それでも一緒に行こう
翌日、俺は長老の言葉どおり解放されて、森の外れまで連れていかれた。
村を出る時に振り返ると、獣人が何人かこちらを覗き見ていたが、そこにケーナの姿は見当たらなかった。
森を出たところで、どん、と背中を押されてつんのめる。足を踏ん張って振り返った時にはそこには木々が生い茂っているのみで、すでに誰もいなかった。
ぽつんと取り残されて荒野に向き直り、とぼとぼと歩きはじめる。
ここは来た時と同じ場所なんだろうか。ふとそんな疑問が浮かんだけれど、すぐに意味がないと気づいた。
もし同じ場所でも俺はそこから帰る方法が分からない。フェルがいれば話は別だが、見える範囲に彼はいないようだった。
それにそもそも帰るっていったって、どこに帰るんだ? あの秘密基地はケーナの場所であって俺の家じゃない。せめてケーナがいなければ帰るとは到底言えない……
暗い気分を引きずって、ただ真っ直ぐ森から遠ざかった。
悪路を上り下りしていると、次第に頭が熱に浮かされたようになってくる。どこまでも続く曇天の荒野もそれを後押ししていた。
そのせいか、行く手に川があることに直前まで気づかなかった。
「……」
荒野には不釣り合いに思える大きな川だ。あまり深くはなさそうだしほとんど止まっているような流れだけれど、川幅は結構広い。軽く二、三十メートルはあるんじゃないだろうか。
俺はしばらく迷ってから、そこに足を踏み入れた。
別にこの川を越えたからといってどこかに行けるわけでもない。それでも水に靴を浸したのは、この向こうに何かがある確信があったのか、あるいは自殺でもするつもりだったのか。判断力を失った頭ではそれすらもわからない。
川の水は足首ぐらいの深さから、腰のあたりまで上がってきた。けれどそこが限界らしく、それ以上は深くならないようだ。このまま向こうまで渡れそうだった。
だから俺は油断していたのだ。
唐突に足裏が滑って支えを失った。
「っ……!」
川底の石で足を滑らせた。そう気づいたときにはもう遅い。俺は一気に水に飲みこまれて、あっという間に溺れていた。
◆◆◆
『マッハヌルー、マッハヌルー』
なんだろう、この音痴な歌は。歌詞も間抜けで意味が分からない。
でもさっきからずっと聞こえている。声が耳から離れてくれない。
……誰の声だっけ。すごく聞き覚えがあるような。でもあまりにも遠すぎるような。
聞いていると力が抜ける。思わず呆れて、なのになんだか笑えてくる。
ああそうだ、何とかいう泳ぎ方の名前だった。マッハヌルウナギ? 確かそんな感じの泳法だ。
もう一つ思い出した。俺はその泳ぎ方を知っている。
だから大丈夫。溺れることは決してない。
◆◆◆
いつの間にか水面に浮いて空を見上げていた。歌はまだ頭の中で聞こえている。
やっぱり間抜けな歌だ。まともなセンスしてたら絶対歌おうなんて思わないだろう。
それでもケーナは歌うのだ。
『マッハヌルケーナ泳法! 速いよ?』
彼女のどこまでも明るい声が聞こえる。
『これからもよろしくね』
彼女の笑顔が浮かぶ。
『ごめん、さよならケースケ』
去っていく彼女の背中が見える。
いつの間にか目からとめどなく涙があふれていた。
「俺は……」
うめいて立ち上がる。
「くそ……!」
どうしようもなく悔しかった。
俺はケーナと離れることがあんなに怖かったのに、ほんの少し抗うことすらせずに戦うことから逃げたのだ。
自分の気持ちを裏切ってまで争いを避ける必要なんて、そんなものあるはずがないのに!
『いくじなし! なんで諦めるのよ!』
元の世界からの幼馴染の声まで聞こえた。
もう大丈夫。これから先は諦めることは決してない。
俺は拳を握りしめて歩き出した。
森の中を走り抜ける。もちろん相変わらず足元は悪いしもうだいぶ暗いしで、そうスマートにはいかない。
それでもできる限りの全速力で俺は走り続けていた。
張り出した木の枝に頬を切られても、木の根に足を取られかけてもずっとずっと走る。
走りに走って薄暗くなったころ、俺はようやく獣人の集落に着いた。
疲れて膝が笑っているような状態だったけれど、まだここからだ。
俺はゆっくりと木の影を移動して、夕闇に沈む天幕の群れに近づいていった。
必死で頭を回転させて俺が捕まっていた天幕を思い出す。
確か、あの隅にあるやつだ。そしてその布の穴から覗いてケーナがいた方向は……
「あっち……!」
ケーナのいる天幕に見当をつけて走り出した。
ここまでは順調。だが問題はここからだ。どうやってケーナだけを連れ出して逃げおおせる?
