破局
その日の夜中のこと。枕元に誰かの気配があった。
「ケースケ、ケースケ……」
その誰かは聞き覚えのある声で俺の名を呼んだ。
うるさい、と思った。今は誰にも邪魔されたくない。一人でいたい。
「お願い。起きて、ケースケ。お願いだから……」
懇願するその声は、あまりに切実で泣いているようにも聞こえた。
俺はようやく気づいた。はっとして起き上がる。
「ケーナ?」
振り返った先、暗闇の中、顔は見えないながらも人の息遣いを感じた。
そんなもので人を見分けることなんてできないと言われるかもしれない。それでも俺にはわかった。
首にふわりと腕が回されて、ぬくもりが俺を包み込む。
「ケーナ……」
「ごめんね、会いに来られなくて」
俺は首を振った。そんなこと、全く問題じゃない。
「もう大丈夫なの?」
「うん、もう全然平気。ケースケのおかげだよ、ありがと」
ずきり、と胸が痛んだ。
「そんなことよりも、早く逃げよう? 今、ちょっとの間だけ見張りがいなくなる時間だから……」
立ち上がって俺の手を引っ張るケーナだが、ふと不思議そうにこちらを見下ろした。
「ケースケ?」
俺は座ったままだった。
「やめた方が、いいんじゃないかな」
「え……?」
息をのむ気配がした。
「俺が思うに、なんだけど、君はここに残るべきだよ」
「……なんで?」
ケーナが呆然とつぶやいた。
俺は慎重に言葉を続ける。
「君の居場所はここだ。俺はそう思う。危ない目に遭ってまで調査を続ける必要ってある? 仲間や家族と穏やかに暮らした方がいいんじゃないか?」
「……」
「それに、もし仮に調査を続けるのなら、俺を連れていくのは絶対良くない。足を引っ張ってしまってまた今回のようなことが起きないとも限らない。行くなら俺は置いて行って……ほしい」
言葉は止まらない。どんどんどんどんあふれてくる。まるで愚痴や泣き言のように。
俺は君が家族と心穏やかに過ごしているのを見たよ。許婚とも悪くない関係に見えた。ここにいればきっと君は幸せになれる。だから……
「……なんで?」
だがケーナはそれだけを繰り返した。
「だから言っただろ。君の居場所は……」
「わたしはそんなこと訊いてるんじゃない!」
強い囁き。
「なんでそんなこと言うの……? わたしとの旅が嫌になったの……? もうわたしと旅したくないの……?」
「そういうことじゃないんだ」
本当に? 本当にそういうことではないのか?
「だから、ここにいたほうが君は幸せになれるし、安全だから……」
「嘘つき。そんなこともう知ってるよ。でも、それでもわたしはケースケと旅がしたいんだよ。ケースケは違うの? シラハウオに襲われたときに囮になったのも、ケースケをひどい目に会わせたくなかったからだよ?」
「え……」
俺は言葉を失った。
ケーナがこちらにしゃがみこんで俺の手を取って言う。
「あなたが好きなの」
暗闇に、こちらを見据える真っ直ぐな目が見えた気がした。
そして、俺は。
俺は……
「……」
「ケースケ……?」
答えられない。何も答えられない。
沈黙がその場を支配した。
ケーナの手が、ゆっくりと俺の手を放した。
「ケースケ……」
その声もまた、俺から一歩を離れていった。
「ホントのね、ホントのことを言うよ。わたしここに帰ってこれて、ほっとしてた。お母さんや妹は泣いちゃうし、お父さんは怒っちゃうし、タルガは相変わらず無愛想だったけど、それでもみんな優しくて、変わってなくて、すっごく安心したの」
震える息が聞こえた。その告白をよほど後ろめたく思っているのだろうか。
「わたし、もう旅に戻らなくてもいいやって、ここに戻ってから何度思ったか分からない。ここで穏やかに暮らして、タルガのお嫁さんになって、お婆ちゃんになって、ここで死ぬの。それも悪くないんじゃないかって」
俺は立ち上がった。
自責の念に歯を食いしばって堪えている彼女に近づく。
「ケーナ……」
「でもわたしはケースケとの楽しい時間も本当だと思ってたから! だから思いが鈍らないうちに一緒に逃げ出したかった! 一緒に行こうって言ってほしかった!」
「ケーナ……!」
「ごめん、さよならケースケ」
来た時と同じように、その気配はすっと消えてしまった。
俺はただ呆然と、暗闇に立ち尽くしていた。
天幕にやってきた長老は、これが最後の訪問だと言った。
「明日、君は解放される。晴れて自由の身というわけだ」
「……そうですか」
俺はうつむいたままうなずいた。
「……今日は輪をかけて陰気だな?」
「……」
「昨夜はケーナが来たらしいな」
ちらりと目を上げると、長老はいつものようににやにやと笑っていた。
「……なんでも知ってるんですね」
「長老というのは知らなくてもいいことまで知らなければ務まらんのだよ」
愉快そうに言う。
「で、フラれたか?」
「破局しましたよ。もう取り戻し不可能です」
「そうかそうか」
ひっひっひ、と喉を鳴らす長老に、俺は次第にいらだってきた。
「あなたには面白いかもしれませんけど、俺には全然面白くありません。不愉快だから帰ってくれませんか」
俺には珍しく強めに言ったのだけれど、長老は全く意にも介さなかったようだ。
「面白くないのは当然だろう。お前にとって面白いのはこれからなのだから」
「は?」
「戦え若人」
長老は穏やかに微笑みながら繰り返した。
「戦え。勝負はこれからだ」
この人は何を言っているんだろう。俺は不思議に思った。もう俺にできることなんて何もないのに。
「それでも戦え。男なら戦い抜いてみせろ、ケースケ」
「言っている意味が分かりません。終わったものは終わったんです」
「本当にそうか? お前が終わったと思い込んでいるだけではないか? いや、むしろお前自身が終わったものとしたいだけではないか?」
「何を言って……」
「簡単なことだ。戦うかどうかはお前の意志一つということさ。状況や不利有利はそれほど問題ではない」
「勝算がないのに戦えと?」
「勝算がなくとも戦いたいのならば戦ってもいいということだ」
ため息をついて、長老は立ち上がった。
「君と話しているとつくづく気の毒になるな。本当の手遅れになる前に気づいてくれればと思うが」
「気づく?」
「ヒトは争いを根絶することに成功した。が、それは戦うことから逃げたということでもある」
「逃げたって何ですか……」
「他人と接する以上、いや自分自身との対話でもそうだが、衝突は大なり小なり避けられないのだよ。それを拒めばもはや滅びるしかない」
ケースケ、と長老は呼びかけてきた。
「幸運を祈る」
そこでようやく、本当にようやく俺は気づいた。
「なんで……あなたは俺なんかにこんなに親身になってくれたんですか? あなたたちが嫌っているヒトなのに」
長老は眉をひょいとあげ、しばらく考えたようだ。
「ジジイっつうもんは適当でな、味方したい奴に味方するものなんだよ」