったかしら。

 けど・・・。

 私は本当に人を愛する事が出来る女なのかな・・。

 容子は自問自答して、目頭を熱くしながら、どこかに向かって歩いて行った。孤独を引きずりながら。

 有線で「喝采」が流れていた。


 半年後に、どこかに住んでいる再婚相手と巡り合えるなんて、容子には分かる由もなかった。

 そして吉川には、彼の妻と、妻の愛人である容子との共同作業だったとは、分かる由もなかった。



(完)

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