手は思いつかない。でも存在しないわけがない。なら絶対見つけてみせる。絶対に見つけて一緒にまた調査の旅を――
「ぐ……!?」
衝撃に頭を打ちすえられて俺は地面に転がった。
予想外の事態に理解が追いついてくれない。
這いつくばりながらなんとか振り向くと、二人の獣人が立っているのが見えた。
丸太のように太い腕が伸びてきて俺の胸倉をつかみあげる。
足のつかない中空に吊り上げられて、俺は急な酸素不足にあえいだ。
くそ……見つかった。これではケーナを連れ出す以前の問題だ。
こちらから視線を離さないまま短く言葉を交わしている二人を見下ろして、俺は精いっぱいの叫び声を上げた。
「ケーナッ!!」
静まり返った村に、その声はよく響いた。
目の前に光がはじけた。妙な動きをした俺を獣人の男が殴ったのだ。彼にとっては軽く小突いただけだろうが、それでも耳鳴りと眩暈を感じた。
それでももう一度口を開く。
男も拳を構えた。俺は顔をそらさなかった。俺を真っ直ぐ捉えている拳を正面から見据えた。
つまらない意地かもしれないけれど、戦うと決めた以上、もう逃げたくなかったのだ。
再び叫んだ。
「ケーナぁッ!」
ガツン、と顔面に衝撃がはじけた。鼻から熱いものが噴き出す。それでも俺は男をにらみつけた。
「こいよ。殴るならいくらでも殴ってみろ。俺はもう退かないからな……!」
俺は今、全てに対して戦いを挑んでいた。
目の前のこの男、昨日逃げ出した弱い自分、争いは避けるべきだという過去の信条、そしてヒト文明が出した答え。
それらすべてに喧嘩を売って立っていた。
男は俺の言葉は分からなかっただろう。それでも挑発の気配は察したようだ。犬歯をむき出しにして、今度こそ本気の一撃を俺のど真ん中に――
「ケースケ……?」
その囁きは、大きくもないのによく響いて聞こえた。
はっとしてそちらに顔を向けると、黄昏の薄明かりの中、彼女が呆然と立っているのが見えた。
「ケーナ」
ようやくたどり着いた。俺は小さく苦笑した。
久しぶりに見たケーナは、ポンチョのようなゆったりとした衣をまとって、顔にはやはりインディアンのような化粧、首には綺麗な石の装飾品。もうすっかりこの集落の娘といった様子で、俺が入り込む余地はないように思えた。
だけどきっと、そう思えるってだけだ。
「ケーナ。ごめん、遅くなった」
鼻血だくだくの顔で言われても怖いだけだろうけど、俺は一生懸命笑顔を浮かべてみせた。
「迎えに来たよ。一緒に行こう」
「なんで……?」
彼女はあの時と同じ問いを俺に返した。
「ケースケ、なんで……?」
それに対する答えはいくつでも用意できた。五個でも十個でも、無理をすれば百個でも用意できた。いやそれは言い過ぎか。
しかしそんなに用意したところで届かなければ意味がない。
だから俺が答えたのは一言だけ。
「君が好きなんだ」
巨体の男に吊り上げられて、鼻血も垂らしてなければもうちょっと格好はついたかもしれない。でもそれはそうなのだから仕方ない。手持ちのカードで精いっぱい戦うしかないのだ。
戦うことを許されているだけでも、俺たちはきっと幸運だ。
「……ちょっと遠回りしたけど、俺はやっぱりどうしても君と旅がしたいよ。どんなに大変な思いをしても、どんなに理屈に合わなくてもだ。そのためなら何でもする。もう君が諦めてしまっていたとしても、俺は諦めない。いくつだっていつまでだって手を考える」
そしてどこまでも戦い抜く。
だから。
「だから……!」
視線の先で。
ケーナの目が、涙でゆっくり潤んでいくのが見えた。
それだけだ。何かを言うわけでもない。
でも、それだけ見られれば十分だった。
さあて、と俺は目の前に視線を戻した。まずはこの大男をどうにかしないとだな。
胸倉をつかんでいる男はケーナの目の前での暴力を避けたのだろうか、今は拳を下げていた。
チャンスだ。
俺は胸倉をつかむ手の手首をつかみ返して、力を込めた。それくらいでどうにかなる力の差ではない。けれども、俺の行動を警戒してか、男の方もさらに握る手に力を込めたようだ。
いまだ、と俺はさらに渾身の力を込めた。
鈍い音を立てて服のつかまれている部分が裂けた。勢いをつけるとそのまま拘束を逃れることに成功する。
地面を転がって距離を取った。
そしてそれはちょうどケーナのいる方向でもある。
「逃げるよ、ケーナ!」
「……うん!」
立ち上がって手を取り合い、一緒に駆け出す。
あの時と同じだな、と俺は思い出した。
初めてケーナと出会って、芋虫から逃げ回ったあの時と。
なんだかとても愉快な気分だった。
一緒ならどこでも行ける。どこまでも行ける。
暗闇に沈んだ森に、俺たちは少しのためらいもなく飛び込んでいった。




